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Ikku's“zoku hizakurige 10” part2

2011-08-29 | bookshelf
一鳳斎(歌川)国安画 上州草津温泉観望三枚続

***『続膝栗毛十編』下***
『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』十返舎一九作 一九・二世北斎・春亭画
1820年 伊藤與兵衛板


 上毛(こうづけ)の国草津は、諸病に効果があるので遠近の旅客があちこちから来て、宿湯は繁昌。中でも湯本安兵衛(現・日新館)黒岩忠右衛門(現・ホテル望雲)は、家居花麗を書し風流の貴客がひっきりなしに訪れます。
 弥次郎兵衛喜多八も湯宿に着いて、壺ひと間を借り切って休息してました。そこに番頭が来て「かよい帳を付けますから御入用の品は何なりと仰せ下さい」と言って、通い帳とさらしの越中褌と柄杓を置いていきました。2人はしばらくこの旅籠に逗留するつもりなので、煮炊きもここでしなければならないから米・味噌・醤油・所帯道具が記載されてある帳面に記入します。ほどなく下男が膳椀・鍋・薬缶・擂鉢・薪油など所帯回りの道具を運んできて、水も汲み入れて行きました。
 弥次さんが味噌を摺っていると、北さんが米かし桶へ米と水を入れて柄杓でかき回しはじめました。無性をするな手で研がねぇかと弥次さんが言うも、北さんは面倒だからこうして流せばいいと言うので、弥次さんもそのまま汁に入れよう、と味噌を摺るのをやめてしまいました。北さんが鍋で米を炊こうとすると、「そんなに水を入れたら粥になる」と弥次さんに注意されます。北さんは「久しぶりにやるから加減がわからない」と言います。
 汁の具がないことに気づいた2人は買いに行きます。宿の床下を、商人が色々売りに歩いています。その中で豆腐屋から油揚を1枚買いました。その油揚も細かく切るのが面倒で、2つに引き裂きました。飯を炊いた鍋で汁を作らなくてはならないので、飯をおはちへ移そうとすると埃だらけなので新品の越中褌で拭いて、飯を移そうとしました。ところが飯が真っ黒こげになって鍋にこげついて、ごはんがほどんどありません。仕方なく鍋から直接すくって食べることにしました。しかし汁を作ることができないので、擂鉢を火の上に直に置いて、鍋の蓋をして汁を煮ていました。と、隣りの座敷の上方者がのこのこ挨拶にやって来て、「擂鉢で汁をたくとは珍しい」と言われます。話をしていると汁が吹きこぼれ蓋を取ると、汁は大方吹きこぼれてしまって残った汁も底にこげつき、擂鉢の底がジャジャと鳴って丸くすっぽり抜けて、火の中へジウジウと落ちてしまいました。
 弥次郎と北八は灰だらけになりながら、仕方ないので飯だけを茶漬にして食うことにしました。笑いながら見ていた上方者が牛蒡の味噌漬けを分けてくれたので、それをおかずに茶漬を食って、後片付けをしながら一句、
  すり鉢に汁をたくとは百の口 ぬけたる底のみそをつけたり

日新館にある一九の友人・月麿画浮世絵の一部分。
 その後2人は湯壷を見学に行きました。特に應験ある薬師の瀧湯・天狗の瀧湯というのに大勢の人が浴していました。その他にも熱の湯・脚気の湯・綿の湯、昔源頼朝が浴したという御座の湯というのもあります。色々な湯壷を見物して湯宿に戻り、弥次さんは手水に行きました。戻った弥次さんは北さんに面白いものを見たと話します。「隣りの雪隠に婀娜な年増女が入って、仕切り板に節穴があったので覗いてみるとちょうど尻の正面だった。紙を裂いてこよりを作り節穴から中に入れ、ゐしき(意味不明)の先をつついたら、女は振り返って肝を潰しうろたえて駆け出していった」。
 その夜は旅の疲れから2人ともイビキをかいて寝てしまいました。翌朝じゃんけんで負けた北さんは、お茶を作りに起きます。開け放した座敷の前の廊下を、例の年増女が雪隠へ行くのを見つけた北さんは、付いて行って隣りの雪隠へ入り節穴から覗いてみました。そこへ年増女の連れの女がやって来て、雪隠の中にいる年増女とおしゃべりを始めました。北さんは黙って聞いていましたが、つい可笑しくなって吹き出してしまい、女が節穴に気付いて指を差し込んだので、目を突かれてしまいました。女は上州者らしく気が強いので、大声でわめきながら雪隠を出て「昨日尻を突いた奴だな。どんな顔か見てやる、出て来い」と言い、その声で駆けつけた男達が「そいつを引きずり出してぶち殺せ」と騒ぎ出し、北さんは出るに出られません。上方者がやって来て事情を聞いて、雪隠へ入り仲裁しようとするも北さんは江戸っ子の意気込みで男衆にくってかかり大騒動になります。さすがに弥次さんもこの騒ぎに目を覚まし跳ね起きて、相手の男衆を突きのけて北さんを連れて座敷へ戻りました。男衆も付いて来ましたが、「こいつは馬鹿なんで了見してくんさせへ」と弥次さんが謝り、上方者もなだめて、騒ぎは収まりました。
 北さんは目を突かれて痛い上とんだ目にあった、とぶつくさ言いながら朝食を済ませ、外の瀧に出かけました。瀧壺には大勢の人がはいっていました。或る人が北さんがいるとは知らず、さっきの騒動を尾ひれをつけて話していましたが、北八に気づいた人が「コレコレ静かに話しなさい。その覗いた人がアレアレあそこに」と囁くと、周りの人々はきょろきょろと北八の顔を見ます。北八は穴に入りたい気持ちで、居たたまれなくなってこそこそ逃げ返りました。
  鼻もちのならぬ喧嘩と雪隠の くさつ中にて評判ぞする
 隣りの座敷の上方者は、年増女と北八に仲直りの盃をさせようと一席設け、2人を招きました。酒など飲んでいるうち、座も和んできました。そこへ上方者が呼んだ矢場(楊弓場)の娘で16・7の渋皮の剥けた美しい女と按摩の可市法師(べくいちほうし)が現れました。娘は上方者とできていて、見ていられないくらいイチャつきます。可市が踊ったりして座が盛り上がったところで、この可市が「足音を聞いただけで誰だか当てることができる」と云うので、上方者と娘が前を歩くと当てました。北八が尻をまくって可市の鼻先へすかしっぺを2つします。可市は負けじと「たしなみのおぞい人、コリャ瘡気のある人づらァ。この中に瘡かきは誰であんべい」とやり返し、座敷が動くほど大笑いとなりました。
 年増女が上方者に礼を言って暇乞いをして、お開きになりました。上方者は翌日帰るので、弥次郎たちに手紙でも書くからと住所を尋ねます。弥次さんは、神田の八丁堀で質両替商の大店の旦那だと嘘をつき、思いの外散財したので江戸まで懐が淋しくなったから実はふさいでいると言い、上方者が金遣いがいいのを期待して哀れっぽくみせました。上方者は「金が入用ならなんぼでも取りかえてやる」と言うので、見込みありそうだと踏んだ2人はその後も酒をくみかわします。
 弥次さんと北さんが酔いつぶれて寝てしまった後、上方者は酔っ払って、娘に来年は夫婦になるという証文を作ったから血判を押せと迫ります。娘は黒繻子の帯を買ってもらうと約束して、刀で指を切ります。しかし、上方者は血を見ると癲癇を起こす持病持ちで、失神してしまいました。弥次さんが目を覚まして介抱するも気がつかないので、宿の亭主が医者か和尚を呼びにやると、病人は薬で生かし死んだら回向するという和尚がやって来ました。そんな和尚なのでちっとも身を入れて病人を診ません。
 ようやく気づいて、血だらけの証文を読まれ恥ずかしがる上方者。みな笑って各自戻って眠りました。ひと寝入りして目を覚ました弥次郎と北八は、上方者から金でも借りようと相談して、三匁の干菓子の折を買って土産に渡すことにしました。
 翌日、二日酔いで顔色の悪い上方者にお礼と出立の挨拶をして干菓子を差し出し、金の無心をしようとすると、上方者から先に「支払いの金が不足なので金十両ばかり貸してくれ」と言われます。弥次郎北八は顔を見合わせあきれ果て、自分達も同じ事を考えていたと白状します。3人共鼻を突き合わせぐんにゃりとなっているところへ、按摩の可市がやって来て「隣りの宿で太平楽を言っていた客が、払えないと騒ぎになって、おらの按摩代は何とかぶんどって来たが、こっちはどうかとやって来ました。鮎を持って来たので熱燗でやりましょう。さあさあ、これから酒だ酒だ」と人の心も知らずわめき散らします。3人がろくに挨拶もせずため息ばかりついているので、可市はこそこそ逃げて行きました。
 上方者もしおれて出て行きました。
 残った弥次さんと北さんは、つまらぬ顔をして小腹を立てても仕方なく、菓子折三匁の損となって、果ては大笑いの話の種になりました。

『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』下 終
 
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Ikku's“zoku hizakurige 10” part1

2011-08-28 | bookshelf
江戸から善光寺へのバイパスだった大笹街道。弥次北は福島宿→仁禮宿→渋沢建場→田代宿→大笹宿と進む。
***『続膝栗毛十編』上***
『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』十返舎一九(56歳)作 一九・二世北斎・春亭画
1820年文政3年刊行 伊藤屋與兵衛板  


附言
・去夏、越後遊歴の帰路、善光寺から草津温泉へ行くのに大笹通という浅間山の後ろの山中を通って見聞した珍しいことを九編の趣向とした。
・今年(1819年)初秋、信州に行って伊奈街道大出村で書画会を催した時、山中僻地の人の言語のおかしさ、奇説をこの編仁禮宿から大明神建場渋沢までの趣向とする。
・飯田城下から妻籠宿へ出る八里の間、険難の山道で往来の淋しい中、西国巡礼者と道連れになり大平峠の宿に同宿し、一九は鳥眼を煩っていたが、酒をくみかわして夜中目が見えなかったおかしみから思いついた趣向を弥次北の田代宿泊りの滑稽とする。
・中津川扇屋で宿泊した時、相宿の旅人が戯れ話を襖越しに聞いたのを、草津湯宿の北八の争論の趣向にする。
・福島宿笹屋の婢女清(ひじょきよ)という者が、鄙(ひな)めきたるものごしで早口でムカついたけれど、興もあった事を草津滞留の趣向とする。
・十編下巻は、ようやく草津入湯にて終る。この次の十一編は東都帰着満尾により、草津より中仙道に出て、板橋宿まで三冊に著し、趣向も工夫し、草稿もできれば、売り出しの時、弥次北の帰着土産として国々の名産を数品生うつしの摺ものとして、十一編の内へ入れ呈上するつもりだから満尾十一編の評判宜しく希います。

