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2012-06-26 | bookshelf

 幕臣としての職務をソツなくこなしながら、大田南畝は趣味として文筆を続けていました。2度の遠い地方出向を終え江戸勤務に落ち着くかと思いきや、1808年文化5年今度は水害復旧工事のため玉川上流へ派遣されました。この年、関東地方は大雨で関東一帯が洪水に見舞われたそうです。60歳の南畝は、100日余りの野外勤務をこなしました。
 還暦を迎えた老人にそんな任務が与えられたのは、上司や同僚の嫌がらせと勘繰る研究者もいれば、大坂や長崎での有能さが認められての命だったと解釈する研究者もいるそうです。時代は違っても、組織の中にはそういった人間関係の軋轢やしがらみが存在するものです。特に天下泰平の江戸後期は平和ボケした武士が目立ったようで、「鳥なき里のコウモリ」的な役人が多かったと想像できます。
 赴任していたのは冬。元日を休んだだけで2日から仕事。上司は時々現場へ見回りに来るだけ。そんな状況でも、南畝は多摩丘陵地帯の眺めを楽しむことを忘れない。この人は、嫌な現実からの逃避手段を心得ています。与えられた限られた情況の中で、いかに楽しみを見出すか、という術を。だから、職場で嫌がらせがあっても、世の中がなんとなく不穏でも、飄々としていられたんじゃないかと思います。
 御徒組で32年、勘定所で17年も働き続けていたのは、一重に息子に家督を継がせるためでした。息子についてはどうもはっきりした記述がされていませんが、『蜀山残雨』と伝記を合わせると、精神的な病気が内在していたようです。南畝が64歳の時、息子が支配勘定見習いとして初出仕しました。息子は33歳で既に妻子持ち。ようやく肩の荷が下りた、という感じだったでしょうか。文化年間に入ると、山東京伝、曲亭馬琴、十返舎一九、式亭三馬といった戯作者の合巻、人情本、北斎や歌川派の浮世絵といった江戸文芸が全盛期を迎え、南畝翁は蜀山人として文化人の間で持て囃されました。
 能のない連中がいる職場では浮いていたかもしれない南畝も、文化人の中では慕われ敬われていました。なぜか?それは馬琴のように他人をけなしたり自画自賛をしなかったのと、何よりユーモアのセンスを持っていたからではないでしょうか。センスは努力して身につくものではないので、馬琴には気の毒ですが、狂歌で名声を得たのも、幅広い人脈を持っているのも、ユーモアのある性格だったからではないかと思います。南畝は、仲違いをしている知人たちの仲介役をして何組か仲直りさせているそうです。南畝のことなので、真面目一辺倒ではなく、滑稽な洒落でも言ってお互いを笑わせたんじゃないかと想像します。
 「狂歌」は人を笑わせ心を豊かにするものです。『膝栗毛』で弥次喜多が道中で詠む狂歌は、しくじりをした場の雰囲気をなごませたり、喧嘩を鎮めたりする効果を発揮します。一九と南畝には、こんな逸話が残っています。― 一九が初めて南畝宅を訪問した際、長いこと待たされ一向に現れる気配がないので、「失礼だ」と腹を立てて帰ってしまった。その後、ばったり会った南畝から、一九が来るというから酒を飲んで語り明かそうと思ったら、酒を買うお金がなかったので、庭にあった桐材を売りに行っていたのに、帰宅したらいなくなっていて、それでも失礼か?と言われ、二の句が継げなかった。(漢学者・劇作家:依田学海 著)― 真偽のほどはさて置き、南畝が言った理由が嘘であっても、この頓智のきいた弁明は、同じく頓智好きの一九の憤慨を吹き飛ばしてしまったと思います。
 太平の時代といえども、噴火・地震・大火・大雨洪水、飢饉、コレラ、なんとなく感じる外国からの脅威がありました。文化文政期の滑稽は、そんな国民の潜在的な不安から求められた笑いだったのではないでしょうか。
 蜀山人自身も、内に秘めた不安から解き放たれたいと感じていたのかもしれません。期待をかけていた息子が乱心して職を失い、南畝は心の病を治す医師を探したりもしていたらしいです。また、可愛がっていた孫(男子)も読書もしない怠惰な子だと、心配は尽きなかったようです。

