TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

skeletons' day off

2010-09-28 | art
 このまえの週末は、運動会だった学校が多かったみたいで、学校を取り囲む道路には父兄の車がびっしり駐車されていました。天気も良くてみんな楽しそう。休日はみんな楽しいよね。ほれ、骸骨くんたちも遊んでます。
          
                 河鍋暁斎画「骸骨の休日」

 幕末から明治時代の画家、河鍋暁斎(かわなべ きょうさい1831-1889年)の『骸骨図』シリーズ。他に茶の湯や活け花に興ずる姿などを骸骨に見立てた絵があります。この画家の手にかかると不気味な骸骨も恐怖感がなく身近な感じがしてきます。
 暁斎自身の風貌の方が骸骨図より不気味で生理的に引きますが、このシリーズの画は好きです。

 喜多川歌麿や恋川春町などが師事した浮世絵師・鳥山石燕(とりやませきえん1712-1788年 本名:佐野豊房。代表作「図画百鬼夜行」)の全画集の文庫本版を入手しましたが、こちらは妖怪専門で、その中でのお気に入りは「百器徒然袋」の創作妖怪で、いろんな瀬戸物が合体してできた瀬戸大将やボロ蒲団の暮露々々団(ぼろぼろとん)など愛嬌あってよいです。
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a cruel illustration

2010-09-23 | art
               
               歌川豊国画、山東京伝作「昔話稲妻表紙」


 京伝のこの読本の最後の方は復讐劇で、斬首滅多斬り血まみれ図が多いのですが、この画は1ページを使っていて、残酷なのに愛らしさを感じさせる不思議な絵。


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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅶ-final

2010-09-19 | bookshelf
***山東京伝7-完結編***

 京伝の煙草入れ店創業は、町人本来の生業を持つという考えを実行したものでした。しかし、元々金勘定に長けている性質ではないので経営は専ら父親に任せ、京伝は煙草に使う小物類の意匠を手懸けていました。それでも人気作家の店であり、刊行する草双紙にも広告を掲載したのでお店は繁盛しました。
 筆禍事件でショックを受けた京伝は、戯作をやめようとしましたが、蔦重など版元の必死の頼みにより、洒落本は筆を折りましたが戯作は続けました。
 1794年蔦重は10ヶ月に渡り東洲斎写楽(本名・詳伝不明)の浮世絵シリーズを刊行しました。が、この企画は尻すぼみで終わってしまい、この頃耕書堂は尾張(名古屋)の有力版元・*永楽屋東四郎と提携し、蔦屋板の書籍流通の関西方面への拡大を図っていました。私の個人的憶測として、写楽企画の失敗による経営利益損失の補填の意味もあったんではないかと思います。寛政の改革以降、戯作者が急激にいなくなり蔦重は苦肉の策で『身体開帳略縁起(しんたいかいちょうりゃくえんぎ)』(1797年刊行)など数作を蔦唐丸名義で出版したほどでした。彼は1797年5月に47歳で亡くなるので、これが遺作となりますね。名古屋の永楽屋東四郎は江戸日本橋支店を持ち、後に蔦屋の版木がそちらに売却されたりしましたが、二代目蔦屋吉蔵からは京伝の読本・合巻(出版規制により黄表紙が一般的な題材を扱うようになって生まれた大衆向け小説)が出版され続けました。
 作家が出版社から執筆をせっつかれ筆が進まず悩むのは今も昔も同じ事。京伝はそんな自分自身を主人公にした作品も書いてます。『作者胎内十月図(さくしゃたいないとつきのず)』(1804年文化元年 鶴屋喜右衛門刊)は、京伝が作品を書き終えるまでを妊婦が出産するまでの過程に見立てた物語です。
     さりげない掛け軸の画のデザインがセンス良い
     京伝直筆草稿
京伝は地蔵尊に祈願して「作の種」を宿してもらう。月毎に腹は大きくなり遂に産月になると医師が京伝に「案前案後 実虚散」(産婦に与える「産前産後 実母散」のもじり)を処方する。
     
