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attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga final

2014-07-31 | bookshelf
源内櫛だそうです

 平賀源内の刃傷事件の高松藩の木村黙老説は、被害者2名が役人と土木工となっている点で間違っているのは明らかです。更に、源内自身「下戸(酒が飲めない)」と言っているので、正気がなくなるほど泥酔するとは考えられません。
 「代地録の写」に明記された被害者、秋田屋の久五郎というのは米屋の倅で、丈右衛門というのは勘定奉行の中間(雑務担当)でした。彼らは源内の友人とされていますが、米屋と勘定奉行所の雑務担当者が揃ってやってきて、いわくつきの幽霊屋敷で一泊した、と聞けば、借金の取り立てじゃなかったのか、と安易に想像できます。
とすると、a.源内先生は借金を踏み倒すために2人の殺害を目論んだのではないでしょうか。
 田沼意次が源内を秋田へ派遣したのは、密かに蝦夷と貿易するためだったという説もあります。源内先生は田沼の抜け荷(密貿易)に関わっていて、密偵だった久五郎と丈右衛門に隠し持っていた機密文書を盗まれそうになったため、阻止しようして斬ったという、b.田沼意次を守るため自己犠牲で犯してしまったという可能性もあります。
 世間から冷たい目で見られ、人間不信に陥り、精神不安定になって癇癪も起こったので、自ら薬草を調合して安定剤的な薬を作り服用したのが、実は幻覚作用を引き起こすもので、c.薬の効果で犯した突発的な事故、という線も有りうると思います。源内は本草学者で薬草や鉱物をたくさん貯蔵していましたから。
 もし、a.だとしたら、生き残った丈右衛門が斬りつけられた理由を話しているはずなので、借金絡みの線は薄いと思います。
 c.は、突発的なところから、現代の危険ドラッグ的な事故を連想させる事件なので、アリかなと思いましたが、そうなると小田野直武の急死の因果関係がなくなってしまいます。また、投獄された源内がだんまりを決め込む理由がみつかりません。
 そうすると、やはり事件の裏には源内が死んでも言えない理由があったわけで、そこまでして守らなければならなかったからには、ばれれば国の一大事になるほどの秘密だったのでしょう。それが、田沼の抜け荷だったかどうかは確定できないとしても、源内は発作的に罪なき人を斬りつけたのではなかった、と考えられます。秘密を守るため、源内は牢獄で一切釈明しなかったのだし、1か月後獄中で死んだ(病死となっていますが)のでしょう。被害者も源内がバラさない事をわかっていて、「自分は何もしてないのに突然」みたいにしらばっくれた、小田野直武は源内に近かったため秘密を知られたと思い、田沼側から秋田藩へ圧力がかかって処分された、とも考えることができます。
 これらの推理は、『学校では教えない日本史』にも載っていました。
 b.が一番信憑性が高いように思われますが、それだと源内先生が正義感の強いいい人すぎな気がしないでもありません。
 お金に困った源内が、田沼意次にお金を用立てして(或は仕事の世話)貰おうと、脅迫めいたことをほのめかして金を無心したために、刺客(久五郎と丈右衛門)を送られ、信じていた田沼意次に裏切られたというショックと、自分の存在意義を見失って、獄中で果てた(自殺未遂の傷から破傷風にかかって死んだ、という説もある)のかもしれないなぁ、などいろいろ想像すればするほど、源内先生が哀れに思えてなりません。
 end