 75歳になった南畝は、相変わらず勘定所勤務を続けていました。4月、市村座に芝居を見に行って、贔屓にしている三世尾上菊五郎に狂歌を書いて与えたりして楽しんだ翌日、少し気分が悪くなるも、夕食にヒラメの茶漬を食べて狂詩を一首作って寝ました。翌朝家族が起こしにいくと、南畝は口をあけて鼾をかいて眠ったままで、意識が戻ることなく息を引き取った、ということです。
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2012-06-25 | bookshelf
1784年天明4年刊行 恋川春町 作・画 『吉原大通会』より
江戸狂歌大流行に取材した黄表紙。
高名狂歌師の中に、四方赤良(南畝)、平秩東作、紀 定丸(南畝の甥)、
筆記用具を出す蔦屋重三郎が描かれている。

 1787年天明7年、田沼意次が失脚し松平定信が老中になると、倹約令が発令されるわ勘定組頭だった土山宗次郎が処刑されるわで、それまでの贅沢三昧の生活が一変させられました。公金横領罪で斬首された土山氏の取り巻きだった南畝先生は、全くお咎めなしだった理由は不明です。政治に影響がない役人だったからか(土山氏は官僚、南畝は一般公務員)、文学好きの松平定信の計らいがあったからでしょうか。悪事がバレたと知った土山氏の逃亡を手助けした罪で、平秩東作は急度叱り(きっとしかり:奉行所or代官所に呼び出し、土地の顔役たちの面前で犯罪の不心得を聞かせ、当人の名誉を傷つける、庶民のみに適用された刑。)を下され2年後に死にました。
 南畝は、狂歌師 四方赤良をやめ、退屈な本業に戻ります。87年は米価高騰で天明の打ちこわしが起った年です。翌年、田沼意次(70歳)が亡くなりました。しかし、南畝はラッキーでした。1789年寛政1年、棄損令が施行され、旗本・御家人の借金がチャラになったのです!もちろん札差高利貸は激怒でしたが、成す術もなし。
 1793年に、新築した一戸建ての離れ「巴人亭はじんてい」に住まわせていた愛妾・お賤が亡くなります。悲しみに暮れる南畝でしたが、翌年第2回学問吟味(人材登用試験)に御家人部門でトップ合格しました。(旗本部門トップは遠山金四郎<父>)92年の第1回は不合格だったので面目挽回。46歳にしてようやく出世の道が開けたのです。といってもその後数年は職務に変化はなかったようです。1796年ようやく支配勘定(勘定奉行の下役人)に取り立てられました。が、そこでの仕事も、重要とはいえない退屈なものでした。1798年、妻が先立ちました。(1797年には蔦重が病死)
 1801年享和元年、53歳の南畝は大坂銅座に1年間出向します。公務の旅行は待遇がよく、お供や人足を連れて道中駕籠に乗って東海道を西へ向かったそうです。一茶や芭蕉はたまた子規の句碑はよく見かけますが、東海道にも大田南畝の句碑があります(どこか忘れましたが)。大坂での仕事は午前8時から午後2時まで勤務すれば、後は自由時間だったそうです。南畝は仕事が速かったのでさっさと済ませて余暇を楽しんだようです。無事に大坂勤務を終えた南畝は、帰路は中山道を通り、途中上田秋成を訪問しています。
 江戸へ戻ってから2年後1804年文化元年、今度は長崎奉行所に赴任が決まりました。当時長崎奉行所は役得が多く、役人達が出向を希望した場所だったそうです。酷い船酔いで長崎に着いた南畝は、3週間出勤できなかったということです。
 大坂と違って長崎は激務で、ちょうどロシア使レザノフが通商条約を結びに来ていたこともあって、奉行所はフル回転でした。そして南畝もレザノフと会って握手をし、コーヒーもご馳走になっています。それに日露会談に全て列座していました。しかし、だからといって南畝がロシア外交について深く考えた記録はないそうです。立場上、文字にできなかったのかもしれませんが。
 幕府がぐずぐずして返事を延ばし延ばしして、やっと派遣してきた特使は遠山金四郎<父>でした。彼は小姓組~御徒頭~目付(役人を監察し不正を摘発する職)に出世していました。1805年、南畝は陸路で江戸へ帰りました。
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2012-06-23 | bookshelf
蜀山人肖像 画:鳥文斎栄之 1814年文化11年
蜀山人と号した65歳の南畝翁。まだ現役サラリーマン

