旅人のいそげば汗に鳴海がたここもしぼりの名物なれば
かくよみ興じて田ばた橋をうちわたり、かさでら観音堂にいたる。笠をいただきたもふ木像なるゆへ、この名ありとかや
執着のなみだの雨に濡れじとやかさをめしたるくはんをんの像
と『東海道中膝栗毛』四編上で弥次郎兵衛・喜多八が訪れた名古屋市南区に今もある笠寺観音(正式名:笠覆寺りゅうふくじ)界隈の旧東海道へ行ってきました。東(鳴海宿)から東海道を西へ向かうと一里塚の立派なエノキの木が迎えてくれます。
この辺りの東海道は国道1号線から離れている為、生活道路になっていますが空襲から免れたのか街道沿いには江戸時代を偲ばせる民家がちらほら見受けられ、道幅も狭くなるので気分はだんだん江戸時代。
街道脇に池があり、石橋の向こうは仁王像が納まる立派な門、その奥の朱塗の柱が笠寺観音堂。笠寺観音の写真で一般的なのは、笠寺商店街からの西門。
ここから入るのが通常で、入ってすぐ右手には「六道救生 六地蔵」という現世の6つの苦しみから救ってくださる6体のお地蔵さまが祭ってあります。
その六地蔵からぐるっと左に目をやると、「人質交換の碑」がありました。
1549年今川氏が、捕えた織田信広(信長の異母兄)と8歳の竹千代(家康)との人質交換をこの笠寺観音でしたんだそうです。また江戸時代には宮本武蔵がここに逗留したという石碑や、芭蕉の千鳥塚碑などもあります。
そんな歴史的な笠覆寺で有名なのが「玉照姫伝説」。
昔々の736年(天平8年)、呼続(よびつぎ:笠寺観音より北にある地名で現在は住宅地ですが江戸時代くらいまでは海辺で、近くに塩田があった。そこから塩を城に運んだ塩付街道が旧東海道と交わる。)の浜辺に不思議な流木が漂着し、拾った善光という僧がそれで十一面観世音菩薩像を造り小松寺を開きました。しかしその後荒廃し観音像は風雨に晒されて200年ばかり経ちました。鳴海の長者の家にたいそう美しい娘がおりました。元は美濃の豪族の娘でしたが、その美貌が仇となって長者に酷使されていました。ある日娘は雨に晒されている観音様を不憫に思い、自分の笠を観音様に被せてあげました。その後たまたま関白藤原基経の息子・兼平が鳴海の長者の家に宿泊した際、その話を聞き娘の優しさに惹かれ妻にしました。娘は玉照姫と呼ばれ、930年兼平夫妻は観音様を祀るため寺を復興し笠覆寺と改名ました。
・・・という玉の輿伝説です。本堂の右前には夫妻を祀ったお社があり、もちろん縁結びにご利益があります。ご利益といえば、他にも「水掛け地蔵さま」もありましたし、本堂右には「おもかる地蔵(抱き地蔵)」というのもありました。これは、自分が抱ける重さのお地蔵様を胸に抱いて願い事をします。欲張って大きいのを持っても持ち上がらないので、舌切り雀の正直じいさんみたくするとよいです。
『東海道中膝栗毛』には、玉照姫の笠観音(昔話の笠地蔵の元?)の伝説には触れてなく、「人間の迷いの涙に濡れないように観音像は笠を被っている」と歌に詠んでいるので、一九先輩は知らなかったか当時この伝説は流布されてなかったようです。
それよりとべ村、山ざき橋、仙人塚をうちすぎ、やうやく宮の宿にいたりし頃は、はや日くれ前にて、棒鼻より家毎に、客をとどむる出女の声姦(かしま)し。
旧東海道は笠寺商店街になり、名鉄の線路を渡って北へ向かうと、塩を作っていた戸部地区あたりは左右の寺に東海道の碑などが設置されています。山崎川にかかる山崎橋を渡りましたが、仙人塚はわかりませんでした。東海道名所記には載っているそうです。
名古屋市緑区~南区の旧東海道は現在県道222号線。