一鳳斎(歌川)国安画 上州草津温泉観望三枚続
***『続膝栗毛十編』下***
『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』十返舎一九作 一九・二世北斎・春亭画
1820年 伊藤與兵衛板
上毛(こうづけ)の国草津は、諸病に効果があるので遠近の旅客があちこちから来て、宿湯は繁昌。中でも湯本安兵衛(現・日新館)、黒岩忠右衛門(現・ホテル望雲)は、家居花麗を書し風流の貴客がひっきりなしに訪れます。
弥次郎兵衛喜多八も湯宿に着いて、壺ひと間を借り切って休息してました。そこに番頭が来て「かよい帳を付けますから御入用の品は何なりと仰せ下さい」と言って、通い帳とさらしの越中褌と柄杓を置いていきました。2人はしばらくこの旅籠に逗留するつもりなので、煮炊きもここでしなければならないから米・味噌・醤油・所帯道具が記載されてある帳面に記入します。ほどなく下男が膳椀・鍋・薬缶・擂鉢・薪油など所帯回りの道具を運んできて、水も汲み入れて行きました。
弥次さんが味噌を摺っていると、北さんが米かし桶へ米と水を入れて柄杓でかき回しはじめました。無性をするな手で研がねぇかと弥次さんが言うも、北さんは面倒だからこうして流せばいいと言うので、弥次さんもそのまま汁に入れよう、と味噌を摺るのをやめてしまいました。北さんが鍋で米を炊こうとすると、「そんなに水を入れたら粥になる」と弥次さんに注意されます。北さんは「久しぶりにやるから加減がわからない」と言います。
汁の具がないことに気づいた2人は買いに行きます。宿の床下を、商人が色々売りに歩いています。その中で豆腐屋から油揚を1枚買いました。その油揚も細かく切るのが面倒で、2つに引き裂きました。飯を炊いた鍋で汁を作らなくてはならないので、飯をおはちへ移そうとすると埃だらけなので新品の越中褌で拭いて、飯を移そうとしました。ところが飯が真っ黒こげになって鍋にこげついて、ごはんがほどんどありません。仕方なく鍋から直接すくって食べることにしました。しかし汁を作ることができないので、擂鉢を火の上に直に置いて、鍋の蓋をして汁を煮ていました。と、隣りの座敷の上方者がのこのこ挨拶にやって来て、「擂鉢で汁をたくとは珍しい」と言われます。話をしていると汁が吹きこぼれ蓋を取ると、汁は大方吹きこぼれてしまって残った汁も底にこげつき、擂鉢の底がジャジャと鳴って丸くすっぽり抜けて、火の中へジウジウと落ちてしまいました。
弥次郎と北八は灰だらけになりながら、仕方ないので飯だけを茶漬にして食うことにしました。笑いながら見ていた上方者が牛蒡の味噌漬けを分けてくれたので、それをおかずに茶漬を食って、後片付けをしながら一句、
すり鉢に汁をたくとは百の口 ぬけたる底のみそをつけたり
日新館にある一九の友人・月麿画浮世絵の一部分。
その後2人は湯壷を見学に行きました。特に應験ある薬師の瀧湯・天狗の瀧湯というのに大勢の人が浴していました。その他にも熱の湯・脚気の湯・綿の湯、昔源頼朝が浴したという御座の湯というのもあります。色々な湯壷を見物して湯宿に戻り、弥次さんは手水に行きました。戻った弥次さんは北さんに面白いものを見たと話します。「隣りの雪隠に婀娜な年増女が入って、仕切り板に節穴があったので覗いてみるとちょうど尻の正面だった。紙を裂いてこよりを作り節穴から中に入れ、ゐしき(意味不明)の先をつついたら、女は振り返って肝を潰しうろたえて駆け出していった」。
その夜は旅の疲れから2人ともイビキをかいて寝てしまいました。翌朝じゃんけんで負けた北さんは、お茶を作りに起きます。開け放した座敷の前の廊下を、例の年増女が雪隠へ行くのを見つけた北さんは、付いて行って隣りの雪隠へ入り節穴から覗いてみました。そこへ年増女の連れの女がやって来て、雪隠の中にいる年増女とおしゃべりを始めました。北さんは黙って聞いていましたが、つい可笑しくなって吹き出してしまい、女が節穴に気付いて指を差し込んだので、目を突かれてしまいました。女は上州者らしく気が強いので、大声でわめきながら雪隠を出て「昨日尻を突いた奴だな。どんな顔か見てやる、出て来い」と言い、その声で駆けつけた男達が「そいつを引きずり出してぶち殺せ」と騒ぎ出し、北さんは出るに出られません。上方者がやって来て事情を聞いて、雪隠へ入り仲裁しようとするも北さんは江戸っ子の意気込みで男衆にくってかかり大騒動になります。さすがに弥次さんもこの騒ぎに目を覚まし跳ね起きて、相手の男衆を突きのけて北さんを連れて座敷へ戻りました。男衆も付いて来ましたが、「こいつは馬鹿なんで了見してくんさせへ」と弥次さんが謝り、上方者もなだめて、騒ぎは収まりました。
北さんは目を突かれて痛い上とんだ目にあった、とぶつくさ言いながら朝食を済ませ、外の瀧に出かけました。瀧壺には大勢の人がはいっていました。或る人が北さんがいるとは知らず、さっきの騒動を尾ひれをつけて話していましたが、北八に気づいた人が「コレコレ静かに話しなさい。その覗いた人がアレアレあそこに」と囁くと、周りの人々はきょろきょろと北八の顔を見ます。北八は穴に入りたい気持ちで、居たたまれなくなってこそこそ逃げ返りました。
鼻もちのならぬ喧嘩と雪隠の くさつ中にて評判ぞする
隣りの座敷の上方者は、年増女と北八に仲直りの盃をさせようと一席設け、2人を招きました。酒など飲んでいるうち、座も和んできました。そこへ上方者が呼んだ矢場(楊弓場)の娘で16・7の渋皮の剥けた美しい女と按摩の可市法師(べくいちほうし)が現れました。娘は上方者とできていて、見ていられないくらいイチャつきます。可市が踊ったりして座が盛り上がったところで、この可市が「足音を聞いただけで誰だか当てることができる」と云うので、上方者と娘が前を歩くと当てました。北八が尻をまくって可市の鼻先へすかしっぺを2つします。可市は負けじと「たしなみのおぞい人、コリャ瘡気のある人づらァ。この中に瘡かきは誰であんべい」とやり返し、座敷が動くほど大笑いとなりました。
年増女が上方者に礼を言って暇乞いをして、お開きになりました。上方者は翌日帰るので、弥次郎たちに手紙でも書くからと住所を尋ねます。弥次さんは、神田の八丁堀で質両替商の大店の旦那だと嘘をつき、思いの外散財したので江戸まで懐が淋しくなったから実はふさいでいると言い、上方者が金遣いがいいのを期待して哀れっぽくみせました。上方者は「金が入用ならなんぼでも取りかえてやる」と言うので、見込みありそうだと踏んだ2人はその後も酒をくみかわします。
弥次さんと北さんが酔いつぶれて寝てしまった後、上方者は酔っ払って、娘に来年は夫婦になるという証文を作ったから血判を押せと迫ります。娘は黒繻子の帯を買ってもらうと約束して、刀で指を切ります。しかし、上方者は血を見ると癲癇を起こす持病持ちで、失神してしまいました。弥次さんが目を覚まして介抱するも気がつかないので、宿の亭主が医者か和尚を呼びにやると、病人は薬で生かし死んだら回向するという和尚がやって来ました。そんな和尚なのでちっとも身を入れて病人を診ません。
ようやく気づいて、血だらけの証文を読まれ恥ずかしがる上方者。みな笑って各自戻って眠りました。ひと寝入りして目を覚ました弥次郎と北八は、上方者から金でも借りようと相談して、三匁の干菓子の折を買って土産に渡すことにしました。
翌日、二日酔いで顔色の悪い上方者にお礼と出立の挨拶をして干菓子を差し出し、金の無心をしようとすると、上方者から先に「支払いの金が不足なので金十両ばかり貸してくれ」と言われます。弥次郎北八は顔を見合わせあきれ果て、自分達も同じ事を考えていたと白状します。3人共鼻を突き合わせぐんにゃりとなっているところへ、按摩の可市がやって来て「隣りの宿で太平楽を言っていた客が、払えないと騒ぎになって、おらの按摩代は何とかぶんどって来たが、こっちはどうかとやって来ました。鮎を持って来たので熱燗でやりましょう。さあさあ、これから酒だ酒だ」と人の心も知らずわめき散らします。3人がろくに挨拶もせずため息ばかりついているので、可市はこそこそ逃げて行きました。
上方者もしおれて出て行きました。
残った弥次さんと北さんは、つまらぬ顔をして小腹を立てても仕方なく、菓子折三匁の損となって、果ては大笑いの話の種になりました。
『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』下 終