 南畝の狂詩は中国の古典漢詩のパロディで、センスのよいユーモアが当時の文壇にウケて一躍人気作家になりました。江戸時代は詩人とか学者とか作家とか評論家などは職業ではなかったので、執筆してもそれで身を立てるという概念はありませんでした。武士出身の文人はもちろん、町人出身の文人でも同じでした。一世を風靡した山東京伝も、戯作は本職(煙草入れ&薬種屋)の片手間サイドビジネス程度にやるものだという主義でした。
 20代には山手馬鹿人(やまてのばかひと)などのペンネームで洒落本を発表。1772年に田沼意次が老中になり緩和政策がとられるようになると、江戸庶民文化が一気に開花し、閑を持て余した幕臣や金を持て余した商人が「狂歌」という遊びで盛り上がり、南畝は狂歌師・四方赤良としてその中心にいました。30歳の時には、高田馬場の茶屋で「月の宴」と銘打って5夜連続狂歌会を主催したり、34歳の時は吉原大門口の蔦屋重三郎宅で開かれた「耕書堂夜会」なるふぐ汁の会に出席したり、とかなり豪奢に遊んでいます。(南畝は蔦重の1歳上。耕書堂が通油町へ移転する以前から交流があったことが判りました)
 特に、20歳の山東京伝が書いた『御存知商売物』を絶賛して京伝が有名になったことで知られる黄表紙評判記『岡目八目』を出版した1782年天明2年は、南畝にとって人生最大のバブル期だったようです。34歳の南畝は、勘定組頭・土山宗次郎(?-1787年横領罪で斬首)と親しく交際し豪遊していたことが、1949年昭和24年森銑三氏の研究によって明らかにされました。豪遊の実態は、南畝の日記『三春行楽記』に赤裸々に記してあります。当時土山氏も狂歌をし、彼のサロンには様々な身分階級の人物が出入りしていたそうなので、南畝が特別だった訳ではないでしょう。しかし、南畝が土山氏のお気に入りだったことは明白で、翌1783年出版した『万載狂歌集』(四方赤良、朱楽菅江<あけらかんこう>共編)にも土山氏の歌が数首入っています。
 悪の世界(公金横領した金での豪遊)の恩恵を受けていた事実を、蜀山人を崇拝する研究者は認めたくなかったそうです。でも、『三春行楽記』がなくても、貧しい下級武士の若造が洒落本(遊廓の実態に取材した戯作)のヒット作を何冊も執筆できた事実から考えれば、安易に想像がつきます。南畝も人の子、清廉潔白ではなかったわけです。
 田沼意次が実権を握っていた期間、1780年江戸は大雨続きで洪水だったし、日本近世史上最大といわれる天明の大飢饉(1783年~1788年)がありました。しかし、南畝には苦ではなかったようです。どうもこの人は政治や社会に余り関心がなかったんじゃないかと思います。1771年明和8年23歳の時に結婚した6歳年下の妻と息子がいるにも係わらず、37歳で吉原の遊女・三保崎を身請けして、自宅の敷地内に離れを作って住まわせたという無神経な男でもあります。そんなお金も土山氏から融通してもらったのかもしれません。でもそれがどうしたっていうんでしょうか。死んでしまった人の道徳観を非難しても意味がないと思います。私はありのままの南畝を受容れましょう。
 そして、バブルは弾けてしまうものです。田沼意次が罷免され土山氏が斬首に処せられ、松平定信が老中になった1787年、四方赤良という狂歌師は消えました。
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2012-06-22 | bookshelf
大田南畝38歳。狂歌をひねっている最中。画:北尾政演

