TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

a trip to ancient Izumo 7

2017-06-10 | trip

山代二子塚古墳

 風土記の丘学習館から国道432号を松江市街方面にしばらく車を走らせると、左手に大庭鶏塚古墳が見えます。小さな駐車場がありましたが、ちょうど赤信号で停車したので車窓から見るだけにしました。ガイダンス山代の郷へ行くには、古墳と反対側に細い道路があるので右折して、住宅街のごちゃっとした道を進むと右側に見えます。平屋建てのこじんまりした建物の前に駐車場がありました。見学は無料です。
 島根県で最大の前方後方墳(94m)山代二子塚古墳に隣接するこの施設には、二子塚古墳だけでなく近隣の古墳や遺跡の説明や、昔話の紹介などがされていました。巨大円筒埴輪を模した柱の中にミニチュアセットが作られていたり、ちょっと変わった展示がしてありました。
 ガイダンスを出て、道を渡ると二子塚古墳公園がありました。日本で最初に「前方後方墳」と命名された古墳だそうですが、明治時代の陸軍射撃場を作るために墳丘の一部が削られてしまったそうです。今は復元整備されていますが、一見すると円墳が2つくっついているように見えます。
  
この古墳には、復元された時に墳丘の盛土(層)が見られるようにと観察室が設置されているので、その入口を探しました。
 墳丘の端に登れるような階段があったので、順路の矢印通り登ってみましたが入口はありません。反対側へ下りて時計回り回ってみると、登った場所とちょうど反対側に入口が開いていました。中は薄暗く、スポットライトが盛土の層を照らしていました。色の違う何十もの層を見ながら、これを人の手で造ったんだから大変な労力だったろうなぁ…と500年代半ばに生きた庶民の暮らしに思いを馳せました。・・・が、彼らの姿は浮かんできませんでした。なぜなら、古墳も四隅も博物館の出土品も、支配者の遺跡だからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

a trip to ancient Izumo 6

2017-06-07 | trip
島根県立 八雲立つ風土記の丘展示学習館

 荒神谷史跡公園の前の道路を道なりに北上すると、国道9号線にでます。進路を東へ車で30分ほど走って、その日は玉造温泉泊。風情ある温泉旅館街の真ん中を流れる玉湯川に、大きな勾玉オブジェを組み込んだ橋が架かっていたり、撮影スポットに自撮り用カメラ置き台があったり、足湯があったりと観光客が喜びそうな演出がされていました。玉造温泉は高いイメージでしたが、調べると結構リーズナブルに泊まれる旅館(ホテル)もあります。そして、泉質は良質です。
 翌日は、松江市にある「八雲立つ風土記の丘」を訪ねました。山陰自動車道無料区間を利用することもできましたが、敢えて花仙トンネルを抜けて県道を使って国道432号へ出ました。風土記の丘は、国道432の両側に広がる地域で古代の意宇(おう)郡にあたり、5~7世紀前半の古墳や奈良・平安時代の役所や倉庫の跡などが点在しています。散策するには、レンタサイクル(無料)で回っても1日かかってしまうので、出土品が展示してある学習館とガイダンス山代の郷を見学しました。
  
特徴ある外観の学習館(200円)へ入ると、意宇で発掘された埴輪がズラッと勢ぞろいしていました。その中心に「見返りの鹿」がいました。ちょっと興奮して、色々な角度から写真を撮ってしまいましたが、このコーナーの埴輪たちはレプリカでした…。本物は?奥の方でガラスケースに入っていました。
  
本物は薄暗い照明の展示室に陳列されてあり、ガラスケースの中でライトが当ててあるため、一緒に撮ろうとしてもフラッシュなしなので記念撮影できませんでした。これまで沢山の埴輪を見てきましたが、こんなポージングの動物埴輪は初めて見ました。
埴輪以外にも、貴重な出土品がありました。
   
岡田山一号墳は、風土記の丘学習館敷地内にあります。学習館を出て、芝生公園のようになっている敷地の小路を奥まで行くと、木が生えている古墳がありました。その隣りの古墳はちゃんと整備して中が見えるようになっていました。
目で確認できるのは、1号墳と2号墳だけでしたが、そこは大小7基から成る古墳群だということでした。意宇は、小規模ですが古墳群が密集しています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

a trip to ancient Izumo 5

2017-06-04 | trip
左区画が銅剣、右区画が銅鐸と銅矛が埋納された場所
 
 古代史関係の番組に、必ず映し出されるのが「荒神谷遺跡」。銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本という出土数の多さもさることながら、銅鐸と銅矛が一緒に埋納されていた例は全国初。その現場を見られるワクワク感に心躍らせて、車を走らせました。
 出雲ロマン街道を東へ向かい、結構な山間部に入った所に荒神谷史跡公園の看板が見えました。荒神谷博物館と遺跡へ行くには、この看板から曲がります。少し走ると右側に博物館が見えたので、建物正面の駐車場に車を入れました。
   
