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2016-08-19 | ancient history
 8世紀、元明天皇(阿閉皇女)から命ぜられ、天武天皇(大海人皇子)期に稗田阿礼が暗記した『帝紀』『旧辞』を筆録して『古事記』を編纂した太安万侶。彼は、ヤマト政権が奈良盆地に侵攻する前からの、在地勢力・多(おお)氏の末裔でした。父親が壬申の乱で大海人皇子側について活躍したこともあって、親皇族派だったことは間違いなさそうです。全国各地から収集した伝承や伝説をまとめて、天武天皇の14代前の継体天皇(男大迹大王)即位(507年頃)直前までのヤマト政権の歴史を書き、712年完成させました。
 その8年後、『古事記』をベースとした正式な歴史書として『日本書紀』が生まれました。それは天武天皇の息子・舎人親王をリーダーとしたチームで、太安万侶も加わっていたようです。
 『日本書紀』には、『古事記』で書かれていた神代~武烈天皇を含む、持統天皇が文武天皇に譲位する(697年)までのヤマト政権の成り立ちと皇族の歴史が綴られました。しかし、編纂者が皇族と親皇族の官人なので、内容は事実とは大きく異ならざるを得ませんでした。
 歴史の真実を知るためには、古代人が残した或は残された遺跡を発掘調査して出土品などを調べ、現存する史料(日本書紀や古事記など)と照合していくしか手立てがないと思います。書かれた物は信頼性に欠けますが、「物」は嘘をつきません。現に、太安万侶の墓が偶然見つかるまでは、彼の存在を疑問視する研究者もいたそうです。
 古事記や日本書紀には、仁徳天皇以下、彼の息子たちの繁栄が描かれています。その天皇(大王)たちの古墳が、大阪の百舌鳥・古市古墳群に天皇陵として宮内庁によって治定されています。古墳時代最盛期に建造された前方後円墳の副葬品は、甲冑や武器など戦いを連想させる遺物が多く、『古事記』や『日本書紀』での記述より、中国の歴史書『宋書』の倭国伝にある「倭の五王」の内容の方が真実だと思われますし、そうなのでしょう。しかし、それを立証する手立ては、今のところありません。古代の大王を“天皇”だとして、天皇陵と治定された古墳は発掘調査ができないばかりか、立ち入りもできないからです。古代の王宮が埋まっているかもしれない伊勢神宮や熱田神宮を発掘できないのは仕方のないことですが、エジプトのファラオの墓が発掘調査できるのに、古墳時代の王家の前方後円墳が学術調査できないだなんて、残念で仕方ありません。
 埼玉県の稲荷山古墳で出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」の銘文によって、その存在が確実視されたワカタケル大王(大泊瀬幼武おおはっせわかたける=雄略天皇:400年代後半)の古墳を確定できれば、真実の古代日本の姿が見えてくると思うのです。現在宮内庁が治定している雄略天皇陵というのが、googleアースで見てもわかるように、高鷲丸山古墳という円墳と平塚古墳という方墳をくっつけた(ところが、間に濠があり、くっついてない)偽造前方後円墳です。5世紀に全国を支配下に置いていたかもしれない大王の墓とは到底考えられません。もし本当にそうだとするのなら、きっちり調査しなおすべきだと思います。
 ワカタケル大王(雄略天皇)に関する研究が進めば、5世紀の河内王権(百舌鳥・古市古墳群地域で勢力を振るった王族)を解明できるでしょうし、その前の佐紀古墳群周辺の王権(勝手に佐紀王権と名づけた)や、そのまた前の磐余周辺の初期ヤマト政権であった三輪王権の究明に繋がるはずです。
 太安万侶や舎人親王の歴史書編纂作業より遡ること300年前。河内地方で勢力をふるった王権が、中国大陸の王朝に冊封を受けていたことを、彼らは知ってか知らずか書いていません。朝鮮半島諸国との勢力争いについても、『日本書紀』の雄略天皇の章に少し記述があるだけで、全体的に皇位を巡る親族の争いに関心が集まるような記述が印象に残ります。
 とは言え、事実がどうであれ『古事記』と『日本書紀』の物語は、古代ロマン熱をかき立ててくれます。

 当時の過激な後継者争いの中、天武天皇の皇子として皇族での最高の位階を与えられ、知太政官事にまでなった舎人親王。従姉妹であり継母の持統天皇以降、女帝に逆らうことなく皇太子を護衛し、長屋王(天武天皇の孫)の変では、同じ皇族でありながら藤原氏側に従い、自分の甥である長屋王を自殺に追いやってまで保身の道を選んだ彼には、野心が全くなかったのでしょうか。
 『日本書紀』の神武東征を読んだ時、『古事記』より詳しく記述されたカムヤマトイワレビコについて、『古事記』にはないイワレビコが東征に出発した年齢を、わざわざ45歳と書き加えたことが引っかかっていました。その後『続日本紀』を読んで、舎人親王が『日本書紀』を完成させたのが44歳、数えで45歳の時だったと知り、神武の年齢を45歳としたのは彼の個人的な思いの主張だったのではないか、と思うようになりました。政りごとは一時的なものですが、歴史書は読み継がれていくもの―自ら書いた倭国の歴史が、後世まで“歴史”として伝えられてゆく―という野望があったのではないでしょうか。初代天皇となるカムヤマトイワレビコの旅立ちに、『日本書紀』完成後に開かれる自らの輝かしい出世への道をダブらせたかもしれません。
 また、天皇に近い血筋であるにもかかわらず、皇位継承を断念した彼は、『天皇記』『国記』などを編纂し天皇に成らずして死んでしまった厩戸皇子(聖徳太子)にも、思いを馳せたのではないでしょうか。
 残念ながら、聖徳太子とは対照的に、舎人親王の存在は、『日本書紀』の編纂者の1人として、古代史の中に地味に埋もれてしまいました。
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