TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

japanese buckwheat noodles

2011-07-28 | prose
 暑い夏。
 湿度もあると食欲減退です。
 そんな時は、のどごしのよい冷たい麺がおいしい。

 一九先輩が好物だった蕎麦。
 お店ではなく、自宅で作るとき好きな乾麺の蕎麦は
 新潟県小千谷市の小嶋屋のお蕎麦
 海草が入ってるのでつるつるしたコシのある細麺で、シンプルなざるそばでいただくのが一番。
 新潟は「へぎそば」が有名ですが、これを「へぎ」に入れれば最高のへぎそばです。

 一九先輩も、中越を旅した時、食べたでしょうか。

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Ikku's“zoku hizakurige 9”part2

2011-07-24 | bookshelf
***『続膝栗毛 九編』下***
『善光寺道中 続膝栗毛 九編』下
十返舎一九作


 夜になって信濃新町に到着した弥次北は、少しでも早く休みたかったのですぐ旅籠へ入りました。床の間に掛けてある軸も絵が逆さまに表具してあるような田舎の寂れた旅籠で、風呂に入った弥次は前に入った客の忘れた褌を自分のだと勘違いして洗濯して、それを持ち主が返してくれと言ってきたから、では自分のを洗ってくれと無茶を言い出しケンカになりました。喧嘩っ早い江戸っ子弥次さんは相手を殴って突き飛ばすと、相手は気を失ってしまいました。
     案外ワイルドな弥次さん
おろおろしていると宿の主人が来て、喜多八と一緒に客に呼びかけて正気に返らせました。しかし、もし客がどうかなっていたら…と言うので、弥次さんは謝り證文を書いて許してもらいました。こうして詠んだトホホな一句
  ふんどしとともにかきたる赤恥を あらひすすぎしことぞくやしき
 翌日、夜明けとともに早々宿を立った弥次さん北さんは、途中土地の者と馬鹿話をしながら歩いていましたが、稲荷山までは食事する処はない、と聞かされて弁当を持っていない2人は、土地のおやじの家に麦飯のご馳走に招待されました。
 ところが家に着いても、おやじは家の婆と自分達の話ばかりしていて一向に食事を出してくれません。ようやく出してもらった食事は、飯がなかったのでもろこし餅(味噌のにごり汁に刻んだ大根の葉と餅を入れた雑煮)で、それでも腹が減っていたので食べましたが、餅に砂が混じってとても食べられたものではありませんでした。食べられない喜多八は残したのを義理が悪いと、わからないように縁の下へ捨てようとしたところ、一緒に椀まで放り込んでしまいました。
 縁の下へ潜って拾うこともできず、先を急ぐからと礼を言って、うっちゃって行こうとすると、おやじが椀が足りないことに気付き、結局拾うことになりました。おやじと婆に他にも落ちてるものを拾ってきてくれと言われ、忌々しく思いながら椀を掴んだと思ったら猫の糞だったり、と大変なめに合いました。漸く椀を拾って出てきたものの、煙草入れを落っことしてきてしまい、縁の下を覗いて竹竿を入れてひっかけて取り出して大笑いとなりました。

 喜多八はプンプンして早歩きしたので稲荷山へはすぐに着きました。それから犀川の渡し(舟に乗って両岸から張ってある綱を引っ張って動かす)を渡り、善光寺近くの旅籠に腰を落ち着けて参詣へいきました。
 やれやれ、と思う間もなく、戻った宿で北八の助平心から、この宿の年増娘の心中騒動に巻き込まれ、心中を見ようと思って松の木に登って落っこちた喜多八は
  心中の惚れたどおしはさもなくて 見にいたやつが腰を抜かした
と詠んで笑いながら寝て、翌日出立しました。
 『続膝栗毛九編』終
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Ikku's“zoku hizakurige 9”part1

2011-07-23 | bookshelf
***『続膝栗毛 九編』上***
『善光寺道中 続膝栗毛 九編』十返舎一九(55歳)作
一九・二世北斎・英泉 画
1819年 文政2年刊 伊藤屋与兵衛板 