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga 4

2014-07-29 | bookshelf
『学校では教えない日本史』扶桑社 2008年刊行
平賀源内の刃傷事件の謎が、解りやすく簡潔に掲載されていました。

 平賀源内が小田野直武と出会ってから刃傷沙汰で投獄-獄死するまでの期間が、7年ほど。源内先生が一番輝いていた時期は、エレキテルの復元に成功した時だったと思うのですが、エレキテル復元成功で時の人になったのは、私は漠然と源内先生が江戸へ出て暫くしてから、彼が江戸へ来たのが30か31歳だったので40歳くらいかと思っていました。ところが、エレキテル復元に成功したのは、刃傷事件のほんの3年前だったとは、意外でした。
 壊れたエレキテルを手に入れたのはもっと前の事ですが、復元するのは容易ではなく、桂川甫周の知恵を借りたりしながら、弥七という工人と共に6年かけて復元したのでした。尤もその間、エレキテルだけに没頭していたわけではありませんでした。没頭できない理由が、彼にはありました。
 源内先生は、自由を求めて高松藩を脱藩した際、藩から「仕官御構(しかんおかまい):他藩へ仕官することを禁ずる」に処されたのです。自分の好きな事をして身を立てようと大志を抱いて江戸へ出た源内先生は、仕官御構のせいで、誰のために働いてもそこに根を下ろし大成することができませんでした。彼の才能を買って仕官して欲しいという藩があっても、仕官御構の身であることを隠さなければならず、体よく断っていたのです。後ろ盾も資金源もない源内先生は、己一人で稼いで生活し、研究をしなければなりませんでした。
 彼は本業の本草学を活かして、江戸の本草学者・田村藍水に師事し、物産会を主催して実績をあげていました。1772年、田沼意次が老中になると、彼の推し進める殖産政策と源内の利害が一致。田沼意次は源内を登用し、翌年幕府直轄の銅山がある秋田藩へ、鉱山開発の指導員として派遣しました。
 幕府の重鎮からの仕事とはいえ、源内はあくまで個人として雇われているため、生活費や研究のための鉱物や植物の採取にかかるお金は実費。鉱山開発には巨額なお金がかかりますが、当時秋田藩はジリ貧で、源内への礼金も十分ではなかったと思われます。源内は、著した書籍や造った物などで得たポケットマネーもつぎ込んだ、と言われています。そこまでしてやった鉱山開発は、失敗に終わりました。莫大な借金を抱え、それでも源内先生は秋田藩から来た直武の面倒を見、生活費のために浄瑠璃本や戯作執筆しました。
 そうこうして漸く、エレキテルが完成したのです。源内先生はこの摩擦起電機の電気の発生原理を理解していませんでしたが、兎に角ここで起死回生、大いに宣伝し儲けました。源内は48歳になっていました。
 アンディ・ウォーホルは「誰でも15分間有名になれるときがある」と言いましたが、源内先生の黄金期は2年ほどでした。見世物としてのエレキテルが飽きられたこともありますが、2年後一緒に復元作業をした弥七が勝手にエレキテルを製造し見世物にした偽造事件が起こったのです。源内はお上に訴え、弥七は牢獄へ入れられましたが獄死してしまいました。この事件で、江戸の町人たちは弥七が死んだのは源内のせいだ、と言ったのです。
 時代の寵児から一転、山師(詐欺師)呼ばわりされるようになった源内先生の胸中を想像してみると、自暴自棄になってもおかしくなかった、と思います。事実、源内先生は友人への手紙に「癇癪が起こる」と書いていました。癇癪がどの程度のものか知る由もないですが、偽造事件の翌年1779年の春、例の幽霊屋敷へ移り住みました。エレキテルが下火になって以降、源内先生は金唐革紙の煙草入れや豪華な源内櫛(菅原櫛)を製造販売して収入を得ていました。
 
 弥七のエレキテル偽造は、源内の著したエレキテルについての本を見たからこそ出来たことでした(弥七のエレキテルは結局静電気が発生しない失敗作だったそうですが)。この事件が、馬琴の『作者部類』に書いてあった「当時の源内は親しい友人にさえ著述の稿本を見ることを許さなかった」という噂の裏付けにならないでしょうか。鉱山開発の失敗もあり、本草学者としてこれといった業績を未だあげられない源内は、田沼意次に対して焦燥感を持っていたに違いありません。そんな時、近しい人に裏切られたショックは、大きかったと思います。自覚ある「癇癪持ち」と焦燥感、これが源内を狂気へ向かわせたのでしょうか。
 勿論、精神的な不安定さもあったかもしれません。しかし、刃傷事件の真相として伝わっている説は、大事な部分がぽっかり抜けていて、そこを無理やり「源内発狂」で埋めているように思えてなりません。