狂歌師として名声を得るも、恩恵を賜っていた田沼政権崩壊によって
この年に公けでの狂歌の筆を折ることに。

 蜀山人こと大田南畝は通称大田直次郎、名を覃(タンorふかし)、江戸牛込御徒町の組屋敷(現・新宿区北町・中町・南町地区)に幕府の徒士衆(かちしゅう)の子として1749年(1823年75歳没)に誕生しました。貧しくはありませんが、遊べるほど裕福な家柄でもありません。利発な南畝少年は、漢学・漢詩に長け、特に詩作は秀でていたそうです。
 幕府直参の武士の身分は、御目見以上(旗本)と御目見以下(御家人)に大別され、御目見以下(禄高百石or百俵以下)は譜代席と抱入(かかえいれ)席に細分され、譜代席は職を世襲できますが、抱入は一代毎に召抱え手続きをしなくてはならず、大田家は70俵五人扶持だったので、南畝少年は父親在勤中の16歳に御徒抱入になりました。この時点では、南畝の出世の上限は御目見以上譜代席まででした。
 徒士(かち)とは、もともと戦場を徒歩で戦う兵卒だったので、武士階級中でも馬に乗れない下級身分。南畝の時代には、将軍が外出する時に道筋の先払いをしたりする、普段は江戸城内の玄関の中にある遠侍(とおざむらい)の間の奥に詰めて、両拳を膝の上に置いて正座をして上司(老中・若年寄など)が玄関を通過する時は平伏する、あるいは勘定所で衛視をしたり、上司の警備をしたりする、といった勤務を順番に勤めていたそうです。つまりシフト制勤務ですが、このいかにも退屈そうな職務内容は太平の世ならではで、幕府直参御家人(今でいう一般公務員的身分)は仕事がなく1ヵ月30日中約6日(!)出勤。内勤以外の仕事は先に書いたようなものです。徒仕衆の俸給は70俵5人扶持と決まっていて、これを全て米に換算すると年間支給額は95俵2斗5升、変動米相場だったので換金額は一定しないのですが、南畝16歳の1765年は徒士衆の現金収入は年間40両未満だったそうです。しかし、当時の武家の多くは先代からの借金を持っていて、大田家も南畝が家督を継いだ時借金があったそうで、全額を受け取ることはできなかったようです。
 金はないけど余暇はある―ということで、多くの幕臣は浮世絵を描いたり戯作したり小遣い稼ぎをしてました。戯作で有名なのは朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ。秋田佐竹藩士。狂名:手柄岡持。南畝より14歳年上)、恋川春町(こいかわはるまち。黄表紙の祖。浮世絵も描く。駿河小島藩士。南畝より5歳年上)などですが、南畝はまだ子供なので国学者や儒学者の門人になって勉強していました。
 同門に23歳年上の平秩東作(へづつとうさく通称:稲毛屋金右衛門。内藤新宿の煙草屋。学者名:立松東蒙<とうもう>。平賀源内をモデルとした戯作本を書いたり、田沼時代の勘定組頭土山宗次郎に命ぜられ蝦夷地調査へ行った時の事を綴った『東遊記』を著した)がいたことで、南畝少年の退屈な人生に変化が生じることに。
 1766年、18歳の南畝は平秩東作に連れられて、初めて平賀源内(1728-1780年。エレキテルの復元で有名。南畝より21歳年上)の家を訪れたのです。39歳の源内はちょうど人生の絶頂期。東作は源内のお仲間で、南畝の才能を認めて源内に引き合わせたのでした。南畝は源内の家に『寝惚先生文集』(狂詩集)の草稿などを持って行って見てもらったそうです。自作の詩などを褒めてもらったことで南畝は自信を得て、出版することにします。板元・甲椒堂須原屋市兵衛に取り次いで刊行させた人物は、平秩東作。
 19歳の南畝(狂名:寝惚先生)は狂詩狂文集『寝惚先生文集初編』で文壇にデビューしました。その13年後1780年、平賀源内は獄死します。
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2012-06-18 | bookshelf
『蜀山残雨 大田南畝と江戸文化』野口武彦著 2003年新潮社刊

