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kitora tumulus

2024-06-02 | ancient history

昨年秋、奈良県橿原考古学研究所付属博物館へ行ったついでに、明日香村のキトラ古墳を訪問しました。
以前に奈良県の大型古墳を巡った際は未だ整備されていなかったので、念願の見学です。
復元された古墳は高松塚古墳に似ていて、帽子型。場所も山肌の中腹辺りで見渡し良し。
桜井市の大型古墳は平地(山野辺の道沿い)にあって人に見せる古墳という感じですが、7~8世紀の古墳は被葬者が気持ちよさそうな場所に作られているような気がします。キトラ古墳も高松塚古墳と同じように石室の内壁に色彩画が描かれています。訪問した日は幸運にも予約なしで四神の壁画の一つ「玄武」が見学できました!
古墳のある反対側に四神の館という壁画のレプリカなど展示した体験館があります。
  
体験館は、山の傾斜を利用して公園から続く入口と古墳へ通じる入口がある2階(?)があり、どちらからでも出入りできます。広い無料駐車場が隣接していて、車で来るのがおすすめです。鉄道ですと最寄り駅から20分ほど登りで歩くことになりますし、タクシーは呼ばないといません。バスは乗り合い。飛鳥駅からレンタサイクルというのがありますが、ゆるやかな上り坂で天気がよい日はサイクリングも良いかと思います。
飛鳥駅の観光地方面(高松塚古墳や石舞台古墳などがある東側)と反対の山側に牽牛子塚古墳があり、キトラ古墳からの帰りにタクシーで寄ってもらいました。
一応復元は完了しているようなのですが、駐車場がないので離れた車道にタクシーを停めてもらって写真だけ撮りました。山の中にある真っ白の人工的な外観が秘密基地のような雰囲気でした。白い外壁は板だとタクシー運転手さんに教えてもらいました。

牽牛子塚古墳は天智・天武天皇のお母さんである斉明(皇極)天皇のお墓なので、いつかしっかり見に行きたいです。

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who killed Nobunaga? "I",said...(3) end

2023-09-03 | ancient history
残暑も厳しいですね。

大河ドラマ「どうする家康」の信長と家康の関係は、そんなはずないやろ~って笑いました。
信長は本能寺のお茶会へ家康と穴山梅雪を招待して、そこで暗殺(毒殺とか)しようと企てていたに違いないんです(笑)。
武田が滅亡したら徳川家康は用無しですし、梅雪は武田の残党ですから後々生かしておくと不穏ですから。
本能寺のお茶会は直前まで日にちが明かされませんでした。
その理由は、家康に警護を固めさせる時間を与えないため。信長方の警護が手薄だったのも警戒心を与えない策略だったと考える方が納得できます。
信長は非常に用心深く策略に長けた武将ですから。
明智光秀が本能寺に向かった時ほかの兵たちは「家康を打ち取りに行く」と思ったそうですし。
大河ドラマはあくまでもドラマですから虚構が多いのを前提に見ていますが、光秀の描き方は雑でしたね(笑)。
密かに二条城にいた織田信忠や信長に仕えていた黒人・弥助の存在も無視ですか。

家康と共に逃げた穴山梅雪が死んだ理由も徳川の記録では曖昧です。
家康と別行動をとった理由が「何か思うところがあって・・・」というような何か含みがあるような感じで、殺されたとも自刃したともいう説があります。
三河に戻った家康は、明智光秀成敗に向かわず東国を支配していた織田方と戦っていたといいます。
ということは、武田の残党・梅雪は徳川勢にとっても無用な人物だったと考えられます。
家康は思いがけず明智光秀の謀反によって、自身の暗殺の危機を免れただけでなく領地を増やす機会も得ることができた、ということです。
そして、大事なのはいつか殺そうと思っていた信長が死んでくれたこと。
大儀がなければ謀反人扱いされて、光秀のように誰からも認めてもらえないので天下人どころじゃなくなりますから。

ということで、who killed Nobunaga? の犯人は、実行犯:明智光秀。
他の者たちは黙認。

end
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who killed Nobunaga? "I",said...(2)

2023-01-22 | ancient history
『信長公記』を読み終えて随分月日が経ってしまいました。
その間に、テレビの歴史番組で本能寺の変や明智光秀を定説とは別の角度から捉えた新説を見たりして、「明智光秀は何故織田信長を殺したのか」という謎を自分なりに納得する答えを見つけることができました。
今年の大河ドラマは徳川家康ですが、キーパーソンは家康だと思いました。
といっても、本能寺の変の黒幕ではありません。

信長は家康を殺そうとずっと計画していて、家康は光秀と親しくなって何とか殺されるのを免れようとしただけで、謀反の首謀者は定説通り光秀だったと理解しました。
ただし単独犯ではなく朝廷や味方につく武将も、また知っていて知らぬぶりをしていた者たちもいたことがわかりました。
信長に不満を持つ武将たちは多かったですが、彼の武力に太刀打ちできる武将がいなかったか、それとも密かに謀反を企てていたが実行に移せなかった他の人物がいたのかもしれません。
内心信長に死んでほしいと思っていた武将が多かったから、光秀の信長暗殺は成功したのだと思います。
のちに「本能寺の変」の定説として語り継がれた説は、豊臣秀吉の創作「惟任退治記」によるもので、光秀のライバルだった秀吉としては光秀を悪く書くのは当たり前ですし、単独犯にしてしまえば謀反のうわさを知っていて黙っていたかどうか追及されずにすみます。
信長を殺したのは光秀ひとりだけ。他の者は知らなかった。秀吉も家康も。仲の良かった細川藤孝も「わし断ったから無実だよ」と。そして誰も追及しませんでした。

誰が殺した織田信長
それはわたし、光秀が言った

他の武将たちは何をした?
後始末をした

心の底から涙した者はいたのかな?


