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the gap between Japanese mythology and ancient history 9

2017-12-28 | ancient history


 古代氏族の葛城(葛木)氏に関する一般書籍が少ないため、その実態は霧に包まれたままですが、日本書紀に記されている500年代~600年代間に大王並に隆盛していた蘇我氏宗家(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)の実体と同じように、大王と姻戚関係を築いて権力を握っていた地元豪族だということは確かなようです。その隆盛期は、畿内や摂津に巨大古墳が造営された時代と重なります。
 「葛城」の名は『古事記』には出てきませんが、日本書紀の『神功(じんぐう)皇后 気長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)』の巻に、「気長足姫尊は、気長宿禰王(オキナガノスクネノオオキミ)の娘である 母を葛城高額媛(カズラキタカヌカヒメ)という」と記されています。仲哀天皇の皇后・神功皇后(気長足姫=息長帯日売)は、応神天皇をお腹に宿したまま新羅征伐を敢行した女帝として記紀に逸話が載っていますが、真偽のほどは定かではありません。しかし、天皇(大王)が死んで皇后(女王)が執政となるのはあり得ます。彼女のお墓は、奈良市北西部の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群中の五社神(ごさし)古墳に治定されています。佐紀古墳群は300年末~400年前半(古墳時代前期後葉~中期)とされていますから、彼女が生きていたのは200年代後半から300年末の時代だと推測できます。気長足姫の母親の葛城高額媛が西暦200年前後を生きた人だとすると、葛城氏は100年代末頃には気長氏(古代氏族・息長氏のこと)と結びついて、大和葛城山・金剛山から琵琶湖南部までの一帯を支配する勢力になっていたのではないでしょうか。
 巨大前方後円墳が多く残っている、天理市南部の大和古墳群(3~4世紀後半)、奈良の山の辺の道沿いにある柳本古墳群(3~4世紀:箸墓古墳・行燈山古墳・渋谷向山古墳などが有名)は佐紀古墳群より少し早い時期のものです。これらの古墳を調査できれば、葛城氏や息長氏に関して少し謎が解けるかもしれません。

 西暦100年頃といえば、日本に青銅器と鉄器がほぼ同時に入ってきた時代です。そして、倭国(外国から見た古代の日本)が百余国に分立していた時代でもあります。
 金属器が入ってくるまで、太平洋側で生活していた日本先住民は、黒潮に乗ってやって来た(漂流してきた?)海洋民族だったので、気性がおっとりした民族だったと思います。西方もしくは北(北陸地方)から渡って来た異民族は、違いました。彼らは見たこともない道具や、高度な知識を持っていたのです。争い事を避ける気質の先住民族は、金属器を所持していた異国人集団(渡来人)を絶対権力者=神と崇め、金色に輝く青銅製の銅鐸や銅矛・銅剣を祭器として祀っていたのではないかと思います。
 異国人集団は海外から船でやって来て、金属や生活用品の他に彼らの先祖伝来の神や文化・技術をもたらしました。彼らは先住民のリーダーの娘を自分の物にすることによって、先住民族を支配するようになりました。中でも勢力の強い集団は内陸部へ進出し、雨が降るとぬかるむ葦原を避けて、山間部で生活するようになり、海や平地が見渡せる高い場所(金剛山や三輪山など)を聖域としました。低地で稲作などをしていた庶民は、聖域近くに住む集団を「特別な人たち」と見做すようになりました。
 このように仮定すると、瀬戸内海に「オノゴロ島」が、金剛山に「高天原」があるのも納得できます。日本神話の「海幸彦山幸彦=海佐知毘古山佐知毘古」が記紀で重要視されたのも、日本の歴史が、海を渡ってやって来た海人族(日本先住民)と、先端技術と文化を携えて内陸部を支配した山人族(西方渡来系)の勢力争いから端を発しているからではないかと思います。
 高天原を支配する天照大御神と最初は海を支配するよう命じられていた須佐之男命の対立も、山と海の対比になっています。しかし、彼らは兄弟・姉弟であって、対立はしても結局は身内です。山を支配する者は、海を支配する者を懲らしめはしても、滅ぼすことはしませんでした。
 山を支配する山佐知は、兄から借りた釣針を探しに海へ出て行きます。海の世界から帰還した山佐知毘古は、海神の力を身につけていました。この山人族に属する山佐知毘古は、天孫ニニギノミコトの3人の息子の末っ子、火遠理(ほおり)命であり、別名・天津日高日子穂々手見(アマツヒコヒコホホデミ)と同一人物にされて、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)命=のちの神武天皇の祖父にあたる人物だと位置づけられています。最終的には、山人族が陸地と海原両方を支配したのです。実在しなかった人物であっても、ヤマト政権の大王(オオキミ)の先祖を象徴している伝承だと思います。

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the gap between Japanese mythology and ancient history 8

