「膝栗毛」文芸と尾張藩社会 岸野俊彦編
清文堂出版1999年発行 376P \7700
以前、江戸後期の尾張文芸人と江戸文人との交流について書かれた書籍を読んで、このblogにも書きましたが、もっとディープな書籍を見つけました。
一九先輩の『膝栗毛』のヒットに伴って、全国各地で『膝栗毛』物と云われる、滑稽道中記が地方戯作者や素人によって編まれたそうで、この本にも『膝栗毛』に触発された亜流本の4作品翻刻されたものが、この地方在住もしくは所縁のある大学教授などによる詳しい解説と一緒に載せられています。
正確には「江戸文人との交流」ではありませんが、一九先輩、北斎、馬琴などが活躍していた時代の尾張(と三河)地方の文人墨客のみならず、書肆や旅宿など商人たちへの影響がどのようなものであったのかが、この地方都市の内側から描かれた戯作稿本(出版物ではない手書き本)を通して、明らかにされています。また、歴史書には書かれていない庶民の実態も垣間見ることができ、非常に興味を惹かれました。
名古屋城内に再現されてある永楽屋東四郎の店先
尾張で『膝栗毛』物が出現した大きなきっかけは、1805年(文化2)に発売された一九の『東海道中膝栗毛四編下』で、弥次郎と喜多八が東海道の正規の道筋通り、尾張宮宿から舟で桑名宿へ行ってしまった事でした。当時倹約令がでていても栄えていた名古屋城下町を、この有名2人組が素通りしてしまった事に、尾張地方の人々はさぞ不満だったのでしょう。翌年一九は、桑名から伊勢巡りの調査旅行に行った途中この地方の文芸人に歓待され、五編に彼らの狂歌を載せました。この頃から、弥次喜多になぞらえたなまくら者2人の主人公が尾張地方を観光する、という筋書きの戯作稿本が書かれるようになったそうです。
1814年(文化11)満を持して松屋善兵衛(永楽屋と並ぶ大書肆)から『津島土産』という膝栗毛本が発売されました。作者・石橋庵真酔は椒芽田楽と並ぶ尾張の代表的戯作者で、挿絵は北斎門下の墨仙、玉僊など。名古屋に住むなまくら者2人が観光しながら津島神社へ行く、という物語。
1815年には、ついに弥次郎兵衛・喜多八が名古屋の城下町を観光する『名古屋見物四編綴足 前編』が美濃屋伊六、永楽屋東四郎、松屋善兵衛、江戸麹町角丸屋甚助ら板元から出版されます。折りしも同年秋、松屋善兵衛の招きに応じて一九が尾張にやって来ました。
一九は松屋善兵衛宅に逗留。その間求めに応じて『秋葉山鳳来寺 一九之記行』を執筆。更に『津島土産』の後編にあたる『滑稽祇園守』に「名護屋旅泊中 東都十返舎一九題」として序文を書き、『一九之記行』でも宣伝を書き入れました。
そして翌年1816年、『四編綴足』の後編に、“弥次喜多が本町通で本屋と一緒に飲みに出かける一九と出会う”シーンが描かれるのです。これで尾張の人々の不満は、めでたく解消されました。自作を真似され、勝手に登場させられた一九本人は、腹を立てるどころか相乗効果で自作が売れることを喜んでいたそうです。
『四編綴足』の作者・東花(冬瓜)元成の詳細は不明ですが、この本を下敷きに、観光ガイド的性格を持った稿本が天保年間前後に多く書かれていたそうです。
以下が『「膝栗毛」文芸と尾張藩社会』に掲載されている稿本です。
●郷中知多栗毛 ごうちゅうちたくりげ 南瓜末成著 1843年(天保14)
●金乃わらじ追加 栗毛尻馬 近松玉晴堂著 1827年(文政10)
●熱田参り 股摺毛 ももすりげ 自惚主人著 1815,6年(文化12,3)以降
●当世奇遊伝 紅葉軒眸山/黄花亭楽水著 1849年(嘉永2)