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folklore accepted as Japanese history 10

2019-03-29 | ancient history

山人とは、山間部で野獣や木の実、山菜などを採取して
生活するだけの民族ではないことがわかりました

 日本は海に囲まれた島国なので、倭人のルーツは当然漁労民族だと思っていました。
ですから、海幸山幸伝承で、山の狩猟・採取民族に海洋民族が支配される結果に納得できませんでした。
 海幸を狭義の海人族「隼人族」だと理解することにしましたが、勝者の「倭人」である山幸は山人ということに変わりはなく、倭人のルーツは山人なのか?そもそも山人とはどのような民族なのか?と思い、書籍にあたってみました。
 並行して、日本書紀の「水江浦島子が舟に乗って釣りをしていた。そして大亀を得た。それがたちまち女となった。浦島は感動して妻とした。二人は一緒に海に入り、蓬莱山に至って、仙境を見て回った。」という記事が、日本書紀が編纂された700年代前半までの政権にとって、重要な出来事だったのだと気づき、中国の道教についても調べてみました。
 道教がいつ起こったのか、教祖とされる老子の存在の有無も不確かで、現代まで脈々と続く道教は、時の流れと共に他の宗教や他国の神々と結びついたりしているので、難解なものになっていました。中国が共和国になってから、本拠地が台湾などに移り、観光化(?)したのも解りにくくなった要因だと思いました。
 道教の究極の目標は「不老不死」で、不老不死の仙人になるために修行をするのですが、その修行の場所が霊山と呼ばれる「山岳」なのです。仙人というのは「山の人」という意味で、普通イメージする仙人は老人ですが、本当は30代くらいの姿なのだそうです。「蓬莱山に至って仙境を見て回った」浦島子は故郷へ戻った時歳をとっていなかったので、仙人になっていたということなのでしょう。
 因みに、中国の仙人は里にも出てきますし、王に仕えたりもしています。そしていつしか昇天する仙人もいれば、ふらっといなくなってそれっきり所在不明になる者、中には数百年後に姿を現した、という言い伝えもあります。
 道教のお話に、唐代(618~907年)の事として、日本の浦島太郎の龍宮城を想起させる『龍宮水府』という龍宮伝説があります。龍宮のある世界が海中ではなく湖中で、亀も登場しませんが、昔話の「浦島太郎」が水江浦島子の伝承と『龍宮水府』などの道教の神仙思想から発しているのは確かです。
 日本史では、蘇我氏と物部氏の勢力争いに絡んで仏教の伝来を教えられますが、道教の伝来については消極的です。日本書紀に「蓬莱山」(古代中国の渤海湾にあると伝わる三神山の1つ。仙人が住み不老不死の丹薬があると信じられている。)や「仙境」という言葉が記され、日本各地に徐福の伝承が残っているにもかかわらず、日本の古代史に道教の影響を認めないのは、神道や仏教、キリスト教、イスラム教などと違って、日本に道教が伝来した時に、宗教としての施設である寺や教会(道教では道観という)や教義を広める伝道師(道教では道士という)が体系化されず、特に神仙信仰が民間信仰として広まったに留まっていたからではないでしょうか。
 秦の始皇帝(紀元前259~210年)から不老不死の薬を探してくるよう命じられた徐福が、水江浦島子が住んでいた丹波国与謝郡筒川近くの与謝郡伊根町の新井崎に辿り着いた、という伝説があるのは興味深いです。
 奈良時代(710~794年)には神仙思想が修験道と結びつき、その山岳修行の場が奈良県の吉野山一帯(大峯山:金峰山とも)だそうです。吉野は不老不死になる丹薬の原料、水銀鉱床があるので神仙境に擬せられていたそうです。吉野といえば、大海人皇子が中大兄皇子(天智天皇)に皇位継承の意志を問われて、吉野で出家すると言って鸕野讚良(うののさらら:持統天皇)と皇子たちを伴って身を潜めていた場所です。このことは事実であるだけに、徐福伝説よりも興味深いことです。また、神仙思想が為政者の間で信じられていたであろう時代が、女帝の時代というのも偶然とは思えません。
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folklore accepted as Japanese history 9

2019-02-28 | ancient history

水江浦島子が釣りをした、京都府与謝郡筒川河口の浜
「ウミガメは熱帯・亜熱帯の海に多く分布していますが、アカウミガメなどは対馬暖流に乗って日本海にも回遊し、
まれに丹後の定置網に迷い込みます。」―京都府立海洋センターより


 浦島太郎伝説の基となった水江浦島子の伝承が、日本書紀の雄略天皇時代に記載されているからといって、浦島子がこの時代(400年代後期)の人だったと鵜呑みにはできないようです。
 研究者によれば、古事記・日本書紀が編纂された700年代前後の「むかし」とは、雄略(オオハツセのワカタケル大王)の統治期を想定するのが普通だったそうです。他にも、『日本霊異記』(平安時代初期作。仏教に関する異聞・奇伝を描いた112の逸話を収録した日本で最初の仏教説話集) の小子部栖軽(ちいさこべのすがる)の話が、『日本書紀』雄略七年の条に少子部連スガルとしてほぼ同内容の話で載っていたり、『新撰姓氏録』(815年平安時代初期に編纂された古代氏族名鑑)の上毛野朝臣(かみつけのあそん)の条にある話で、誉田陵(ほむだのみささぎ)の下で見つけた駿馬と乗っていた馬を交換したら、翌朝その駿馬が埴輪の馬になっていたという物語が、『日本書紀』雄略九年に記載されています。このように、各地にあった伝承が『日本書紀』では雄略期に充てられている、と言われれば、確かにそうです。
 21世紀の現代人が「昔ばなし」を聞いて連想するのが「江戸時代」という感覚と同じでしょうか。江戸時代は長いですが、1700年代として今から300年ほど前。記紀が編纂された700年代から300年遡ると丁度400年代で、倭の五王の時代、仁徳~雄略天皇の巨大古墳が河内地方を中心に作られた時代にあたります。現代では「西暦」という「通年」の観念が当たり前のようにありますが、古代日本には「通年」という観念がありませんでした。歴史書である『日本書紀』も、天皇が交代すると「元年」になり、一見時間はつながっているように思われますが、発掘調査で解った考古学的物証と絡めて読んでいると、設定された時代と内容にかなりの矛盾が出てきます。
 水江浦島子の話は、『万葉集』では場所が変わり、時代も不明瞭になっているそうです。浦島太郎伝説が時空を超えて全国各地にあるのはそのせいで、“伝承”をストレートに捉えてしまうと真実を見誤る、という事がわかりました。
 海幸山幸の物語も、ある特定の時代の一つの出来事を伝えたものではないのでしょう。この物語は九州南部を舞台とする日向神話に組み込まれていますが、神話学者の学説を肯定すると、南の島の海洋民族から伝わった“青年の通過儀礼”が、早い時期から中央のヤマト政権と繋がりがあった隼人によって同族系の豪族(氏)に伝承されて、海人族のクニの共通神話になっていたとも考えられます。その後、各地域に口承されていた別の物語、兄弟間の権力闘争、太刀を潰して鉄製の釣針を製造できる冶金(やきん)技術や潮の満ち引きをコントロールできる力を持っていると誇示するようなプロパガンダ的要素、不老長寿のような神仙思想などを盛り込んで完成した「海幸山幸の神話」が、『古事記』『日本書紀』に取り上げられたと思われます。
 山幸彦は「倭人」、海幸彦は9世紀頃まで完全に中央政府に帰順していなかった「隼人」の象徴で、この神話によって隼人族を支配する大義を示しているのだと思います。本来は海人族のどこの地域にもあった伝承を、隼人のクニがあった日向(ヒムカ)に設定したのは政府の目論見でしょう。そして、その骨子になっているのが、丹波国(タニハ)の水江浦島子の伝承だと推測しました。
 浦島子の伝承も、丹波地方限定ではなかったかもしれませんが、大海人皇子(天武天皇)が丹波の伝承を選んだのにも、彼が海人族の凡海氏(おおしあま/おおあま)に養育された事に関係があると思います。
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folklore accepted as Japanese history 8