2017-12-20 | ancient history

赤○沼島、桃色○葛城集落、青○飛鳥京、黄色○稗田集落
緑○平城京、紫○伊勢 ↑クリックで拡大

 200B.C.弥生時代初期に舟で海を渡って日本列島へ上陸した異国人は、西方からやって来た中国系・朝鮮系に混じってインド系・中央アジア系もいたと思います。また、太平洋側へは東南アジアの海人族が黒潮に乗ってやって来ていたと考えられます。
 西方からの異民族は、対馬・壱岐を経て九州北部で定住し、年月をかけて瀬戸内海を岸に沿って東へ向かって行き、既に故国の記憶も朧げになった世代が淡路島に到達し、日本原住民と東南アジア人(海洋民族)が混血して日本人となっていた島民たちとともに生活するようになり、沖ノ島・地島を経て紀伊半島へ渡る者や、紀伊水道を南下し紀伊半島をぐるりと回って熊野、伊勢、桑名、尾張、そして大河(長良川、木曽川)に沿って内陸部へ生活圏を広げていったりしたと考えられます。
 畿内へ新天地を求めた集団は、島伝いに紀伊半島の加太(和歌山市加太湾)辺りから上陸して陸路、あるいは紀の川を遡上して紀伊半島の内陸部まで入り込んでいったのではないでしょうか。
 中央構造線に沿った山脈は日本列島形成時に誕生した古い地形で、弥生時代に既に山脈が存在していたと思われるので、海人族の末裔だった集団が、船を捨てこのような山間部で暮らすようになったのが、畿内の氏族たちの祖先ではなかったかと考えました。
 紀の川の北側には、大和葛城山・金剛山があります。不思議なことに、この金剛山(奈良県御所市:大阪府と奈良県の府県境にある山)に高天(たかま)という地域があり、高天彦神社(たかまひこじんじゃ)、神社の近くには、古事記や日本書紀に登場する土蜘蛛を思わせる巨大蜘蛛が居たとされる「蜘蛛窟」の跡や、それを葬った「蜘蛛塚」なども存在します。もちろん、高天原(たかまのはら)伝承地とされる平原もあります。麓には、賀茂神社(京都の賀茂神社では御阿礼祭が行われている)の元宮である高鴨神社や、一言主神を祀る葛城一言主神社もあります。
 
 天孫降臨伝承の地は九州の高千穂地域だというのは有名ですが、もともと天孫が居た場所とされる高天原は、記紀の描写では何となく天上だと思っていました。天照大御神や高御産巣日神(たかみむすひのかみ)や思金神(おもいかねのかみ)などが居た高天原が、金剛山にあったとは…。そして、この葛城・金剛連山を支配していたのが、ヤマト政権下でも古い氏族とされる葛城氏です。
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the gap between Japanese mythology and ancient history 7

2017-12-16 | ancient history

オノゴロ島候補のひとつ、沼島(ぬしま)の位置
↑クリックで拡大

 先日、BS-premium『新日本風土記』で淡路島を取り上げていました。日本神話のオノゴロ島候補地・沼島も紹介されていました。番組の中で、淡路島は大陸や朝鮮半島から船でやって来た海人族が上陸して、ため池や鉄器を作る技術を伝えたという事を言っていました。
 なるほど、それはいつ頃のことだったのでしょう…弥生時代(紀元前400年頃)のことだったと思います。
西から船で渡って来た渡来人は、青銅や鉄でできた道具を持っていました。その時代の日本列島、特に本州で暮らしていた原住民(日本書紀で土蜘蛛などと呼ばれていた民族)は、石や木や土器といった道具に半地下の竪穴式住居、という生活水準でした。そんな日本原住民の目に、当時最先端の道具と技術を持ってやって来た民族は、どう映ったことでしょう。幕末に日本が開国した直後の民衆が、初めて舶来品を手にした時や外国人を見た時、異国文化を憧憬したのと同じ気持ちだったのではないでしょうか。
 海外からやって来た異国人は、最先端の武器でもって原住民を襲ったのでしょうか。淡路島から弥生時代の戦争の痕跡でも発掘されていれば異国人の侵略だったと言えるでしょう。しかし、淡路島では紀元前の弥生時代の遺跡が多数ありますが、旧式の青銅器が海岸地帯に埋納されていたものや、紀元1世紀の五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)では100年以上継続した鍛冶工房跡や鉄斧、二ツ石戎ノ前遺跡では辰砂を原料とした朱の精製工房跡など、宗教や産業に関わる遺跡です。
 思うに、明らかに自分たちより優れた異国人を見て、日本原住民は戦う意志さえ持ち得なかったのではないでしょうか。
むしろ畏敬の念を抱いたかもしれません。「神の使いがやって来た」と。
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tea break

