TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

a trip to Nara ―museums & ruins 3

2015-05-31 | trip
水落遺跡から見た甘樫丘(あまかしのおか)の一部

 飛鳥時代(600年代)権力を握っていた蘇我馬子の息子と孫、蝦夷と入鹿親子が邸宅を建てていたという甘樫丘へは、あすか夢の楽市の駐車場から徒歩で、飛鳥川を渡ったらすぐ着きます。
  
 駐輪場の脇に、北登り口があります。こちらは、利用する人がいないのか、人気もなくちょっと怖い感じがしました。下調べでは、ここからのルートが展望台への最短距離だったので、登り始めましたが、先を見てひるみました。
   
ほぼ真っ直ぐに昇る急な階段は、体力に自信のない人にはお勧めできません。途中一か所だけ休める場所がありましたが、草花や蝶々で気を紛らわせながら登って行くと、5分くらいで頂上に着きました。甘樫丘北側一帯が見渡せて、とても気持ちがよかったです。大和三山のうち、右に天香久山、遠くに耳成山が見えました。反対からは、明日香村の家並みが見えます。
   
 甘樫丘の横を走って、亀石の近くの交差点を左折し県道155号を東へ進むと、右手に橘寺が見えてきます。駐車場はお寺の門の前にありました。駐車場は無料ですが、拝観は有料です。このお寺は、厩戸皇子が生まれた地に建立されたもので、本物の二面石があります。レプリカ二面石を飛鳥資料館で見たので、今回はパスしました。お寺から県道155号を見たら、とても開けた場所がありました。なんだか牧場?と思いましたが、実は河原寺跡地でした。
 車に戻って155号を石舞台古墳方面へ向かいます。
  
石舞台古墳の有料駐車場の前を過ぎ、祝戸方面の道へ入るとぐっと道が細くなり、右手に祝戸荘の看板がありました。宿泊者は車で入れます。途中に「マラ石」「稲淵宮殿跡」があります。宮殿跡からは先は、林道みたいな山道で、登り切った所に祝戸荘がありました。
  
 祝戸荘(いわいどそう)は研修施設ですが、観光客も宿泊できます。部屋はロッジ風に独立していて、飛鳥時代の歴史上の人物名が付けられています。広くはありませんが大浴場もあるのでゆったり汗を流せます
 ここに宿泊したのは、蘇我馬子の気持ちに近づいてみたかったのと、古代食を再現した料理を食べたかったからでした。古代のチーズ蘇(そ)を食べてみたかったのですが、お土産用はとても高価ですし、口に合わなかったら勿体ないし…と思っていたところに宿のHPを見て決めました。
 画像の中の「飛鳥」の文字の上にある高野豆腐みたいなのが蘇です。白いのは、にごり酒。赤米を炊き込んだご飯(お赤飯の原型)に、メインはアマゴの塩焼き。写真には写ってませんが、黒米を練りこんだうどんもありました。最初に食べたのは、やはり蘇。発酵食品なので、ちょっと臭味があって塩辛いのかと思いきや、匂いはなく甘い。ほろってして口の中で溶けました。献立表を見ると、「果子(かし)」デザートの類いでした
 写真で見たときは、量が少ないと思っていましたが、赤米はお替り自由なので要らぬ心配。味付けも全て美味しくて、満腹になりました。食器も、弥生時代の須恵器っぽくて、飛鳥時代の宮廷貴族の気分を味わえます。ランチタイムには、食事だけもできるようです(要予約)。
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a trip to Nara ―museums & ruins 2

2015-05-30 | trip
高松塚古墳の壁画を参考に再現した、飛鳥時代の衣装
明日香村埋蔵文化財展示室

 飛鳥資料館前の県道124号を西へ向かうと、雷丘(いかづちのおか)交差点に出ます。左折して少し行くと左手に「あすか夢の楽市」という小さな産直市場があります。広い無料駐車場があり、明日香村埋蔵文化財展示室はお店に隣接して建っていました。
   