2019-02-13 | ancient history

岡山県玉野市玉にある「玉比咩神社」
境内には大きな霊岩がある
ご祭神は豊玉姫命(ホオリの妻で、カムヤマトイワレビコの祖母)だが
ここでは浦島太郎伝説の乙姫だという

 『古事記』『日本書紀』で、倭国の初代天皇カムヤマトイワレビコの祖母とされているトヨタマヒメは、現代の日本においては「浦島太郎」伝説の乙姫様として祀られています。
 お伽噺の『浦島太郎』の基になった伝説は、『日本書紀』の雄略天皇の項に記されている水江浦島子(みずのえのうらしまのこ)の話と云われています。浦島子は、丹波国与謝郡(現在の京都府宮津市、伊根町、与謝野町がだいたいの範囲で、天橋立のある周辺に位置している。713年丹後国設置の際の5郡に入れられた。)の筒川の人で、舟に乗って釣りをしていたら大亀を釣り、その亀がたちまち女になっのを見て感動した浦島子は、その女を妻にして一緒に海中に入り、蓬莱山に至って仙境を見て回った、という要約した話が『日本書紀』に記載された内容です。その前後とは全く関係ない逸話で、この話の後に「この話は別の巻にある」と書いて締めくくられています。“別の巻”というのは『丹後国風土記』のことでしょうか、その逸文には、浦島子は日下部氏の祖と書かれてあるそうです。しかし『紀』にその記事はないので、日下部氏の起源を記したわけではなさそうです。また、大亀が瑞祥だとしても、時の権力者雄略天皇と全く関わらない話です。前後の記事が、国内外の情勢(おそらく事実)の記述なだけに、異様さが際立っています。ちなみに浦島子の話は、『古事記』にはありません。
 そして、この謎の物語は浦島太郎伝説として、全国各地に所縁の地が存在します。江戸時代の中山道(木曾街道)上松宿に近い木曽川にある景勝地“寝覚の床”も、山の中ですがその1つです。
 陸に戻って来た浦島太郎が、日本諸国を遍歴した後その地に落ち着いて釣りなどして暮らしていましたが、ある時玉手箱を開けてしまい、老人と化してしまった、という言い伝えがあるそうです。水江浦島子の後日譚といった伝承ですが、実はこの寝覚の里には、長寿の薬を売っていた三返りの翁(みかえりのおきな)という人物が住んでいたという伝承もあり、この三返りの翁が浦島太郎と同一視されるようになったのではないか、ということでした。
 各地、特に漁労に拠った地域では海神を祀っていたので、大亀が化した浦島の妻が、海神の娘トヨタマヒメと同一視されるようになったのか、あるいは近代になってこじつけられたのか…民間伝承は、時と共に変化してしまう見本だと思いました。
 ただ、水江浦島子の話が日本書紀に記されるほど重要だったという事実は見逃せません。そこに書紀編纂者の何らかの示唆を感じました。
 浦島太郎伝説は、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の祖父ホオリ(山幸彦)と妻の海神トヨタマヒメの神話とそっくりです。浦島太郎伝説の基は、本当にあった事だと記されている水江浦島子の話だといいます。水江浦島子の話は雄略天皇の死ぬ前年(西暦500~505年頃)とされるので、海幸山幸伝承の方が古いはずです。ですが、本当は、海幸山幸の物語はこの時代の水江浦島子の話を基にして記紀の編纂の頃に創作されたのではないでしょうか。
 『古事記』は種明かししていませんが、『日本書紀』が数ページを割いてまで記述した海幸山幸伝説を通して、時の為政者が伝えたかった事とは何だったのか考えてみました。

 
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folklore accepted as Japanese history 7