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga 3

2014-07-28 | bookshelf
『風狂の空 平賀源内が愛した天才絵師』 城野隆 著
祥伝社 2009年刊行 執筆2006~7年

 前野良沢・杉田玄白らが翻訳出版した『解体新書』に、平賀源内が少なからず関係していることは知っていましたが、どう関わっていたのかまでは知りませんでした。以前読んだ『源内先生舟出祝』に、『解体新書』の挿絵を担当した絵師が源内の門人だった、ということだったので、本当にそんな人いたのだろうかと吉村昭『冬の鷹』を再度めくってみたら、ちゃんと記述がありました。『解体新書』の挿絵画家なぞ興味なかったので、存在さえ気にもしていませんでした。
 『解体新書』の挿絵を描いた男、小田野直武(1750-80年)を主人公にした歴史小説があったので、読んでみました。↑
 小説なので、どこまでが史実でどれがフィクションかはわかりませんが、この『風狂の空』や以前読んだ『源内先生舟出祝』にしてみても、小田野直武という人物は、源内とかなり親密に交わっていたように書かれていました。『風狂の空』では、直武が源内先生の秘密を知り、刃傷事件も目撃してしまうのですが、『源内先生舟出祝』では、そこまで源内に深く関わった人物として描かれていませんでしたが。源内と直武の関係は資料に残っていないので、執筆者の創作なのでしょう。
 しかし、直武のその後の処遇を知ると、源内先生の刃傷事件と投獄が、なおさら「源内発狂」ですまされない何かが隠されているように思えてきました。秋田藩角館の藩士小田野直武は、幼少の頃から絵画を好み、藩主にも認められるほどの才能を持っていました。1773年、秋田藩主から鉱山開発の指導員として招かれた源内は、そこで直武と出会いました。正確には直武の描いた屏風絵に興味を持った源内が、描いた者に会いたいと申し出たのですが、源内は直武に並々ならぬ才能を感じて江戸へ来るように藩に働きかけ、直武は異例の待遇で江戸へ来ることが出来ました。江戸ではちょうど『解体新書』の出版に向けて、杉田玄白ら蘭学者が作業を進めている最中でした。彼らは、原本から挿絵を写し取る絵師を探していました。その絵師が角館から出て来て間もない直武に決まったのは、記録にはないものの源内の推薦によるものでしょう。直武は、本草学者であり蘭学者である源内先生から遠近画法を使った蘭画を教わり、後に秋田蘭画と呼ばれる一派をなすほどの蘭画絵師になりました。
 ところが、一旦郷里へ戻った後、再び江戸に出て絵の修業をしていた直武は、源内の刃傷事件の同年、突然「遠慮謹慎」を藩から申し渡され帰国、源内が獄死した翌年に急死しているのです。享年30歳。死因は不明です。
 江戸時代の「遠慮」は、門を閉じて昼間の外出を禁じた軽い刑で、夜間目立たないように出入りするのは許されていたそうです。江戸で特に罪を犯した訳でもないのに謹慎を命じられ、さほど厳しくもない状況下で急死した、という不自然さ。それが源内の死とオーバーラップするように起こっていたという事実。彼は何か秘密を知っていたのでしょうか。だとしたら、秘密とは何だったのでしょうか。

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga 2

2014-07-16 | bookshelf
台東区橋場にある源内の墓

 源内先生が引き起こした刃傷沙汰の直接原因は、どうやら明確にすることは無理だとわかりました。
 現在有力な2つの説や馬琴が聞いたという巷の説の共通項を挙げてみましょう。
・被害者は男2人。
・2人共、源内宅に宿泊していた。
・2人の近くに、源内が大事だと思っていた紙類があった。
・2人は源内から言われもない事で激怒され、突然斬りつけられた。
・1人は負傷のみで逃げおおせた。
・もう一人は重傷を負い、逃げた後死亡した。
噂では、この時源内先生は気が違っていた、と言われていて、現代でもそれが定説になっています。