 春の穏やかな天気と鶏卵に気力を得て、初松魚(はつがつを)のことなど夢にも思い出さなかった弥次郎兵衛喜多八は、善光寺の街に一泊し、これから上州草津温泉へ趣むこうと思い、道筋を尋ねて福島という所まで案内人を頼み、少しの荷物を負わせて先に歩かせます。そもそもこの大笹道は、大笹越えといって草津までの行程十八里の間、山道で仁禮・田代・大笹の三駅以外宿はなく、難渋の地だというので、星の出ている早朝から善光寺を出発し、福島近くになって夜明けになりました。この辺りは道が悪く、案内の男が何度も転んで見る人がみんな笑うので、弥次北はとりあえず狂歌を詠み、人々はまたどっと笑いますが、人足は自分が転ぶから賑やかなんだと苦笑している様子が可笑しく、そんな調子で福島の村はずれの茶屋に立ち寄りました。
 そこで軽食など摂っていると、店の裏からこの茶店の亭主が細竹の子を2,3本かかえて「何言ってる、よた者めが。おらの背戸へ生えたのだから取ったのだわ」と大声を出しながら走って家の中へ入っていきました。表の方から隣家の主人が、「その竹の子はおらの藪から出たからおらのものだ、返せ」と言って竹の子を取り返そうとします。女房が取り押さえても止まらず、子供は泣き出すしで、見かねた喜多八が仲裁に入りました。
 「例え隣りの藪の根から生えたとしても、こっちの畑へ出たんだから取ってもいいじゃないか。そのくらいなら藪の根をこっちの畑へ出さないようにすればいいんだ」と喜多八は諭します。すると隣家の主人は「竹の子はくれてやるが、先日この家の牛がおらの牛部屋で子を産んだ時、取らずに返したから、その牛を渡せ」と言います。「成程それもそうだな」と喜多八は相槌を打ちます。すると茶屋の亭主は「この間、隣りに行った時、雪隠でたれたことがある。そのたれたのを返せるか」と言い出します。「いくらでも取っていけ」。「いや、他人のが交じっていてはダメだ。おらのだけよこせ」。「エエ、コノべらぼう親仁めが」。とつかみ合いになりました。
 北八はまた押しなだめ、牛の子と雪隠はいんだり(いんだら?いい加減の意味?)にして言い分なし、竹の子は6本あるから3本ずつ分けさせて両方を納得させました。
 かくて仁禮宿に至り、山坂道をだんだん登って行きます。
 後ろから徳利風呂敷包みなど荷いて来る男に声を掛けると、「草津は初めてかね」と聞かれたので、「名物だけあって姥が餅屋は大きい」と北八が東海道の草津と間違えたので、弥次郎は笑います。その男は2人に「おらには名前があるのに和尚に舎弟*と呼ばれているが、どうしてなのか聞いても答えてくれない。舎弟とは何だ」と聞くので、北八は「舎弟とは泥棒のことだ」とからかって答えました。そんなことを道々話しながら大明神という建場に着き、男の兄がやっている一軒屋の茶屋へ立ち寄ります。兄が「舎弟、舎弟」と呼んだので男は怒りますが、兄は理解できず喧嘩になりました。すると、突き飛ばされた男が「きんたまがなくなった」と言います。見ていた北八は「ソリャ上へ吊るしあがったんだろうから、銭一文を頭へつければじきによくなる。銭が上がると金が下がるのが道理だから、上がった金たまが下がるだろうハハハハ」と笑って言います。弥次郎も「舎弟騒ぎが面白かったから、つい長休みをした。あとでゆっくり喧嘩しなせえ。わっちらはもう行きやす。ハイお世話になりやした」と茶屋を出て行きました。
 渋沢の建場に来ました。ここにも谷間に只一軒茶屋があり、一服していきます。浅間山の後ろを通って木々もない芝原の峰道は退屈なので、北八の提案でつんぼと盲(めくら)になって晩の宿に泊まることにし、くじ引きで弥次郎が盲、北八がつんぼうになりました。
 夕方田代宿へ到着し、北八は弥次郎の手を引き旅籠の奥へ入りました。美しい女中が茶を運んできますが、弥次さんは見るのを我慢。食事中も目をつぶっている弥次さんに、北さんは悪ふざけをするので、弥次さんも負けじと北さんの悪口を女中に言います。食事も終わり、弥次さんは女中に手を引かれお風呂へ連れて行ってもらいます。後をつけてきた北さんは、弥次さんが風呂に入っている最中に、女中を引き寄せ、自分が耳が聞こえないのは嘘だが弥次さんの盲は本物だ、と言って口説こうとします。そこへ弥次さんが目を開けて風呂から出てきたので女中は驚いて逃げようとすると、今度は弥次さんが自分は嘘めくらだが北八のつんぼうは本当だと言います。女中は笑いながら逃げて行きました。
 2人はそれぞれ女中を承知させたと勘違いして、早々に寝て待っていましたが来ないのでいつの間にかぐっすり眠ってしまいました。翌朝宿の女房に起こされて、うろたえた北さんは開いた目を閉じ、弥次さんはつんぼの身振りをしました。女房に反対だと指摘され、慌てて弥次さんは目をつぶるも馬鹿馬鹿しくなって、普段通り手水を使い朝食を食べました。結局美しい女中は現れず、替わりにみっちゃくちゃの下女が給仕しながら2人の顔を見てくすくす笑っていました。
 2人は不機嫌な面をして支度をして宿を立ち、早くも大笹駅に着きました。
 大笹宿は繁昌した地で、商家がたくさん軒を連ね、旅籠屋の中でも中尾をいうのが特に賑わしく見えます。
  繁昌と土地をえらびて商人の 根のはびこれる大笹の宿
やがて大前、中井という所を過ぎて、ほどなく草津温泉へ到着しました。

『上州草津温泉道中続膝栗毛十編』上 終


*狂言「舎弟」

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Ikku's“zoku hizakurige 8” part2

2011-08-27 | bookshelf
***『続膝栗毛八編』下***
『従木曽路善光寺道続膝栗毛八編』 十返舎一九(54歳)作 自画
1818年刊行 双鶴堂鶴屋金助板   

        信州栗尾山満願寺本堂

 途中で出会った医者の案内で糸魚川街道を旅する弥次郎兵衛と喜多八。信州栗尾山満願寺の本堂を参り、境内をめぐっていると日暮れになったので、医者に頼んでお寺に泊まらせてもらえることになりました。お寺は普請中(建設途中だったのか?)なので、隠居所に案内されました。隠居所には隠居した和尚が一人いましたが、2人が夕食を済ませると、後を小僧に任せ、「納戸の重箱のまんじゅうは毒があるから手をつけるなよ」と小僧に言って出て行きました。小僧は台所で焚き火をして当たっていましたが、寒くなってきた弥次さんと喜多さんも火に当たらせてもらいに来ました。
 2人は小僧にお茶を淹れてくれと頼み、小僧がお茶を出すと、お茶請けがないので隠居和尚が話していた饅頭のことを思い出し、小僧に持ってくるように言います。小僧は毒饅頭だから食うと死にますと言いますが、2人は本気にしていません。北八が毒味をしようと一口食べ「旨い旨い」と言いますが、小僧は気味悪がって食べませんでした。調子に乗った弥次さん北さんは饅頭を全部食べてしまい、小僧は和尚に叱られると泣き出します。すると北さんは妙案があると言って、和尚が大事にしている楽焼の茶碗を真ふたつに割ってしまったので、小僧は更に泣きます。そこへ和尚がやって来ました。
 小僧にどうしたのかと尋ねる和尚に、北さんが説明します。「小僧さまと冗談で相撲をとっていたら、和尚さまの大事な茶碗の上に転げて割ってしまいました。小僧さまが生きてはいかれないと泣き出すので、自分も面目がないから、いっそ死のうと覚悟を決めましたが死ぬ手立てが見つからず、毒饅頭があることを思い出して食ってみたところ、どうにも死なないから申し訳ありません」。それを聞いた和尚は、もういいから泣くなと言って小僧を許しました。そして饅頭はもう一箱あるが、毒は入っていないから食ってはいかん、と小僧に言って出て行きました。
 3人は大笑いし、小僧は泣き疲れて寝てしまいました。弥次さんと北さんは台所を漁ると胡麻油を見つけました。これで残りの饅頭を揚げて食べようと饅頭を揚げていると、狐の鳴く声が聞こえました。油の匂いに誘われたのか、囲炉裏の上の引き窓から狐が首を窓の中に差し入れ、夢中になって覗いているうちに鍋にかけてある上に落っこちました。鍋はひっくり返り、油ははね、燃えさしの薪はとび、狐はうろたえて弥次さんに飛びつき、ひっかき散らして座敷の障子を蹴破り逃げて行きました。
 2人は何がなんだかわからず、火傷はヒリヒリ、灰まみれとなり、顔を見合わせてため息をつき、漸く事態を把握して火傷にともしあぶらなどを塗りつけ、苦しい中にも笑いが込み上げてきました。そこらをとり片付け布団を敷いて寝ました。夜明けと共に出立しようとお寺へ礼を言うと、雨が降っていて足元が悪い上、火傷の水ぶくれが腫れて痛み、杖をつきながら松尾寺への道筋を聞いて向かいました。
 田村丸(坂上田村麻呂のこと)のよろい塚(鎧塚)あたりで雨はいよいよひどくなります。そこから、昔、小岩嶽何某がこもった城跡があった場所・小岩嶽を通りました。雨が止んで山の麓道を歩いていると、向うの川から雉子(キジ)が流れてきたので、取ってきて晩に宿で煮てもらおうと思いますが、途中でひっかかってしまったので、近くで遊んでいた子供に八文やって取ってきてもらいました。すると、後から鉄砲を下げた男が追っかけてきました。男は雉子は自分のものだと言いますが、北さんも引き下がらず喧嘩になります。近所の男どもも加わって騒ぎが大きくなったので、弥次さんが仲裁に入り「雉子を岩の上に置いて、もう一度鉄砲で打って当たったら男のものだ」と案を出します。しかし、猟師は動かない雉子を難なく撃って、高笑いしながら去って行きました。八文銭を棒に振った弥次さんは、知恵が足りなかったとガッカリ。
 松尾へ着く途中に昔鬼の籠ったという岩穴を見物しました。古厩(こまや)村松尾寺薬師に到着。巡拝して御堂の前から、並松の間を宮城へ向かいました。宮城不動の門前に茶屋があったので、いい酒があるかと弥次さんが尋ねると、火のはいった酒ならあると言われ、それは飲めないからやめました。雪隠を借りに背戸へ行きますが、雪隠の格好は見えますが土間にへっついのように土につきたてた真ん中にあり、合点がいきませんでしたが、とにかく用を足して戻ってきました。すると亭主に「へっついの中に糞をしたな」と顔色を変えて責められました。弥次さんは可笑しさ半分、いろいろ謝って大笑いになりました。この辺りは物事が頑なで、生理の女性はご不浄といって別家に篭り、そこで食事を作って食べるのが習慣でした。
 五龍山にさしかかりました。宮城五龍山明山王院本尊不動明王は五龍の滝から出現した霊像です。そこから池田宿に出る道筋を尋ねて高瀬河原という所に出て、(高瀬川を)渡ると池田宿へ出ました。弥次北はここで宿を取ることにしましたが、旅籠は立て込んでいたので2階の六畳に案内されました。そこに先生と呼ばれる江戸出身の旅稼ぎの絵描きが布団をかぶって寝ていました。歌麿の門人で奴多丸(ねたまる)と云うこの男に、今夜宿の娘の嫁入りで、その娘はあばたで足が太く尻デカの女だと聞いた弥次さんは興味を持ち、娘の化粧の様子を盗み見して、その夜は旅の疲れで朝までぐっすり眠りました。
  信濃大町。蕎麦が超美味いです。
 翌朝、宿を出て大町への道すがら、子供たちが「病犬(やまいぬ)が人に噛み付いた」と騒いでいました。他の旅人たちが気味悪がって木の上へ登ります。病犬があっちへ行ったと聞くと木から下りて行きかけますが、誰かが「また来た」と言うので再度木に登ります。犬が来ないので下りかけると「また来た」と聞いて何度も登ったり下りたりします。しかし一向に犬の姿が見えないので「病犬はどこへ行った」と北八が前の者に聞くと、「病犬は今ふんどしの虱を見ている。疝気持ちなのか、でっけい金玉を褌でぐるぐる巻いている。ソリャこっちへ来る」。大勢が逃げ出す後から、「ソリャうぬら、くいつくぞ」とヒゲを振り乱し、垢だらけの体に渋紙やらむしろやらをひっかけ、裾を引きずりながら追いかけてくるのは乞食で、成程疝気持ちと見えて大金玉がぶらぶら。病犬とはこの乞食のあだ名でした。
 北八は馬鹿馬鹿しくなって木から下りようとすると、乞食が北八に食いついてきました。何しやがる、と飛び降りた拍子に着物の裾をひっかけてやぶいてしまい、それを見た弥次郎が笑いながら下りようとすると枝が折れて、どさりと落ちてしまいました。
 2人は他の旅人達に笑われ、番狂わせな目に遭って腹を立てながらも、大町の宿へ至り、しばらく安らいました。

『従木曽路善光寺道続膝栗毛八編』下 終


※途中、喜多八が一休さんに変身?!てな頓知話が出てきますが、原典はどこにあるんでしょうか。
※次編は、糸魚川街道から離れ、稲荷山方面へ向かい善光寺に到着。続膝栗毛九編は既にあら筋を掲載しているので、割愛します。次は十編「上州草津温泉」編、善光寺~大笹宿と草津温泉滞在記。



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Ikku's“zoku hizakurige 8” part1