表紙絵:蜀山人肖像 画:文宝亭亀屋久右衛門(二世蜀山人)
蜀山人公認代筆者で本業茶問屋が破綻するほど南畝に心酔した


 十返舎一九先輩の紀行文の翻刻版(現代仮名に変換したもの)が簡単に手に入らないので、蔦屋重三郎とも縁が深い大田南畝ものを選んで読んでいます。
 以前、蔦重を調べていた時は、四方赤良(よものあから:狂歌名)で登場したので本名は何だろう?と調べたら、現代は大田南畝(おおたなんぽ)で通っているようです。それで私は大田南畝と言っているのですが、書籍関係を調べているとタイトルが大田南畝より「蜀山人(しょくさんじん)」という呼び名が多いことに気付きました。一昔前は「大田蜀山人」などという奇妙な呼び方が当たり前だったみたいで、知識人・文人あるいは東京生まれの人々は子供でも蜀山人の名は知っていたくらい有名な人だったようです。
 それで、蜀山人関係のものを検索していくと出るわ出るわ。昭和初期以前生まれの人の崇拝者や研究者の多いことといったら、そんなに凄い人なのか、と思わせるものがあります。でも、現代ではほぼ人気はゼロに近いんではないでしょうか。図書館在庫検索では閉架蔵書になっているのが現実です。日の目を見てるのは日本古典文学全集に収録されている狂歌や狂詩、一部の紀行文くらい。しかも狂歌は四方赤良、狂詩は寝惚先生と表記してあるので私のように詳しくない人は同一人物だとわかりません。
四方赤良(南畝)37歳。吉原の新造・三保崎を身請けした頃 
画:北尾政演(山東京伝)

 江戸後期、明和~天明~寛政~文化期に各雅号でブイブイ言わせていた大田南畝先生。この人も詩作などは趣味で本業は幕臣だというので、どんなにか名門武家の出身でお堅い学者かと想像してました。そこで、伝記を読んでみたところ、南畝先生はものすご~く筆まめで、少年期から日記みたいなものや覚書、出張旅行の道中記や単身赴任中に送った倅への手紙とか、プライベートな記録を沢山遺しているので、当時のお侍さんのリアルライフを知ることが出来ました。いや~いつの時代もサラリーマンはツライですね。南畝先生が狂歌なんかに走るのわかります。彼は名門でも金持ちでも学者でもなく、江戸時代の下級武士の一人でした。もう少し詳しく知りたくて検索して選んで読んだ『蜀山残雨』は、ある幕臣(公務員)南畝の悲喜こもごも人生が書かれた本で、当時の幕臣の仕事や私生活が当事者レベルで理解できました。

これまた歌舞伎役者の似顔をうつせしが、あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行なわれず、一両年にて止ム
↑これは写楽についての有名な説明文ですが、これを書いた人こそが大田南畝その人で、『浮世絵類考』の元となった『浮世絵考証』の作者でした。
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Ole!Cesc euro2012

2012-06-14 | sports
 サッカーワールド杯予選でザックジャパンの活躍に盛り上がる一方、UEFA euro2012も開幕しライヴ中継してるとあらば、どーしても観たくなるのがファンの心理。しかも、第一戦でスペインとイタリアが激突するんだから、夜更かししてでも応援しました。
 イタリアとスペイン・・・どちらを応援するか悩むところ。
ゼロトップで挑むスペインの布陣、最強です

 10番を背負ったセスクがどんな活躍をしてくれるのか、左にゃイニエスタがいるし、ダブル シャビのパスワークも観たい。

対するイタリアのフォーメーションは2トップ

 嘗て黄金期だった伊チームの名残りは、ピルロと不動のブッフォン。カッサーノのスピードに注意ってところでしょうか。国的にはイタリアを応援したいところですが、セスクがいるのでスペインを応援することに。さすがトップを争う2カ国だけあって、拮抗したゲームでした。

 試合が動いたのは、後半15分くらい。途中交代で入った伊ディ・ナターレの先制点。いつも思うけど、この人ユニフォーム着てなきゃフツーのおじさんに見えます。スペインは持ち味の華麗なワンタッチのパスワークで、セスクが同点打をぶちこんでくれました。

