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diary of a genroku samurai 2

2013-07-16 | bookshelf
『摘録鸚鵡籠中記 元禄武士の日記』 朝日重章著 塚本学編注

 元禄期1691年~享保2年1717年という長期に亘る日記で、しかも高名でもない一地方藩士の個人的な日記が、筆者が没した後も藩によって保存されていたのが奇跡です。それは、『鸚鵡籠中記』の特異な性質によるものだと思います。尾張藩によって写本された37冊の和書は、藩蔵の奥に秘蔵され、昭和40年代になってやっと公開されました。
 公開が憚られたのは、幕府や藩への批判や、尾張藩の中央集権に対する反体制的な行動などが書かれていたことが指摘されています。なるほど、文左衛門が物心ついた時、徳川綱吉が将軍になり、13歳の時には「生類憐みの令」が発令され、彼の青年期は綱吉統治の時代だったので、不平不満がでていたのも無理ありません。誰に見せるわけもない日記ですから、思ったことが正直に書いてあります。彼は将軍を「大樹」と書いていますが、(徳川家康生誕の地・岡崎にある大樹寺に由来するのか、後漢書の大樹将軍からとったものか?)敬って書いているようには感じませんでしたし。
 徳川家がこの日記を公けにしずらかったのは、こういう理由だったと思いますが、尾張藩がわざわざ祐筆に清書させてまで保存していたのは、別の理由があったと思います。
 原著『鸚鵡籠中記』から満遍なく記事を摘出して編集された『摘録鸚鵡籠中記』を読んで驚いたのは、災害に関する記述でした。日記というものは、大抵その日の天候を記入するものです。『名古屋叢書続編』の原文を見ても、天気しか記していない日も多くあります。江戸時代は火事が多く、日記には尾張藩の火事だけでなく江戸の大火事などの記述(伝聞記事)も詳細に記述してあり(城の堀にかかる橋の被害状況や死負傷者の数など)、地震などの天災にしても、事細かに記してあります。
 こういう事象を日記に書く時、日にちを間違えることはめったにないと思います。それが関東から帰着した人からの伝聞であっても、1年も2年も違うことは有り得ません。私が不思議に思うことは、この日記の元禄16年(1703年)11月に名古屋で大きな地震があって、壁など剥がれたりしましたが、余震が続いたので外で寝る者が多かったと書いてあり、江戸や神奈川でも大地震と津波が起こり、もっと被害が大きかったことが数ページにわたって書いてあるにもかかわらず、私の手元にある日本史年表には、1703年前後に大地震の記載がないことです。その4年後に起きた富士山の宝永の噴火については、どちらも合致しています。
 元禄16年の大地震(現代では元禄大地震と呼ばれ、震源地房総半島南端、M7.9-8.2推定)は、幕府の公式記録がどうなっているのかわからないので、全くの推測ですが、この頃は綱吉の死亡説だとかよくない噂がたっていた時期なので、不吉な災害は記録に残したくなかったのかもしれません。
 不吉というのも、この大地震は神奈川や江戸から帰着した人々からの話を書いたものも含まれているのですが、そこに「光物3つ」「光物現る」「光物品川方面へ」という目撃談がでてくるのです。さらに、地震の数日前の日記に、流れ星がよく見えたという記述もあります。地震なのに光物?もしかしたら、光物は隕石で、地震は隕石の衝突によるものだったのか?と色めきたちましたが、その後も大きめの余震が続いたとあるので、隕石による可能性は低そうです。では、オーロラ?1703年に巨大な太陽フレアが発生したのかどうかは解らないですが、もしそうなら、世界規模で何かあったと思われますが…。巨大地震に伴う発光現象というものがあるそうですが、鸚鵡籠中記には光物が何色でどんな形かなど詳細が書いてないので、判断できません。(太陽フレアと地震は関係あるそうです。)
 このように、一概に日記とはいっても、文左衛門の日記はルポルタージュの要素も多く(富士山の宝永の噴火は、図入りで書いてあります。)、尾張藩の官僚たちも、貴重な資料として記録する必要性を感じたのではないでしょうか。現に、このおかげで元禄大地震の事実が伝わっているのですから、文左衛門の予期しなかった功績でしょう。
 災害について触れている書物では、鴨長明『方丈記』があります。この場合は、「人生のはかなさ」を強調させる効果を狙って書いたような記述ですが。

 日記は自己満足の世界ですから、本来ならば仕事や愚痴などで溢れそうなものです。しかし、文左衛門の日記は、殺人事件、事故やエンターテイメント、イベント、行楽、仕事関係、仲間付き合い、藩政、家族など豊富な話題を、まず感情的にならずありのままに記し、冷静な考えや批判を付け加えただけに留めています。観念的・哲学的なことをくどくど書いていない(そういう箇所もあるのかもしれませんが)ところから、この人は、現代だったら新聞記者になっていたんではないかと思います。
 小説『元禄御畳奉行の日記』には、仕事(畳奉行)に関することがほんの少ししか記述がない、と云う理由から、文左衛門が仕事に興味がなかったように思われていますが、実際、泰平の江戸時代は武士の仕事がなくて、1人でする仕事を数人で分担していたくらい暇だったそうです。しかも月に数日しか出勤日がなければ、何か特別なことがない限り日記に残さないのは普通だと思います。といっても、仕事の時は何が楽しみかといえば弁当の時間で、それについてはちゃんと記しています。また、京都に出張した折は、取引先からの接待で、遊んでばかりいるように思われますが、当時はそれは当たり前で、何も文左衛門だけではなかった筈です。文左衛門はたまたま酒や遊行が好きだったから、接待もそういう方面が多かったのでしょう。
 むしろ、出張中も日記を怠らなかったばかりか、不在中の名古屋で起こった出来事も記述していたのが、真面目というか使命感が強いといいましょうか。使命感?酒で体をこわし、筆が持てなくなる時まで日記を書き続けた文左衛門の思いとは、何だったのでしょうか。


 
 
 
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2 コメント

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”赤城盟伝”の赤気 (S.U)
2020-05-05 09:04:11
初めまして。S.Uと申す者です。天文学史の研究等をしている者です。よろしくお願いします。

1703年(元禄16年)に光り物があり、それにオーロラの可能性を考えられる根拠は何でしょうか?

実は、赤穂事件を描いた前原伊助の『赤城盟伝』の「序」※に、旧暦12月、2月に2度の「赤気」出現に言及した記述があり、赤穂浪士の討ち入りと切腹と関係づけられているようです。これをそれらの事件があった元禄15年12月、16年2月のことと解釈すると、西暦では1703年1月と3月となります。

また、「赤気」は日本天文学史では、通常「オーロラ」と解釈されています。

ご検討のご参考になれば幸いです。
成果があればまたお知らせ下さればありがたいです。

※「東京国立博物館デジタルライブラリー / 赤城盟伝」の13ページ目の図版にあります
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コメントありがとうございます (sti)
2020-05-27 23:54:45
返答が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
『摘録鸚鵡籠中記』に出てきた「光り物」を何故オーロラだと思ったのか?ですが、7年前の記憶を掘り起こして思うに、多分ネットで検索したらそのような記事を見つけたからだったような気がします。何分素人ですのでお許しを。
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