展示の仕方も子供向けな、手作り感のある地元の小さな博物館といった感じがしましたが、今、同時代史料として重要視されている木簡が展示してありました。近くに日本書紀の写本もありました。『日本書紀』も『古事記』もオリジナルは残っておらず、最古の写本でも「綴じ本」です。文字の普及が天武天皇の時代(600年代後半)以降で、まだ紙は当時相当な貴重品だった頃、700年代初期に完成した記紀が和綴じ本ではなく、巻物だったのでしょう。
 木簡の中で一番多いのが荷札木簡ですが、役人が書類として使っていた戸籍や万葉歌を綴った木簡もありました。とても薄い木簡もあったので、紙に似せて薄くスライスしたのかと思っていたら、不要になった文面(あるいは絵)を消すのに、表面を薄く削った削りカスなのだそうです。
   
左画像奥に文化財展示室と夢の楽市。右画像は水落遺跡にいたカエル

駐車場を挟んだ南側に、若かりし中大兄皇子(天智天皇)が造ったとされる漏刻(水時計のこと)の遺跡、水落遺跡があります。飛鳥資料館に漏刻の構造が細かに説明してありましたが、よくわかりませんでした
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a trip to Nara ―museums & ruins 1

2015-05-29 | trip
桜井市立埋蔵文化財センター
纏向遺跡など桜井市の発掘遺物を展示しています

 古墳や遺跡の実地見分には、発掘された埋蔵文化財を見ることが欠かせません。古墳や遺跡は、木々生い茂る丘やだだっ広い平地に礎石や柱の後が残っているだけで、お宝は資料館にあるからです。
 纏向遺跡や箸墓古墳から桜井市役所方面へ南下した国道169号線沿いに、桜井市立埋蔵文化財センターがあります。月火が休館で入場料200円、無料駐車場有りです。
   
展示スペースは小さいながらも、展示物が凄い!勾玉やガラスのネックレスなどは思わず見惚れるほどでした。また、それら宝飾品を作る鋳型も展示してあり、古代の職人気質を窺い知ることができました。
  
 センターを出て、国道169号線(大和古道の上ツ道)を更に南下すると県道15号線になります。この道路は、安倍文殊院と廃寺になった山田寺を結ぶので阿部山田道と呼ばれていますが、地図でみると「ノ」字状にカーブしていて、古代の幹線道路・磐余道(いわれのみち)の形が残っています。ちょっと道が細くなり田舎を走るので、飛鳥の都へ入って行く感覚が強まりました。
   
 明日香村に入ってしばらくすると開けた道路になり、右手に国立飛鳥資料館が見えてきます。10台弱置ける無料駐車場があり、石造物のレプリカが点在する広い庭は出入り自由、入館料は270円(65歳以上無料)です。
  
飛鳥の謎の石造物が一度に見られ、しかも当時の様子が復元されています。須弥山石も石人像も噴水だったとは
  
 また、万葉文化館の近くにある酒船石とは別の、酒船石の復元レプリカもあって、お庭だけでも楽しめます。
   
 
 館内で目を引くのは、飛鳥寺近くで発見された水落遺跡の模型。また、厩戸皇子(聖徳太子)生誕地に建立された橘寺の敷地内にある二面石のレプリカ。キトラ古墳の壁画のレプリカ。山田寺から発掘された遺物など。特別展(通常入館料で見れます)も定期的に開催されていて、会期中は無休です。飛鳥の仏教美術にふれることができました。
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a trip to Nara ―tumuli 6 final

2015-05-28 | trip
奈良といえば、せんとくん。顔がデカい

 田道間守(たじまもり)のお墓がある垂仁天皇陵へは、唐招提寺方面からアプローチ出来なかったため、近鉄橿原線尼ヶ辻駅前の細い道路を走りました。既に奈良市に入っていますが、平城宮(京ではありません)を東に控えているせいか、都会という感じはしませんでした。しかし、大和西大寺駅の近くになると、さすがに現代に戻って来たなと実感しました。なんだが混雑した道路を北上し、超細い道を進むと、神功皇后陵こと五社神古墳の脇道に出ます。
 佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群の1つで、巨大前方後円墳です。『古事記』には息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)の名で登場する女傑のお墓、是非見てみたいもののひとつでした。
  