2018-09-30 | ancient history
西暦200年前後 弥生時代後期の鉄製釣針
広島経済大学敷地内にある「長う子(ながうね)遺跡」出土
  
 「海幸山幸」の物語はどの時代の物語なのか、考えてみました。
ウミサチ彦・ヤマサチ彦という名前自体が、コノハナサクヤ姫と同じく伝承よりずっと新しいと思われます。712年に完成した『古事記』では、山幸はホオリ・海幸はホデリ。720年に完成した『日本書紀』では、山幸はヒコホホデミとなっていて、一書の第四の山幸が古事記と同じホオリ、海幸は全てホスセリになっています。ホスセリは、『古事記』ではホデリとホオリの間に生まれた真ん中の兄弟の名前で、海幸山幸の物語には登場しません。ヒコホホデミという名は、山幸彦(ホオリ/ヒコホホデミ)と海女神トヨタマヒメの一人息子ウガヤフキアエズが、母親の妹タマヨリヒメとの間につくった息子の1人(後の名をカムヤマトイワレビコと云う)つまり神武天皇の実名・ヒコホホデミ(漢字は違いますが)と同名です。
 『日本書紀』編纂で何が起きたかわかりませんが、書紀での神代史の終わりはかなり混乱が見られるので、「海幸山幸」伝承の元の名は、ホデリとホオリだったのではないかと思います。ホスセリは古事記にも登場するので存在してはいたのでしょうが、海幸山幸伝承には関係しなかったのかもしれません。日本書紀では代わりにホアカリ(火明)という兄弟がいて、これを尾張連らの始祖と書いています。海幸彦(兄=ホデリ=ホスセリ)が隼人の始祖、山幸彦(弟=ホオリ=ヒコホホデミ)が「ヒコホホデミ」というのは記紀共通です。『日本書紀』は『古事記』より政治色が強いため、原始的な伝承は『古事記』の海幸山幸の物語に近いと思います。
 さて、海幸山幸の生きた時代を推測するのに注目したものが、「釣針」です。今までに発見された日本最古の釣針は貝製で、旧石器時代の遺物だそうです。石器時代は骨製。縄文時代は鹿角製。弥生時代になると鉄製になります。
 海幸彦の釣針は何製とは記してませんが、山幸彦は失くしてしまった釣針を「十握の剣(とつかのつるぎ)」をつぶして弁償しようとした、と記述されていますから、鉄製だと思われます。鉄は劣化が早いので釣針などは残りにくいようですが、広島県の弥生時代後期の遺跡「長う子遺跡」でカエシのある鉄製釣針が出土しています。また、岡山市の金蔵山古墳(古墳時代の大型前方後円墳)から出土した多量の鉄製品の中に、鉄製釣針が含まれていました。九州南部での出土は詳らかではありませんが、この伝承ができたのは、古くても弥生時代だと推測できます。
 さて、前出の『日本の歴史1神話から歴史へ』の中に、「海幸山幸の話は、神代史のもとの話にはなく、あとで採用された民間伝承であったと考えられるが、ほとんどの神話学者によって、インドネシアにひろがる話と酷似していることが指摘されている。」と書いてありました。
「英雄が釣針を失ってそれを探しにゆき、海中で釣針を見つけ出し、海中の処女と結婚する」という型の伝説は世界の広大な地域に分布していて、その中でもインドネシアのセレベス島(現スラウェシ島。インドネシア中部に位置するK字形の島)のミナハッサ(北部の東の方向に突き出した半島)の伝説がよく似ているそうです。
―〈カヴハサンという名の男が、友から釣具をかりうけ、小舟で海に出て釣りをしていると、魚に糸を切られ釣針を失ってしまった。帰って友に話したが許してくれない。困ったカヴハサンは海に出て、釣針を失くした場所で水中に潜ると一つの道がついており、それをたどってゆくとある村についた。一軒の家から、騒ぎと悲嘆の声が聞こえるので入って行くと、一人の乙女がのどに刺さった釣針で苦しんでいる。カヴハサンが釣針をのどから引き抜いてやると、両親は喜んで贈り物を彼に与えた。カヴハサンが帰ろうとすると舟がみえない。ところが一匹の大きな魚がやってきたので彼はその背に乗り、もとの岸に帰って来た。彼はおのれを苦しめた友に仕返しをするため、もろもろの神の助けを乞い、大雨を降らして友を窮地におとしいれた。〉―
 インドネシア周辺から九州南部に伝わったとすれば、この物語は海人族の伝承です。セレベス島の伝説では、主人公と友が狩猟民族か漁労民族かに触れてませんが、恐らく両人とも漁労民だったと思います。海幸山幸にしても、伝承していた隼人は海人族です。ですから、もとの話は、兄弟とか狩猟と漁猟とかの区別はなく、日本に渡ってからそういう設定になったのではないかと思われます。そして、セレベス島の伝説では、重要なアイテム「鹽盈珠、鹽乾珠(しほみつたま、しほふるたま)」が出てきません。この「玉」も日本的で弥生時代的な匂いのする物です。
 恐らく、「主人公が釣針を探しに海宮へ行く」という話は、弥生時代以降「玉」を呪術的に扱う種族に伝わっていた伝説で、記紀の編纂時に隼人の伝承に組み込まれたのではないでしょうか。なぜなら、海宮に着いたホオリ(山幸彦)は首に巻いていた玉をはずして口に含み、召使の持っている水瓶に吐き出し、それが豊玉比売への求愛の合図でしたし、主人公の相手も「玉」を象徴する豊玉という名で、「玉」に纏わるものが多いからです。
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folklore accepted as Japanese history 6

2018-09-25 | ancient history

全国で唯一海幸彦をお祀りする神社
「潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)」

 高天原の神様一族の内で、アマテラスの孫に当たる邇邇芸命(ニニギノミコト)が豊葦原水穂の国(または葦原の中国:日本列島の一部)を統治するために降り立った事を、天孫降臨と呼んでいますが、天孫が地上で第一に行った事がその土地の権力者の娘との婚姻でした。婚姻によって自分が権力者の後継者になり、ゆくゆくは首長になるのが目的だからです。では、次に何をしたのでしょうか。『古事記』や『日本書紀』を読む限り、首長の娘を孕ませただけです。ところが、「一夜で孕んだのが信じられないから自分の子じゃない」と拒否したのです。妻・コノハナサクヤ姫が激怒したのも当然でしょう。激怒した挙句、子供が無事生まれなかったら国つ神の子で、天つ神の子だったら無事に生まれるだろう、と産屋に火をつけて出産しました。そして3人の男の子が無事生まれました。3人とも天孫の御子だったわけですが、この後二ニギはどう弁明したのか?しかし彼は二度と登場しません。
 神代の中で、記紀の編纂者たちは、天孫ニニギノミコトに天つ神と国つ神の混血種を創る役割しか与えなかったということです。あとは、イワナガ姫との婚姻拒否により皇族の寿命が縮んだ、という上手い口実を作るのに一役買わされたくらいでした。記紀がニニギノミコトより紙面を割いているのが、「海幸彦・山幸彦」の物語です。歴史的伝承と関係ないようなお伽噺の要素の強い伝承に、なぜ700年前後の歴史書の編纂者たちはこだわったのか、不思議でなりませんでした。
 この物語でのキーワードは、海と山、兄と弟です。最初私は政治的解釈で、弟=大海人皇子(天武天皇)、兄=葛城皇子(天智天皇)だと思いました。劣勢だった弟が最終的には兄を打ち負かす。しかしそうなると、兄に打ち勝った弟は山幸彦なので、海人族に育てられた大海人皇子が山間部の狩猟民族という矛盾が生まれてしまいます。
 狩猟民族または稲作民族VS海洋民族という構図だと、稲作民族が海洋民族を服従させた伝承だと理解できます。記紀が編纂された時代は天武天皇系皇族が権力者でした。天武系つまり海人族由縁の一族が、同族を負け組にすることはあり得ません。海幸山幸の物語をどう理解したらいいのか、ずっと悩まされていました。
 前出の『日本の古代8海人の伝統』にヒントがありました。
―〈山幸彦ははじめは兄の海幸彦に頭の上がらない立場にいる。この山幸彦がひとたび海宮に行って帰ってくると、兄弟の優劣の関係は逆転する。『古事記』によれば、海神からもらった霊力で兄を苦しめた時、兄は「あなたの昼夜の守護人となってお仕えします」と言った。そこで今にいたるまで隼人はその溺れたときの仕業を演じて天皇に仕えるのである。
つまり、山幸彦は支配者となり、海幸彦はそれに仕える臣下となった。このように見てくると、山幸彦の海宮訪問は、王者になるためのイニシエーション(通過儀礼)という性格を持っていたということができる。〉―
 『古事記』では、二ニギの3人の息子の長男はホデリノミコト(火照命)=海幸彦、末弟はホオリノミコト(火遠理命)=山幸彦となっていて、記紀共にホデリノミコトの子孫は九州の隼人族だと書いています。実際に、700~800年代になっても隼人は度々中央に逆らっていました。そして、服従して中央に仕えていた隼人はその忠誠心を忘れさせないために、天皇の前で溺れる仕草の舞いをさせられたり、天皇の宮の垣のそばで吠える犬の役をして仕えさせられたと『日本書紀』に記されています。このことは、海幸・山幸の伝承が九州南部(阿多隼人・薩摩隼人・日向隼人・大隅隼人などの居住地)で周知されていた理由になります。『日本書紀』の一書には、物語の締めくくりとして「世の中の人が失せた針を催促しないのは、これがそのもとである。」と記載していて、海幸山幸噺の主題が「小さな事にこだわりすぎるのは良くない/許す心も大事」という教訓だったのではないか、と思わせるものがあります。
 確かに、王になる前に海宮へ行く場面は、王者になるためのイニシエーションを伝える伝承だったのかもしれませんが、元々はいち地方の素朴な伝承でしかなかったものを、記紀の編纂者が2重3重に他の伝承を組み入れてこの物語を作り上げたようにも感じます。
 
