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before yamato 5

2016-04-27 | ancient history

2・3世紀のアジア

 日本史年表によれば、西暦239年に倭女王卑弥呼が帯方郡(古代中国に支配されていた朝鮮半島中西部の地域)に遣使を送り、魏国で親魏倭王に封じられたとあります。『日本書紀』巻第九・神功皇后の条にも『魏志倭人伝』の内容が記載されていますが、“邪馬台国”“卑弥呼”やその他の国の名前は書かれていないので、“倭の女王”がいかにも神功皇后であると思わせるような記述です。しかし、どう考えても神功皇后の時代と古代中国の史書『三国志』に登場した卑弥呼の時代は、100年くらい差があると思われます。3世紀の畿内(大和地方)の伝承が残っていなかったのでしょうか。そもそも「倭の女王」とか「邪馬台国」だとか「狗奴国」だとかとは、関係のない世界だったのではないでしょうか。
 「神武東征」として伝承される畿内への侵略者が、紀元前ではなく弥生代後期(西暦100年代中期以降)の出来事だと考えると、古代中国の複数の史書に記載されている“倭国大乱”(西暦146~189年)の時代と重なります。『魏志倭人伝』では、その後卑弥呼が王に擁立されて内紛は終結したとあります。『日本書紀』には、この“倭国大乱”が描かれていないのです。
 神武東征は、実のところ紀伊半島限定の争いに過ぎませんでした。2・3世紀のアジア地図↑を見ると、“倭国”が日本列島のどこまでなのか、明らかになっていないようです。“倭国大乱”はあくまで海外の国から見た内紛状態です。海外アジア諸国(特に古代中国)が知り得た日本列島の範囲は、どこまでだったのでしょうか。大陸に近い九州は、確実に“倭国”だったといえますが、大陸から遠い東の地に当たる紀伊半島は、当時“辺境の地”と思われていたのではないでしょうか。九州から遠く離れた奈良盆地は、九州地方の国々の戦争とは関係のない、紀伊半島内での争いをしていたのではないかと思います。統一国家でなかった日本列島の各地方で、国同士の衝突が多発した時代だと推測しました。
 そんな“大乱”の原因となったものは、何だったのでしょうか。
 弥生時代は稲作が発達する時代なので、弥生時代も後期になると、稲作用地を拡大するために土地を巡って争うようになった、と安直に考えていました。しかし、今は政治的な理由ではないかと思っています。後漢(25~220年。魏に滅ぼされた古代中国の王朝)の時代184年に起きた黄巾の乱の余波が九州地方(倭国)に及んだのでは?と。それ故、主要な国々が手を結んで、邪馬台国の卑弥呼を“倭国の王”に擁立することによって戦争を終結することができたのだと思います。その「政治的理由」が何かはわかりませんが、黄巾の乱が、王朝の政治腐敗に対する農民の反乱だったことを考慮すると、邑が国になり、国家が形成されていく段階だったのかもしれません。
 そう考えると、九州地方で起こった大乱が徐々に東へ波及して起きた争いが、ヒコホホデミ(記紀ではそう言っているが、吉備あたりの軍だと思う)と長髄彦(ナガスネヒコ)の伝承として、物部氏に伝わっていたのではないか、と思えてきました。
 私の中では、難波の白肩津から侵攻した者と、熊野を回って宇陀から磐余(桜井市)を侵略した者は別人です。宇陀、奈良盆地の東から侵入した武装集団は、西から来た人々ではなく、文字通り「東から」来たのだと思うのですが…
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before yamato 4

2016-04-19 | ancient history
弥生時代を知る上で、避けて通れない“邪馬台国”論争
まずは、『魏志倭人伝』とそれが書かれた背景を理解することに努めました