駐車スペースがないので、ちゃっと行って写真だけ撮りました。
 この古墳の南に、成務天皇陵と垂仁天皇皇后(日葉酢媛ひはすひめ)陵が並んでおり、そこにちょっと食い込むように孝謙天皇(=称徳天皇)陵が横向きに配置されています。それぞれの御陵は、定かではありませんが(神功皇后は架空の人物の可能性大)いづれも初期ヤマト政権の王墓の可能性が高く、5世紀半ば頃までの古墳だそうです。
この200m級の前方後円墳を含む古墳群のある地域は、古墳だけではなく人家や神社も立て込んでいて、よそ者が車で入っていけるような道ではありませんでした。それで、成務天皇陵と日葉酢媛御陵は諦めました。
 この様子では、残りの小奈辺・宇和奈辺古墳は車でのアプローチは無理だろうと思い、諦めることにしました。しかし、翌日訪れた平城宮跡資料館のガイドさんにその話をしてみたところ、小奈辺古墳は車でぐるりと回れる道がある、と教えていただきました。
 コナベ古墳は、明治時代、造幣局技師ウィリアム・ゴーランドというイギリス人によって実測されて海外に紹介された有名な古墳だそうで、勧められるままに行ってみました。ウワナベ古墳との間にある航空自衛隊基地の正門前から左折して、心許ない細い道を走ります。途中、車を止めるスペースがありましたが、写真を撮っても仕方がないと思ったので、造り出しなど確認しながら徐行して一周しました。巨大古墳は、空から見ないと全貌がつかめませんね。
 平城宮跡資料館内で、平城京が造られる前からあった古墳、例えば垂仁天皇陵はどうしていたのでしょうか、などと話していた時に、垂仁天皇陵は江戸時代に形が変えられていて、田道間守のお墓は元々周濠の中にはなかったものを、濠を掘って今のような形にした、という事を教えられました。ああ、じゃああれは、別人の陪塚かもしれません。
 江戸時代に形が変えられた古墳は、結構あるみたいです。江戸時代、水戸黄門が古墳の発掘調査したという話をテレビで見たことがあります。戦国時代には、古墳に陣場を造ったり削ったりしていたみたいですが、江戸時代に入ると「神武天皇陵を見つけようプロジェクト」みたいな事があって、治定した場所(古墳や塚)を御陵として整備したそうです。ですから、現在の神武天皇陵が王墓かどうかは、疑わしいとされています。
 しかし、天武持統天皇陵のように、昔の調査が役に立っている例もあります。
 
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a trip to Nara ―tumuli 5

2015-05-24 | trip
装飾古墳で有名なキトラ古墳の模型
飛鳥資料館展示

 高松塚古墳と並んで装飾壁画で有名なキトラ古墳は、現在公園整備中で見学できないようでした。高松塚古墳の壁画もそうですが、どのみち本物を見ることは不可能で、明日香村の奈良資料館や埋蔵文化財展示室などにレプリカや写真などが展示されており、至近距離で見られるようになっています。
 奈良資料館展示品レプリカ クリックで拡大します
 橿原市を出て国道24号線を北上していくと、右手に面白い屋根の建物が見えます。その一体は、田原本町の唐古と鍵という地区で発掘された、弥生時代の環濠集落遺跡が広がっていて、建物は、発掘された絵画土器の楼閣を復元イメージして建てられたものでした。

唐古・鍵遺跡から出土した土器破片
国道沿いに無料駐車場が完備された公園になっていましたが、時間に余裕がなかったため車窓から見ただけになりました。国道をひた走り、薬師寺・唐招提寺へ向かいますが、目的はお寺ではなく垂仁天皇陵。
 