2011-08-23 | bookshelf
1800年代初期の名優:五代目岩井半四郎(女形)と五代目松本幸四郎。当時人気絶頂の脚本家四代目鶴屋南北(1755-1829年:1811年襲名)は彼らと組んで大ヒット作を産んだ。1815年上演『杜若艶色染(かきつばたいろもえぞめ)』の遊女八ツ橋役は半四郎の當役。本編での記述が正確なら『杜若』に幸四郎が出演していて、これも當役だったのだろう。五代幸四郎は「実悪」という悪党の役柄に定評があった。弥次さんも悪党なのでこれにあやかったのか。画像は初代歌川豊国画『伊達競阿国戯場(だてくらべおくにかぶき)』1808年上演の半四郎&幸四郎。
***『続膝栗毛八編』上***
『従木曾路善光寺道 続膝栗毛八編』 十返舎一九(54歳)作 自画
1818年 文化15年/文政元年 双鶴堂鶴屋金助板 


自序
諏訪の湖波しづかに、風越の嶺をならさず。往来の旅人が命をからむ蔦かづらと詠しは昔にて、桟も今は渡るに難なく、於六櫛の歯をひくが如く熊の膽(い)の廻るにひとしき木曽路の賑わひ、寝覚の蕎麦うつに隙なく、福島の奇應丸*ひねるを待ず。弥生の茶店の蕨餅身を粉にはたくいそがしさは、金儲の昼飯どき、筑摩川の茶漬に、腹をこやして。おのがさまざまの出放題は、旅の恥をかき捨る釘のをれに、落書の国所もゆかしく。予一とせ此街道に杖をひきて、洗馬の駅より善光寺にいたるに、松本より糸魚川街道といふに出、栗尾松尾宮城などいへる霊場をへて、稲荷山に出たりし。其道路山川の風色、土人の光景、古雅なる事おかしき事、仮事して、袖に蔵(おさ)め帰りたりしを、有のままに此編の趣向とし、例の戯気(たはけ)をつくす事しかり。


 木曽路といえば、山高く連なり渓幽が続いて、鹿や猪が道に出てきたり、住んでいる男もむくつけき異国人のように思われるが、それは昔の事で、今は月の名所となって、寝覚の床には猪も見えず、桐原望月の駒も、助郷を勉める宿場も繁盛し、留女の化粧や容姿も優に艶っぽく、東海道と変わりません。しかし、食事面では少し事足りないが鶏卵はたくさんあります。
 弥次郎兵衛北八は、馬籠で知人からお金を借りたので元気が出て、本山宿を過ぎようと歩いていると、向こうから相州小田原のういろう売りがやって来ました。外郎は薬で、売り子は効能の口上をまくし立て、最後は早口言葉をしゃべっていました。それを見て、外郎を飲むと口が回るようになると勘違いした男が一粒買いました。弥次さんが、その男をからかいます。男が怒り出し、北さんが振り上げた手がその男の目のふちに当たって目を回してしまいました。飲んだ薬は大方目を回す薬だったんだろうと笑いながら2人は立ち去り、洗馬宿に至ります。ここで弥次さんは、背の高い男と小男の駕籠かきの駕籠に乗りました。
 景色のよいところで、芝居の道具建てのようなので、弥次さんは駕籠の中で芝居の物真似をしました。駕籠かきは2人を役者と勘違いしたので、弥次さんは図に乗って「名古屋でわずか30日公演して二百両儲けた。江戸の杜若の幸四郎は名古屋中大評判だったそうだ。おいらはその幸四郎の兄弟分で銅四郎という。」と駕籠かきを面白がらせるつもりで出鱈目を言いました。
 村井宿で駕籠をおろし、駕籠代と酒手(チップ)十二文ずつ、二十四文を支払うと、「30日で二百両稼ぐ旦那が酒手24文とは少ない」と役者というのにつけこみ駕籠かきがねだりごとを言いました。驚いた弥次さんは「そんな事を言うと本陣へ連れて行くぞ」と脅しますが、売り言葉に買い言葉、とうとう駕籠かきと取っ組み合いになりました。しかし、江戸っ子の勢いには敵わず、駕籠かきは逃げて行きました。
 弥次さんと北さんも早く発とうと茶代をはずんで出て行こうとすると、さっきの駕籠かきが戸板の上に乗せられ、雲助連中とやって来ました。一番人相の悪い雲助が「お前に殴られた仲間が怪我をして商売もできなくなったが、引き取り手もなく、相談して熨斗をつけて持って来た。どうとでも好きにしてくれ」と言って、向う鉢巻をしてふんぞり返って戸板に乗っている雲助を前に出します。さすがの弥次さんもぎょっとして困り果てていると、雲助どもは「よた者はあの衆へ渡したから酒でも呑むべい」と何か企んでいる様子。弱みを見せてはいけないと思った2人は、「アイお世話になりやした」とわざと無視して茶屋をでました。すると雲助たちが立ちふさがり、ひと悶着となります。見かねた茶屋の亭主が分け入り、仲裁しました。
 「芝居の話から、ほんの冗談でおれは役者だと言ったら本気にして、酒手をねだるから怒っただけた、おれのどこが役者に見える」と弥次さんが言うと、調子を合わせる北八と亭主が、弥次さんの顔や容姿をさんざんコケ下ろすので、弥次さんは少し躍起になるも、これで亭主が仲直りの盃をさせ、一件落着。2人は茶屋を出るとき亭主への礼金として二歩紙に包んで置いて、一礼して出て行きました。
  何事も堪忍五両さし引いて 弐歩とられたることのくやしさ
と詠んで大笑いしつつ、松本城下に至りました。
 賑やかな往来の茶屋に入って休んでいると、ここの亭主が「今、村井宿の茶屋で旅役者と雲助の諍いがあったと聞きましたが、知ってますか」と話しかけてきたので、弥次さんは見てきたと言って得意になって話します。すると他の客が弥次さんを指して、その役者はそいつだと言ったので、嘘がばれ、2人は足早に茶屋から立ち去りました。
 近在の医者らしい男が歩いていたので、善光寺への道を尋ねると、本街道ではない道(糸魚川街道。千国街道ともいう)を教えてくれたので、いくつかの霊場があるということでその道を行くこと決めました。医者は途中まで所用で行くと言うので、案内してもらいました。お城の大手の前を左の方へ行って野道になり、城山の麓を過ぎ犀川の岸つたいを熊村の橋を渡り、成相新田(なりあいしんでん)に出ました。
 宿場のはずれに侘しい茶屋があり、医者の宅か店のようで立ち寄りました。食事をしようと注文しますが、豆腐と菜しかありませんでした。菜が美味しかったのでおかわりしますが、その菜が焼場の傍の畑で灰をかけて育てていると聞いて、気持ちが悪くなり茶店を出ます。栗尾寺の一の木戸を過ぎ、むみょう橋(微妙橋のこと?満願寺参道にあり、越中立山の無明橋・高野山の無妙橋と共に日本三大霊橋)に着きました。

奥の屋根のある橋が微妙橋。一九もここを歩いたのでしょう。現在の橋は1906年建造。

隣りにちくしやう(畜生)橋というのもありました。無明橋は罪の或るものは懺悔しなければ渡れません。弥次郎と北八は何だかんだとくだらない悪事をお互い暴露しながら、無明橋を渡りました。ところが、医者は畜生橋を渡ります。理由を聞くと、この医者は自分の処方した薬を飲んで助かった人は一人もいないから、と言います。「本来お寺と医者は敵同士のはずが、この医者は人を殺すのでお寺には福の神だな」と弥次郎が冗談を言うと、医者も「自慢じゃないが、どこの寺へ行っても歓待される」と笑います。それから3人は、さいの河原法然堂を過ぎ、おしかの松という名木を見物しました。
『従木曽路善光寺道続膝栗毛八編』上 終


*奇應丸:小児の夜泣き疳の虫に江戸時代から使われている漢方生薬。福島宿に「高瀬奇應丸」の石碑が立っている。高瀬家は島崎藤村の姉の嫁ぎ先。西は奇應丸、東は救命丸といわれている。

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Ikku's“zoku hizakurige 7” part2

2011-08-21 | bookshelf
渓斎英泉画「木曾海道六拾九次 奈良井宿 名産店之図」
「続膝栗毛」七編本文にも登場する「お六櫛」屋の看板が見えます。

***『続膝栗毛七編』下***
『岐曾街道続膝栗毛七編』十返舎一九作 1816年刊行

 福島・上松の駅の間に木曽の桟道があり、誹祖芭蕉翁の碑があります。「かけはしや命をからむ蔦かつら」と彫りつけてあるのを見て、
  命をもからみつけたる藤かづら 今はとけゆく春の雪道
と狂歌を詠みました。(芭蕉の時代は藤蔓を桁にして板を並べて通行していたが、江戸後期には石畳の橋に欄干を設置して、盲人や小児でも安心して渡れる桟に修造してあった。)

 2人は福島宿に到着しました。景色がよいので小橋の上に佇んでいると、北八が欄干の落書きを見つけます。読んでいるうち、そこに弥次さんの知り合いの名前を見つけました。北八も書いてやろうと矢立てを借りて筆で何やら書いていると、お役人がやって来て注意されました。自分だけじゃないからいいじゃないかと北八が口応えしたので、お役人は捕えて締め上げてやると言って北八を引きずって行こうとしました。何分関所があるので、弥次さんが機転を利かせ「まっぴら御免下さりませ。大きに無調法なことをいたしました。こいつめは気が違っております。どうぞ御了簡(料簡)なすって下さりませ」と謝りながら北八に目くばせし、北八も気違いの振りをしてその場を逃れました。
 関所を通り過ぎたあたりは、お六櫛が名物です。2人は茶屋に寄って亭主をからかったりしていると、尼が入ってきて櫛を買おうと迷っていました。しかし、弥次さんに頭に毛がないから櫛は不要だろうと言われたので、買うのをやめました。そして弥次さんと北さんが茶屋を出ると、尼も一緒に出てきました。しばらくすると、茶屋の亭主が「尼が櫛を3つ万引きした」と叫びながら追いかけてきました。尼は盗っていないと言って亭主ともみ合っていると、北八の懐から櫛が落ちました。北八は身に覚えがないと言いしょげていると、亭主はそれを持って戻っていきました。ところが、実は北八は洒落でやったと弥次さんに白状します。それを見ていた尼は、バレたかと思ったと櫛を2つ懐から取り出して見せました。
 やがて、巴が淵・山吹の淵を過ぎて宮ノ越駅も通り過ぎ、吉田村大木坂にさしかかると、獣の皮を売る店が多くなります。薮原宿に至り鳥居峠を越え、奈良井宿へ着いた頃はもう夕方でした。

英泉画「薮原宿:鳥居峠硯ノ清水」
 奈良井で一泊することしにて、旅籠の宿帳に名前を書こうとしたら、福島宿の欄干に落書きしてあった知人の名前を見つけ、隣りの部屋にいるとわかりました。弥次郎が隣りの部屋に顔を出すと、その鑵兵衛という男も驚いて、伊勢参宮に行ったと聞いたがどうしているか、ときくので、弥次さんは「金毘羅さまから安芸の宮嶋へまわって、なけなしの懐をからっぽにして、しみったれた道中だ」とさり気なく金の無心をします。鑵兵衛は金持ちの商人なので、小判五枚を貸してやりました。そして、この近くに能楽寺という寺があり、そこの和尚から鹿の鳴き声を聞かせてやると招待されているから一緒に行かないか、と誘われて2人は付いて行きました。
 寺に着くと、先ず酒盛りが始まり、呑みながら鹿が鳴くのを待っていましたが、なかなか鳴き声は聞こえません。すると酔っ払った男がやって来て、大声で和尚に毒づくので、どうしたのかと弥次さんが訳を尋ねました。理由を話そうとする男を和尚が遮りますが、弥次さんが促すと男は「おらは鹿の鳴き声が得意だから、和尚に今夜鳴く真似を頼まれたが、酒を飲んだからもう出来ないと断わったら和尚にぶたれた」と打ち明けました。弥次郎北八鑵兵衛もおもしろがって「マァー一緒に一杯やろう」と言うと男は機嫌を直し、鹿の鳴き声を披露しました。「カンヨウゴロゴロヒイイイ~」。ばかウケでした。
 翌日、弥次さんと北さんは、借り受けた金子でたちまち心勇んで足元も軽く、諏訪峠を越えて贄川宿に入りました。そこの茶屋で一休みしていると、亭主が客に頼まれた鯉がまだ来ないとヤキモキしていました。そこへ若い男が入って来て、「鯉が獲れなかったので一匹買って背戸の川に杭につないでおいたのを、夕べ上げてみたら河童に腹を食われていたんで持って来れなかった、と言い訳を言いに来た。酒も飲んできた。」と亭主に言いました。亭主は、まぁ一杯酒でも飲んで行け、鯉も別の人から貰ってあるからそれも煮て出してやろう、信楽の良いお茶も買ったから飲ませてやるし、草鞋も履かせてやろう、と言うばかりで実際何もしません。実は亭主はこの男と伯父甥の間柄で、甥は口先ばかりの男なので自分も口先でご馳走してやったんだ、と弥次郎と北八に説明しました。あんまり面白かったから弥次郎も北八もついうかうかと聞いていて、腹が減ったので大笑いして茶屋を出ました。