この薬の成分は、教訓・面皮(つらのかわ)・趣向・工夫・案思(あんじ)・地口・故事附・小文才・智恵・画意(えごころ)・気根・横好で、それを硯の水一杯半入れて器量一杯にこじつけ小雅(しょうが:生姜のもじり)ひとへぎを加えて飲む、とある。そして京伝は元気な上・中・下の三つ子を無事出産したのだった。
     
     京伝店で発売している読書丸という薬の宣伝もしてある
 現実の京伝は店を開店した年に妻を亡くし、再婚した妻の妹を養子にしますが先立たれ、子宝には恵まれませんでした。

 晩年の京伝は馬琴と共に新ジャンルのパイオニア的役割も担いますが、江戸時代初期の古画や古物などの考証活動に力を入れ随筆も残しました。考証同好会にも出席しますが、同行の人には嘗ての狂歌仲間の顔もあったので、その影響もあったのかもしれません。
 若かりし頃の吉原で身分の差を越えて狂歌や浮世絵、戯作などを作って酒を飲みながら皆で愉しんでいた時代―政権によって解体されたコミュニティ。
 時は流れ、年老いてから共に老いた嘗ての仲間と再び同じ趣向に興じる京伝たちの姿と、それを見守る喜三二や春町や蔦重の亡霊を妄想すると、私は満ち足りた気持ちになり目頭が熱くなります。
 森鷗外が少年時代親しんだ草双紙は読本や合巻なのでしょうが、私は『昔話稲妻表紙(むかしばなしいなづまびやうし)』(京伝作、歌川豊国画1806年刊行)を斜め読みしましたが、黄表紙ほどのめり込めませんでした。その理由は画にあります。鳥山石燕発祥(?)の人を食ったような見立て絵(だまし絵好きは垂涎)。馬琴や柳亭種彦らが大衆向け伝奇小説を確立する一方、1802年我が一九先輩がおちゃらけ道中に誘うので、私はそっちへ行くのであります。

*永楽屋東四郎:1700年代後期から明治まで続いた名古屋の書肆。店名は東壁堂。尾張藩校御用達。本居宣長の版元として有名。北斎は「北斎漫画」の初編をここから出している。永楽屋は昭和26年に廃業。
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Tsutaya Juzaburo Exhibition

2010-09-18 | art
 さぁさぁつひにきましたよ・・・
        
        

 11月3日からサントリー美術館でスタートする「蔦屋重三郎展」。
 美術館サイトに詳しい概要もアップされました。
 歌麿、写楽など浮世絵陣営はもちろん、狂歌師の大田南畝、
 戯作者の山東京伝ら関連の出版物も展示されるもよう。
 う~~ん愉しみ!!!
  是非Webサイトを見てくださいね。 click here

 協賛Tsutaya...やっぱし。
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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅵ

2010-09-15 | bookshelf
***山東京伝 二足の草鞋***
 
 封建社会では民衆の言論の自由は許されていませんでした。
 徳川幕府に関する記述や前政権の秀吉・信長に言及することもタブーでした。そこへもってきて寛政の改革による風俗取締りの強化。出版業界にも取り締まり令が出されました。しかし、「はいはい、わかりました」とお上に従順な者ばかりではなかったようです。何と言っても江戸っ子です。てやんでぇの反骨精神だったのでしょうか、それとも金儲け主義だったのでしょうか…取締りに挑戦するかのように1791年蔦重は京伝作の洒落本『大磯風俗 仕懸文庫(おおいそふうぞく しかけぶんこ)』『手段詰物 娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるひ)』『青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)』3作を出版したところ摘発され、蔦重は身代半減(財産を半分没収)、京伝は手鎖50日の刑、検閲した行司も刑に処せられました。
 私は*『仕懸文庫』を斜め読みしましたが、春本ではなく、遊廓の客と遊女のやりとりや人間関係などが芝居の脚本風に叙述されているだけで、発禁になる程でもないと思いますが、遊廓についての著述という点でアウトだったのでしょう。『心学早染草』の床入り画の方がよっぽどヤバイんじゃないかと思いますが。
 この事件について、当時右肩上がりの新興版元と人気戯作者という組み合わせでスケープゴートにされたという見方をする研究者もいます。私も最初はそう思いましたが、それは蔦重を贔屓目で見ている者の陥りやすい見解でしょう。実際、蔦重のやり口は悪質でした。
          