   楽しそうな弥次さんと喜多さん
     越後人の狂歌が各挿絵に掲載されている
 『東海道中膝栗毛』は1809年文化6年、八編をもって完結しました。伊勢参詣を終えた後大坂で遊んだ弥治郎兵衛と喜多八は、中山道を使って江戸に帰郷しました。大当たりした『膝栗毛』には既に完結編の最後に「木曾海道膝栗毛 追而出版」と書いてあり、予告どおり翌年1810年早々に『続膝栗毛 初編』が刊行されています。『東海道中膝栗毛』の最後に書いてあったように、2人は草津温泉に一週間滞在し、善光寺へ参り、群馬県の榛名山へ参詣するルートを行くと思うのですが、いかんせん『木曾海道膝栗毛』の一般書籍が販売されていないので未だ読めず。ようやく『続膝栗毛』の九編「善光寺道中」を読むことが出来ました。

 なつかしい弥次さん北さん。この編では松本から長野・善光寺へ向かいますが、本街道ではなく、その当時旅人の通行が増えた糸魚川街道を経由して、ちょっと遠回りしています。松本→池田→信濃大町→信州新町(天狗山)…閑道…稲荷山→川中島(善光寺)何故かといえば、一九先輩は、前年越後の鈴木牧之宅を訪問する旅で、中仙道高崎から三国街道を通って塩沢で遊び、そこから越後赤倉温泉(飯山街道から北国街道へ出たか?)へ寄って善光寺へ、善光寺(長野市)から大笹通(須坂から草津までの最短の道。大笹駅は道中奉行管轄街道ではなかったが関所があった。そこを経由する道?)を通って大笹駅の黒岩氏宅に滞在した体験をネタに使おうとしたからです。
 風呂敷包み一つという身軽な2人は、松本から善光寺への近道と聞いて、糸魚川街道を歩いて信濃大町を過ぎた村はずれの茶屋で休憩。そこで休んでいた九州者と善光寺の話(本田善光と如来さまの伝説)をして礼によって下ネタをかまして呆れられ、大笑いをしながら茶屋を後にしました。


 しばらくすると夕立になったので、酒屋で雨宿りすることになりました。するとそこで飲んでいた馬方が、新町までなら帰り馬だから酒手で乗せてやるし櫓があるから二人乗りができる、と云うので乗ってやることにしました。そして雨が止むまで酒を飲むことにしましたが、そこの酒は弥次北の口に合わなかったので全部馬方に飲ませました。
 雨も止み出発することにしましたが、酔っ払った馬子はふらふらして居眠りしながら引くので全く進みません。いい加減2人が怒ると、「忘れ物があるので一寸待っていてください」と行ったっきり戻って来ず、馬も言う事を聞かないので、賃金も払っていないから馬を打ち捨てて行くことにしました。ところが、馬の背に振り分けて乗っているので2人同時に降りないとバランスが崩れて落ちてしまいます。すったもんだした挙句、同時に松の枝に飛び移ることにしました。が、枝がポッキリ折れて2人とも腰や足を思い切り打ってしまいました。北八は馬にむかって「よくも落としやがったな、覚えておけ」と言いましたが、「なに馬が覚えているものか」と弥次さんは笑い、2人はびっこを引きながら大笑いして山道を歩いて行きました。
 やがて日もとっぷりと暮れ、2人は薄気味悪くなって怖がっていると、何かが足にまとわり付いてきました。よく見ると子兎で、びっくりさせたお返しに小石を拾って投げたら1匹に当たって死んだので、宿で煮てもらうことにして手にぶら下げてまた歩き出すと、火縄銃をもった狩人に出会いました。狩人が言うにはこの辺りで天狗に出会ったことがあるという。弥次は強がりを言って馬鹿にしたりしますが、火縄銃に下げていた火縄の火が高い木の上でちらちら光っているのを見て3人ともおったまげ、これは天狗の仕業だといっておろおろし、最終的に念仏を唱えひれ伏していると、大木が折れるような凄まじい音がして上から火縄が落ちてきました。これで天狗が許してくれたと思い、
 かかるめにあふて眼もくらまぎれ こころ有頂天狗おそろし
と詠んで新町へ急ぎました。