 予(一九)は去秋(1816年)から所用で松本に行き、松本から善光寺へ行くのに糸井川街道を歩き、所々滞留してさまざま見聞した。そのことは八編洗馬から松本、善光寺へ出るまでに著す。
『続膝栗毛七編』下 終

※次の八編では弥次さん北さんは、中山道を離れ善光寺へ向かいます。善光寺へは松本宿から善光寺西街道を使うのが一般的でしたが、この頃、日本海へ抜ける糸井川街道の人気が出てきたので、一九先輩は弥次北にもこの新興街道を歩かせます。

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Ikku's“zoku hizakurige 7” part1

2011-08-20 | bookshelf
10余年前に宿泊した寝覚の床でのスナップ。
後方の岩の上の緑の中に浦島堂があり、そこまで登って行った物好きは私だけだった。

***『続膝栗毛七編』上***
『岐曾街道続膝栗毛七編』十返舎一九(52歳)作 一九・二世歌麿画
1816年文化13年刊行 双鶴堂鶴屋金助板


一九先輩の自序があり、次に再言として去年1816年善光寺から越後、新発田から奥州旅行で見聞体験した事をどの箇所の趣向に使ったか記しています。
・新潟県新発田から福島県会津へ行く道中、馬士と争ったことを野尻宿の趣向とする。
・会津から白川へ行く途中、一九が連れの者と一日毎に主従になるというゲームをして思いもよらない難にあった事を上松泊の趣向にする。
・白川宿の手前にある飯土用(いいどよう)という宿の専行寺は一九の知人なので一泊し、珍しいもてなしを受けたのを奈良井泊の趣向とする。
・太田原宿から道連れになった丁字屋何某は、下帯を湯で丁寧に洗って干したが、それが一九の褌だったので一座手を打って笑ったことは八編に書く。


 弥次郎兵衛と喜多八は妻籠を出て美登野宿を過ぎ、野尻宿へ至りました。茶屋で一服していると、鹿島の事触れ(昔、鹿島神宮の神官が春ごとに御神託と称し、その年の吉凶などを全国に触れ歩いた)が往来の人を集めて一年の御神事を言い始めますが途中から見物人もいなくなったので茶屋へ入ってきたので、弥次郎が声を掛けました。事触れが、今年は子午未申年が悪い年だと言うので、酉年(一九先輩は酉年)の弥次さんは難はないねと安心すると、酉年は特に運がいいと言います。弥次さんは顔をじろじろ見られ、「当年から60までは安楽だが、7年前にはヨイヨイという病で足腰が立たなかったり、女の事で難儀したこともあったようだ。人相はよいが、来年7年前の病気が再発して命に係わるだろう。」と言われます。確かに思い当たることがあるので弥次さんは信じます。事触れは、厄除けを無料でやってやると言って、形代(かたしろ:体を撫で回して川へ捨てる紙片)とお守りを渡し、二百文あれば鹿島へ戻った時祈祷をしよう、と言います。喜多八は「やるな」と目くばせしますが、弥次さんは二百文を包んで渡してしまいました。
 再び歩き出しますが、退屈な道なので、2人は一日交替で旦那と家来になるゲームを始め、弥次郎が先ず旦那になりました。旦那気分の弥次郎は馬に乗ろうとして床机の端に足を踏ん張ってバランスを崩し、落っこちて足を怪我してしまいました。それを見た北八は「事触れが運が強いと言ったのは嘘だったな。二百文取られたな」と笑うと、馬士が「あれは昨日は疝気の薬を売っていて今日は事触れになっている、この辺りの与太者だ」と言いました。
 弥次さんの乗った馬は前足が悪いらしく、乗り心地が悪いので、弥次さんは「落とさないように居眠りせずにちゃんと馬を引け。もし転んだらお前の首はないと思え」と馬士に言いました。馬士も負けじと「もし転ばずに次の宿場まで着いたら、そっちの首をもらう」と理屈をこね、馬が転ばないようにゆっくり進みます。弥次さんは早く歩けとも言えず困ってしまいました。北さんに「成程、運が強いな」と嫌味を言われた弥次さんは、
  いかんせん馬士と喧嘩の意気づくに 首をかけ出す馬のあやふさ
と詠んだので、一同爆笑となりいざこざもなくなって、須原宿へ着きました。
 ほどなく大野・萩原を過ぎ、小野々瀧を通り、寝覚の建場に来ました。ここは蕎麦切が名物です。臨川寺(りんせんじ)という景地があり、昔浦島太郎が釣りをしたという伝説の場所で、寝覚の床といいます。
  浦島もかかるけしきの寝覚には 小便よりもつりやたれけん
 ここで、野尻宿で見かけた奥州の田舎侍と一緒になったので、弥次さんは自分も侍になりきって、話しながら歩くうち上松宿で相宿することになりました。旅籠で3人が夕食と風呂を済ませると、女中が女郎衆でも呼ばないかと勧めます。田舎侍は一度もそういう事をしたことがないと言ったので、北さんは一人呼んでみろと言います。弥次さんはお金がないのではっきり返事をしないでいましたが、女中が強く勧めるのでとうとう3人共呼ぶことになりました。
 田舎侍の女郎は美しい飯盛り女でしたが、侍は宿の亭主を呼びつけて、「万一懐妊した場合、自分には関係ないと承知してくれ」とことわりを入れます。亭主は、そんなことはあるわけがないと言いますが、用心深い侍は証文を書いてくれと言うので亭主は承知しました。ようやく3人は女郎衆の待つ部屋へ移ります。ところが、弥次郎と北八の部屋には女郎がいませんでした。そして何故だか宿の亭主がやって来て、2人を護摩の灰と思い込んで出て行けと言います。たちまち大喧嘩になりますが、宿の者々にとり鎮められ亭主が謝罪して一件落着しました。そして、弥次郎にはおかま、北八にはおなべという女郎が宛がわれました。おなべの方が格段に美しいので、弥次郎は北八に取り替えて欲しいと頼みますが、北八はにべもなく断わります。屏風一枚隔てた床の中で、弥次郎は腹いせに「北八は瘡かきを患って今は治ったがまた再発しそうな奴だから、おなべにそっと教えてやってくれ」とおかまに耳打ちしました。北八はそれを聞きつけ、弥次郎の事を「そいつは護摩の灰みたいな悪党なので気をつけな」とやり返します。女郎達はそれぞれ手水に行く振りをして、亭主にこの話しをしました。すると亭主がやはり護摩の灰だったかと、座敷に踏み込みつかみ合いをなり、勢いで襖が外れて隣りに寝ていた侍の上に倒れました。驚いた侍は「褌がない」と慌てます。褌なんかどうでもいいだろうと皆は言いますが、侍は褌がなくてはすまない、と引き下がりません。みんなが褌を探し始めて、女房がふと侍の頭を見ると、巻いてある鉢巻が褌でした。「身どもの褌は頭にあった」と侍が言うに可笑しく、一同苦笑してこの騒ぎも収まりました。
 既に夜も明けたので、ここで侍とお別れして、弥次郎と北八は上松宿を出て御嶽山を左に見ながら歩いて行きました。

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Ikku's“zoku hizakurige 6”

2011-08-19 | bookshelf
10余年前馬籠宿でのスナップ。郵便配達のおじさんと。私が手に持ってるのはお焼きと栗きんとんかな。
妻籠かと思っていたが背後の「つたや」が馬籠宿の観光マップに載っていたので馬籠だと認定。

***『続膝栗毛六編』上下***
『木曾街道続膝栗毛六編』十返舎一九(51歳)作 一九・式麿画
1815年文化12年刊行 双鶴堂鶴屋金助板


 弥次郎兵衛と喜多八は、濃州大久手宿を発って十三峠を越えて大井宿へ着きました。立ち寄った茶屋でお侍さんとおしゃべりをしていると、弥次郎の吸殻が侍の羽織の裾に飛んで焦がしてしまいました。弥次さんは謝るも侍が許そうとしないので、北さんが口を挟んで侍を怒らしてしまいます。しかし、弥次さんが下手に出て侍の言う事をご尤もで聞いたので、その場は何事もなく納まり、侍は先に茶屋を出て行きました。ところが侍だと思った男は実は萬歳(まんざい:めでたい時に訪れて祝い詞を述べ舞を舞った門付け)衆の一人だと知って、あんなにぺこぺこしたことを後悔しました。
 大井宿を離れて早くも岩瀬村小萬場(駒場?)を過ぎ、中津川の駅に至りました。宿場の外れの人だかりを覗くと、手妻使い(てづまつかい:手品師)がいました。「大坂は天満天神生玉道頓堀にて御評判にあづかりました男、手づまひと通りならなとござれ、奇麗な所がお慰み。お約束のきせるを只今呑んでお目にかけますが、必ずあとでれきぢゃぞえ。サァやりかけましょ。」と前口上が長く一向に始まらないので、「わしらの所には家蔵を呑んでしまった人がいるぞ」と野次ったりして見物人は離れていきました。野次を言った親仁に興味を持った弥次さんと北さんは声を掛けると、その親仁は俳諧をたしなむと言います。蕉門か美濃風かと質問しますが、さっぱり解さないので、弥次郎は「わっちは江戸の三囲(みめぐり)という所で“夕立や田を見めぐりの神ならば”という句を詠んで旱(ひでり)に雨を降らせた男だ*」とからかいます。親仁は本気にして感心し弥次郎を自宅へ誘います。そこは中津川の先の宮沢という場所から更に二里くらい上がった福田(ふくでん)という村で、喜多八は番狂わせになるから止めようとしますが、弥次郎は無料で泊まれるからと、行くことになりました。
 細い山道を登ったり下ったりして着いた家は広い家で、2人は洗足して奥の座敷へ通され、酒と泥鰌と豆腐と牛蒡の吸い物(柳川のこと?)をご馳走されました。酒は不味いけれど吸い物は旨かったので2人はおかわりしました。しばらくして親仁が嫁に頼まれて、短冊と硯箱を持ってきて、俳諧とやらを書いてくれと弥次さんに頼みました。弥次郎はしかつべらしく筆を執って、他人の発句を思いつきで書こうとしますが、漢字を忘れて全て平仮名で書きました。それを、親仁は家中の者を集めてもったいぶって読み上げます。「咽が鳴 粕味噌の屁の 匂ひなり**」。弥次郎は笑って読み方が違うといって正しく読んでやります。「長閑(のどか)なる 霞ぞ野辺のにほひなり」。
 その時、勝手口の方が騒がしくなったので、驚いてみんなが見に行くと、袴をはいた男達が久野儀(くのぎ)という男を縄で捕えようとしていました。この家の倅は村役人なので人々をなだめ、気の毒に思うが陣屋の言い付けだから仕方がないと、逃げ回る久野儀を捕らえました。次に男達は、捕えた久野儀の面の皮をどうやって剥ごうかと思案しだします。そこへ和尚がやって来て、陣屋の殿様の書付を見ると、仮名で「椚桂(くのぎかつら)の皮のウ剥いてもってこい」と書いてあるのを「久野儀の頬(つら)の皮」と読み違えていると教えて、一同大笑い。弥次郎喜多八も吹き出して一句、
  椚をば よみそこなひて引剥(ひきはぎ)に かかりし人ぞ よいつらの皮
 翌朝、山道をたどって落合宿に出ました。ここで駕籠かきにしつこくされ、少し足が疲れていた喜多八だけ乗って、弥次郎は先を歩きました。十曲峠にさしかかると、狐膏薬という足の痛みや傷に効く薬を売る家が多くなります。「他に、惚れた女中をもぴたぴたと吸い寄せるという吸(すい)膏薬もお買いなされ~」という売り口上を聞いた北さんは、振られて寄り付かない女郎にも効くかと質問をしました。すると「薬を小判にのばして女郎に貼り付ければいいですよ」と言われ、そんなこったろうと思ったとやり過ごします。峠の茶屋で一服した後、馬籠宿に着きました。喜多八は駕籠代を払い、弥次郎と合流して、女滝男滝という滝を見物しました。
  二筋の 瀧の中にて格別に ふとく見ゆるは男瀧なるべし
馬籠峠***を越えて、思ったほど道程がはかどらなかったので、妻籠宿で一泊しようと考えていた処に、宿引きがしつこくして断わると掴みかかってきたので、2人は突き倒して思うさま殴ると宿引きは逃げて行きました。日も暮れかかってきたので急いで歩いていると、17、8~23、4頃の女連れが歩いていたので喜多八が声を掛けると、女ばかりで奥州からの伊勢参りだといいます。遅れている年上の女は疲れてびっこをひいているがお金がないので歩くしかないし、木賃宿に泊まると涙ぐんで話すので、同情した弥次さんは二百文を女にくれてやりました。
 それから2人が歩いていると、前を行く上方者3人連れに、さっきの女達は護摩の灰だと教えられます。旅の初心者は人に騙されやすいから、今夜は同じ宿に泊まろうと言われ、妻籠宿の黒股屋へ行きました。
 風呂と食事を済ませると、上方者は女郎を呼んで酒を飲もうといいます。弥次北も見てるだけという訳にもいかないから、代金は酒五百女五百だけれど5人分頼みました。しかし、宿屋の方から、女郎が3人しか集まらないので一人比丘尼をつけると言います。部屋を真っ暗にして女達を部屋へ入れるから捕まえて遊んだらよいでしょう、と言われたので、男達は、比丘尼に当たった者の揚げ代は他の4人が持つことに決めて、女郎たちを待ちながら酒を飲んでいました。行燈が消えたので男達は両手を広げて待っていると、女郎達が入ってきました。一人の女郎を2人が引っ張ったり、男同士引き合ったりの大騒ぎをして、それぞれ女郎を引き連れて上方者3人は奥の間、弥次北は次の間に寝ました。 暗闇なのでわかりませんが、どうやら弥次さんが選んだのが比丘尼でした。揚げ代タダで遊べると喜んでいると、突然この宿の亭主と女房の大声が聞こえてきました。どうやら亭主は一緒に飲んでいた江戸者2人が頭無事(ずないこと:しゃらくさい、という静岡弁。信州の者が静岡弁を使うのは妙だが、一九はこれに気付いてない)を言ったので怒ったら突き飛ばされたのでヤケ酒を飲んだのだという。女房がここに2人の江戸者が泊まっている事を話すと、亭主が言う顔かたちに似ているので、亭主は大声を上げて弥次北の部屋へ入ってきました。「さっきから聞いていれば、とほうもねぇ猿松(間抜け者)だ」と弥次さんと北さんが言うと、亭主は更に怒って飛び掛り、丸裸の取っ組み合いが始まりました。女房が行燈を持ってきて引き離し、上方者が説明して一件落着。その頃には夜明けになっていました。
 結局何もできなかったけれど、揚げ代は皆に出してもらうと弥次郎が言うと、他の者たちも自分の相手が比丘尼だったと言います。きっと5人とも比丘尼だったんだろう、昨日太平楽を言ったくせに、と弥次郎が上方者に言ったので、上方者もムッとして言い合いになるも、証拠がない為各自揚げ代を払って宿を出ました。妻籠宿を出る道すがら、5人がこのことを話しながら歩いていると、助郷馬を引いた男が耳にして、「あそこの道正寺という寺には比丘尼が20人ほどいて、_一升ずつで勤めている」と言います。それを五百文とは宿屋の女房は忌々しい、戻って屋台骨を壊してやろうかと力む弥次さんは、上方者になだめられ、仕方なく小言たらたら歩いて行きました。
『木曾街道続膝栗毛六編』上下 終


