日本史年表によれば、西暦239年に倭女王卑弥呼が帯方郡(古代中国に支配されていた朝鮮半島中西部の地域)に遣使を送り、魏国で親魏倭王に封じられたとあります。『日本書紀』巻第九・神功皇后の条にも『魏志倭人伝』の内容が記載されていますが、“邪馬台国”“卑弥呼”やその他の国の名前は書かれていないので、“倭の女王”がいかにも神功皇后であると思わせるような記述です。しかし、どう考えても神功皇后の時代と古代中国の史書『三国志』に登場した卑弥呼の時代は、100年くらい差があると思われます。3世紀の畿内(大和地方)の伝承が残っていなかったのでしょうか。そもそも「倭の女王」とか「邪馬台国」だとか「狗奴国」だとかとは、関係のない世界だったのではないでしょうか。
「神武東征」として伝承される畿内への侵略者が、紀元前ではなく弥生代後期(西暦100年代中期以降)の出来事だと考えると、古代中国の複数の史書に記載されている“倭国大乱”(西暦146~189年)の時代と重なります。『魏志倭人伝』では、その後卑弥呼が王に擁立されて内紛は終結したとあります。『日本書紀』には、この“倭国大乱”が描かれていないのです。
神武東征は、実のところ紀伊半島限定の争いに過ぎませんでした。2・3世紀のアジア地図↑を見ると、“倭国”が日本列島のどこまでなのか、明らかになっていないようです。“倭国大乱”はあくまで海外の国から見た内紛状態です。海外アジア諸国(特に古代中国)が知り得た日本列島の範囲は、どこまでだったのでしょうか。大陸に近い九州は、確実に“倭国”だったといえますが、大陸から遠い東の地に当たる紀伊半島は、当時“辺境の地”と思われていたのではないでしょうか。九州から遠く離れた奈良盆地は、九州地方の国々の戦争とは関係のない、紀伊半島内での争いをしていたのではないかと思います。統一国家でなかった日本列島の各地方で、国同士の衝突が多発した時代だと推測しました。
そんな“大乱”の原因となったものは、何だったのでしょうか。
弥生時代は稲作が発達する時代なので、弥生時代も後期になると、稲作用地を拡大するために土地を巡って争うようになった、と安直に考えていました。しかし、今は政治的な理由ではないかと思っています。後漢(25~220年。魏に滅ぼされた古代中国の王朝)の時代184年に起きた黄巾の乱の余波が九州地方(倭国)に及んだのでは?と。それ故、主要な国々が手を結んで、邪馬台国の卑弥呼を“倭国の王”に擁立することによって戦争を終結することができたのだと思います。その「政治的理由」が何かはわかりませんが、黄巾の乱が、王朝の政治腐敗に対する農民の反乱だったことを考慮すると、邑が国になり、国家が形成されていく段階だったのかもしれません。
そう考えると、九州地方で起こった大乱が徐々に東へ波及して起きた争いが、ヒコホホデミ(記紀ではそう言っているが、吉備あたりの軍だと思う)と長髄彦(ナガスネヒコ)の伝承として、物部氏に伝わっていたのではないか、と思えてきました。
私の中では、難波の白肩津から侵攻した者と、熊野を回って宇陀から磐余(桜井市)を侵略した者は別人です。宇陀、奈良盆地の東から侵入した武装集団は、西から来た人々ではなく、文字通り「東から」来たのだと思うのですが…