 
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folklore accepted as Japanese history 5

2018-09-17 | ancient history

参考にした書籍↑『海人(かいじん)の伝統』
編集:大林太良 森浩一 岸俊男
日本の古代シリーズ全15巻 初版昭和62年

 古代の天皇(大王:オオキミ)が太陽神であるアマテラスを皇祖神だと強く印象付けたのは、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱を起こす際、大海人皇子勢が奈良県の吉野から三重県鈴鹿市に至り、近江から脱出した大津皇子と合流する朝に、朝明郡(あさけのこおり:現四日市市・菰野町・朝日町・川越町一帯)の迹太川(とおかわ:四日市市の米洗(よない)川。ゆかりの地には天武天皇迹太川御遥拝所跡がある)のほとりで大海人皇子が天照大神を遥拝した、という『日本書紀』の記述です。その後大海人皇子勢(実際に戦の指揮したのは高市皇子)が勝利して、天武「天皇」が誕生したことで、短い一文にもかかわらず、日本の歴史に重要な影響を与えました。日本の国のトップである「天皇」は日の神の御子…という神話です。そういえば、神武東征の時も、畿内に進行する際、長髄彦(ながすねひこ)に阻まれたため「自分は日神の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは天道に逆らっている。背中に太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。」と言って熊野から上陸していました。これらの記述は編纂者の意図的な作為を感じます。
 記紀でこれほど天皇(大王)=日神・アマテラスの子孫、つまり天上から降臨した神の子と位置付けているにもかかわらず、天皇家(王家)の背後には常に「海」が存在しています。東南アジア諸国の海人族から伝わった「天の岩戸神話」が「冬至の儀式」を伝承するものなら、その祭りを伝承していた稗田氏(猿女君)は、九州の海人族・安曇(阿曇)連氏と同族だといいます。そもそもアマテラスの誕生も、黄泉国から生還したイザナギが、筑紫の日向の橘の小さな湊で禊(みそぎ)をした時に現われた海の神々の後に現れた事になっています。この時現れた三柱の綿津見神(わたつみのかみ)の子孫が阿曇連一族だと『古事記』に記されています。
 アマテラス・ツクヨミ(月読)・スサノオの三姉弟は、天上ではなく海中で生まれました。それからアマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海原を支配するようイザナギに言われました。いわば、スサノオだけが生まれた場所に残されたのです。しかし、スサノオは海の世界を嫌って母イザナミのいる根の国に行くと言ってきかなかったため海から追放され、根の国に行く前に姉アマテラスに報告しに高天原へ行き…姉弟の争いとなり「天の岩戸神話」へと繋がります。
 このあたりの物語は面白いので、ついつい見落としてしまいましたが、既に綿津見神が支配している海を、後から生まれたスサノオが支配するというのは明らかに矛盾です。別の書籍で、元来は日神と月神の二柱だった神話に、編纂者がスサノオを後から加えた(スサノオは別の神話の登場人物)という説を読みました。そう考えると納得できます。
 記紀を編纂した時代には、既に綿津見神の信仰が九州から中央まで(阿曇連の同族がいる信州・安曇野あたりまで)浸透していたため、皇族は「皇祖神の弟が海を支配することになっていた」と苦しい言い訳を考えたのではないでしょうか。
 このような、多分当時信じられていた伝承を、為政者にとって都合のよい物語に作り替えるプロパガンダ的要素を盛り込んだ神話の一番の傑作が、「海幸・山幸神話」だったと『海人の伝統』を読んでやっと理解できました。
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folklore accepted as Japanese history 4

2018-08-28 | ancient history

↑参考としている書籍↑クリックで拡大

 『天の岩戸神話』が、古代人の素朴な日蝕伝承から発生した神話だと思っていましたが、『天の岩戸神話』を『古事記』や『日本書紀』に採用した奈良時代には、日本書紀に何度も日蝕があったと記述されているから、日蝕現象は理解されていました。研究者によれば、「日神が洞窟や箱に隠れ、これをおびき出すという主題の神話」は東南アジア諸国に広く存在し、南方系のフォークロアだといいます。「南方系」であるのなら、日本に伝えたのは海人族で、『国生み神話』のオノゴロ島ではないかといわれる淡路島の南の島・沼島に伝承された神話で、イザナギ・イザナミの神話と共に大海人皇子に採用されたのではないでしょうか。
 ここで疑問になるのは、日蝕神話が天武天皇(大海人皇子)政権とどう関わっているのかということです。洞窟に籠る前のアマテラスは、高天原にやって来たスサノオに対して過剰とも思えるほど強い態度をとってます。ところが、その後は人格が変わったように弱々しくなり、岩屋から出てきた後は存在感すら残していません。大海人皇子が、ここでアマテラスの日神としての偉大さを誇示しようと意図したとは感じられないのです。とすると、やはり『天の岩戸神話』の真の主人公は、天のウズメなのだと思います。
 アマテラスが籠った岩屋の前で天のウズメと集った神々の行った所作には、細かい説明がついています。
1.長く鳴く鶏を集めて鳴かせる
2.イシコリドメ命が鏡を作る
3.タマノオヤ命が5百個の勾玉で八尺の玉飾りを作る
4.天コヤネ命(中臣氏の祖先)とフトダマ命が、天の香山の桜の木で香山の雄鹿の肩甲骨を焼いて占う
5.アマツマラが天の安河の川上の堅い石と鉱山の鉄で精錬する
6.香山の賢木(サカキ)を取って、鏡・玉・白と青の御幣を垂らす
7.フトダマが供物を捧げ、コヤネが祝詞を唱える
8.ヒカゲノカズラをたすきに掛け、頭にツルマサキを被り、笹の葉を持ったウズメが伏せた桶の上に立つ
9.ウズメは桶を踏みつけて、神がかりのようになって着物をはだけて踊り狂う
以上は『古事記』の記述で、『日本書紀』には出てこない「鉄の精錬」がありますが、鉄が何に使われたのか書いてないので元々の儀式には入ってなかったと思います。
 この「儀式」ですが、少なくとも600年代末から宮中で行われていた国家的行事の1つ「鎮魂祭」と類似点があるそうです。祭りの詳細が書かれてある平安時代の年中行事の本によると、「宮中の巫女たちが、神祇官に神々を奉斎すると、内侍が天皇の着衣を箱に入れて持ってくる。神楽が始まり、巫女たちの舞いが行われる。彼女らは、宇気槽(うけふね)を伏せた上にあがり、杵で槽をつく。十度つくごとに神祇官の長が木綿蔓(ゆうかずら)を結ぶ。これらが終わると、巫女たちと猿女君が舞いをする」のだそうです。上記の本『神話から歴史へ』には猿女君がどんな舞いをしたのかまで書かれていませんが、桶を伏せて鳴らして踊るスタイルは「天の岩戸神話」での天のウズメの踊りと同じです。
 古代の祭りについて書いてある文献『古語拾遺』(807年)によると、この鎮魂祭は元々猿女君が伝えたものだといいます。猿女君は天のウズメの子孫で、稗田阿礼の稗田氏は猿女君の末裔です。600年代後期は天武・持統天皇政権の時代。天武天皇(大海人皇子)が、稗田阿礼から稗田氏に伝わる鎮魂の儀式を国家行事に取り入れた可能性は高いです。それとも、天武以前から大和の地で行われていた祭り事だったのでしょうか。
 鎮魂とは、遊離した人の魂を呼び戻すこと(『令義解』による)だとされています。鎮魂祭は、亡くなった天皇の魂を呼び戻す祭事だったと考えられます。そういう意味を持った儀式であれば、細かいルールまで伝承され記録される理由に納得がいきます。
 また、この鎮魂祭で歌われる鎮魂歌の中に、豊日孁(トヨヒルメ)の魂を呼び返そうとする歌があり、トヨヒルメとは日神の事なので、衰えた太陽の力を呼び戻すという「冬至の祭り」であった、という学者の見解もあります。『神話から歴史へ』の著者も冬至説に同意しています。

以上をまとめて、私はこう考えました。
 弥生時代まで遡るかどうか不明ですが、古代にウズメと呼ばれた巫女が「冬至の儀式」で日神の力を呼び戻す重要な舞いを取り仕切っていた。ウズメが属する巫女集団は大王に仕え、猿女君という姓(カバネ)を与えられた。本拠地の伊勢国から大和の地へ移った集団は稗田氏を名のった。稗田阿礼から「冬至の儀式」の伝承を聞いた天武天皇が、自分の一族の皇祖神として立てた天照大御神が日神=トヨヒルメであることから、太陽の力=大王(天皇)の力という意味を持つようになった。それで、後世に伝えるために、海人族に伝承されていた日蝕神話と合体させて「天の岩戸神話」として『古事記』に残した。


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folklore accepted as Japanese history 3

2018-08-05 | ancient history
 中公文庫版日本の歴史シリーズ1『神話から歴史へ』は、古事記や日本書紀に残された神話の謎について、ひとつずつ論理的に解き明かしていってくれます。
 日本の神話で子供の絵本でも取り上げられている「天の岩戸神話」。アマテラス大神が弟スサノオ命の余りの横暴な振舞いに怒り、洞窟に入って入口を岩で塞いで籠ってしまったため、天下が真っ暗になってしまい、他の神々が知恵を出して天のウズメの裸踊りで誘い出し、再び天下は明るくなった、という物語です。あらすじをたどると、古代人の皆既日蝕観をモチーフにした神話だと思われます。私もそう思っていました。

 似たような日蝕神話は、世界中に存在するそうです。特に、行ないの悪い弟/妹のために日蝕や月蝕が起こるという神話は、東南アジア(南方系)に由来するのは間違いない、と民俗学や東洋学者は指摘しています。
 しかし、記紀に載せられた「天の岩戸神話」で時の権力者が後世に伝えたかったことは、日蝕という自然現象が神の仕業だという事ではなかったはずです。
 
 この物語の主人公は日神であるアマテラスと思われがちですが、彼女が岩屋に隠れている間に作業をする神が重要人物だと思います。古事記には、アマテラスを岩屋から出すためにそれぞれの神様がする作業が、丁寧に記述されています。それは、その場の思い付きというより、マニュアルに従っているような感じさえ受けます。そしてこの神話で一番重要な役割を果たしているのは、天のウズメの踊りです。
 岩屋から引出されたアマテラスは、その後どうなったのでしょうか?布刀玉命(ふとたまのみこと)が岩戸に注連縄を渡して「これから内へは、もう帰ることはできません」と彼女に申した、というところまでで、その後スサノオを罰したのは諸々の神たちでした。そしてこの話の後には、何故か大気津比売(オオケツヒメ)神の「五穀の起源」神話が続くのです。

 天のウズメは猿女君(サルメのきみ)の始祖で、猿女君一族の本拠地は奈良県の稗田です。そして『古事記』を編纂した太安万侶に、暗記した旧辞を伝えた稗田阿礼の出身地です。私は、稗田阿礼との関連から稗田氏一族の伝承が『古事記』に取り上げられたのだと思っていました。つまり、稗田氏が自分のルーツを天皇のルーツと結びつけるために残した、と理解したのです。でも、それは違ったようです。

 天の岩戸神話は、鎮魂祭と関係づける学説があるそうです。
 
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folklore accepted as Japanese history 2

2018-07-08 | ancient history
中公文庫版 日本の歴史全26巻 第1巻 2012年改版
初版発行1973年
著者:井上光貞 1917-1983年。東京生まれ。井上馨と桂太郎の孫。日本の歴史学者。専攻は日本古代社会思想史。
執筆協力: 大林太良(民族学) 森浩一(考古学)

 日本古代史、特に神代記が絡む歴史については、皇国史観に左右されない戦後生まれの研究者の方がよいであろうと、明治生まれの研究者の書籍は避けてきました。しかし、在野も含めると現在の歴史研究家は数多く専門分野も細かく分かれ情報も多岐にわたるため、諸説が溢れすぎているせいで素人は混乱してしまい、結局「著者の研究の成果はどうだったの?」と煮え切らない思いが残るものが結構ありました。他の研究者の説を批判することに終始した著名な研究家の著書を読んで、時間を無駄にしたこともありました。そこで、一度自分の先入観を捨てて、大正生まれの大御所歴史学者の書籍を読んでみることにしました。
 井上光貞氏は、祖父がどちらも明治政府の高官で為政者側の家系出身ですが、今まで読んだ歴史書の中で一番ニュートラルで、それでいて自身の見解を明確に述べた文章だったので、とても解りやすく納得できる歴史書でした。参考文献も多く、海外の古代文明の神話との比較や考古学の成果も扱われていて、専門外の事はその分野の研究者に協力を求めているところも、歴史に対する誠実さを感じました。私が抱いた日本古代の歴史の疑問のほとんどが、この本には書かれていました。
例えば、
*「天皇」はいつから「天皇」と呼ばれるようになったのか?―「おおきみ」と呼ばれていた日本の支配者を、古代中国の「天」の思想を受け入れていく過程で、推古天皇の時代600年代初めから「天皇」と呼ぶようになった。古事記型創成神話もその形を整えてきたのであろう。
*『古事記』『日本書紀』の国生み神話について―国生み神話で生まれてくるのは本州・四国・九州その他の「大八州国」で、ヤマト政権が支配する政治的な国土の誕生である。イザナギ・イザナミが国土と風土の神を生んだ後、天照大御神ら三神が生まれるのは、政治的な国土とその国土を支配する為政者の祖神を生む神話となっている。だから、津田左右吉氏(日本と東洋思想史研究学者)の言う「この国生み神話は政治的な意味の物である」というのはまったく正しい。
*黄泉国神話について―井上氏は津田氏の「黄泉の国の話は神代史全体の構想と関係ない」という意見に、「はたしてそうだろうか」と反論し、「黄泉国神話の主題は、生と死の対照・相克にある、と考えてよいであろう」と述べて、神話学者の松本信広氏が紹介している“ニュージ―ランドのマオリ族の話”を挙げている。