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gesaku“a trip to Akiyama”4

2011-07-22 | bookshelf
***戯作『秋山紀行』4***
 長野の草津温泉から猟師道を辿ってようやく到着した秘境・秋山郷で、一九と牧山は数々の珍しい事物やおかしな体験をしました。滅多に開帳しない平家の系図を口八丁で見せてもらったのがバレた時は、簀巻きにして中津川に投げ込まれそうになりました。そこで牧山が機転を利かせ「同じ越後の人間で秋山と同じ平家の一門であるから先祖を懐かしく思って見せてもらった」と出鱈目を言い、それなら証拠を見せろと言われて、「我々のきん玉は2粒だ。平家一門以外は一粒だ。さあ殺すなら殺せ。」と出放題に言いました。秋山の人達は俺らのも二粒だと言って納得して、一九たちは助かりました。それから、系図に何が書いてあったか虚実を交えながら話してやり、翌日苗場山登山に連れて行かれました。
 1827年に牧之が秋山を訪れた際には苗場山(2145m)には登っていないようですが、この17,8年前に登ったことがあるそうです。苗場は今ではスキー場で有名ですが、彼らが登ったのはスキー場の反対側、小赤沢から入りました。
 越後(新潟)は次の大赤沢からで、そこからまた恐ろしい橋や険しい道を歩いてやっとのこと見玉不動尊へ到着しました。(上画像)
その日は清潔な寝具・夜着だったので初めてゆっくりと快く眠り、翌日早朝、一九と牧山が不動明王に参詣すると、堂内には籠っていた盲目や眼病の人が大勢いて、一九も一心に拝みました。
 さて、一九の眼が好くなるようにと牧山が連れてきてくれた秋山への旅も終了し、ここで2人はいつか再び会うことを約束して、一九は千曲川を遡って善光寺へ、牧山は十二峠を越えて塩沢へ向け東西に別れて、この戯作(小説)は幕を閉じます。



 読後わたしは、2人はこのまま津南まで行って、そこから東西に別れたと思いました。現代の地図では、見玉から西へ向かう街道はないので、中津川を下って信濃川(千曲川)との合流地点にでて(現国道405号から国道117号を西へ)谷街道を湯沢温泉方面に向い、飯山から旧谷街道(県道414)で中野・小布施・須坂を経由するルートかな、と推測しました。とすると、牧山が見玉でさっさと別れてしまうのは不自然に思われます。しかし実際秋山を訪れた時の牧之の復路は往路と同じだったと考えます。
 塩沢→上野(温泉)…国道353…十二峠(現在トンネル)→倉下→清津峡…清津川にかかる万年橋(当時はスギ丸太。現在も在る)…小出…(荒沢峠)→田代→所平(迷路の平原)→野士(秋成?)→見玉 を逆にたどったと考えられます。
 一九は牧之にとって自分の著書の出版に尽力してくれた恩人であり、息子の牧山にとっても大先生です。56歳の眼病持ちの一九を大きな街道まで送っていくくらいのことはするはずです。と考えるとやはりこれは全くのフィクションであって、一九は秋山には行っていないばかりか、牧山も行っていないんじゃないかと思います。
 この戯作の設定年文政3年1820年の2年前、一九は越後に牧之宅を訪れています。翌年文政2年1819年に『善光寺道中 続膝栗毛 九編』を刊行しています。この九編は越後糸魚川へ出る街道(糸魚川街道・国道147)を通った時の事や1818年三国街道を通って塩沢の牧之宅へ逗留し清水街道(国道291)を歩いて牧之の案内で清水まで熊狩りを見に行ったこと、大笹駅黒岩氏(戯作・秋山紀行の最初に文政3年7月草津温泉の文人・黒岩鷺白の宿に湯治したと書かれている)に宿泊したこと等を色々な場面の趣向として使っていると、本文の前に断わってあります。そうすると、一九が草津の黒岩氏の宿に泊まったのは文政3年ではなく、文政元年1818年鈴木牧之を訪問した同年だということになって、戯作の秋山紀行は牧之がその時の事を趣向にしただけで、実際一九は秋山へは旅していないと確信しました。
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gesaku“a trip to Akiyama”3

2011-07-21 | bookshelf
***戯作『秋山紀行』3***
 案内人もなく一九と牧山とお供2人のみの心細い秋山までの道すがら、一匹の大きな狼が彼らの前に現れました。狼は牧山に近づいてくるので、牧山は「獣の血で刀を汚したくないので、狼の舌を引き抜いてやって、先生の土産話にしましょう」と自分を犠牲にする覚悟を決めて、他の者が止めるのも聞かず狼の口の中へ手を突っ込み一気に舌をつかみ出しました。狼は何故か尾を振って目を細めて牧山を見つめ感謝している様子なので、牧山が抜いた舌を見るとそれは大きな獣の骨でした。狼は喉に詰まった骨をとってもらったお礼なのか、一九たちを先導して歩き始めました。一行は不思議に思いながらも狼に和山まで案内してもらうことにして各自お守りを首に結わえ付けてやりました。信濃側秋山の入口、湯本(現・切明)辺りで狼は別れを告げるような仕草をして中津川の渓流へ身を投げてしまいました。驚いた4人は涙を拭いながら念仏を唱え、無事和山村へ到着しました。
    牧之直筆の秋山マップ
 戯作では左・和山から右・見玉方面へ進む。実録では、牧之は右から和山・湯本へ入り同じ道を戻っている。