 日本側の史書には登場しない“邪馬台国”と“卑弥呼”。どこにあったのかも実在したのかも、考古学的証拠も出てこないことに関わりあうのは厄介なので避けていましたが、弥生時代後期(西暦1~2世紀)の古代日本の歴史を知るには、どうしても『魏志倭人伝』を読まなければならない、と思いました。そうすれば、ヤマタイ(邪馬台)国が何故“ヤマト”と結びつくのか、ヒントでも見つかることを期待して。
 しかし、中国史に興味ない人間が、魏志倭人伝が記述してある『三国志』を読むのは『日本書紀』を読むより難儀です。魏志倭人伝だけ読むというのは、記紀の「神武東征」だけ読むのと同じくらい意味のない事なので、どうしたものかと調べていると、中国古代史専門の方が『三国志』とそれを編纂した陳寿(チンジュ)という人物、書かれた当時の中国大陸の政治権力・宗教観など中国大陸側から「魏志倭人伝」を読み解いた本を見つけました。これを読んで、『三国志』は儒教の精神をベースに書かれていて、なぜ東の辺境の島国(=日本列島:倭国)の事を記述したのかが解りました。
 日本側は、畿内にヤマト政権が興る以前に女王国が存在し、魏(曹魏:220~265年の王朝)と交流があった部分に重きを置いて、それゆえ中国の歴史書に書かれたと錯覚しがちですが、実は『三国志』に日本の事を載せたのは、中国側の儒教精神に則った自国の威信を誇示する目的でしかなく、邪馬台国だの卑弥呼だのは重要ではなくて、東夷(古代中国の東にある異民族の総称)の国が朝貢してきたので豪華な品々を与えてやったという事が、自国の徳を高めることに繋がったから、『三国志』の『魏志』の最終巻・30巻め「烏丸 鮮卑 東夷伝」の中に「倭人」の条を設け、殊更たいそうな事のように記述したのだと解りました。倭国が実際の位置より南に大きいような記述がされているのも、倭国を利用して魏が自国と隣接する国を牽制するためだった、と考えられています。
 『日本書紀』がヤマト政権に有利なように書かれてあるように、『三国志』も同じことをしていたのです。そこには創作も混じっていますし、当時の常識や価値観、政治的な駆け引きも加わっています。それらを割り引いて、書かれていることの中から真偽を見つけ出していかなければなりません。魏志倭人伝については、邪馬台国と卑弥呼ばかりを追っていては、弥生時代後期の日本は見えてきません。邪馬台国も卑弥呼も実在したのは確かでしょう。しかし、邪馬台国が西暦3世紀半ば倭国を代表するような大国だったのかは、魏志倭人伝には書かれていません。
 それよりも、倭国というのは古代中国側が付けた国の呼び名であって、古代日本人は自分たちを「わじん」と言ってなかったはずで、卑弥呼は何故自分の国・邪馬台が倭国だと認識させてしまったのでしょうか。また、古代中国政権が、日本列島のどの地域を「倭国」として認識していたのかがはっきりしていません。日本には文字がなかったので、倭というのは中国側の当て字です。日本人が自分の国の事を「ワがクニ」とでも言ったのかも知れません。
 卑弥呼という名も、倭人伝の説明から推理して、「媛巫女:ヒメミコ」と言ったのを女王名と勘違いしたのかもしれません。それはちょっといくらなんでも…?。では、ヤマタイコクがどうやったらヤマトとなるのでしょうか。それは、邪馬台国が大和地方にあったとする為の策なのではないでしょうか?結果が決まっている物語(海幸山幸の伝説など)は、事実を曲げる恐れがあります。魏志倭人伝に書いてある邪馬台国までの里程の方角・南を東に変えるなど苦肉の策までして畿内説を唱えるのはやりすぎだと思います。
 倭人伝に従えば、邪馬台国は海の上になってしまいます。距離を縮めれば九州に収まりそうです。伊都国や不弥国、奴国が九州にあり、その他の国々の名に、出雲も吉備も出てこないのは不思議ですし、邪馬台国が九州にあったとする方が、合点がいきます。
 邪馬台国論争については、女王国の北にある国々(戸数・道里がわかる)以外の傍国の中に邪馬国という国名が出てくるのに、注視されないのは何故でしょうか。女王国が九州にあったとすれば、そこから遠く離れた国(=傍国)である邪馬国が、ヤマト政権樹立以前の奈良盆地の国名だと考えられないでしょうか。
 私は上記の本を読んで、『三国志』が書かれた時代の倭国は、九州地方と長門・石見・周防・安芸あたりまでで、邪馬台国は九州の中央から少し北の流通の便がよかった地域にあったのではないか、と思うようになりました。でも、本書の著者は畿内説に賛同しています。その理由がいまいち腑に落ちませんが、歴史学者の世界での(現在の)常識から外れたくなかったから?と勘ぐってしまいました。
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blossoms 2016

2016-04-01 | photo
cherry blossoms


hana peach
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桜の花もきれいですが、花桃も真っ盛り。紅や白…華やかです。
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