TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

gazing around

2013-02-28 | photo
ぼくはひとりぼっち?

だれかいませんか~

・・・


なんか声がする

         おーいおーい

カモさんたちか  あっちに可愛い娘がいるよ

どこどこ?


声かけてみなよ

あのぉ・・・

いっちゃったぁ

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radio lecture of Edo literature

2013-02-23 | Edo
2013年1月~3月ラジオ第2放送 
木曜 午後8:30-9:00 金曜再放送 午前10:00-10:30
カルチャーラジオ『文学の世界 江戸に花開いた「戯作」文学』
講師:早稲田大学院文学博士 棚橋正博氏

 今年1月からスタートしていて、テキストは昨年12月に発売されていましたが、つい最近友人に教えてもらうまで、全く知りませんでした。危ういところでした。テキストを入手する前に講座を聞いてみました。まさしく私がハマっている内容なので、30分はあっという間に感じましたが、ラジオなので当たり前なのですが、音声のみでは物足りない感が否めませんでした。映像というより、戯作者のペンネームの表記も愉しみの一つだからです。
 例えば、第7回は田沼意次の政治背景を視野に入れた「洒落本」についての講義でしたが、その中で「いなかのろうじんただのじじい、のペンネームで・・・」という所で私は思わず噴出してしまいました。こりゃ結構諧謔的なペンネーム、と苦笑しながら「田舎老人只之爺」?只ではヒネリがないな…なんて考えていたら、取り残されてしまいました。
 翌日テキストで確認すると、田舎老人多田爺でした。こんなペンネームから、当人が自身の事をどう捉えて(ほしがって)いるか想像をめぐらす愉しみ方もあります。
 講師の先生は、私が読んで学んだ本の執筆者のひとりで、地方在住の一般人が早稲田の大学院の先生の講義を受けに行ける訳もない中、ラジオで講義が受けれるなんて、私にとっては嬉しい限りです。
 残念ながら聞き逃した回は、いつかまとめて再放送されるのを願いつつ、まだ一九先輩が講座に登場する前に知って助かった、と友人に感謝したのであります。
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about the Katsuragawas 2

2013-02-13 | bookshelf
『名ごりの夢』今泉みね著 初版1963年 東洋文庫9

 代々、徳川将軍の奥医師(外科医)だった桂川家の7代め甫周の娘みねさんは、洋学者たちのサロンと化していた屋敷の中で、一風変わった青年たちに可愛がられた(あるいは、少女みねがちょっかい出した)楽しい想い出から語り始めます。
 彼女が6,7歳くらいの頃、鉄砲洲にある福沢諭吉邸に諭吉におんぶされ連れて行ってもらった事があったそうです。桂川家は現金はないけれども地位は高いので、本来ならみねさんは「おひい様」で外出は普通駕籠でなければいけなかったのを、諭吉がそっと連れ出してくれたんだそうです。世帯をもっていましたが当時はまだ著作など出版する前で、奥さんが子供を背負って台所に立っていた、ということです。
 みねさんは福沢諭吉について、他の書生と違って一番質素で真面目で面倒見がよかったと言っています。貧乏で、夜鷹そばを食べてお金がないことに気づいて、仕方なく襦袢を担保に置いて行くくらいなのに、懐はいつも本で膨らんでいたのが福沢らしい、と他の書生が感心していたそうです。
 幼い少女の印象ですから、福沢諭吉の人格はこの通りだったのだと思います。さすが偉人は若い頃から精進してらっしゃる…と思っていたら、当時の西洋学者、特に理系の学者さんたちは、様子が違っていたようです。桂川家に出入りしていた洋学者は、柳河春三(天才。日本人による新聞雑誌の祖。その他福沢諭吉に先立って西洋文化を日本に紹介。)、宇都宮三郎(化学技術者。日本の化学発展に貢献。)、神田孝平(西洋数学の先駆者)、石井謙道(緒方洪庵の門人、福沢諭吉と親交し丸善大阪支店出店を勧誘など。)、その他もろもろ…。
 その中でも、宇都宮三郎氏は抜きん出て可笑しな人だったようです。
 宇都宮三郎 1834年天保5年尾張藩士の三男として誕生。
 砲術の研究を通して学んだ、舎密(せいみ)学と言われていた学問に、初めて公式に「化学」という言葉を採用したり、明治政府に雇われて日本の化学技術の近代化を牽引したり、生命保険加入者第1号になったり、と多方面に活躍した宇都宮さん。そんな立派な人も、みねさんの父甫周の後を「なあ、とのさん。あのなあ、とのさん。」とついて回っていたそうです。
 ある時、町人の一揆が桂川邸に押し寄せてきたとき、宇都宮さんの発案で、竿の先にタワシのようなものを付けて、それを肥に浸して相手に向かって振り回しました。「桂川の武器は糞だ」と言って、勇み肌の連中も半ば笑いながら引き上げて行ったということです。
 また、何かで御白州へ呼ばれて、おならを我慢しながら尋問を受けていたので、尋問が終って役人に「下れ」と言われてくるりと後ろを向いた途端、「ぶー」とおならが出て、役人にウケた、という有名な話もあるそうです。そんな可笑しな事があると、甫周の処へ飛んできて「なあ、とのさん・・・」と面白そうに話すような子供っぽい人だったようです。
 柳河春三さんも神童・天才と言われながらも、自作の小唄で滑稽に踊ったりして人を笑わせる達人でした。「わたしは かさいのげんべぼり かっぱの倅でございます わたしにご馳走なさるなら お酒に きうりに 尻ご玉」と言って、カトちゃんペみたいな仕草をして皆の爆笑を買っていた姿が、みねさんの記憶に強く残ったそうです。
 この2人の共通点は、尾州(名古屋)出身ということ。神田孝平は美濃(岐阜県)出身ですし、適塾門下生もいたので、西洋学を志す優秀な人物は江戸へ流出していたことがわかりました。彼らの中には脱藩した者もいましたし、維新後もそのまま江戸に留まり故郷に帰りませんでした。それでもちょっと調べましたら、地元にはその貢献を記した案内板が設置してあり、知ってる人は知ってるんだなと感心しました。