 第11代垂仁天皇はヤマトタケルのお祖父さんに当たる人物ですが、私が御陵に惹かれたのは、周濠の中にぽつんとある古墳の主の逸話でした。『古事記』の中に、
天皇は、多遅摩毛理(たじまもり)という名の者を常世の国に遣わして、季節のない香りのよい木の実を求めさせた。多遅摩毛理は、やっとその国に着いて、その木の実を取って、葉のついているのを八本、葉のないのを八本、持って帰って来たのに、天皇はすでに亡くなっておられた。(中略) 多遅摩毛理は、その木の実を手に捧げて、「常世の国の季節のない香りのよい木の実を、いま持ち帰って来たのでございます」と言って泣き叫んで、ついには死んでしまった。―という話が載っています。『日本書紀』では、田道間守(たじまもり)という表記で、
(前略)田道間守は泣きなげいていった。「命をうけたまわって遠く遥かな国に行き、万里の浪を越えて帰ってきました。この常世国は、神仙の秘密の国で、俗人の行ける所ではありません。そのため行ってくるのに十年も経ちました。本土に再び戻れるとは思いもかけなかったことです。しかし聖帝の神霊の加護により、やっと帰ることができました。今、天皇がすでになく、復命することもできません。手前は生きていても何のためになりましょうか」と。
天皇の陵にお参りし、泣き叫んで死んだ。群臣はこれを聞いて皆、泣いた。

と、『古事記』よりも感動的な物語になっています。
 その田道間守の墓が、垂仁天皇陵の周濠の中にある小さな島だというのです。「田道間守」という唱歌もあるようです。また、持ち帰った果実は「橘」ですが、現代ではお菓子の神様として祀られているみたいです。
 可哀想な忠臣・田道間守…でも天皇のおそばで眠れてよかったですね。と思っていましたが、その後平城京資料館で聞いた説明に、愕然となってしまうのでした。
 
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a trip to Nara ―tumuli 4 (+stone structures)

2015-05-22 | trip
初代天皇 神日本磐余彦天皇 かむやまといわれびこのすめらみこと(実名:彦火火出見 ひこほほでみ)
神武天皇陵の遥拝所

 もと来た道を戻って、天武持統天皇陵の駐車場から県道209号を数分走ると、高松塚古墳公園の無料駐車場が左側にありました。午前10時近くでほぼ満車。反対車線の駐車場は観光バスが何台か止まっていました。
  
 高松塚古墳といえば、石槨の彩色壁画で有名です。数年前、現状保存していた壁画の劣化が激しい事が判明して問題になったのも記憶に新しいです。現在は、古墳もすっかり綺麗に成形され、小山一帯が整備された公園になっていて、遠足の小学生や中学生の団体で賑わっていました。公園入口に園内地図看板が立っているのですが、近くまで行くとどっちの道を行くのか分からなくなってしまいました。向かってくる小学生に聞いても、同じように「わからない」と言われる始末。何とかたどり着いた古墳から、壁画館へ行くにも、案内表示がないので大人の観光客に尋ねるも逆に聞かれてしまうはめに。結局、古墳正面からすぐの目立たない場所にありました。
  
250円払い入館しましたが、展示室は一つで壁画の再現模写や石槨レプリカや、盗掘から免れた少ない副葬品のレプリカが薄暗い中に展示されているだけで、やや物足りなさを感じました。帰りは、芝生広場を突っ切って、駐車場まで時間短縮。 再び県道209号を飛鳥駅方面へ向かい、駅前交差点を右折して国道169号へ出ます。北上してすぐの信号を右折して細い道へ入って、途中左折して直進すると突き当りに欽明天皇陵があります。
   
 その即位からして謎の多い第26代継体天皇。その嫡子・欽明天皇(聖徳太子こと厩戸皇子のおじいさん)の御陵は、平地にありました。ヤマト政権の中心地・飛鳥のお膝元、明日香村で唯一の前方後円墳というのも意外でした。
欽明天皇陵の駐車場の手前(一番右の画像の右側)に吉備姫王墓があります。
  
 2人の天皇の生母だそうですが、ここを訪れたのは、このお墓の敷地内にある謎の石造物を見るためでした。見た目から「猿石」と呼ばれている奇妙な人型石造は、お墓の柵の中に置いてありました。元々は、欽明天皇陵の近くの水田に埋まっていたものを、江戸時代に掘り出して安置したそうです。確かに猿に見えるのが1体ありますが、他はしゃがんだ人物に見えます。しかも2体はわざと陰部を見せているような格好です。いつ誰が何のために、このような物を造ったのでしょうか。そして、埋めてしまったのでしょう。飛鳥の謎の石造物…もっと解明されてほしいです。
 国道169号に戻って、橿原神宮方面へ向かいます。橿原神宮自体は、1890年明治23年に明治天皇によって創建された新しい神社なのでパス。隣接する初代天皇・神武天皇陵を訪ねました。駐車場から玉砂利を踏みしめて行くと、広い遥拝所の正面に大きな鳥居が見えました。実在するか定かでない天皇―『日本書紀』だと神武天皇即位は西暦紀元前660年(縄文時代後期)―の御陵とされる古墳ですが、とても巨大で威圧感がありました。
 弥生時代にもなっていない時代に、古墳が造られたはずないので、この古墳が神武天皇陵ではないのは明らかだと思います。では、本当は誰のお墓なのでしょうか。日本の歴史の真実を知るためには、天皇陵の学術的発掘調査が必要だと、しみじみ感じました。
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a trip to Nara ―tumuli 3 (+stone structures)

2015-05-19 | trip
石舞台古墳公園休憩所にいた亀石そっくりな猫

 4つある国営飛鳥歴史公園のひとつ祝戸地区には、不思議な石造物があります。マラ石というもので、巨大な男根を模った石造物が山里の一画にぽつんと立っているのです。近くに古代の天皇の宮(宮殿)の遺跡もあるので、子宝や豊穣を祈って建造されたのかもしれません。調べてみると、昔は垂直に立っていたそうで。画像をクリックすると拡大します
   
 石舞台古墳の前の道路を高松塚古墳方面へ向かいました。途中左折する交差点のコンビニの駐車場に車を止めて、信号を渡って人道に入ると、摩訶不思議な石造物「亀石」があります。亀石前の道は車は入れません。亀石の西隣に農家さんの直売所がありましたが、辺りは長閑な畑。同行した父が「韓国にも亀石があった」と言いました。後日調べてみたら、韓国の亀石はちゃんと亀の形に加工した彫像で、自然の形を活かした明日香の亀石と全く違うものでした。
 『古事記』か『日本書紀』に、縁起の良い珍しい物が見つかると天皇に奉って事象の予兆にしていたような事が幾度が書かれていたのを思い出しました。縁起の良い珍物がタイミングよく見つかるはずはなく、作り物も多かったようです。この亀石も顔は人の手によるものですが、自然の石の形を残している所をみると、為政者が政策を発令するときに利用したモノだったのでは?と、妄想してしまいました。
   
 車に戻って県道209号を飛鳥駅方面へ走っていくと、数分で野口王墓古墳(天武天皇 檜隈大内陵ひのくまのおおうちのみささぎ)の駐車場へ到着しました。結構急な階段を昇ると、こんもりと丸い雑木林の前に遥拝所が見えました。丸く見えますが、発掘調査の結果、八角形をしているのだそうです。さらに、被葬者の特定もされていて、672年壬申の乱で大友皇子を破った大海人皇子(天武天皇)とその妻・持統天皇(天皇初の火葬)の合葬墓です。『古事記』『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇。記紀の謎を解く鍵を握っている彼に、今一番関心を惹かれるところですが、先に進みます。
  