 また、井上氏は「出雲神話」について否定的です。記紀に書かれている所謂「出雲神話」は、出雲が舞台となっているからそう呼ばれているのですが、『出雲国風土記』には出てこない伝承が多いのが事実です。
*出雲神話について―わたくしは「出雲神話」ということばが適切であるとは思わない。天地創造から天孫降臨にいたる物語の作者の構想は、この部分にも丹念におよんでおり、出雲神話が、全体として出雲地方の民間伝承であるなどとは考えられないからである。
 この意見には私も同感で、現代人が文学的立場で「出雲神話」を本や絵本にしたり、地域の観光の一環で「ゆかりの地」として神話にまつわるものを造り出していること、また多くの人がそれを信じている事に違和感を感じたりします。

 井上氏の記紀の日本神話の分析は、観念的にならずに淡々とすすみます。
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folklore accepted as Japanese history 1

2018-05-19 | ancient history
   
 「ヤマト政権以前の日本」を探す作業は、古事記や日本書紀に隠された「古代日本の真の姿」を探る作業となってしまいました。
 古事記・日本書紀関連の書籍を読んでいると、記紀に関する疑問は増えるばかりで、納得できる学説になかなか出合えませんでした。それで一旦日本神話そのものから離れ、何故その神話が天武天皇(大海人皇子)以降の天皇家(為政者)に選ばれたのか、という視点で考えてみることにしました。
 一般的で解りやすいために、日本書紀に後年付けられた漢風諡号の天皇名が古代の支配者の名前に使われているので、私たちは古代の支配者は「天皇」ではなく「大王」だったと認識してはいても、古代の大王も「天皇家」のように脈々と続く血族関係の王族だったと思いがちです。
 しかし、古事記や日本書紀の古代天皇(大王)の皇位継承の記述には、不自然な箇所がいくつか見受けられます。それ故「王朝交代」説が研究者の間で論じられましたが、そもそも「王朝」自体の定義が曖昧だという理由で、「日本には王朝交代はない」ということになっているようです。つまり「王朝交代」は定義がはっきりしていないので、理論自体が最初から破綻している(成り立たない)という事なのでしょう。
 でもだからといって、それが「血族関係にある王族がずっとヤマト政権のトップであった」根拠にはなりえません。また、古代の大王が奈良県を中心とした畿内に都を置いていたかどうかも、確証はありません。“大和朝廷”や“ヤマト政権/王権”という呼称も、現代の歴史学者が考えた用語でしかないからです。倭の五王の時代(400年代)の大王たちは河内を中心に政治を執っていたと考えられるので、“河内政権”と呼んでも差し支えないと思います。
 なぜ“ヤマト”にこだわるのでしょうか。それは、大海人皇子が壬申の乱に勝利した後、飛鳥岡本宮(奈良県明日香村岡)の南に飛鳥浄御原宮を造り即位しましたが、「天皇」という君主号がここで初めて誕生したからではないでしょうか。ただし読み方は「スメラミコト」だったそうです。大和の地で天皇(号)が誕生し、それより古い大王もしばしば大和周辺に宮を営んでいたので、昔の歴史学者は、天皇が住居した大和の地が古代日本の中心地だと信じていたのでしょう。(邪馬台国をヤマトと結び付けたがるのも、日本を統一したのは天皇の血族だと信じているからかもしれません。)
 平林章仁氏は『天皇はいつから天皇になったか?』の中で、天武朝と養老年間(元正天皇)に令(りょう)と歴史書の編纂が同時進行だったことを指摘し、「歴史と法が国家・社会の基本的な秩序であるとする、古代的観念にもとづく営為である」とちょっと堅苦しく説明しています。つまり、古代国家にとって、歴史は法律と同じように、民衆の日常生活の秩序を保つものだと信じられていた、という事です。
 歴史書の編纂者の課題は、手元に蒐集された雑多な神話伝承を、どうやって天皇と貴族の権威を高め、なおかつ人々が納得できる伝承に仕立てればよいのか、という事だったと思います。
 平林氏の「氏族が内容の共通する神話・歴史を共有することで、王権の成員間に自覚と自負、帰属意識が醸成され、天皇の下に結集するのである」というのは、納得のいく結論でした。
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the gap between…11:folklore accepted as japanese history