 1-1。そしてセスクはフェルナンド・トーレス王子と交代。
はい、さようなら~

 そして試合は1-1のまま終了。第一試合だし、両者ともこんなもんかな、という感じでした。スペインはもうちょっとカウンター攻撃があってもいいかなと思いましたし、イタリアはピルロのエンジンがかかるのに時間がかかったように感じました。
 EURO2012は、シェフチェンコ(ウクライナFW)が35歳でがんばってるみたいです。
シェヴァがんばれ!UEFA euro2012
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upon entering the alley

2012-06-08 | trip
 中山道は御嶽宿(岐阜県可児市御嵩町)の路地をちょっと覗いてみると…

銀杏の大樹

 大銀杏の背景には御嵩富士がそびえ、秋がみどころらしいです。そして、御嵩富士の麓にあるのが、古刹・大智山愚渓寺。京都の龍安寺を造った義天玄承(ぎてんげんしょう)が造った臥龍石庭(龍安寺の石庭のモデルと言われている)があります。

 石庭を眺めながらしばし休息、といきたかったのですが何故か落ち着きません。石庭を囲っている現代風な色の竹柵のせいだと思いました。庭に侵入する心無い人がいるのかもしれませんが、この柵はどうかと・・・


 私は古代道のことは良く知りませんが、中山道は古代の「東山道」としても栄えていたので、岐阜県内の中山道に沿って、数多くの古墳・古墳群が存在します。愚渓寺の西にかなり大きな円墳(直径46m)「宝塚古墳」があります。登れるような道があったので入ってみると…すぐに急なけもの道に。竹林からにゅーと伸び過ぎた筍がなんだか滑稽でした。ようやく登りきった所に小さなお社(?)がありました。

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the 49th station of Kisokaido 'Mitake'

2012-06-03 | trip
 行楽日和に誘われて、一九先輩を訪ねに中山道伏見宿と御嶽宿の間にある「鬼の首塚」へふらふら出かけて行きました。

 『続膝栗毛』五編下の伏見・御嶽宿の段に出てくる“桶縄手”という所。一九先輩も立ち寄ってるので当時は有名な場所だったんでしょう。現在はバス停の後ろにひっそりとありました。

『続膝栗毛五編下』概要はblog→zoku-hizakurige 5
一九先輩の狂歌が残されてました。
 しかし、今は塩漬けの首も古漬けで酸っぱくなってしまったのか、その名も朽ちてしまっているようです。伝説に出てくる「蟹薬師」は御嶽宿の西に今も残っています。815年最澄が薬師如来を彫らせ安置した場所に建つ古刹願興寺(通称:蟹薬師)は、1581年に再建されたもので国の重要文化財。木造なのでぼろぼろ。本堂軒下に飾られている大きな絵馬の絵も日に焼けてしまってますが、有名な絵師の描いたものかもしれない、と思いました。山門には葉型の瓦で作った蟹がお寺を守っていました。
 御嶽宿は岐阜県可児(かに)市にありますが、可児の元は蟹で、薬師如来が蟹に運ばれて見つかったとかなんとかいう伝承からきているそうです。
境内後方から見た鐘楼門
 御嶽宿は中山道宿駅制定400年記念の時整備されたのでしょうか、みたけ館という郷土資料館と商家竹屋(豪商の町屋を無料で一般公開)のある辺りが宿場の見所になっています。
 郷土館で一九先輩の置き土産↑を見つけました。弥次さん喜多さんはどこでも愛されてるなぁ・・・酷いことばっかしてるのに。

さて、一九先輩このへんで休んでいるかと思って木賃宿で尋ねてみました。
 そしたら、今は中山道じゃなく鳳来寺山の東照宮へ参詣して飯田街道を歩いているらしい。今度もまた会えず、、、
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a carrot of a human shape

2012-06-02 | prose

くすり博物館展示
『人形人参』


 漢方薬用人参ですが、ここまで人型だと使えませんね。若い女性の容貌です。
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the works of the Absolute

2012-06-01 | bookshelf
『絶対製造工場』カレル・チャペック著 翻訳:飯島周 2010年刊行
原題『Tovarna na Absolutno』チェコスロバキア1922年出版