 『名ごりの夢』はみねさんから見た幕末の雄志を懐いた男達の、近親者しか知りえない貴重なエピソード満載でとても面白かったです。後半からは、幕府が倒れ、幕臣だった桂川家のカルチャーショックや、みねさんの嫁ぎ先での出来事など、動乱の時期に旧幕臣の家族がどう変わったのか、変わらなければならなかったのか、という事が解るお話で、まさに「名ごりの夢」と感じました。
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about the Katsuragawas 1

2013-02-12 | bookshelf
平凡社 東洋文庫9 初版1963年
『名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて―今泉みね』

 何を調べてたのか忘れましたが、何かの関連で見つけたこの本に興味を抱いた理由は、江戸時代の奥医師・桂川甫周の娘が当時の様子を語った口述書だったからです。
 蘭医桂川甫周といえば、21歳の時杉田玄白に頼んで『解体新書』翻訳プロジェクトに参加した人で、彼の口利きのおかげで『解体新書』が世に出でることができた(甫周の父は将軍の侍医で法眼の地位だった為、父親→将軍に新書を見せて承諾を得た、ということです。詳細は吉村昭著『冬の鷹』)と言ってもいいくらい重要な人物でした。『解体新書』刊行から18年後、伊勢白子の漂流民・大黒屋光太夫と磯吉がロシアから送還されると、既に家督を継いで法眼になっていた甫周は、将軍より彼らの調査(尋問)を任されて『北槎聞略』を著したことでも知られています。井上靖著『おろしや国酔夢譚』にも彼が登場します。
 そして何より私の桂川家への関心は、この人の弟・桂川甫斎(甫粲ほさん)=森島中良(ちゅうりょう)=森羅万象・竹杖為軽(たけつえのすがる)という戯作者・狂歌師として蔦重らとつるんでいた人物から発していました。2年程前彼の著した『従夫以来記(それからいらいき)』という江戸時代のSF物を読んだことも起因しているでしょう。
 31歳頃の竹杖為軽(森島中良):北尾政演(山東京伝)画
 特に時代を動かした偉人ではありませんが、代々将軍の脈をとってきた最高位の外科医の家・桂川家を内側から知ることができる、と思ってページをめくりました。
 この本の著者・今泉みねは甫周の一人娘(姉は早死)で、80歳を過ぎてから息子に乞われて、雑誌に載せるため昔話を口述しました。1935年(昭和10年)のことです。ん?どう考えても時代が合いません。本の最後の方に載っている簡略ファミリーツリーを先に見ておくべきでした。桂川は屋号みたいなもので、みねさんの父は7代め甫周。森島中良の兄甫周は4代めで、7代めの曽祖父でした。
 みねさんは幕末1855年、江戸大地震があって藤田東湖が圧死した年に生れました。山東京伝の弟京山が存命(87歳)、歌川国芳(59歳)が亡くなる6年前。そんな時代に、彼女は19歳で今泉利春と結婚するまで桂川家の人々と生活していました。幕府方の蘭学医師ではありましたが、桂川家は代々開かれた家風だったそうで、青年時代の幕末の偉人たちが出入りする中で、みねさんは少女時代を過ごしたのでした。
 明治維新までの彼女の記憶には、そういった男達の子供にだけ見せる無防備な素顔が鮮明に残り、また、伝え聞いた桂川家に纏わる、泰平な江戸のエピソードもありました。
 四代め甫周は、顔かたちがきれいで性格もおとなしく、上下から好かれた人だそうで、みねさんの父甫周は四代めに生き写しだったそうです。その父にも弟がいて、甫策といい、耳が遠かったらしいのですが、化学に精通していて兄のズーフハルマ編纂事業を手伝っていたそうです。浄瑠璃や芝居など大衆芸能が好きなちょっと変わった人だったそうです。そこからみねさんは古くから桂川家に奉公している女に聞いた話を思い出します。
 桂川家には代々、主人の弟に学者肌の人がいるということで、その中に、一生兄の元で暮らした変人がいました。汚れた着物を着て、虱が背中を這っていないと落ち着かない人で、ある時風呂に入っている間に着物を綺麗なものと取り替えられ、風呂から上がって着ると、虱を一匹だけでも残しておいてくれと頼んだというのです。そしてその人のところに、十返舎一九が色々相談しに来ていたそうです。身分があるので名前を出すことはせず、一九に教えて書かせたそうです。一九の本の中に「築地の桂川さまへ行って診ておもらい」という一節がある、と書いてありました。
 どこまで真実かどうか知れませんが、その人物は明らかに森島中良です。森島中良は松平定信の出版取締り以降、定信の家臣に取り立てられ、著作活動から身を引かざるを得なくなったことは事実です。『江戸の本屋さん』という本に、中良は結婚もせず兄を手伝ったと記述してありますが、実際は、奥さんも子供もいて、晩年はまた戯作者として活躍していたそうです。一九は膝栗毛にしても他の本にしても、誰か助けてくれる人がいたことを序や跋で匂わせていますから、中良に相談していたのも頷けます。
 
 
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about dm's “heaven” film

2013-02-02 | music
from DepecheMode new single “heaven" video

 デペッシュモードの新シングルHeavenの映像に、ブラザーズクエイ風のオブジェみたいなカットが出てきます。
see youtube →HEAVEN
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