2018-04-14 | ancient history
 

 現在の日本国家の形成の土台となった「ヤマト政権(或は王権)」という古代勢力。その始まりは、『古事記』『日本書紀』に記されている神代史にさかのぼります。そこには、日本国土や日本の神々の誕生、神々から脈々と続く天皇や豪族の祖先の物語が叙述されています。
 現代では、神代史を歴史的事実と捉える人はいません。しかし、大日本帝国(明治~太平洋戦争終結まで)時代は、全くナンセンスな事が行われていました。帝国主義による政府が、国民統合と戦争動員のために神代史を利用したのです。古事記や日本書紀に貫かれている「日本誕生から天皇の血統は続いている」という観念を都合よく解釈して、日本国民に「皇国史観」というものを植え付けました。
 戦後生まれの日本人なら、「天皇は神様(現人神)だと信じなさい」と言われても、信じる人などいないでしょう。しかし、全体主義体制下、記紀の日本神話を歴史として教育されて育った世代の人々の間には、「万世一系」が常識としてまかり通ってしまいました。それは戦争終結後、昭和天皇が『天皇人間宣言(通称)』の詔書で自らの神格を否定しなければならない(GHQが発案)ほど強固なものでした。
 ところがこの呪縛、現在も残っているのです。子供の頃、日本史を真面目に勉強しなかった私は、記紀を読むようになって初めて「皇国史観」という言葉に出会いました。特に『日本書紀』に関する書籍には、必ずこの文字が出てきました。純粋に『日本書紀』を理解したかった私は、そんなイデオロギー論は不要だったので、皇国史観に呪縛されていない戦後生まれの学者の著書を選んで読んできました。
 昔と違い、今は考古学サイドの発掘調査による研究成果から、過去の学説の成否ができるようになりました。
 中国の歴史書に記された「讃 (さん) ,珍 (ちん) ,済 (せい) ,興 (こう) ,武 (ぶ) 」(通称:倭の五王)のうち、武が雄略天皇に比定されていましたが、稲荷山古墳出土鉄剣銘に記された「獲加多支鹵大王(わかたけるだいおう)」という文字の発見により、雄略の諱(いみな)が「大泊瀬幼武(おおはつせわかたけ)」であり在位期間も一致することから、400年代後期に熊本から埼玉という広範囲を支配したワカタケル大王が、日本書紀でいう雄略天皇:古事記では大長谷王と一致し、倭王武だというのが定説になりました。しかし、残り4名の大王は、中国側の史書が記す血縁関係と、記紀の天皇系譜が矛盾するという理由で、特定されていません。
 素人の私が不思議に思うのは、記紀の天皇系譜は万世一系に改竄してあるという事が明白となった現在でも、記紀を基にして作られた古代天皇家の系譜を重要視していることです。しかも、神代史に出てくるような古代の天皇(大王)は世襲制ではなかった事が明らかになってからも、記紀関連の書籍には神武天皇からの皇統図が載っています。記紀を読む上では相関関係が解るので必要ですが、万世一系を否定した後にこの系譜を基準に置く意味はないと思います。漢風諡号の雄略天皇は存在がはっきりしませんが、400年代後期に「獲加多支鹵大王」が日本に君臨していたというのは歴史的事実です。讃・珍・済・興・武の親子関係と、記紀を基にした皇統図が合わないのは当然と捉えて、「讃」や「興」などに当たる大王の痕跡を発見できるよう発掘調査を続ければ、いつの日か本当の歴史がわかってくると思います。
 卑弥呼や神武の実体を探るのは困難だと思いますが、倭の五王の時代に関しては、百舌鳥・古市古墳群の巨大古墳を発掘調査すれば、歴史的収穫は大いに期待できると思います。古代の大王の古墳は、天皇の御陵として管理されていますが、これも現代の文明国家としておかしな事です。現代に続く天皇制で即位した天皇と古代の天皇は全く違うからです。少なくとも継体天皇より前の天皇は天皇ではなく大王であり、その王統は次世代の継体と呼ばれる天皇(大王)の血統とは別なのですから、古代の古墳を発掘調査することが現在の天皇家の祖先を冒涜することにはならない事を、反対者には理解してほしいものです。
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the gap between Japanese mythology and ancient history 10

2018-01-04 | ancient history

紀伊半島の縄文時代遺跡分布図
↑クリックして拡大

 中国大陸や朝鮮半島を経由して、日本列島北西から島伝いに異民族が移住して、彼らの生活習慣や宗教が先住民の暮らしに根付いた頃を「弥生時代の黎明期」とするならば、それ以前の先住民の暮らしは、縄文時代にあったといえるでしょう。紀伊半島の縄文時代の遺跡分布図を見つけましたが、推測通り遺跡は海岸線と紀ノ川(吉野川)に沿っていました。
 縄文時代の大阪平野は海で、弥生時代頃までに堆積した土砂によって大阪湾と河内湾~河内湖とが隔てられ、「神武東征」物語に出てくる「草香江」という干潟になり、古墳時代(400年代)に干拓されて現在の平野ができたそうです。ということは、神武東征の時代は弥生時代の出来事となり、紀元前300年代頃ではなかったかと思います。
 ちょうどその頃は、中国大陸は戦国時代、中央アジアではアレクサンダー大王がソグディアナやバクトリアを侵略、ペルシャ王国を滅ぼしインドにも進軍していた時代です。戦争で国を失ったソグド人、スキタイ人、ペルシャ人、インド人、中国人、朝鮮人…難民は、どこに向ったのでしょうか。陸続きの大陸は、どこに逃げても落ち着きません。東の辺境の地へ落ち延びた流浪の民の中には、舟を作って島伝いに海を渡って日本列島へたどり着いた集団がいたかもしれません。神武東征の伝説は、そんな異民族が瀬戸内海側の紀伊半島沿岸にやって来た伝承からきているのではないでしょうか。
 ユーラシア大陸の東の果てまで生き延びてきた集団は、相当な生命力(生きるのに必要な知恵と能力)を持っていた民族だったと思います。そして、そのような民族は1つや2つではなかったろうと考えます。それぞれの民族集団が日本列島の各地へ散らばって、先住民のいない場所で村を営んだり、先住民族と交わって共同体を作ったり、或は先住民の居住地を力ずくで奪ったりして、日本先住民族と異国人が融合して弥生人となっていったのだと思います。
 金剛山の高天原を聖地にした民族は、そうしたハイブリッド民族集団の中でも特に知的で統率力に優れた人たちだったのでは、と想像しました。
 ハイブリッド民族集団は、地理的に一番最初に北部九州に住み着いたでしょうし、日本海沿岸(出雲、若狭、敦賀、越など)で王国を築きました。そして日本列島の奥地、瀬戸内海を渡って大阪湾沿岸、淡路島、紀伊半島の紀ノ川沿岸に住み着いた民族が、先住民と融合して氏族となり弥生文化の邑(ムラ)を形成していったのではないでしょうか。

 『古事記』の基礎になる日本神話は、天武天皇(大海人皇子)に伝承された物語です。天武天皇を養育した海人(凡海)氏の源流は、現在の福岡市に居を置いた阿曇氏という海人族なので、大海人皇子は海人族の伝説を教えられていたことでしょう。とはいっても、既にハイブリッドになっていた海人族ですから、伝説もごった煮状態だったのではないでしょうか。ただ、凡海氏に近い伝説――淡路島の伝承(オノゴロ島とイザナギとイザナミ)、高天原の神々(アマテラスオオミカミとスサノオやタカミムスヒノカミ、アメノウズメなど)の物語は、大海人皇子から稗田阿礼への直伝の神話だったのではないかと思います。少なくとも、海に関係する神話は大海人皇子の所有する海人族の神話で、ほかは、稗田阿礼が稗田集落という土地柄から、伝え知っていた逸話を合わせたものではないか、というのが私が辿り着いた結論です。
 そこに、付け足したように「~というのは、いまの出雲の国の○○である」だの「これが今の草薙の大刀である」だの「このホオリノミコトのまたの名をアマツヒコヒコホホデミノミコトという」などという文言は、バラバラだった神話を天皇の皇祖神に繋げるために、『古事記』を編纂する時点で創作されたものだと思います。
 
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