 ゲーテの人工生命体からカレル・チャペックへ移行したのは、当然の流れでした。カフカやシュヴァンクマイエルと同じチェコ人でありながら、チャペック作品を読んだのはこれが初めて。きっかけは『絶対製造工場』という翻訳タイトル。日本人はタイトル付けるの上手いですよね。でもこの日本語タイトル、最初に翻訳出版された時は『絶対子工場』(1990年刊行、翻訳:金森誠也)で、何やら意味不明…。どうやら、内容の解釈の違いにありそうです。
 チャペック氏は「robota」(チェコ語)という言葉を物語の中で使い、それが今日のロボットを意味する言葉の源語になった、ということを、SFをあまり読まない私は今回初めて知りました。カレル・チャペックといえば紅茶?と連想する人も多いかと思いますが、近未来物語をたくさん執筆している作家です。ロボットを世界で初めて登場させた戯曲『R・U・R』の後に発表した『Tovarna na Absoluno』を直訳すれば「絶対者(神)の作品」。Absoluno英語でAbusoluteは、絶対者=神様のことです。英訳タイトルは『The Absolute at large』、直訳すると「捕えられない神様」。それが何で「絶対子工場」になっちゃったのでしょう。
 多分、翻訳者がSFとして解釈していたからだと推測できます。ストーリーは、執筆された時代から数十年先の1943年(チャペックは1938年没)、チェコスロバキア第一共和国(チャペック生前はチェコとスロバキアは別れてなかった)の金属株式会社社長が、どんなわずかな物質でも燃料にして膨大なエネルギーを長期的に放出する器械「カルブラートル」を手に入れ、それを製造し世界各国へ販売し巨万の富を築きます。しかし、その器械はエネルギーを生産する時、物質に封印されていた「絶対=神」を解放してしまうという欠点を持っていました。「絶対」という副産物は、世界中を未曾有の混乱と恐怖に陥れる結果に…というもの。日本での出版の時代が原子力発電所建設推進の頃だったので、「カルブラートル」を原子炉とダブらせたのではないでしょうか。

 確かに、本書の中で「カルブラートル」はゴミでも屑でも何でもエネルギーに変換でき、しかも副産物の目に見えない「絶対」の力で、機械は物作りを学習し自動的に生産するようになる、というコンピュータ機能を備えた夢のようなエコエネルギー製造機械の登場を予測させます。でも、ここで重要視されているのは「カルブラートル」とそのエネルギーより、副産物「絶対」の副作用なのです。そして「絶対」が引き起こした事が、何を象徴しているのか考えるには、作者のイデオロギーと国家の時代背景を知らなくてはならないでしょう。
 チャペック氏が生まれた1890年から1918年まではチェコという国はなく、オーストリア=ハンガリー帝国の一部で、彼が執筆活動していた時期はチェコスロバキア共和国として独立しファシズムが台頭、徐々にナチスの黒い影に覆われていった時代でした。彼は肺炎で病死しましたが、翌年プラハがナチスに占領されると、病死を知らないゲシュタポがチャペック邸を襲撃したそうです。彼の本の挿絵を描いていた兄は、ナチスの強制収容所で亡くなっています。
 カフカ(1883-1924年)と同時代人だったチャペックは、空想科学小説という形態で痛烈な社会批判や宗教批判をしていたことが理解できます。その点で『絶対製造工場』というタイトルもやや的を外している感がします。作者は、器械が産出するエネルギーや、「絶対」を放出(製造してるんではない)する器械が巻き起こす騒動を描きながらも、自分の国家チェコスロバキアの情勢を描き批判しているのです。
 こういう手法は、シュヴァンクマイエルもそうですが、チェコが他国の政権下に支配され、その政権を非難すると危険分子としてブラックリストに加えられる恐れがあったため、よくとられた形態でした。だから、2重3重にも面白いんですが。
 ただ、私が興味を惹かれた『絶対製造工場』というタイトルから私が連想したのは、以前読んだ本に書いてあった「1812年にアメリカで発明された永久運動装置」(当blogswindlers参照 )だったので、内容的に関係ないストーリーにちょっとがっかりもしました。
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