*三囲という所:墨田区にある三囲神社。江戸の俳人・宝井其角(1661-1707年:蕉門十哲の一人)が雨乞いの句を奉納すると、雨が降って干ばつに悩む農民を救ったという伝説がある。
**~匂ひなり:最後が「かな」になっているものが多いが私の読んだのは両方とも「なり」。
***馬籠峠に一九の歌碑がある。ここでは端折ったが、「峠の茶屋には栗の強飯名物あり」とあり、「渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめし爰の名物」と詠んでいる。峠の歌碑にはこの狂歌が彫ってある。

下線部を引いた文は、5人いるのに女郎が3人で比丘尼1人だと、1人あぶれるが、私の読んだ本ではそのようになってた。
実は五編の最後の茶屋の勘定も百弐十文なのに、十弐文ずつと書いてあった。


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Ikku's“zoku hizakurige 5” part2

2011-08-18 | bookshelf
御嵩宿-謡坂の建場間を歩く六十六部と弥次さん

***『続膝栗毛五編』下***
『木曾街道続膝栗毛五編』 十返舎一九(50歳)作 一九・月麿・式麿画

 翌日、伏見宿を出た弥次郎兵衛・喜多八は、桶縄手(おけなわて:鬼の首塚がある)という処を通ります。ここは昔、関の太郎という鬼の首を桶に入れて都へ運んでいる途中、次第に首が重くなって数十人の力でも及ばなくなったので、此の地へ桶のまま埋めたという言い伝えがあるといいます。(関の太郎伝説:鎌倉時代、悪行をして関の地を追われた太郎という鬼が、岩屋(鬼岩)に流れ着き、村人が智恵を使って首を切った。という伝説)
 平岩、可児川(ルビ:かこがわ)を過ぎて御嵩宿に至りました。うとふ坂(謡坂)の建場までの間、駿河の黒川出身の六十六部と一緒になり、その六部の頭が福禄寿のように長いのに興味を持った喜多八が、六部になったいきさつを尋ねました。以下六部の話。
 去年、地頭のお役人が村の庄屋に泊まった際、役人様が起きがけに「手水(ちょうず)まわせ」と言ったが、誰も手水が何かわからないので和尚に聞きに行った。和尚は長頭だろうから頭の長い者を探せ、と言うので自分に白羽の矢が当たった。支度してお役人様の前に出されたが、「さっきから手水まわせと言っているのに埒が明かない」と叱られたので、頭をくるくる回したが、「何をしている早くまわせ」と言うので、目が回るほど速く回したが気に入らない様子だった。江戸に行ったことがある頭百姓が、江戸では小便に行くことを‘てうづ’と言っていたことを思い出し、手水とは小便の事だろうと桶に小便を汲んで持って行った。お役人様はそれで顔を洗い口をすすいだので、見ているこっちが気分が悪くなり、「それは小便でござるに、もうよさっしゃいませ」と言うと、お役人は「手打ちにするぞ」と怒り出した。自分は村の者が逃がしてくれたが、お役人様の手前すまないと思って六部になって諸国を歩いている。
 この話しを弥次さん喜多さんは腹筋をよりながら聞いていました。うとふ坂(十本木建場)を過ぎると、前を出家した旦那を乗せた駕籠かきと飛脚人足が話しながら歩いていました。そこへ、棺桶を担いで念仏を唱えながら葬式の列が通り、ごっちゃになって細久手のあたりで駕籠と棺桶がぶつかって、中の旦那と死体が転がり落ちてしまいました。慌てた者たちは、間違えて旦那を棺桶に入れようとしたりして大騒ぎしていました。ずっと後からついて見ていた弥次さん喜多さんは、こらえきれず大笑いして一句。

  すでの事しんだ佛とまちがひて あぶなく寺へいきぼとけさま
 矢瀬沢の弁財天(現在弁才天の池がある)を拝んで、琵琶峠を越えて大久手(大湫)宿の近くに来ました。この辺りの宿引きはみんな女で、ばらばらとやって来て2人を取り巻きます。泊まろうと思っていた笹屋は客がいるというので、宿引き女に付いて行くと、すぐ足湯が出て、奥へ行くと風呂の用意も出来ていたので早速入り食事をしました。この宿には飯盛が2,3人連れで客室を回っていましたが、弥次さんと喜多さんはお金がないので諦めて寝ることにしました。
 布団を敷きに来た女に喜多八が「今夜わっちの相手をしてくれ」と言うと、弥次さんは「そいつは瘡かきだから相手にするな。わっちの方へ来い」と邪魔をします。女は2人を振り払って逃げていきました。しばらくして年増の女がお茶を持って来たので、さっきの女中をここへ来るように執り成してくれと頼みますが、その女中は猪の見張り番をするために背戸へ行った、と言われました。仕方なし、2人はそのまま寝ますが、北八はやがて目を覚まし、そっと外へ出ると、猪小屋らしいものが見えたので近くへ行ってみると男女2、3人の声がする様子に、諦めて戻ろうとして猪の落とし穴へはまってしまいました。その穴は井戸のように垂直に深くて、大声で助けを求めても聞こえません。その時、ふっと弥次さんが目を覚まし雪隠へ起きたついでに北八がいないのを不思議に思い、行燈を下げて探し回っていると、宿の主人も目を覚まし一緒に探しました。畑の方から声がするので行ってみると、猪の落とし穴の中に北八がいたので、下男に梯子を持ってくるように主人が言いつけますが、あいにく法印に貸していて無い、といいます。その法印は貸したものを返したためしがないのに何故貸した、と主人と下男は北八そっちのけで喧嘩を始めてしまいます。そうこうしていると、猪が出たと騒ぎ出し、猪が北八のいる穴に落ちるといけないので、長竿を持ってきて北八を救出しました。土で真っ黒になった北八は、小便に起きたら月が出ていたからうかうかと裏へ出て猪の落とし穴に落ちた、と弥次郎に説明しました。
  大わらひなれや力をおとし穴 あてのはづれしあごのかけがね


 大久手宿から大井宿までの三里の間に、十三峠という所があります。2人は西行坂までよじ登ると出茶屋があったので、何かあるかと茶屋のババアに訪ねました。ババはまだ何も支度していないというので、煙草の火をもらおうと火打石で火をつけようとしましたが、附木がありませんでした。ババアは北八にその辺から松葉か木切れを拾ってきてくれと言いました。弥次さんには、団子の粉が足りないからその辺の粘土を一掴み持ってきてくれと言います。団子に土を混ぜて食わせるのか、と呆れる2人に、ババアは小便に行ってくるから焚き付けておいてくれと頼んで行ってしまいました。戻って来たババアは手も洗わず団子をこね始めました。玉子と団子を鍋に入れ、干からびた小豆をこねて、団子と間違えて玉子を取り出して小豆をべたべたくっつけ、「団子くわせっし」と弥次北の前に出しました。団子はいくらだと聞くと、ひとつ一文だと言うので(安いから)、北八は5つ弥次郎は7つ食って十二文払いました。小豆と玉子で十二文は得したと思って茶屋を出ようとすると、ババアが団子と玉子を間違えたことに気付き、玉子は一つ拾文だ、小豆はおまけにする、と言います。弥次郎は笑って、やっぱり太郎兵衛駕*だ仕方がねへ、と百弐拾文払って出て行きました。
『続膝栗毛五編』下 終

*太郎兵衛駕籠:間違っているようにみえても結果は同じこと。
 寛政~文化年間(1789-1818年)の流行語。駕籠かきの太郎兵衛が泥酔して駕籠に乗ったが、底が抜けてやはり歩かなければならなかった、という故事。

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Ikku's“zoku hizakurige 5” part1