2017-12-09 | music
Death In Vegas - Dirge (live on Later)
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the gap between Japanese mythology and ancient history 6

2017-12-02 | ancient history

鞘型褶曲(さやがたしゅうきょく)
南あわじ市沼島の北端・黒崎の海岸にある泥質片岩に見られる変成岩。
沼島の北には日本最大級の断層・中央構造線が走っていて
約1億年前の中生代に太平洋プレートとユーラシアプレートが
ぶつかり合い海上に隆起したものだと考えられている。

 神話学者の書籍を読んで、古代日本神話と古代ギリシア神話や南の島(ポリネシアなど)の神話などとの共通点を指摘され、『古事記』に描かれた神代記の物語の起源がほとんど海外であるかのような印象を受けました。では、指摘されているような「イザナギ・イザナミの黄泉の国」「天岩戸伝説」やポリネシアなど海洋民族に多い伝承「海幸彦山幸彦」の物語など、日本の古代神話において重要な位置を占める伝説は、日本オリジナルではなく海外から伝わった伝説を拝借して創作された物語なのでしょうか。そうだとすると、何故わざわざ舶来の神話を『古事記』に編纂する必要があったのでしょうか?
 『古事記』編纂の目的を、太安万侶の序文で確認します。
―天武天皇の仰せられましたことは「わたしが聞いていることは、諸家で持ち伝えている帝紀と本辞とが、既に真実と違い多くの偽りを加えているということだ。今の時代においてその間違いを正さなかつたら、幾年もたたないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは国家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辞をしらべて後世に伝えようと思う」と仰せられました。―
 帝紀とは、天皇(大王)家の家系・宮の所在地・政治・山稜の所在などを記したもの。
 本辞(旧辞)は、日本古代の口承された神話や伝説を記録したもの。
安万侶の序文によると、帝紀と本辞は天武天皇が所有するものの他に、各氏族もそれぞれに所有していたということになります。そして、各氏族が所有する帝紀・本辞は、天武天皇の帝紀・本辞とは大きく異なった内容だったようです。各氏族からの観点で伝承された幾パターンもある帝紀・本辞を、ヤマト政権が所有する内容に統一することによって、ヤマト政権の全国統一と天皇家がその頂点に立っているという位置づけを図ろうとして、天武天皇が稗田阿礼に自分の所有する帝紀と本辞を暗誦させました。
 『古事記』に書かれた日本神話は、天武天皇が語った神話・伝説だということになります。『古事記』の日本神話の出所は、天武天皇=大海人皇子。大海人皇子を調べることによって、日本神話の起源に近づけそうな気がします。
 天皇家の皇子や皇女の名前は、養育を担当した氏族の氏名が付けられています。大海人皇子は大海(凡海:おおあま)氏の女性が乳母だったそうです。日本書紀に、天武天皇が崩御して殯(もがり)の儀式をした時に、大海宿禰麁蒲(おおしあまのすくねあらかま)が壬生(養育)のことを誄(しのびごと)したてまつった、と書いてあり、摂津を本拠にしていた大海氏の下で幼少期を送った事は間違いなさそうです。そして、「大海人」というからには、その祖先は海洋民族だったと思われます。
 『古事記』の「国生み神話」では、イザナギとイザナミが、漂って不完全な国を整えて完成させるために、天の沼矛(あめのぬぼこ)でかき回したのは「海水」で、島となったのは沼矛からしたたり落ちた「塩」でした。このような表現方法が、この神話を海人族発祥だと印象付けています。
 この最初に出来た島がオノゴロ島で、ここを拠点にしてイザナギとイザナミは次々と島を生んでゆきます。初めの2つは失敗で島にはカウントしませんでしたが、最初に島として現れたのは、淡道之穂之狭別(あわじのほのさわけ)の島でした。この島は今の淡路島で、次に出来たのは、四国。その次が九州。・・・というように、最初が本州ではなく淡路島というのが不可解です。ヤマト政権とは余り関係のない淡路島がなぜ一番なのでしょうか。この神話は、淡路島周辺に住んでいた海人族の言い伝えではないでしょうか。
 大海人皇子を養育した凡海氏が住んでいた摂津は、淀川・大和川水系から瀬戸内海へ出る難波津があった地域です。淡路島は目の前です。
ということで、瀬戸内海にはオノゴロ島ではないかと言われる島が幾つもあります。その中で、淡路島の南にある小さな島・沼島(ぬしま)が、オノゴロ島に近いかなぁ、と思いました。
 何故かというと、沼島と淡路島の間に中央構造線が通っていて、沼島には9000万年以上前に隆起して生じた「鞘型褶曲」があるからです。少なくとも古代氏族が登場する以前から、沼島は存在していたのは確かです。天武天皇が稗田阿礼に口承したのは、淡路島を囲む瀬戸内海沿岸に住んでいた海人族の伝説だったのだと思いました。
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