 さて、ようやく秋山へ入った一行は、この地方独特の集落の生活風習に興味津々に見て回りました。
 秋山の風景や生活習慣・風習・食事や平家落人伝説などの著述は、牧之が実録『秋山記行』で述べている真実だと思いますが、先の狼の話のように全くの創作にも筆が冴えていて、一九顔負けの滑稽話も登場します。
 宿泊を頼んだ家で蕎麦をご馳走になりましたが、蕎麦は旨かったものの汁が糀を入れない味噌(納豆のような臭いがするらしい)で作ったものなので蕎麦ばかり食べていましたが、供の者が汁のおかわりを頼むと、古ぼけた尿瓶にはいった汁を出したので一同開いた口が塞がらず、「この器は世にも珍しい趣のある雅やかな形ですが、先祖伝来の品物ですか?」と尋ねてみました。正直一途の秋山の人は「里に行った時、古物屋の店先にあったので茸と交換してきたもので、大切に仕舞っていましたが皆様のご馳走の器にと思って出しました。」と説明すると、供の者はあきれ果てて「道理で小便臭い汁だ」と言ってしまいましたが、小便臭いというのを誉め言葉だと勘違いしてある逸話を話し始めました。

        秋山の大きな民家
「以前里の店に干した魚の子があったので、これは何だといったら、数の子だと教えられ、人が買っているので俺らも買って帰った。家で大根汁の中へ入れたが固くて誰も食べられないのでカカァが腹を立てて残っているのを門口へ投げ捨てたら散らかって、小便桶の中に三つ四つ入った。5・6日後小便を汲んだら、柄杓にひっかかった数の子がぶとぶとと大きくなって旨そうだから、川でよく洗って食べたら、そりゃあとても旨かった。道理で小便は大切にして畑の菜・大根・瓜などにかけると味が出ると聞いています」
一九はこれに興を覚えましたが、供の者は椀に残っている蕎麦を気味悪そうに眺めて食べるのをやめてしまいました。
 この創作部分は、一九が読んだらさぞかし可笑しがって喜んだろうと思います。これが書かれた1828年の現実の一九は、眼病と5・6年前からの中風で不自由な体になっていました。翌年には江戸大火で類焼し借家住まいをさせられています。そんな一九の身を案じて、牧之はこの戯作を執筆したのかな、などと想像して読み進みました。

鈴木牧之の歩いたルート
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gesaku“a trip to Akiyama”2

2011-07-20 | bookshelf
***戯作『秋山紀行』2***
 一九と鈴木牧山は、草津温泉から東二里ほどにある入山という地区(現群馬県吾妻郡六合(くに)村)の小倉村で一休みしました。ここで一九は入山の人々の珍しい話を聞いて、方言をリストにしています。
といっても、この戯作は主人公一九の一人称語りで書かれているので、実際調べたのは鈴木牧之自身です。例えば便所は「ようじょうば」飯は「ごごう」、方言ではないけれど「十人中九人まではよくそら唄をうたう」というような興味深いことも記されています。
 戯作といっても一九の『東海道中膝栗毛』のようなナンセンス滑稽話ばかりではなく、実録『秋山記行』を踏まえた風景描写や風俗研究もきちんと書き込まれているため、紀行文としても十分堪えられる内容です。牧之は一九に依頼された実録の紀行文とは別に、頼まれてもいない一九を主人公にした戯作までも書いたということは、彼と一九が書籍出版上の関係以上に友情が厚かったことを示しています。
 さて、一九牧山一行は入山から獣道を北上します。

  現在草津から国道405号が野反湖まで続いている。
 おそらく彼らは現国道405号の道を北上したのだと推測しますが、湖の記述はありません。野反ダムというのがあるので、湖はダム湖で当時は存在しなかったのかもしれません。この先は現代の地図にも道がありません。
 弁当を食べ一服した一行は、ここから山師の道もない険しいところを歩きましたが、景観は書き表すことができないくらい素晴しい、と書いています。休み休み歩いて夕方、燕滝の近くの猟師小屋で一泊することになりました。
 燕滝は地図にのっていませんが、岩菅山の麓だと書いてあるので長野県下高井郡山ノ内町の魚野川(画像地図に中津川と記入してある)沿いの何処かでしょう。
 小屋といっても岩を利用した、木の皮で屋根が葺いてある雨露をしのぐ程度の殺風景なもので、猟師は平(ひら)という罠で捕った猪を解体して猪鍋を作るというような野趣に富んだ宿泊を楽しみました。今でこそ「ぼたん鍋」は臭みもなく肉も柔らかくて食べやすいですが、当時はやはり臭いがひどくて慣れない者にはとても食べらなかったようです。一九たちは、釣ったばかりの岩魚を持参した味噌で煮て、炊いたご飯と食べましたが、猟師は粟飯を少し食べてあとは大鍋いっぱいの猪肉を食べていたので、ごはんとおかずが逆転している様を珍しく眺めていました。
 猟師が気を使って、翌日は猪の一番うまい太ももを煮てあげましょうと言うのを一九たちが辞退すると、「それでは草食のカモシカを食べてください」としきりにすすめるので、弱った一九は「見玉不動に獣肉を食べない願を掛けたので食べれません。それより岩魚は江戸でもとても口にできない味なので岩魚にしてください。」と言って納得してもらいました。
 翌朝は早朝に起き昨夜の残りで朝食を摂り、岩魚釣りに出かけ楽しんでいるうち午前9時になり、秋山の入口までまだまだあるので急いで出発しました。
 道中は、岩の階段のようなところが多く、前後左右はうっそうとした老木で薄暗く、大木が糸のように交わっていて歩きにくいので、猟師の一里は一般人には3・4里にも思えて、こんな旅は生涯の内で最初で最後だろうと一九は思いました。案内の猟師曰く、そこから秋山の入口・和山までは3里という。
 国道405号が途切れている幻の国道405号は、群馬県野反湖から魚野川を切明まで北上する道で、旧草津街道といって、近年ようやく中・上級者向け登山道としてルート整備されているようです。旧草津街道は北上すると5時間30分くらいかかるようです。
 秋山郷までは猟師の暇小屋があるばかりで、鍋の一つもないので生米でも噛んで、断食したつもりでそこで寝てくださいと案内の猟師に言われ、一九と牧山は「生米なんか食べれるものか」と苦笑してしまいました。
 翌日再び秋山郷に向かう途中、案内人の猟師がカモシカを捕ろうとしてカモシカもろとも崖下に落ちて怪我をしてしまい、案内は無理となった為その先は一九と牧山とそのお供たち4人のみで教えられたルートを進むことになりました。心細くも、川原づたいに巨石や奇岩を眺め、岩石を飛び越え山によじ登り、木の根や岩にすがって進んでいくと、岩かげから大きな狼が一匹現れました。

 
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gesaku“a trip to Akiyama”1

2011-07-19 | bookshelf
***戯作『秋山紀行』1***

 十返舎一九や曲亭馬琴など江戸文人と交友のあった越後塩沢の文人・鈴木牧之(ぼくし)が1827年(文政10年)、新潟県南魚沼郡塩沢町から津南町を経由して「秋山郷」の和山という集落まで行って帰ってきた旅をまとめた『秋山記行』という紀行文と同時に、それを元にした戯作も書いていたそうで、調べてみたらその戯作は、一九を主人公として牧之の養子・牧山と一緒に草津温泉から津南町にある見玉不動尊へ参詣するというストーリーなので、これは読んでみたいと調べたら現代語に翻訳した書籍が図書館にあったので借りて読みました。
 鈴木牧之は雪国の生活や風俗を著した『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』を江戸で出版するために初め馬琴を頼りにしていましたが一向に埒が明かず、預けていた原稿を返してもらって一九に依頼、一九の人脈で『北越雪譜』はようやく日の目をみることができました。
 そんな縁もあって、一九は塩沢まで行って牧之の家に逗留したりと親しくしていました。『秋山記行』は、一九の依頼で牧之59歳の時(1828年文政11年)に執筆し1831年天保2年に一九に送りましたが、その年に一九(67歳)が亡くなったので出版はされませんでした。その後草稿などから本として出版されていますが、同時に執筆した戯作のほうはあまり知られていないそうです。
 戯作『秋山紀行』は、牧之の秋山への旅紀行と一九にまつわる虚実を織り交ぜながら描かれた、道中ものとは一味違った読み物で、私は地図を見ながら秘境・秋山郷を楽しみました。

   現在は国道405号が通っていて見玉不動は山深い所に今も健在!
時は1820年文政3年旧暦7月、一九の友人が経営している草津温泉の旅籠屋に、牧之の養子鈴木牧山と一緒に湯治していたところから始まります。56歳の一九は眼病を患っていたのですが、温泉に入ってもさほど効果がなかったので、牧山が「上越後に見玉不動というのがあって、その不動は何か願い事をして参詣することを約束すれば全快します。もし後利益があったら参詣に行きましょう」と提案しました。一九は早速「三年間は鳥を一切食べない」と願を立てたところ翌日から目がすっきりして痛みがとれ、どんな道でもいいから近道をして一刻も早く参詣したい、と道筋を聞きまわったがあやふやなままで思案にくれてしまいました。
 そんな時、獣肉や岩魚の行商から魚を買おうとしていたら、その商人が以前熊狩り見物した時狩りをした秋田出身の猟師(マタギ)で、見玉不動までの最短の道筋に詳しく案内してくれ、疲れたら背負ってくれるとまで言ってくれたので、一九は喜んで頼みました。
 正規の道なら三国峠を越えて塩沢経由か、善光寺街道を通って行くかですが、それだと40里くらいでものすごく大回りになります。しかし、猟師が案内する近道は13里ですがマタギが使う道なき道で、実際現在の地図でも国道が途中消えている地区があります。

草津から津南までのルート。
津南から一九は善光寺にむかい左へ、牧山は十二峠を越えて塩沢へ帰郷した。

猟師の足だと見玉までは1日半の行程だというので、慣れない一九一行は2日半と想定しました。一九と牧山、そして各自1人ずつ供を連れて4人は旅支度を整え7月27日出立しました。
 
 実際、一九の年表を見ると、文政3年7月上州草津に入湯し、牧山と共に秋山を巡ると書いてあります。でもこの年表が牧之の戯作を読んで事実として考えられて作られたものなら、事実でない可能性も考えられます。56歳では体力的に無理っぽそうな道程ですし、一九は前年長野県伊那市と名古屋にも行っているし(こちらは仕事絡み)、著作も相変わらず数多いから、草津や善光寺は行っても秋山郷へは行ったかどうだか…と私は思いました。

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a trip to oumihachiman

2011-07-15 | trip

近江商人の街・近江八幡は、名前の由来・日牟禮八幡宮の門前町が伝統的建造物保存地区として観光地になっています。日牟禮八幡宮には無料(多分)駐車場がありますが昼には駐車スペースがなくなります。街の中に市営駐車場(有料)が2箇所あります。
 観光地なので、近江商人の住宅などが博物資料館として公開されていて、街並みも当時を偲ばせるような風情になっています。メイン通り以外の東西の細い路地を歩いても面白いです。


正面真っ直ぐの通りが街並み保存してある新町通りで、これと交わっている道が京街道、別称朝鮮人街道で、江戸時代徳川幕府は朝鮮と国交回復を図り朝鮮通信使を江戸に招いた折使ったそうです。

近江は沢山の街道が通るだけでなく、水路も発達していました。八幡山の麓を流れる八幡堀は時代劇のロケにも使われているそうです。
堀で泳いでいたカモは人懐こく、呼んでもいないのに寄って来ます。(目つきスルドかったけど)


お天気がよかったので八幡山へロープウェイで登ってみましたが、山の上は豊臣秀次が築いた山城跡で、瑞龍寺というのがありますが、そこまで行くのに結構なハイキングになるそうなので、お願い地蔵というのに「筋肉痛になりませんように」と祈り展望台で休憩して下りました。
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a trip to azuchi 2

2011-07-14 | trip
 安土城跡まで登って、相当バテていたけれども、欲の皮が張って下山は見寺跡と三重塔・二王門も見ようと思って回り道をしました。

 山の中腹あたりにある見寺は、1854年に火災で焼失し現在は跡しか残っていませんが、大手道の徳川家康邸跡に仮本堂が建てられています。信長の時代から現存している三重塔と楼門は一見の価値ありの建造物です。
 しかし、このルートは足場も悪く、ようやく石段を下りきると緩やかな坂の細道になりますが、片方は崖で、ちょっと怖いので一人では行かないほうがよさそうです。
 こりゃあ翌日筋肉痛必至だと懸念して、宿の温泉に浸かって足を揉んだら、筋肉痛にならなかったから温泉効力絶大でした。単純温泉だったけど。
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a trip to azuchi

2011-07-12 | trip
 平成元年から20年計画で進められた環境整備によって、雰囲気を損なうことなく復元整備された安土城へ登ってみました。
   安土城界隈観光マップ
 安土は名神高速八日市ICから、彦根から近江戦国の道(県道2号)or国道8号で入ってもいいし、竜王ICで降りて近江八幡経由で県道2号から来るルート。鉄道なら東海道本線安土駅下車でレンタル自転車で回るのもよし。自動車も各施設には広い駐車場が完備されているので安心です。
 安土城は、整備されているとはいえ復元建造物はないので、まずは安土城考古博物館と安土城天主が復元されている信長の館へ行って学習すると妄想力がつきます。第2常設展示室の映像シアターは絶対見ておきましょう。この地区は「文芸の郷」となっていて無料駐車場完備。

           織田信長さんはこんな顔
 信長の肖像画は驚くほど沢山あって、そのどれも違った顔ですが、上の画像のは当時の宣教師が描いたもので、外国人が描いただけにちょっとバタ臭さはあるものの月代に毛を生やしていたりリアルな気がします。
 あ、うつけ者時代の信長さんだ!どこ行くんだろ。付いてってみましょう。


 ここは、安土城への入口です。手前に駐車場があり料金500円。右手に無料休憩所とトイレがあります。ここをまっすぐ行くと秀吉邸跡や前田利家邸跡があったとされる大手道。

安土城天主跡へ登るのには入場料500円。整備されてるとはいえ、大人でも結構きついハイキングコースです。摘まれた石段は高低がバラバラなので登りにくい上、坂は急です。大手道の前に無料貸し出し杖があるので持って行くと重宝します。

            左側が秀吉邸、右側が前田邸
登り始めはなだらかな石段ですが、この先の曲がったところから登山になります。でも山の中は涼しく湖からの風が心地よく吹き、眼下の風景を見たりすると疲れも忘れ、ふうふう言いながら登っている居合わせた知らない観光客と声を交わしながらなんとか辿り着いた天主跡。約28m四方に礎石があるだけの場所で、地上6階地下1階、高さ33mもの木造高層建築が建っていたとは思えない程の狭さ。
           
この城の上5,6階は「信長の館」に再現されています。
           
天主から琵琶湖方面の眺めは最高でした。
           
現在は琵琶湖を干拓して広大な田園となっていますが、当時はもっと水辺が近かったようです。下山ルートは、余裕があれば順路通り見寺本堂跡経由で降りると、大変ですが歴史的建造物も見れます。
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69stages of Kisokaido-66stage Musa

2011-07-10 | trip
***木曾海道六拾九次-六拾六 武佐***
 先日、安土・近江八幡へ行きました。事前に調べた際、近くに中山道武佐宿を地図で見つけたので寄ってみました。

 江戸時代に整備された五街道の内、東海道は国道1号線の元になっているし、木曾海道(下諏訪から西の中山道)は国道8号線と21号線と19号線。馬籠・妻籠・木曽福島・奈良井宿などは観光地化しているのでそこを目的に行きましたが、その他の宿場はよほどの街道マニアでなければ行かないけれど、ちょっとした旅行で近場にあるのなら、気軽に寄るようにしています(東海道もできるだけ下道を走って寄ったりしてます)。
 私が一番好きな浮世絵師、歌川広重の風景画は、保永堂版東海道五拾三次が有名ですが、中山道シリーズもなかなか良い絵が揃っています。東海道シリーズがヒットして2匹目のどじょうを狙おうとした板元・保永堂竹内孫八が1835年から手掛けたのが『木曾海道六拾九次』。日本橋から大津までを描いたものですが、当初広重は係わってなく、画工は渓斎英泉でした。英泉は色っぽい美人画を得意とした絵師でしたが、保永堂が何故英泉に依頼したのかは謎です。英泉は武家出身にもかかわらず酒と女好きで女郎屋を経営するなどしていた性格からなのか、69枚もあるシリーズものを順序良く仕上げていくのが不向きだったか、あるいは画の趣向が板元の求めるものではなかったのか、途中から広重に依頼され、英泉と広重の2人の画工となりますが、最後のほうの宿場は広重だけの絵になります。


終点大津に近い66番目の武佐(むさ)宿は広重の画。描かれているのは、近江路武佐宿を過ぎた日野川に舟橋が渡してある場所で、正確には武佐ではないようです。当時橋は渡り賃が要り、画面の奥に料金所が描かれていますが、この2つ前の絵「恵知川」と「高宮」の橋は無賃だったそうです。近江八幡の博物館などで知りましたが、近江商人たちは自分達の荷を運ぶため自費で橋を掛け、渡り賃はとらなかったということです。

 近江八幡から名神のインターへ行く途中の国道が中山道(近江路)武佐宿を分断するように交わっているので、私は東側の街道を脇本陣まで行ってみました。特に街並み保存していあるようではありませんでしたが、江戸時代の風情も感じられるようなひっそりとしたたたずまいの生活道路でした。所々に歴史的家屋や本陣跡、現在も営業している旅籠屋もあるそうです。

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the lake biwa

2011-07-07 | photo

***the distance between lovers***






 湖からひんやりした風が吹く黄昏どき。
 湖面左手奥は沖島。
 下の画像、正面が沖島、沖島左側切れてるように見える所が漁港。
 その向こうは比叡山?
 夕涼みをするカップルたち。

 
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brothers quay's stop motion animation“maska”

2011-07-04 | art
***ブラザーズ・クエイ人形アニメ「マスク」***
 Brothers Quay(またはQuay Brothers)の現時点での最新作「MASKA」(邦題:マスク)。製作されたのは2010年で、日本では今年5-6月映像アートの祭典イメージフォーラム・フェスティバル2011のプログラムの1作品として公開されました。
 25分にも満たないショートフィルムでしたが、クエイ兄弟ファンには堪らない、原点回帰のような全編オブジェを使用したストップ・モーション・アニメショーンです。


 舞台は西欧の君主制国家。どうやら中世風なのですが、殺人ロボットを製作できるほどの高度なテクノロジーを持っている国の国王が、自分に逆らう男爵(だったと思うが)を暗殺する目的で、魅惑的な女性ロボットを造り殺すようにインプットします。
このロボットは自分で考えられるように“心”を組み込まれているので、なぜ自分がここにいるのか、何をしようとしているのか疑問を感じながらも、伯爵夫人として男爵に近づきます。


ロボットの伯爵夫人は女性の心を持っているために次第に標的の男に惹かれ、お互いそうとは知らず恋に落ちてしまいました。しかし、彼女の体内で変化が起こり始めます。そして遂に彼女は、愛する男を殺すために送り込まれた殺人マシーンだと気付くのです。


心では愛しているが、インプットされた命令には逆らえない運命の彼女は、どうせ幸せになれない2人なら、いっそ自分が殺して愛を遂げようと思います。そして伯爵夫人の外見が剥がれ落ち、カマキリのようなマシーンと化した彼女は逃げる男を執拗に追います。
遂に男を押し倒してプログラムされていた使命を全うし、彼女もまた男の屍の上で動かなくなってしまいます。冬が来て2つの体の上に雪が積もり3年と3ヶ月(この数字に何かしら意味があるのでしょうか)いつしか1つのオブジェのようにそこにあり続ける・・・という悲哀劇。

 原作はスタニスワフ・レムと云う作家の同名小説ですが、知らないのでストーリーについては何とも言えませんが、過去のクエイ兄弟の取り上げる題材としてはシンプルですし、ヒロインの伯爵夫人ロボットのモノクロームがはいるので解りやすかったです。
 もちろん、いつものようにピントをぼかしたり、ちらっとしか写さなかったり、といった思わせぶりなショットも健在ですし、人形たちも相変わらず汚れています。彼らお得意の、女性の心理状況をイメージした「幾重にも上に繋がる梯子」(わたくしが登場する「櫛」に使われている)など、想像を超えて妄想しないと楽しめない難解な表現もあります。
が、基本的には、今回の作品はかなり大衆的に作られているように感じられました。
 それも今のご時勢、仕方がないのでしょうか。

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a surface

2011-07-01 | photo

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