2011-08-15 | bookshelf
挿絵:芦渡のひとつ茶屋
「芦渡のひとつ家 雲助も杖をたて場に 旅人の休み処 芦渡茶屋 あふ留」
と書いてある

***『続膝栗毛五編』上***
『木曾街道続膝栗毛五編』 十返舎一九(50歳)作 一九・月麿・式麿画
1814年文化11年刊行 永寿堂西村屋与八板


 加納宿(現・岐阜市)で丑の刻から降り出した大雨は、夜明け頃止みかかってきました。弥次郎兵衛と喜多八は、旅籠を出ようと支度をすると、また降り出してきたので、もとの座敷に戻りました。相宿した浪人者も、暫く雨がやむのを待った方がよい、と言ってひと寝入りしていました。弥次さんは空を見上げて小言を並べ立てますが、止む気配はなし。2人とも横になってまどろんでいると、雨は止んだけれど川留めになったという往来の人のわめく声に驚いて目を覚ましました。「大変だ」と弥次さんは喜多八を起こしますが、「あのくらいの雨で川留めになどなるものか。宿場が銭儲けしようと思ってそう言ってるだけだ」と本気にしません。しかし、宿の亭主が「鯰川(不明。滋賀県に同名の川在り)の堤が切れたり糸抜(糸貫)川の橋が落ちて水浸しになり、往来できない状況です。川向こうから来る旅人も一人も来てないので大変なことになっている筈で、お客様を立たせて万一行方不明でもなったら、旅籠といえども責任があります。お茶代は不要だからゆっくりしていった方がよいです」としきりに勧めるので、しばらく待つことにしました。
 宿の女房が気を遣って、うどんを拵えて持って来ました。2人はお腹は空いていませんでしたが、折角なので一膳ずつもらいました。一口食べると、おかしな臭いの汁なので、女房にそう言うと、調べた女房は「下女がたまりとお歯黒を間違えて入れたようだ」と言って作り直してきますが、やっぱり不味いので弥次郎も北八ももういらない、と断わりました。ところが女房は、空になった皿へおかわりのうどんを勝手に入れて、食べろ食べろと無理強いします。北八は少し癇癪を起こして「旨くもないものを金を払って食ってるのに、辞儀をしてつまるものか」と、うどんの皿を5,6膳並べさせ一膳十六文として代金を払い、そのうどんを全て庭にぶちまけました。女房は肝を潰して何故こんな事をするのかと問うと、「銭さえ払えば文句はないだろう。江戸っ子の気性だ」と北八は言いました。
 寝ていた浪人が目を覚まし、川留めの話を聞くと「鯰川というのは昨日渡った川だ」といいました。川留めになっていたのは上り(京都方面)の往来だったと知って弥次北は、不案内の旅人だと思われて宿の者にいいようにあしらわれた、と馬鹿馬鹿しく思い、早々に出立しようとします。すると宿の女房が厚かましくも、今夜の宿の紹介をするからその宿屋に手紙を届けて欲しいと頼んできます。とんだ目に合わせた上、文使いさせるとは虫のいい虎の皮の褌だ、と思いますが、女郎からの届け文だったので引き受けました。弥次さんが中を見てやろうかと言いますが、北八は良い考えがあるからと言って手紙を懐に入れて、新加納村までやって来ました。大神楽の毬の曲芸をやっていたので覗き見していると、故郷への土産に他国の詞(方言)を覚えて帰るという風変わりな親仁と知り合いになり、同道することにします。
 各務野(各務ヶ原:かがみがはら)に着きました。ここは奈良漬(細長い大根を酒粕で漬けた守口漬けのことか)が名物の建場で、茶屋もあります。奈良漬の匂いを嗅いで酒が飲みたくなった弥次郎北八は茶屋へ入り、酒と肴を注文しました。この辺では奈良漬といえば大根のことだと茶屋の者がいいます。親仁は下戸なので餅を食っていましたが、ふと他の客が食べている羊羹を見て、あれは何かと言うので、「小豆で拵えたもので羊羹といひやす」と北八が教えます。塩いわしの頭が置いてあったので、それも何と言うか聞かれたので「魚油殻(ぎょとうがら)」。赤い椀や膳のことは朱椀・朱膳だと教えると、親仁は「小豆のことは羊羹。頭のことを魚油殻。赤いものを朱椀朱膳というのか」とぶつぶつ覚えます。今度は北八が「今自分が座っているものを何と云う?」と質問して、親仁が「木の株つちいだ」と答えると、「これは洗濯物や何かを打つ台で、大木の切り口ふといの根 と云う」と弥次さんが教えてやりました。長ったらしい名だなぁと笑っていると、鵜沼宿へ行くという馬士が来て酒手で荷を運ぶから使ってくれと言います。親仁は値切って荷を馬にからげ、弥次北は風呂敷包み一つでしたが、付き合いで付けてやりました。
 親仁は足が疲れているので馬に乗って行くと言って馬に跨りました。馬士がちょっと用事を足しにたずなをそのままにして馬から離れました。折りしもそこにいた犬たちが騒ぎ出したので、馬は驚いて親仁を乗せたまま駆け出して、大根畑へ駆け込みました。親仁はまっさかさまに落ちて木の切り株で頭を打って血だらけになりました。通行人が茶屋へ運んでくれて、馬士がどうしたのかと親仁に聞くと、親仁は「奈良漬だの羊羹だののはえている畑で落ちて、大木の切口ふといの根へ魚油殻をぶつけて朱椀朱膳が流れ申すわ」と説明するも、さっぱり通じません。北八が持っている膏薬をつけてやり、怪我も大したことはありませんでしたが、親仁を馬に乗せ、弥次さんと北さんは歩きで出発しました。
 途中で、飛脚と一緒になり、話しているとつい調子に乗り「わしは江戸から伊勢へ日帰りしたことがある。普段鉄砲玉を煎じて飲んでいるから足が速い」などと口走ってしまいました。「わしは韋駄天様のお守りをかけている。足が速いから道連れがいなくて退屈していたので、一緒に走りながら話をして行きましょう」と飛脚がさっさと歩くので、負けん気の強い2人は大汗をふきふき付いて行って、鵜沼宿を十町斗も通り過ぎた辺りで、荷物を馬に付けていた事を思い出して、飛脚に挨拶もしないで引き返して行きました。
 戻る途中、同道した親仁と出会い、荷物は門田屋という茶屋に預けてあると聞いて、2人は鵜沼宿、西の棒鼻にある門田屋を訪ねました。ところが、馬士が人様の荷物に間違いがあっては、と持って帰っていたので、馬士の家へ行こうと思いましたが、そこから二里も離れているので、「風呂敷包みくらいうっちゃっておこう」と北八は言います。しかし、中には金毘羅や伊勢のお守りが入っていて、江戸へ帰った時それがないと言い訳ができなくなるので、人に頼んで賃銭四百文もとられて、2人ともぐんにゃりなってしまいました。
 かち山村(現・勝山)の観音坂を越え、あしどのひとつ茶屋(現在も坂祝町酒倉芦渡という住所が残っている)を過ぎ、太田宿の渉場(渡し場)に着くと、雨で水量が増していて余計の船賃を取られてしまいました。
江戸後期の渡し場跡

太田宿側堤防上から太田橋を望む。手前の案内板の辺りが江戸後期の渡し場で橋に近い方は明治~昭和期の渡し跡
  宿の名のおうた子あらばこの川の 浅瀬わたらん銭をしき身は
 弥次さん喜多さんは、伏見宿へ到着すると、紹介された旅籠で宿をとり、風呂に入って食事を済ませました。寝る前に、宿の女房にくだんの手紙を渡しました。二人は夫婦喧嘩を期待して布団の中で様子を窺っていると、案の定大声が聞こえてきました。
 喧嘩はいつしか取っ組み合いになり、女房は亭主の頭のこぶに噛み付きくいちぎってしまいました。何事だと駆けつけた亭主の親父が、亭主の頭にかぶりつくような女を女房にしておく訳にはいかないから代官様にお検視を願おうと言い出し、代官様への訴状の書き方に四苦八苦し始めました。もとよりこの女房は臨月の妊婦で、この騒動で産気付いて訴状どころでなくなり、家中大騒ぎになりました。女房が安産し終えた後に医者が来たので、亭主はこぶを頭に縫い付けてもらい、安産の喜びにいざこざは消えて、替わりに笑い声が家中に溢れました。
 この有様を始終聞いていた弥次郎と北八は、腹を抱えながら寝ました。
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great find !!

2011-08-13 | Edo
太田宿中山道会館にあった広重画「太田の渡し」の多色摺りゴム版画とスタンプ
 
 所用のついでに中山道太田宿へ行ってみました。
 さほど期待してなかったのですが、一九先輩が船で渡った「太田の渡し」跡を見て、国道21号線の途中、神明堂から旧中山道へ入り(東から西へ向かう)、太田宿の資料館「太田宿中山道会館」を見学しました。ここには広い無料駐車場があるし、宿場町を再現した展示室や地元の野菜や工芸品を売っているコーナーなどがあり、同じ敷地内には岡本太郎の父で漫画家の岡本一平氏の住んでいた家屋も展示してあって、全て入場無料という嬉しいサービス。しかも、資料コーナーには一九先輩の著作も置いてあったんです!!

な・な・な・なんとーーー東海道中膝栗毛の本物が!この質感、感動・・・

しかし、ここは中山道ではないか。木曾街道続膝栗毛はないのか…と思って先へ進むと、

ありましたぁーー。挿絵は見開きで本文とは別で挿入されていたんですね。展示されてるページは、続膝栗毛五編の太田宿と鵜沼宿の間、芦渡(あしど)のひとつ茶屋を描いたもの。『続膝栗毛』には「えだ柿が名物」と書かれていますが、季節が違うので、会館内のお土産売場には芋茎(ずいき)や茄子、瓜、南瓜など新鮮な夏野菜がほとんど百円ほどで売っていました。醤油の割れせんべいを買って食べましたが、旨かったです。隣接するお食事処のランチは、地元野菜を使ったおふくろの味で美味しく、コーヒー付けても780円。涼しくてゆったりしてて穴場でした。

中山道美濃路十七宿(落合~今須)の行程をわかり易い地図と名所旧跡、広重&英泉の浮世絵も掲載した散策ガイドは、街道ファンには有難い代物です。(
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2011-08-12 | bookshelf
広重画「木曾海道六拾九次 美江寺」

***『続膝栗毛四編』下***
『木蘇街道続膝栗毛四編』十返舎一九作

 弥次郎兵衛喜多八は、赤坂宿に近い松原にさしかかり、茶屋で一服します。茶屋の親仁に時刻を聞くと、逆に聞かれたので「九ツ半だろう」と弥次郎が答えると、親仁はそのくらいだろうと答えました。北八が「もう八ツだろう」と言うと、八ツかなと調子を合わせます。別の客が「もう七ツか」と言えば、「そうそう七ツ」とも言いました。
 「もう七ツか」と言った客が、持っているのが小銭ばかりで邪魔なので南鐐に両替して欲しいと持ちかけます。弥次郎は自分のほうが得するレートで交渉して小銭を受け取り、懐から南鐐を取り出し男に渡しますが、男は手にとってしげしげながめたのち、これは銅みゃくだと言って返すので、弥次郎が受け取ると確かに銅みゃくなので不思議に思いつつも、自分が出し違えたと思って改めて南鐐を渡しました。弥次郎は得したと思っていますが合点のいかない北八は、お金を調べてみると銅みゃくはすり返られたものだと判明します。しかし追いかけようとした時は既に男はどこかへ消えていました。ふざぎこんでしおしお歩く弥次さんを励ます北さん。しばらくすると、その男の後ろ姿を見つけたのでつかみかかりました。するとその男が振り向いた拍子に持っていた天秤棒が弥次さんの頭にぶつかり、しかも人違いで、泣きっ面に蜂。
 杭瀬川六の渡しを越えたあたりから、駕籠かきにしつこくつきまとわれ、美江寺宿近くまで来ました。仕方なく乗ってやることにしましたが、駕かきの一人がびっこなので乗り心地が悪く、転げ落ちて腰を打ってしまいます。弥次さんは腹立ちまぎれに駕かきを突き倒し、北さんはびっこの方を突き飛ばして、したたか殴っていたので、周りの人に取り押さえられて見苦しい騒ぎになってしまいました。弥次さんの方が折れて、「弐朱やるから膏薬代にしろ」と言って逃げ出しました。北八が「なんで逃げるんだ。また弐朱とられて金はあるのか」と問うと、渡したのは弐朱ではなく例の銅みゃくだからさっさと逃げたんだ、と説明します。しかし、懐の金を確認してみると銅みゃくは残っていたので、うっかり本物を渡したことに気付き、更にふさいでしまいました。
 糸貫柚木川を過ぎ、郷戸(河渡:ごうど)の渡しを越えると、日が傾き始めました。後ろから浪人風2人連れに呼び止められ、弥次郎と北八はびびって先に急ごうとしますが、「何も怖がることはない。たかが泥棒だ」と浪人が笑って言うので、北八は気味悪く思い弥次郎の袖を引くのに、弥次さんは弱味を見せまいとして震えながらも強がりを言います。そうこうしているうちに加納宿に着きました。行きがかり上、浪人と相宿することになってしまい、食事も酒も喉を通らない弥次さんと北さん。旅籠を出ようにも、この宿場で盗難事件が起こり一軒ずつ旅籠を調べているから誰も外に出てはいけない、とお触れが出たため逃げられません。弥次さんと北さんは「やっぱり」と思って怖がっていると、浪人が「この財布のことだろう」と笑って2人に財布を見せます。肝を潰した弥次さんは、巻き込まれるのはご免だから部屋を別にしてもらう、と言うと、浪人は平気で「素人には難儀はかけないから大丈夫だ」と言います。
 浪人たちは高イビキをかいて寝てしまい、弥次さんと北さんは恐ろしいのと鼾がうるさいのとで眠れません。しばらくすると「役人が来ました」という声が聞こえ、座敷にどやどやと入ってきたので、北八は「それきたワ」とばかりに裸のまま逃げ出し、中庭から転げ落ちて縁の下へ入り込みました。みんなはびっくりして、浪人も目を覚ましました。実は強盗犯が捕まったという知らせで、客に迷惑をかけたと役人が挨拶しに旅籠屋へ来ただけでした。犯人が捕まったというのを不審がり、弥次さんが宿の主人に問いただすと、浪人風の男たちは剣術の先生で悪い洒落でからかっただけだと判明して、大笑いになりました。
 縁の下へ隠れていた北八も出てきましたが、褌を落としてきてしまったから下男に百文で取って来てほしいと頼みます。汚れた褌くらいうっちゃっておけばいいじゃないかと弥次さんは言いますが、北八はどうしても必要だと言います。下男は竹竿で褌をひっかけ大声で「ふんどし、是だ」と言って高くあげたので、北八は汚い褌を他の客見られて恥ずかしい思いをしてしまいました。そうまでして褌に執着していたのは、金二分を結びつけていたからで、その金惜しさでした。ところが金はなかったので、落ちてしまったのかとがっかりしていると、弥次さんが「その金は昨日お前が預かってくれと言ったから預かってるよ」と言います。北八はそのことをすっかり忘れていたのでした。
  また恥をかくふんどしに賃銭の百も承知としてやられたり
やがて出立しようとしましたが、風雨が出てきたので晴れ間を待つことにしました。