 遥拝所の左手に小路があり、古墳の脇を歩けるようになっています。5分ほど歩くと、右手の山に階段が見えます。階段を上がった所に、鬼の俎があります。
  
 これは崩壊した石室の底の部分で、上部の一部が下に転がって、鬼の雪隠と呼ばれています。江戸時代の書物にも描かれた名所ですが、弥次さん喜多さんは奈良に立ち寄っていないので、十返舎一九先輩は行ってないんだと思います。好きそうな場所なんだけれども。
   
 小路を更に進むと左手に鬼の雪隠が見えてきます。結構離れた所に鎮座していましたが、いったい誰のお墓だったのでしょう。石舞台と同じように墳丘が取り払われて石室が露わになり、バラバラにされてしまうなんて。天武・持統天皇時代(600年代後期)に悪者扱いされていた皇族・貴族・大豪族の人物?
 古都飛鳥保存財団のサイトには「欽明天皇(571年崩御)陵の陪塚のひとつ」と説明されていましたが、現地の説明板「7世紀後半」と1世紀程の違いがあります。「藤原京の聖なるライン」から少しズレますが、7世紀後半(天武・持統天皇時代)この地点に単なる従者の墓を造るでしょうか…とここでも妄想独り歩きでした。
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a trip to Nara ―tumuli 2

2015-05-17 | trip
西から見た石舞台古墳

 箸墓古墳から国道169号を南下、阿部交差点を直進して県道15号を道なりに走って、明日香村へ入りました。
 古墳時代(西暦200年中期~600年末の間)、この奈良盆地の飛鳥の地で、古代中国から「倭国」と呼ばれていた八嶋の国々を、「やまと」という民俗的アイデンティティを拠り所にして国際社会(といっても中国大陸・朝鮮半島あたり)に認められる「国家」としての体制を作り始めた蘇我馬子や厩戸皇子(うまやどのみこ)が政(まつりごと)をしていました。その馬子の墓だと言われている石舞台古墳へ向かいました。
  
 4つある国営飛鳥歴史公園はそれぞれ無料駐車場を完備しています。そのひとつである石舞台にも入口近くに駐車場があり、駐車台数が少ないため駐車できるか不安でしたが、幸運にも空きがありました!駐車場側に公園の休憩所兼売店がありました。石舞台の入口は道路を挟んだ反対側にあり、入場料250円。芝生広場のような所の真ん中に、写真で見たことのある石舞台が見えました。
   
 入口から古墳側へ階段を渡り、石の反対側に回ると内部に入れるようになっていました。内部は、男性の身長の2倍より高い天井で、かなり大きな玄室です。正面側から周濠を渡ると、古い説明板がありました。そして、近くに石室のレプリカがひっそりと置いてありました。
  
 石舞台古墳が蘇我馬子の墓だと言われる理由は、この周辺が「島庄(しまのしょう)」という地区で、『日本書紀』の推古天皇の章に「飛鳥川の辺りに家を居した。その庭の中に小さな池を掘り、池の中に小さな嶋を築いた。それで時の人は嶋大臣(しまのおおおみ)といった。」と記載されているのと、近年の発掘調査で馬子の邸宅と人工池・勾(まがり)の池の跡が発見され、その位置関係から馬子邸宅説の裏付けが強固になったからです。2014年には、石舞台古墳の南側の山斜面にある都塚古墳が、ピラミッド形大型方墳だったという発表があり、馬子の父・蘇我稲目の墓の可能性が濃くなりました。
 石舞台から飛鳥川までは少し距離があるので、馬子邸の敷地は、現在有料駐車場やお土産店のある一帯以上の広さだと推測されています。日本史中では悪者扱いされている馬子ですが、先入観を捨てて『日本書紀』を読んでみたら、そんなに悪者だとは感じませんでした。むしろ敏腕大臣の姿がイメージされて、飛鳥に来たのも、蘇我氏の本拠地を直に見てみたかったというのが強い希望でした。都塚古墳は公開された後すぐ埋め戻されて、今は段々畑の中にある塚になっています。宿へ向かう道路から、ツツジの花が咲いている都塚古墳の姿が見えました。宿は、国営公園内にある祝戸荘(いわいどそう)。
蘇我馬子と厩戸皇子、推古天皇が夢にでてこないかなぁ。
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a trip to Nara ―tumuli 1

2015-05-14 | trip
天皇陵の遥拝所

 当初は、金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)を見に、埼玉古墳群(さきたま風土記の丘)へ行きたいと思っていました。しかし、『古事記』や『日本書紀』の謎に迫るには、やはりこれらの書物が作られた場所へ行ってみるのが先決だと思い直し、ヤマト政権の中心地・奈良県を訪れてみました。
 本当は徒歩あるいはレンタサイクルなどで巡ってみるのが最適なのでしょうが、時間が限られているのと同行者が体力的に無理なので、自家用車での旅行となりました。車でのルートは、天理から国道169号を南下して明日香村へ入り、橿原市経由で国道24号を北上、奈良市の佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群まで。車の旅行は駐車場がネックになりますが、佐紀以外は駐車スペースがありました。
←クリックすると拡大します
 ↑地図の方角は、左が北(天理IC方面)で、赤が国道169号。桜井市方面へ向かいました。まずは、黒塚古墳。ここは古墳展示館が作られていて、古墳の遺構が自由に見学できるようになっています。が、ちょうど休館日に当たってしまったので仕方なくパス。そこからすぐの柳本交差点の左手に、行燈山古墳(崇神天皇陵)の駐車場があります。
  
10台ほど置ける駐車場の奥に古墳。階段を上ると遥拝(ようはい)所があり、柵がしてあって中に入れません。
尤も周囲には水をたたえた周濠があるため、近寄ることは無理です。
 駐車場の隣りにも大きな前方後円墳がありました。それは崇神天皇の陪塚(ばいちょう)で、名もない古墳にもかかわらず、地方の古墳に比べたらとても大きいです。第10代天皇(とされる)崇神天皇の陵墓と比定されている行燈山古墳(考古学名)は、全長242mもあります。
 行燈山古墳から車で1~2分で渋谷向山古墳(第12代景行天皇陵)に着きました。駐車スペースも結構ありましたが、陵墓まで田んぼの畦道を歩きました。陵墓正面、パチンコ店の向かい側に駐車場がありましたが、表示がないので解りづらいです。
  
景行天皇はヤマトタケルの父親なので、見てみたかった古墳の一つでしたが、周濠のある前方後円墳は、現在画一化されているのでどれを見ても同じに見えます。大きさは、崇神天皇陵を上回る全長300m。この辺りは柳本古墳群といって、3世紀後半から4世紀末(古墳時代前期~中期)に造られた古墳だそうです。
 更に車で走る事数分。「巻向(まきむく)」の表示が…ここがあの纏向遺跡(まきむくいせき)のある所…そして「箸中(はしなか)」と書かれた交差点を越えるとすぐ左手に池が見えます。その横に卑弥呼の墓と推測されている箸墓古墳(はしはかこふん)があります。道路反対側にある三輪そうめんのお店へ昼食を兼ねて駐車させてもらいました。そこから箸墓古墳までの近道は、花木センターの駐車場の奥から池の堤へ出ると、トレイル用の小路がついているので少し歩きます。
  
 箸墓古墳は、第7代孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)のお墓と言われています。それがなぜ卑弥呼と繋がるのかというと、古墳が造られた年代が卑弥呼が死んだとされる3世紀前半と重なるという事と、百襲姫が巫女的女性だったことから、彼女を卑弥呼とする説が出たのだそうです。しかし、天皇陵は学術的発掘を禁じているため、卑弥呼と関係あるのかどうかは憶測の範囲をでることはありません。天皇陵とされている古墳の調査がしっかりできれば、卑弥呼の謎も、日本の古代史も、明確になるに違いありません。
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