            右は本を入れた袋:「教訓読本」「大磯鎌倉」と明記してある
遊廓を題材にしているのに「教訓読本」だの何だのカモフラージュしてあるのです。偽装表示ですね。更に蔦重は行司も抱きこんで検閲をパスさせていました。これは蔦重だけに限ったことではないですが、彼は禁を犯して出版を強行したのは確かです。執筆した京伝に悪意があったか否か。私は京伝贔屓ではないですが、悪意はなかったと思います。何故なら彼にとって戯作はそこまで重要ではなかったからです。
          
                煙草入れ店「山東京伝店」:右側奥が京伝
 1790年馬琴が京伝に弟子入りを志願した時、「草ざうしの作は、世をわたる家業ありて、かたはらのなぐさみにすべき物なり」と言って断っています。つまり戯作は生計を立てる仕事を持った上での趣味としてするものだと考えていて、それは生涯変わらなかったようです。確かに京伝は版元から原稿料をもらっていましたが、その収入を頼りに書くような事はしませんでした。むしろ金を積んで執筆を依頼される状況に「戯作は遊び心から生まれるもの」というポリシーを頑なに通す姿勢をみせました。
 筆禍事件から2年後、1793年煙草入れ店を開業、以後店主と作家という二足草鞋の生活を送るのです。

 *仕懸文庫とは深川の遊里仲町で、遊女が衣類を入れて持ち運ぶ箱の名称で、深川独特のもの。
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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅴ

2010-09-11 | bookshelf
***山東京伝 5 悪魂善魂***

 1788年老中田沼意次が死に、1789年年号を寛政に変え松平定信が老中になると、朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』で書かれたように、のらくら武士や金にまみれた幕僚たちは一掃され、贅沢や風紀の乱れを取り締まる寛政の改革が施行されました。
 豪華な錦絵は色数を限定され出版物の内容は行事によって厳しい検閲を受け、既存の書物で摘発されたものは絶版(紙は破られ版木は削られた)になり、関係した戯作者・版元も刑罰を受けました。これにより、武士階級の戯作者は成りを潜め、京伝のような町人は検閲にひっかからないようなストーリーを書くように草双紙も変化を迫られました。
 しかし、草双紙は庶民の娯楽。読者の心を捉えなければなりません。そんな中、大和田安兵衛というところから出版した京伝の黄表紙は、遊廓など性風俗とは別の庶民が関心を持っている世相を題材にしたものでした。「大極上請合売」と冠された『心学早染艸(しんがくはやぞめぐさ)』(北尾政美画1790年寛政2年刊)は発売されるや否や売れ捲りました。

 本編に入る前に少々堅い説明があります。
 人間の魂は天帝より授かるもので、天帝はシャボン玉のように丸い魂を拭き出すが、妄念・妄想の風に吹かれて歪になって飛んで行くものもある。云々・・・
     
日本橋の有徳な商人、目前屋理兵衛の息子・理太郎は、善魂に守られ利発に育つが、寝てる間に悪魂が入り込んで悪い遊びに誘惑する。   
     
善玉ファミリーは悪玉に対抗するが数の多い悪玉は善玉ファミリーの父を斬り殺し女房と2人の息子を理太郎の体から追い出してしまった。
          
悪玉に支配された理太郎は放蕩の限りを尽くし勘当され、追い剥ぎに身を落とす。しかし、博識秀才仁徳のある道理先生に拾われ、その教えを聞き、善の心を取り戻したので善玉母子は仇を討って悪玉を追い出すことに成功。本心に立ち返った理太郎は勘当を許され目前屋は富み栄えた。

 当時評判の高かった京都の心学者・中沢道二が1780年日本橋通塩町に講釈道場を開き、分り易い例えや表現での教義が庶民に受けて心学が流行してました。
 北尾政美(鍬形慧斎)の描いた善玉悪玉キャラはまたまた大人気となり、栄松斎長喜(えいしょうさいちょうき)の3枚続きの錦絵に描かれたり、悪玉・善玉と書いたお面をつけて踊る善玉悪玉踊りが歌舞伎に登場したり、悪玉を模った提灯をさげてグループでぶらぶらすることが若者の間で流行した際は禁じるお触れまで出される始末でした。

 このヒットに目をつけた蔦重は、これを初編にして4編のシリーズものを企画します。第2編は『人間一生胸算用』(京伝自画1791年刊行)、3編『堪忍袋緒〆善玉』(1794年刊行)、最後の4編は曲亭馬琴作で『四編搨心学早帋』(1797年刊)です。私は読んでいませんが、2編と3編が3年も離れているのは、1791年に京伝の書いた洒落本3作が摘発され、彼は手鎖50日の刑に処せられたことに因るもの、この事件以来戯作に消極的になった為だと推察されます。完結編は遂に京伝は執筆せず、馬琴が書いています。完結編が刊行された年の5月、蔦重は48歳で病死します。多分何としてでも完成させたかったからではないでしょうか。
 京伝の人生の転機となった1791年の筆禍事件とは...


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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅳ

2010-09-10 | bookshelf
***山東京伝 4 金持ちの無駄遣い***
京伝に限らず、黄表紙はお金持ちが散財するという設定が目立ちます。恋川春町の金々先生も夢の中では何故か富豪の養子になっています。
 『江戸生艶気樺焼』で、戯作者として春町、喜三二と肩を並べる程になった京伝が翌年1786年に蔦屋から発表した作品『江戸春一夜千両(えどのはるいちやせんりょう)』(山東京伝作・北尾政演画←京伝の画号)も大金の使い道に困るお話です。
大富豪が息子や女房、隠居に番頭、手代、下女、飯炊にまでそれぞれ大金を与え、一夜で金を使い切ったら倍にして与えようと持ちかけます。普段お金を欲しがる連中が、いざ使うとなるとビビッて使えず、右往左往する始末。息子だけが使い果たし、百万両の財産を譲られる、というストーリーです。
 何とも有り得ない話ですが、この作品の面白さは各身分の人物が普段何を欲しているのか、彼らが大金を使うのに失敗してしまう様子が滑稽に描かれているところと、前作品の主人公・艶二郎を例えに出したり、吉原で男芸者と女芸者が白・黒装束で手打ちをする場面で「こういふ所を伝さん(=京伝のこと)が見ると、ちき(=じき)に草双紙に書くによ」と男芸者に言わせるなどの楽屋落ちを盛り込んでいるところにあります。
 また、挿絵中に当時の吉原の遊女の書をさりげなく書き入れたり、京伝馴染みの茶屋いの字伊勢屋を描いて、そこにかけてある京伝直筆の助六画賛をちゃっかり書いて宣伝したり。庶民が見ることの出来ない遊郭の内側を垣間見ることができます。
作中に登場する本物と同じ伊勢屋の部屋
実際の助六図はこれ
 十代の頃から吉原に出入りし、吉原に入り浸り4、5日も家に帰らないこともあったという京伝ならではの描写で、遊廓ネタは彼の最も得意とするところでした。

 黄表紙は毎年正月に出版するおめでたい読み物だったので、このような有り得ない話になったのかと思いますが、この頃1783~88年は、天明の大飢饉の真っ只中。江戸庶民も浮かれてばかりはいられなかったと思います。1784年には田沼意次の子・意知が刺殺されます。ところが、この天明期に豪華な錦絵などが販売され、蔦重も儲けているわけです。当時草双紙など冊子は今の価格で3000円~5000円くらいはしたそうです。買えない人は貸し本屋から借りてましたが、供給があるというのは買う人がいたからです。
 大飢饉とはいっても武士階級や豪商はさほど影響されなかったのでしょうか。当時の貧富の差、農村と都会の格差が思いやられます。
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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅲ

2010-09-09 | bookshelf
***山東京伝 3: 一世風靡***

江戸時代後期の女性に「あなたもきつい艶二郎(えんじろう)ね」と言われたら男性は自らを省みましょう。
外見も中身も平凡なのに自分は女性から好かれると思い込んでやしませんか?そんなことない?実際本当にモテるんだッて?おやおや、ここにも艶二郎・・・。

 手拭合の会で出品した図案が先だったのか、その頃既に草双紙のストーリーがあったのかはわかりませんが、1785年獅子鼻の不細工な青年が主人公の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』が蔦屋から刊行されました。
豪商の一人息子、仇木屋艶二郎(あだきやえんじろう)は醜男なのに自惚れが強く、自分が女性にモテるということを世間に認めさせるために、遊び仲間の道楽者と太鼓医者に相談し、モテる男がしていた事(歌舞伎や浄瑠璃などの物語の登場人物も含む)をお金を使って次々に試みます。しかし、端から見るとそれは滑稽でしかなく、世間の人々は馬鹿な奴だと嘲笑していました。そこで艶二郎らが考え出したのが、遊女との心中事件を起こす事でした。といっても本当に死ぬ気はないので、吉原の女郎・浮名を金で雇い、駆け落ち心中道行の茶番劇を企てたのでした。ところが艶二郎と浮名は途中で追い剥ぎに遭い、命乞いをして丸裸にされてしまいます。情けない目に遭って少しは後悔する艶二郎・・・
               
実は、追い剥ぎは艶二郎をこらしめるために親が差し向けたもので、これを機に艶二郎は馬鹿なことをやめて浮名と結婚して、めでたしめでたし。
 他愛ない筋立てではありますが、艶二郎が真似する「モテ男」が、当時の色男の認識を如実に現していて笑えます。そして京伝の描く獅子鼻のキャラクターが艶二郎を憎めない男にさせ、本は江戸中で大ヒット。主人公の名前は「自惚れ」の代名詞となり、庶民の間で流行語になりました。名前だけでなく獅子鼻が草双紙で流行し、作中で登場する京伝自身の鼻も獅子鼻で描かれ、他の戯作者もこれにあやかったため、戯作者はみんな獅子鼻だと思われた時期があったそうです。
 黄表紙と呼ばれるこのような草双紙は、正月に新作が出版されるのが習わしだったので、前年の手拭の図案の頃には版下は仕上がっていた可能性は高いです。そうすると手拭合の会での図案は本編の前フリで、本が売れれば商品化される可能性も見越していたかもしれません。そのあたりはどうだったのでしょうか。キャラクターグッズは作られなかったのでしょうか。私が読んだ限りの近世文学・出版に関する本には触れているものはありませんでした。
 画工でもあった京伝は、絵を先に描き後からストーリーを考えることも多かったそうです。現代の漫画のような作り方ですね。
 尚、『たなぐいあわせ』と同じく白鳳堂から出版された『小紋裁』も売れたので、蔦重が『小紋新法』(1786年刊)、『小紋雅話(こもんがわ)』(1790年刊)を出版しています。こういった手合いの商売には蔦重は抜け目ありませんでした。


 
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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅱ

2010-09-08 | bookshelf
***山東京伝 2***

 江戸生まれ江戸育ち、旅行以外江戸を離れたことがなく、生涯江戸を愛した生粋の江戸っ子・京伝は、何不自由ない町人(父は銀座の長屋の家主職)の長男として生を受け、若くして吉原など廓へ出入りし30歳くらいまで職にも就かず草双紙の挿絵や戯作などしながら、江戸後期の世俗文化を満喫していました。働いてはいなかったものの、彼には人並みはずれた才能があり、画才と文才それに人の良さで、さほど苦労もなく世渡りができた稀有な人物です。
 15歳の時、浮世絵の挿絵画家として頂点にいた北尾重政に入門し浮世絵を学んだところから彼はまず浮世絵師(画工)として18歳でデビューします。師匠は蔦重刊行の草双紙の挿絵を担当していた由縁もあり、当時流行していた富本節(とみもとぶし)正本に役者絵を描き、20歳には自画自作で草双紙デビューもしています。処女作のひとつ1780年に刊行された『米饅頭始(よねまんじゅうのはじまり)』は、米饅頭という名物饅頭が売り出されるまでのお話で、洒落も穿ちもあまり効いていない物語でした。
 1782年22歳で書いた『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』が評論家(狂歌師・戯作者)の大田南畝に称讃されたことで戯作者として一躍名を馳せました。しかし、京伝の草双紙の面白さは文章だけでなくその画にもあります。現代の漫画のキャラクターが人気者になって一人歩きをするように、京伝の生み出したキャラクターは現代でも高い人気を誇っています。
           『たなぐいあわせ』1784年白鳳堂刊
 『たなぐいあわせ』は、手拭の図案を披露する遊び「手拭合の会」で出品された図案を京伝が写し取ったものをまとめた冊子で、同年『小紋裁(こもんさい)』という浴衣の染め柄など滑稽な図案集も出版し、これらは現在でもクリエイターから高い評価を得ています。上の画像の右端の暖簾から覗いている獅子鼻(団子鼻)の不細工な青年が、翌年蔦重から出版された『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』の主人公・艶二郎(えんじろう)として登場し、大人気キャラクターとして一世を風靡するのです。

 『江戸生艶気樺焼』は次へもちこし・・・
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kusazoushi:Santoh Kyouden Ⅰ

2010-09-07 | bookshelf
***山東京伝 1***
               
                  「江戸花京橋名取」
      山東京伝(1761-1816)江戸深川生まれ。本名:岩瀬醒(いわせさむる)
       戯作者・浮世絵師。画号:北尾政演(きたおまさのぶ)狂名:身軽折輔


 「わたくしは初め馬琴に心酔して、次で馬琴よりは京伝を好くやうになり、又春水、金水を読み比べては、初から春水を好いた。」と森鷗外は明治初年の少年時代を振り返って『細木香以(さいきこうい)』に記しています。
 馬琴といえば*曲亭馬琴。代表作は『南総里見八犬伝』で、NHKの人形劇(人形は辻村寿三郎作)にもなったりと、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』と同じく現代でも読み継がれている江戸後期の作家です。
 その馬琴より好きだと明治の文豪・森鷗外が豪語する山東京伝、ご存知ですか。実は私は去年まで名前さえも知りませんでした。昨年の夏、写楽の謎から蔦屋重三郎を調べ始めた時に関係者の一人としてその存在を知ることになったのですが、今年草双紙を読むようになって、彼の作品が当時一世を風靡するほど人気があり、戯作や浮世絵だけでなく商業デザインの分野でも高い才能を持っていた人物だと知りました。それに、日本近世文学界では超ビッグネームで、江戸後期の書籍を語るに当たって山東京伝を読んだことないなんてのは恥ずかしいくらいの勢いです。

 私が山東京伝の草双紙を読み始めた時はそのようなことは全く知りませんでした。だから先入観なしに面白いものは楽しく、そうでないものはすっ飛ばし、京伝の著した膨大な著書のほんの一部を読みました。大手出版社の古典文学文庫になってないので、日本古典文学全集の「黄表紙 洒落本」編や京伝作品が載っている全集の一部を図書館で探して借りて読む、という形しかできないのが口惜しいです。所有できないので、覚えておきたいことは手書きでメモする...なんてアナログな作業を地味にこなして、忘れない為にここに書いてゆこうと思います。

*曲亭馬琴:明治以降表記が滝沢馬琴となって教科書や書籍にも書いてありますが馬琴は生涯「滝沢馬琴」と名乗ったことはなく、何故そんな表記になったのでしょうか。現代でいえば、タレントの芸名の名前と本名の苗字をくっつけたようなもので、存在しない人の名前になってしまいます。馬琴に失礼だし、考証の意義からも訂正すべきだと思います。
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handmade bookmark

2010-09-03 | product
               

極細彫刻刀をネットで探していたら、1本3千円前後するのを知って意を決してhandsへ買いに行ったら、1.5ミリのが500円というリーズナブルな価格のメーカーのを見つけ、欲しかった0.3ミリのがなかったので安い方を購入しました。
早速寝る前に切れ味を試していたら、あまりのスムーズさに墨版が彫れてしまいました。最初に彫って失敗したのを新たに彫りなおしたので図柄は同じですが。
それでも文字はやはり無理なので、善悪はペンで書きました。

版画用紙(出来れば和紙がよいのですが)も紙専門店へ行って探しました。絵手紙にも適する葉書サイズの厚手の最高級版画紙。30枚550円。それをカットして栞にしてみました。

ただ、摺りが上手くできません。絵の具の濃度の調整が難しく、水が少なすぎても駄目、多すぎても駄目。それから空白の箇所についた絵の具が摺る時用紙についてしまったり....それはまた彫って修正すればすむことなんですが。


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