『続膝栗毛四編』下 終

 一九先輩も木曾街道2作目で筆が乗ってきたのか、四編は上中下巻の三冊を出版する予定で草稿も出来上がっていたそうです。しかし、共作者が昨年の夏も大坂へ旅行に行ってしまった為、校合が延引になって故二冊になったと、四編の最後に記してあります。
 共作者とは誰の事なんでしょうか。一九先輩の校合をするくらいだから、彼より上の戯作者で親しい仲間。三編や六編で挿絵の狂歌に感和亭鬼武の署名があるので、果たして鬼武(1812年は52歳)だったりして。

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2011-08-10 | bookshelf
広重画「木曾海道六拾九次 今須宿」

***『続膝栗毛四編』上***
『木蘇街道続膝栗毛四編』十返舎一九作(49歳) 一九画
1813年文化10年 西村屋与八/永楽屋西四郎板


 一九先輩は去年(1812年)木曽街道を上り(京都方面)で取材し、色々おかしな事や怖い体験などを四編や五編の趣向として使う、と冒頭に記しています。この戯作に出てくる弥次喜多の珍道中は、一九本人の実体験を基に書かれていますが、同じ街道や場所での体験ではなく、使えそうなところでかなり脚色して描いています。例えば、大井宿(信濃路)の十三峠辺りで浪人風の男に脅しをかけられ強がった体験を、この編の太田宿(美濃路)での趣向として書く、と書いてあります。しかし実際は河渡~加納宿の段の趣向になっていて、同じ本の冒頭で書いたことと内容が異なっていたり、と一九先輩かなり出鱈目です。

 弥次郎兵衛と喜多八は、近江国と美濃国の境、寝物語の村(今須宿:国境の細い溝を挟んで2軒の旅館があり、寝ながらにして他国の人と話ができるというのが名前の由来)に至り、ここの茶屋で茶を飲んでいると、占い師が入ってきました。すると待っていたかのように茶屋の亭主と女房が占い師のそばへ行き、「今朝奉公人が逃げたようだが、その時紛失したものがあるので何処にあるのか占ってほしい」と頼みます。占い師が「どうも棚の上のような高い所にある」と占うと、紛失したのは馬だから棚の上などにいるはずがないと、もみ合いを始めました。
 それを見ていた弥次さんが仲裁に入ると、亭主に頭を叩かれ、怒った弥次さんもケンカの仲間入り。大騒ぎの中、天井の隙間から水のようなものが落ちてきて、頭にびっしょりかかりました。皆きもを潰していると、2階から馬のいななきが聞こえます。水は馬の小便でした。2階に上がると馬が柱に縛り付けてあり、引き下ろそうとしても馬は簡単に下りません。実は、この亭主は奉公人を苛めるので堪らなくなって逃げた奉公人が嫌がらせにした事でした。占い師はいい気味だと笑って帰って行きました。弥次さんは衣類を洗濯させ、立ち去ります。今須宿を出て大関村を過ぎ、関が原を越えると鶏籠山班女花子(けいろうざんはんじょはなこ)の古跡(中国の班女伝説を基にした狂言「班女」。花子をまつった像が関が原国道21号沿いにあるお寺・鶏籠山真念寺にある。)があります。その先北国街道の追分辺りで、與太兵衛という40くらいの地元の男と知り合いました。垂井宿で泊まるなら、いい「やごめ」がいる旅籠屋を紹介する言われます。やごめとは後家のことだろうと、2人は助平心をくすぐられ付いて行きました。
 旅籠は與太兵衛の定宿らしく、迎えに出てきた後家と親しげに会話していました。この家には子供が沢山いて、弥次さんと北さんが奇妙に思いますが、実は與太兵衛は近在の金持ちで、この後家を世話している旦那でした。
 夕食と風呂の後、4人で酒を飲んでいるうち、酔った2人が後家にしなだれかかるのを見た與太兵衛はムッとして、そろそろ寝る時間だとお開きにしました。から紙一枚隔てた部屋で、與太兵衛と後家がいちゃつく声が聞こえるのを、弥次さんと北さんが忌々しく思っていると、急に腹が痛くなってきました。雪隠へ行くと與太兵衛も腹が痛いと雪隠へ来ます。どうしたんだろう、と苦しがっていると、後家が「蛤の辛子味噌にあたったんでしょう」と笑います。後家は今度の児を堕ろそうと思っていて、辛子味噌の中に堕ろし薬を入れて飲もうと思って置いておいたのを、下女が間違えて使ってしまったようだ、と言います。とりあえず医者を呼び診てもらっていると、與太兵衛が苦しがるので、医者はお腹に鍼をたてますが抜けなくなってしまい、與太兵衛は目をむいてしまいました。正気づかせる為に足の爪の先に灸をすえると気がつきますが、鍼はどうしても抜けません。医者が後家に、元結・あみ笠、杖などを用意させ、與太兵衛に着せて立たせたので、びっくりしてどうするのか聞くと、鍼を習った師匠の元へ抜いてもらいに連れて行くと答えるので、呆れ返りながらも後を付いて出て行きました。
 弥次さん北さんは可笑しくて腹をかかえていましたが、やがてひと寝入りして目が醒めるとよくなっていて、與太兵衛も鍼が抜けて帰宅したところでした。
 そんな目にあったので、早く江戸へ帰りたいと思った2人は、夕食を食べて宿を出ました。暗く淋しい街道を恐々歩いていると、辻堂を見つけたので、中に入って一服していました。するとそこに男女2人連れが通りかかったので、ちょっとおどかしてみました。しばらくすると空が白んできたので外に出ると、先の男女が落としたのか、風呂敷包みを見つけました。中を見ると、ぼた餅の入った重箱だったので持って行きました。 大垣道との追分に着き、そこの茶屋へ入って重箱のぼた餅を食べていると、茶屋のじじばばが不思議そうにやって来て、そのぼた餅はどこで買ったのかと聞いてきました。辻堂での話しをすると、それはじじばばが倅に持たせたぼた餅だ、と言います。「思いがけぬご馳走になりやした、重箱はおけへし申しやす」と弥次さんが空の重箱を返すと、じじいは「コリャかたじけなうござる」。
 茶屋を出て青のがはら(青墓:垂井と赤坂宿の間にある)に至ります。ここには熊坂のもの見の松の跡*があります。
  熊坂は名のみ残れり松がえを さしてのぼれる月の輪の照(てり)


*熊坂の長範物見の松:平安後期の盗賊・長範は、陸奥に向かう京都の豪商の財貨を奪おうと青墓宿で待ち構えていたが、同行していた牛若丸に討たれてしまった、という場所。
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2011-08-09 | bookshelf
広重画「木曾海道六拾九次 鳥居本宿」

***『続膝栗毛三編』下***
『木曾街道続膝栗毛三編』十返舎一九作

 伊勢参詣、金毘羅参詣、宮嶋参詣を済ませ、江戸へ戻る中山道は近江路の守山宿・武佐宿を過ぎた頃、雨の中を歩いて疲れた弥次さん喜多さんは、相の宿(あいのしゅく:宿場と宿場の間のプチ宿場のこと)清水がはな(清水鼻。名水がある)で宿泊することにしてよい旅籠を探していました。通り掛かりの男に尋ねると、相の宿では立派な旅籠はないので、自分のところに泊まればいい、と言われ、2人とも疲れきっていたので、そうすることにしました。
 連れて行かれたところは、むさくるしい木賃宿のような宿で、夕食に出された汁物には茗荷しか入っていません。宿の主人は貧乏人でお金に汚いだろうからちょっとからかってやろうと弥次さんは企みます。石を包んで金だと思わせ、主人に預かってくれと頼みます。主人は万が一何かあったら迷惑だから、釣り仏壇に入れておくと言いましたが、内心では弥次が出立する時忘れる事を期待していました。
 翌朝、弥次さんはわざとらしく「ハテ何か忘れたようだ」と言いつつ宿を出て、小便をする振りをしてこの宿を窺っていると、案の定、主人と女房が仏壇を確認していました。しかし仏壇の中に包みがなく、「金は忘れずに持っていったが、宿代を払うのを忘れて行ったワ」とがっかり。この時は弥次さんの悪巧み成功。
  宿賃を忘れて来しは名物の冥加至極の仕合/\

 三軒家、愛知川(えちがわ)宿、つづら町、高宮川(多賀大社の近く*)へ至り、近くの茶屋へ入り狂歌を詠んでいると、ある和尚に褒められ一緒に食事することになりました。和尚はとうふ汁、弥次さん喜多さんはどじょう汁を注文しました。ところが茶屋の亭主が取り違えて出した為、和尚は「このとうふ汁は旨い」と言ってどじょうを食べてしまいました。3人は亭主に酒をタダで振る舞われ、喜んで飲んでいましたが、酒を入れている竹筒が完筒(かんづ:公家の携帯用小便入れ)だと和尚が気付いて、みんなゲロゲロやり出す始末。
 鳥居本宿で2人はまた狂歌を詠んでいると、どこかのご隠居さんらしい男が感心して「狂歌名はなんと言いますか」と聞いてきました。例によって弥次さんは「三陀羅連(さんだられん)**のあんだらだ」と口から出任せを言い、お茶に招待されました。
 番場(ばんば)宿にある家はたいそうな邸宅で、そこで初めて弥次さんは生け花をやらされます。茶席では、お茶の回し飲みの際、弥次さんが飲んでいるとき鼻水を垂らしてしまい、次に飲む北さんはそれを飲まない訳にもいかず、「なんまみだぶつ」と一気に飲んだので、念仏を唱えて茶を飲む作法は珍しいと言われてしまいました。
 その家で一泊して、翌日六はら山を左に見て、ひぐち村石打を通り醒井宿の醒井の清水(井醒の清水[いざめのしみず]に到着。

  雨の手に結ぶ清水の涼しくて こころの酔も醒が井の宿
 この宿場町で素人芝居がかかっていたので見物しに行きました。囲いもない会場で『国性爺虎狩(こくせんやとらがり)』の段を演っていました。
歌川国芳画「和藤内虎之図」
近松門左衛門の浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公・和藤内の虎狩りの段

芝居で使った爆竹の音が騒々しく、虎ならぬ裏の藪の中にいた狐が驚いて乱入してきて、舞台はしっちゃかめっちゃかになってしまいました。
 弥次さんと北さんは大笑いしてその場を立ち去り、柏原宿(中山道近江路最後の宿場)に至りました。
『木曾街道続膝栗毛三編』下 終