 先に博物館を見学しました。入館料は無料ですが、展示室は有料です。加茂岩倉ガイダンスよりは広いですが、弥生の森博物館よりはこじんまりした展示室には、銅鐸や銅剣などがどうやって製造されたのかを再現した鋳型が展示されていました。これらの青銅器が造られた工房跡は、付近では見つかっていないそうですが、銅剣は全て100年代半ばに造られた同型で、完成後まもなく埋納されたということです。
う~ん何のために?博物館を出て、遺跡発掘現場へ向かいました。
  
 園内の小路を奥へ歩くと、丘陵の斜面が四角く削られた場所が見えてきました。ついに!
…遺跡はまだ調査中ということで立ち入り禁止。木製階段を昇って行くと展望デッキがあり、そこから遺跡全体が見渡せました。
 青銅器の埋納として考えられているのが、
1)祭祀説 2)保管説 3)隠匿説:部外者から奪われないように隠した 4)廃棄説:青銅器の時代が終わった 5)境界埋納説:共同体間の境界意識の反映
 1~3はあり得そうです。ここで出土した銅鐸の高さは約23㎝という小ささで、他地域で見つかった銅鐸より旧い型(終息期の銅鐸は1mを超える)だけしかなく、銅剣に関しては青銅器の時代の終わりに大量に製造する必要性が感じられないので、4は無いと思います。5の境界意識(縄張り意識ってこと?)はよく解りません。私がなるほどと思ったのが、武光誠氏が『「古代日本」誕生の謎』第3章に書いてあった説です。
 銅剣は4列に整理されていますが、1列めは34本、2列めは111本、3列め120本、4列め93本の各列の本数が、『出雲国風土記』に記されている古代出雲の神社の数に対応する、というものです。1列めは意宇(おう)郡(67社)、2列めは島根・秋角(あいが)・楯縫の三郡(113社)、3列めは出雲郡(120社)、神門・飯石・仁多・大原の四郡(97社)、意宇郡は国衙があったために神社数が多く、他地域の豪族が建てた神社も含まれているためだといいます。確かに、意宇郡以外は『出雲国風土記』に伝わる神社数とほぼ一致します。
 このことから武光氏は「荒神谷遺跡は、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて一個のまとまりを作っていたことを物語る=出雲の豪族たちの団結を示す」と結んでいます。
 ヤマト政権の支配下に置かれる前の出雲王国は、『出雲国風土記』で神名火山=神の山とされる仏経山周辺を祭祀場、斐伊川の対岸を王家(もしくは首長)の埋葬地だったと考えると腑に落ちます。四隅突出型墳丘墓が造られるのは、青銅器が埋められた後です。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

a trip to ancient Izumo 4

2017-06-01 | trip
西谷3号墳出土の首飾り
防腐剤・威信財として塗布された赤色顔料(水銀朱)の産地は
専門家の分析で中国産朱という結果がでている

 西谷墳墓群史跡公園の道路を挟んで向かい側に、出雲弥生の森博物館があります。
博物館側駐車場の斜面には塗りこめられた横穴墓群がある→クリックで拡大 
 入館無料(特別展は別途有料)で、常設展示室は2階にあります。見どころは、展示室の真中にある四隅突出型墳丘墓3号墳の1/10模型。当時どのように造られていたかを推測して、再現されていました。
  
 墳墓の頂上では、男王と女王が儀式をしています。墳墓の周囲には、異なる衣装を身に着けた別のクニ(邑?)の集団が、土器などを運び込んでいる様子が作られていました。実際このようだったのかはわかりませんが、西谷墳墓で出土した朱と福井県の四隅突出型墳丘墓小羽山30号墳から出土した朱が共に中国産と分析されていることから、日本海沿岸地域に広がる同一民族(親戚)たちが儀式に参加しに来ていた、ということはあり得ることだと思います。また、王族以外の首長もやって来たことでしょう。
 1800年前の「こしムラ」(下古志遺跡)は、北陸の越(古志、高志)から移住した集団のムラだったのではないでしょうか。『出雲国風土記』(神門郡古志郷条)に「池を築造りき。その時、古志の国人等、到来たりて堤を為りき」とあります。古代人は交易や勢力拡大のためだけでなく、灌漑などの技術指導をしに遠方まで移動することもあった、と知りました。
  
西谷墳墓で出土した水銀朱とガラス製勾玉。珍しい型の土器
 水銀朱・勾玉、近くに埋められた青銅器(銅鐸)・・・四隅突出型墳丘墓を造った王族は、道教を信奉していたようにみえますが、大陸からやって来た渡来人王国だったのでしょうか・・・。

 弥生の森博物館でも、学芸員さんが丁寧に説明案内してくださいましたが、出雲歴史博物館ほど広くないので、ゆっくりできました。
 このあと、出雲ロマン街道(広域農道)を東へ向かって15分ほど車で走り、荒神谷遺跡博物館に到着しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする