***山東京伝7-完結編***
京伝の煙草入れ店創業は、町人本来の生業を持つという考えを実行したものでした。しかし、元々金勘定に長けている性質ではないので経営は専ら父親に任せ、京伝は煙草に使う小物類の意匠を手懸けていました。それでも人気作家の店であり、刊行する草双紙にも広告を掲載したのでお店は繁盛しました。
筆禍事件でショックを受けた京伝は、戯作をやめようとしましたが、蔦重など版元の必死の頼みにより、洒落本は筆を折りましたが戯作は続けました。
1794年蔦重は10ヶ月に渡り東洲斎写楽(本名・詳伝不明)の浮世絵シリーズを刊行しました。が、この企画は尻すぼみで終わってしまい、この頃耕書堂は尾張(名古屋)の有力版元・*永楽屋東四郎と提携し、蔦屋板の書籍流通の関西方面への拡大を図っていました。私の個人的憶測として、写楽企画の失敗による経営利益損失の補填の意味もあったんではないかと思います。寛政の改革以降、戯作者が急激にいなくなり蔦重は苦肉の策で『身体開帳略縁起(しんたいかいちょうりゃくえんぎ)』(1797年刊行)など数作を蔦唐丸名義で出版したほどでした。彼は1797年5月に47歳で亡くなるので、これが遺作となりますね。名古屋の永楽屋東四郎は江戸日本橋支店を持ち、後に蔦屋の版木がそちらに売却されたりしましたが、二代目蔦屋吉蔵からは京伝の読本・合巻(出版規制により黄表紙が一般的な題材を扱うようになって生まれた大衆向け小説)が出版され続けました。
作家が出版社から執筆をせっつかれ筆が進まず悩むのは今も昔も同じ事。京伝はそんな自分自身を主人公にした作品も書いてます。『作者胎内十月図(さくしゃたいないとつきのず)』(1804年文化元年 鶴屋喜右衛門刊)は、京伝が作品を書き終えるまでを妊婦が出産するまでの過程に見立てた物語です。
さりげない掛け軸の画のデザインがセンス良い
京伝直筆草稿
京伝は地蔵尊に祈願して「作の種」を宿してもらう。月毎に腹は大きくなり遂に産月になると医師が京伝に「案前案後 実虚散」(産婦に与える「産前産後 実母散」のもじり)を処方する。
この薬の成分は、教訓・面皮(つらのかわ)・趣向・工夫・案思(あんじ)・地口・故事附・小文才・智恵・画意(えごころ)・気根・横好で、それを硯の水一杯半入れて器量一杯にこじつけ小雅(しょうが:生姜のもじり)ひとへぎを加えて飲む、とある。そして京伝は元気な上・中・下の三つ子を無事出産したのだった。
京伝店で発売している読書丸という薬の宣伝もしてある
現実の京伝は店を開店した年に妻を亡くし、再婚した妻の妹を養子にしますが先立たれ、子宝には恵まれませんでした。
晩年の京伝は馬琴と共に新ジャンルのパイオニア的役割も担いますが、江戸時代初期の古画や古物などの考証活動に力を入れ随筆も残しました。考証同好会にも出席しますが、同行の人には嘗ての狂歌仲間の顔もあったので、その影響もあったのかもしれません。
若かりし頃の吉原で身分の差を越えて狂歌や浮世絵、戯作などを作って酒を飲みながら皆で愉しんでいた時代―政権によって解体されたコミュニティ。
時は流れ、年老いてから共に老いた嘗ての仲間と再び同じ趣向に興じる京伝たちの姿と、それを見守る喜三二や春町や蔦重の亡霊を妄想すると、私は満ち足りた気持ちになり目頭が熱くなります。
森鷗外が少年時代親しんだ草双紙は読本や合巻なのでしょうが、私は『昔話稲妻表紙(むかしばなしいなづまびやうし)』(京伝作、歌川豊国画1806年刊行)を斜め読みしましたが、黄表紙ほどのめり込めませんでした。その理由は画にあります。鳥山石燕発祥(?)の人を食ったような見立て絵(だまし絵好きは垂涎)。馬琴や柳亭種彦らが大衆向け伝奇小説を確立する一方、1802年我が一九先輩がおちゃらけ道中に誘うので、私はそっちへ行くのであります。
*永楽屋東四郎:1700年代後期から明治まで続いた名古屋の書肆。店名は東壁堂。尾張藩校御用達。本居宣長の版元として有名。北斎は「北斎漫画」の初編をここから出している。永楽屋は昭和26年に廃業。