 源内先生の精神障害を裏付けするものとして、事件の1,2か月前にあった出来事が信じられています。江戸で書かれた『鳩渓遺事』に、「ある人が源内宅を訪れ、揮毫を頼んだところ、源内は少し考えて、我れ近頃甚だ面白き絵の趣向浮かびたれば早速に画きて進ずべし、と言ってすらすらと描いた絵を見ると、岩の上に1人いる者がおしっこをしていて、下にそれを受けて坐して涙している人がいる図で、源内は描き終えて得意然としていた。画意不明だったが、源内は常に人の意表をつくことをしていたから、これも深い寓意があるのだと思って持って帰って考えたが一向にわからなかった。さては狂乱の兆しが既に表れたものだったのか。」という逸話が載っているのです。
 源内の奇行はこれだけではなく、当時幽霊屋敷として有名だった屋敷を買って住んだ、という事実があります。神田橋本町にあったその凶宅で、源内は発狂したとしか思えない事件を起こしたのでした。
 しかし、事件前後の源内に、精神を病んだ者のような狂気は感じられません。些細なことで刀を抜くような精神状態の人の家に、誰が宿泊するでしょうか。高松藩で信じられている木村黙老説は、「某諸侯の別荘の修理の見積書に関係することで、請け負った土木工の見積もりが高額だったため源内に見てもらった。源内は自分ならもっと安くできると言った為彼に任されたので、土木工と争論になった。役人が間に入って、修理は両人がやることに落着した。それで源内は、役人と土木工を自宅に招いて一席設け酒を飲んだ。土木工が、どうやったらそんなに安くできるのかと聞いたので、源内は隠すこともないと書いたものを見せて詳しく説明した。説明を聞いて土木工は感服した。酒宴が長引いて役人は先に帰り、残った土木工は泥酔して眠ってしまった。源内もしたたか酔って寝てしまったが、明け方目が覚めて辺りを見たら、見積書がなく、あちこち探したが見つからなかった。」と書いていて、後は江戸での説と同じ結末です。
 さて、黙老説からは、源内は発狂したというより、酔いが抜けてなく起き抜けだったこともあり、冷静な判断ができない状態だったように見受けられます。精神を病んでいる者に、プロの職人を感服させるような説明ができるでしょうか。
 奇異な絵にしてみても、実際絵が残っていないし、どこの誰だとも判明していないので、信憑性に欠けます。私は、この図の説明を読んで「小便小僧」を連想しました。調べてみたら、小便小僧は12世紀のブリュッセルが起源でした。ブリュッセルの歴史を見ると、なんとネーデルラントと運命共同体だったとわかりました。ネーデルラント連邦共和国=オランダです。蘭学者でもあった源内が、小便小僧の像(作られたのは1619年)か絵、或は物語を知っていても不思議はないでしょう。源内は、まだ日本人が誰も知らないオランダの面白い話を、奇をてらって描いたと考えられないでしょうか。源内の性格からして、中国の故事に習ったとかいうよりは、可能性ありそうに思えます。図の説明から、小便小僧はジュリアン坊やの方ではなくて、ブラバント公ゴドフロワ2世だったのではないでしょうか。
 そして、西洋かぶれの源内先生のことだから、凶宅の怪異だの迷信などには囚われない性格で、幽霊屋敷を買ったのは単に住んでいた家が粗末だったため、広い家が安値で売られていたから買っただけ、と思われます。幽霊屋敷と云われるような家に、人は余り近づきたがらないでしょうから、人の出入りが激しかった以前の住居より、訪問者は減ったことでしょう。山師呼ばわりされ、田沼意次からも疎んじられて失意に沈んでいた源内は、自分を利用するだけに寄って来る人間を避けたかったのだと思います。

しかし、事件はこの屋敷に移り住んで数か月後に起こっているのは、事実です。
 

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga 1

2014-07-14 | bookshelf
エレキテル実験図 北尾政美画 
1787年刊行 森島中良著『紅毛雑話』より

 本草学と儒学を学び、長崎への遊学、量程器・磁針器を作り、藩を飛び出して江戸で物産会を成功させ、日本で初めて石綿を発見し火浣布を織り、壊れた摩擦起電機を復元させるなど、江戸後期の殖産政策に大いに貢献しようとした源内先生。
 お堅い方面だけでなく、浄瑠璃本や戯作本を書いたり、売れない作家や商売人の手助けをしてやったり、庶民や文芸のためにも尽力した源内先生。
 江戸で一世を風靡した有名人・源内先生が、どうして人を殺傷して牢獄へ入れられてしまったのでしょうか。
ある日、源内先生は某侯の屋敷に関わる事で、大工2人と酒を飲んでいました。何時しか皆泥酔して眠ってしまいした。尿意をもよおして起きた源内先生は、厠から戻って懐に入れておいた設計図を確かめようと手を入れましたが、設計図がありません。辺りを探しましたが一向に見つからないので、寝ていた大工を起こして問い詰めるも、大工は心当たりない、と言います。激情した源内先生は、傍らの刀を取り、彼らに斬りつけました。1人は逃げて命は助かりましたが、もう一人は死んでしまいました。立ち尽くす源内先生の足元に、件の設計図が落ちました。源内先生、厠で設計図を落とさないように帯に挟んでいたのを忘れていたのでした。我に返った源内先生は、牢獄へ入れられ、獄中で病死してしまいました。

 というのが、どこで知ったのか、私が記憶している顛末です。たぶんテレビの歴史番組か何かの情報でしょう。勘違いで刃傷事件を起こすなんて正気の沙汰じゃない、と思ったら、源内先生ほんとうに気が違っていたそうです。「時代の寵児」の末路がこれか…と素直に事実だと思っていました。
 しかし、普通に考えても納得いかない事件です。最近知った情報では、某侯は田沼意次だったとか、何やら陰謀めいた臭いもします。城福 勇氏の『平賀源内』にも要約して書かれてありましたが、参考文献に挙げられていた水谷弓彦(水谷不倒:1858‐1943年名古屋出身の国文学者・小説家。近世文学研究の先駆的人物。)の『平賀源内』第十二末路を読んでみました。
 源内研究はかなり早くからされていて、事件について書かれた説もいくつかありますが、大きく分けて2説になるそうです。水谷不倒が引用したのは、曲亭馬琴の『作者部類』に紹介された高松藩家老・木村黙老が記した『聞まゝの記』に書いてあった説の大意と、同じく讃州の儒学者・片山沖堂(ちゅうどう)の『平賀源内伝』の一節。これは、私が記憶していた「某侯の普請が発端」で起きてしまったとするもの(細かい違いはありましたが)。片山沖堂は、黙老の説に「某侯はあるいは田沼意次」と注釈を加えていました。
 『作者部類』には馬琴自身の説も書いてあり、平賀鳩渓(源内の画号)の事件の風聞が騒がしかった頃、馬琴は13歳の冬だったと書いています。馬琴が聞いた当時の街談巷説は、員 正恭(まさやす)という人が著した『讃海(たんかい)』や『鳩渓遺事』(著者・鈴木洪←忄共 は南畝の友人だとか)に掲載されている「神田久右衛門町の代地録の写し」に記された大意と、ほぼ同じ内容です。
 源内が人を殺害した時の記録だという「代地録の写」に因れば、以下のような筋になります。
安永8年11月20日夜、半兵衛店讃州の浪人平賀源内宅へ、秋田屋久左衛門の倅・久五郎と松本十郎兵衛家中・丈右衛門が宿泊していたが、翌日子細はわからないが、源内が刀を抜いて突然両人へ手傷を負わせた。丈右衛門は右手の親指を斬られたが裏へ逃げ出ることができた。久五郎は頭の頂天に一刀をあびせられ、表に逃げたが追って来た源内に組み伏せられた。源内が止めを刺そうとした時、どうしたわけか仰向けに倒れたので、その隙に久五郎は辛うじて逃げて長右衛門という者の家の前で休んでいた。長右衛門が中に入れて介抱したが、死んでしまった。22日、入牢。安永9年2月牢死。

 これには事件の原因が書いてないのですが、馬琴が聞いた噂では、「当時の源内は親しい友人にさえ著述の稿本を見ることを許していなかった。そこへ、常に親しくしていた米屋の息子何某が源内宅へ来たが、留守だったため、待っている間に机に置いてあった稿本を何となく見ていた。帰宅した源内がそのことに激怒し、詫びるのも聞かず刀を抜いてしたたか斬りつけた。息子何某は逃げたけれど、治療の甲斐なく死んでしまった。」という次第だったようです。
 殺した原因は様々あったそうですが、久五郎は米屋の倅に相違なく、水谷不倒も「大工を傷つけたる前説にあらざることいよいよ根柢固し」と述べています。となれば、大工や設計図(書類)という風説はどこからきたものなのでしょう。
 水谷不倒は、この説は源内の出身地で信じられているものなので、藩士(例え足軽出身の下級武士でも)が藩の名を汚すような事件を起こした事実を、さも源内と懇意だった田沼意次との関係に起因していると思わせるように言われていた風説の方を事実と信じて記したのだ、と記述しています。
 とはいえ、伝聞の伝聞は不確かなもので、水谷不倒の持論では「源内は一時は田沼侯に寵遇されたが、余りにも才能があるために反って後には忌まれ、遂には疎外されたのを遺憾に思い、絶望の極みで失心したと判断したのだろう。」と述べ、「しかれどもこの問題は、今容易に決定しがたかるべし。」としています。
 源内の獄死についても色々な説があり、「入牢を知った田沼侯が一計を案じ、自分の領地遠州相良に匿った。田沼失脚後隠れる所がなくなった源内は出羽庄内に逃げて生涯を終えた。」という一説もあったそうです。庄内には石碑があって、そこに彫ってある文字を調べたら、源内作の浄瑠璃の文句だったとか。そして、これは源内の墓ではないということから、源内は蝦夷へ行った、そこに墓がある、80何歳の源内を見たという人がいる、等々尾ひれが付いていったそうです。
 しかしこれらは、源内の親友だった杉田玄白が否定していました。
 この時代の法律では、罪人の死体は親類へ引き渡されないので、着ていた衣類や履物を役人に貰い受け、それらを棺に納めて葬式をあげたそうで、玄白は私財を投じて源内の墓を建て、碑銘を撰して墓石に刻んだ、というのが事実だったと水谷不倒は書いてます。

 私が記憶していた情報は、色んな説がごちゃ混ぜになった話というのがわかりました。そもそも一番信頼性が高い「代地録の写し」の内容に、被害者が斬られる前に何をしていたのか明白にされていないのが腑に落ちません。被害者が米屋だろうが大工だろうが、源内を激怒させた「何かをした、或は言った」はずで、それが直接の原因として書かれてもいいと思うのですが。

portraits of Gennai Hiraga

2014-07-12 | bookshelf
『先哲像伝』 原得斎の自筆模写編集本
著名人の肖像画を集め、略伝と共に紹介した書籍7冊中第4冊「詞林部」に収蔵された
桂川月池(=森島中良or桂川甫周)が描いた平賀鳩渓こと源内像

 平賀源内について、現代では「日本のダ・ヴィンチ」と言われているようですが、明治や大正時代に書かれた彼の評伝や略伝を読むと、山師(詐欺師)で狂人だったと書いてあり、酷いなぁと感じると同時にやっぱりなぁとも思いました。
 「日本のダ・ヴィンチ」と呼ばれる所以は、おそらく「エレキテルを復元した人」だからだと思いますが、「発明」したと勘違いしている人も多いと思います。確かに源内は、壊れたエレキテル(正確には“ゑれきせゑりていと”ラテン語のelectriciteit)を電気の知識もなく復元したのだから大したものです。
 マスメディアの歴史人物伝で紹介される源内は、江戸の長崎屋でカピタンが持っていた知恵の輪をその場で解いて、オランダ人たちを感服させたとか、「土用の鰻」を考え出したとか、当時の江戸の最先端をいっていた人物で江戸の天才、という扱いをされています。だからか、普通に「平賀源内は江戸期の大天才」と考えられているのでしょう。事実、私もそう思っていました。
 「時代の寵児」とか現代で言えば「セレブ」だとかにさほど興味がないので、平賀源内についてもサラッと流してましたが、彼の犯した刃傷沙汰に疑問を持つようになって、調べてみました。すると、よく知られている「平賀源内像」自体が既に真実と違っていたことに驚かされました。
平賀源内の肖像として有名な肖像画
 この肖像画を見る限り、色白痩身で粋な通人という風貌で、「江戸の奇才」に相応しく見えます。平賀源内の容貌はこんな風だった、と誰もが信じていたこの肖像画、源内が生まれた高松藩の家老・木村黙老が、源内没後65年も経ってから、源内をよく知っていたという老人の話を聞いて描いた絵なのです。黙老自身は源内を見たことなく、また話を聞いた老人が誰なのかも不明です。
 本物に近い肖像画は、『先哲像伝』という書物に載っていました。この本も源内没後書かれたものですが、肖像画は桂川月池(この号は森島中良かその兄甫周が使っていたそうですが、恐らく中良の方だと思います)が描いたものの模写(本自体が原得斎:1800-1870年儒学者 が写したもの)だということで、私が読んだ伝記(城福 勇著)にはこちらの肖像画が掲載されていました。
 森島中良は平賀源内の一番弟子だったから、いくら絵が上手くないといっても、特徴は信頼度が高いと思います。本人に近い肖像画があるのに、どうしてこちらは余り知られていないのでしょうか。一見して、月池画源内像は恰幅よい厳つい感じの男で、時代の寵児というカリスマ性が感じられませんが、黙老作の源内は「如何にも」それらしい人物像だからじゃないでしょうか。実際の源内は、友人への手紙に「肥えている」ということを書いているそうで、晩年は特に太ったそうです。
 あるいは、黙老に語った老人は高松藩の人で、源内が藩に仕えていた若かりし頃の姿しか知らなくて、そこに絶頂期だった源内の姿を重ねて描いたのかもしれません。共通してるのは、小さな目、受け口、細い髷、少し張ったえら、細身の刀。薄化粧したような顔は、ひょっとして若衆好きだったことを表現したかったのかもしれません。中良の源内は、額に毛がなく無精髭を生やしていますし、晩年の源内なのかもしれません。
 晩年の源内。本当に気が違って人を危めてしまったのでしょうか。