*名神高速の下り多賀サービスエリア内にある、近江牛レストランは近江八幡市内の専門店より手頃な価格で近江牛ステーキが食べられる。ステーキか焼肉定食(わざび醤油で)が美味。
**一九先輩は、三陀羅法師(1731-1814年:狂歌師。千秋庵など。唐衣橘州[からころもきっしゅう]の門人)に狂歌を習っていた。


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2011-08-07 | bookshelf
広重画「近江八景 瀬田夕照」

***『続膝栗毛』三編***
『木曾街道 続膝栗毛 三編』十返舎一九作(48歳) 一九・月麿・式麿画
1812年文化9年 永寿堂西村与八板/東陽堂永楽屋西四郎板


※同じ研究者の著作本で、三・四編の板元に永寿堂と記されているものと永楽屋西四郎となっているものがある。三田村鳶魚校訂本には底本が明記されていないのでどちらの出版本かは不明。一般人の私が単純に考えて、文化年間は江戸地本問屋が関西圏へ市場を伸ばしていた反面、地方書肆も江戸へ支店を出すようになっていたので、蔦屋重三郎以来江戸書肆にコネクションのあった尾張書肆・東壁堂永楽屋東四郎の江戸店・永楽屋西四郎が尾張の近国をネタにした三・四編の出版にのっかったのではないでしょうか。
一九先輩は「東海道中膝栗毛」執筆中1805年伊勢参宮へ東海道取材旅行しています。途中名古屋に逗留し狂歌仲間に歓待されています。そのとき聞いた「こんにゃくのたたき石」を膝栗毛五編下の雲出での趣向に使ったり(2006年一九の手紙から判明)、弥次さんが一九に成りすます段で三河尾張の狂歌仲間の件が登場し、彼らの狂名を画賛名に使ったりしています。また、1815年にも名古屋の書肆・松屋善兵衛宅に逗留しているので、尾張の書肆とも深い交流があったことがわかります。


 判じ絵交じりの一九の叙があり、附言が続きます。
二編の終わりに「中国地方の紀行は三編に詳しくしるす」と書いてあったので、そのお断り。一九先輩は去年1811年大坂に長期滞在し兵庫も巡ったのに、例によって板元の希望で木曽街道を書くことになったそうです。西国紀行は別のタイトルで著すとしています。(1813年鶴屋刊行『海陸西国往来』のこと?)
三編は近江路・大津宿から柏原宿まで。

上巻
 弥次郎兵衛・喜多八は播州路を歩いて尼崎から神崎の渡しを越え、山崎街道(西国街道)を伏見で寄宿し、大津絵が名物の札の辻という町にでます。京と伏見の追分で往来は賑わってますが、雨が降っているので人も牛馬も生気がありません。2人は足止めを食って、酒でもやりたいところですが、旅費節約のため甘酒で我慢することに。弥次さんは一杯だけ注文し北さんと分けようとしますが、あまりにしみったれた提案に北さんは断わります。店を出て大津宿を過ぎると琵琶湖八景が一目に見渡せ、一句。
  風の手にかきならしたる琵琶の湖(うみ)これ八景の外(ほか)の一芸
 膳所(ぜぜ)の城下町を歩いている最中、子供が紙に包んだものを落とすのを目撃した弥次さんはカラリンという音がしたので中身は小判だろうと思って、拾ってニンマリして懐へ入れました。この金で一杯やろうと言いますが、北さんに反対され先を急ぎます。
 瀬田の長はし(瀬田の唐橋:京都の宇治・山崎と共に天下三名橋)は田原藤太がみかみ山のむかでを退治した所*。瀬田宿の茶屋で鰻やしじみを肴に酒を飲み、例の金で支払おうと包みをあけると、なんと住所と名前を記した迷子札で、この店の主人の子供のものでした。主人に感謝されるものの結局散財。雨はいよいよ降りしきり、2人は漸く草津宿の姥が餅屋に着きました。そこで、この先の川が雨で川止めになったことを聞き、宿引きに安くするから泊まってくれと言われ連れ立って行きます。着いた宿は狭く気に入らなかったので断わろうとしたところ、渋皮のむけた美人が袖を引くのでたちまちぐにゃりとなり泊まることにしました。
 翌日は矢走(ルビ:やはま。矢橋[やばせ]を江戸時代以前、矢走[やばし]といった)の祭りがあり、宿の主人は祭りの世話人なので一緒に行きましょうと2人を誘います。それを聞いた2人は、主人の留守に美人の女中をものしてやろうと考え、理由をつけて自分だけ居残ろうと企てます。
 祭り当日。北さんは階段からわざと転げ落ち怪我をした振りをしようとしますが、本当に腰を打って立てなくなり、驚いた主人が連れの人はどうだろうかと見に行くと、弥次さんは頭痛と腹痛がすると言って唸っています。お客がこんな有様なので祭りどころではない、と主人は2人を介抱しだしました。
 お互い口には出しませんが、同じ企みだったと知った2人は馬鹿馬鹿しくなり、北さんは医者を呼んでもらいました。医者はもっともらしい事を言っていい加減な見立てをするので、弥次さんが生意気なことを言います。医者に「素人で何も知らぬくせにちょこざいな」と言われ逆ギレした弥次さんは、暴力をふるって医者を追い返してしまいました。代わりに山伏が来て祈祷すると、奇妙にも腰が治りました。
 そうこうしていると、川が通行できるようになったと知らせが入り、宿を後にします。安村川(野洲村の野洲川?)の船渡しを渡り、鏡山の建場(鏡神社の辺り?名神竜王IC北西に鏡山あり)を過ぎ、次の川(日野川)は歩行越(かちごし)でした。川下を渡る人を見て、2人も川下に行きます。川が深いのか、頭上に着物を乗せて裸で入ってゆき、肩の辺りまで川に浸かっているのを見て、弥次喜多も裸になって着物を頭上に乗せ川上を見ると、大勢の人が川越人足の肩車で渡っています。裸の2人を見た人々に「狐にでもつままれたか、あほう」と野次られ、川へ入ると膝の辺りまでしかなく、寒さに震えながら渡りきって、着物を着ながら先に渡った人を見ると、手に下駄をはいた居去(いざり)でした。

*三上山のムカデ退治
 朱雀天皇時代(940年前後)、田原藤太秀郷という剛勇の者が、ある日瀬田の橋を渡ろうとすると大蛇が横たわっていたが、臆することなく踏みつけて通り過ぎた。
その夜、小男に化けた大蛇が、秀郷の剛勇を褒め称え「吾は龍宮に住む竜神で、三上山(別名近江富士)にいる大ムカデに悩まされているから退治してほしい」と頼んだ。
承諾した秀郷は瀬田の唐橋から矢を放ち、2本目の矢で大ムカデを射止めた。竜神は感謝し、減らない米俵や使ってもなくならない反物など宝物を贈った。

歌川国芳画「龍宮城田原藤太秀郷に三種の土産を贈」
画中鐘の左側に米俵と反物が見える


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Ikku's“zoku hizakurige 2”

2011-08-06 | bookshelf
歌川国貞画「紅毛油絵風 安芸の宮島」

***『続膝栗毛 二編』上下***
「宮嶋参詣 続膝栗毛 二編』十返舎一九(47歳)作
一九・北斎画 1811年文化8年 栄邑堂村田屋次郎兵衛板


 続膝栗毛の初編と二編は、板元に求めらるまま、一九先輩は若き頃所用で四国高知へ行った際の香川県金比羅参詣と広島県宮島参詣の体験を基に執筆しています。高知での用事を済ませ帰りは徳島から和歌山へ船で渡るルートでしたが、途中、強風で帆綱が切れてしまい2日2夜漂流し、周州穴の口(山口県周防の何処か)へ漂着したんだそうです。それで船が怖くて陸路で大坂へ帰る予定でしたが、そこから厳島まで四里と聞いて、宮嶋参詣へ行くことにしたといいます。真実だとしたら恐ろしい。ひょっとしたら一九先輩漂流民になってたかも・・・

・去年1810年、京都に行くついでに木曽路を通って、方言や風俗を細かく見聞して二編の趣向にしようとしたが、眼病を患ってやむなく中止。出版を見合わせようとしたが、板元が許してくれなかった。(要は一九は二編から木曽街道を書きたかったのに、また延びてしまった訳である。)
・初編で、「五太平が船で死んだのはおかしい。金毘羅参詣の船に落ち度はない。」とクレームがきたが、五太平は病気で急死したので船には過ちはない。
・弥次郎兵衛が禁酒中も酒を飲んでいるのは、作者の関知するところではないから批判がきてもどうしようもない。
・・・などというお断りの後、宮嶋参詣膝栗毛が始まります。


 四国七島を船中に見ながら、芸州厳島へ向かう弥次さん北さん。風が吹かないので下津井の湊に船は停泊。退屈しのぎに2人は船頭と釣りを始めます。北八がフグを釣って、膨らんでいるフグを船板に叩きつけて弱らしていると、それを見た弥次さんは、ぺしゃんこになったフグをもう一度膨らませようと、何の考えもなくフグの口に自分の口を押し当てて息を吹き込みました。怒ったフグは弥次さんの口に喰い付いて離れません。無理にひっぺがしたので、弥次さんの上唇と下唇は血だらけになってしまいました。
  禍ひは げに口からとくはねども かかる毒魚にあたりはづかし
風が出てきて船出し、備後の国鞆(とも)の湊に停泊。
 そこの遊女屋にひっぱられ、ちょっとだけ遊ぶことにした弥次喜多ですが、弥次についていた女郎が他に呼び出しがかかり行ってしまい、喜多さんの方の女郎は、昨日死んだ父親の葬式にも出れないと泣き出す始末。父親の名前を聞くと弥次郎兵衛という名。すると別の女郎も、弥次郎兵衛という人が疱瘡を病んで気が違って首吊り自殺した話などをします。それを聞いた弥次さんは気分を害して帰ろうとします。女郎達は何とかなだめすかして引き止めて、再び床の中へ。そうこうするうち、ほら貝がぶうぶう鳴って船出を知らせ、2人はまた番狂わせになってしまいました。(結局いいところになると邪魔が入ってしまう)
 北八は女郎が布団の下に隠し持っていた人形を持ってきて、女郎からもらったと船中で自慢してみせましたが、女郎が見送りに来て嘘だとばれてしまいました。
  塗立の胡粉じたての人形も そろそろはげてきた八の啌
弥次さんの狂歌に船中爆笑。船は瀬戸内海の島々を打ち過ぎてゆきました。


 絵の島の沖辺りで、大名の煌びやかな御船と遭遇。それを肴に一杯やろうと喜多さんが提案すると、弥次と大坂の乗客が賛同。途中から乗った和尚が酒樽を持参していたので眠っているのをいいことに、こっそり頂いてしまいます。不味い酒でしたが、とりあえず一杯飲みました。しばらくして起きた和尚は、酒でも飲もうかと近くに居た弥次さん達に声をかけますが、不味い酒だと知っているので酒は嫌いだと断わります。ところが和尚が飲み始めたのは別の上等の酒で、今更欲しいとは言えず3人とも見ないようにしていると、和尚はぼた餅をすすめます。食い意地のはった弥次さんは一つ貰って食べると旨いので北八にもすすめます。それを見ていた小僧が「そんな汚いの食えない」とつぶやいたので理由を聞くと、小僧はぼた餅を作っているところを見ていたが、子供の糞がひっついたのをそのまま丸めていたからだ、と言います。そうと知った二人はゲロゲロします。和尚は二人が酒臭いのに気付いて、酒を盗み飲みしただろうと怒り出し、天秤棒で北八に打ちかかろうとしたので、「何しやがる」と立ち上がった弥次さんが北八のヘドにすべって尻餅をつきゲロゲロ。和尚も気の毒がって謝ったところヘドにすべって、みんなへドまみれになってしまいました。
 その後柴浦(しばうら:尾道から七里余の所)と云うところで一泊し、翌日宮嶋に到着しました。
 2人は旅籠を決めて、さっそく女中の値踏みをします。支度をして女中を連れて宮嶋参詣に出かけます。弥次は途中、今夜どうだと女中に手付金を包んだ銀札を渡すと、女中は嫌がりつき返しますが、弥次もしつこく押し付けるので、やったり取ったりしている内に落としてしまい、鹿がむしゃむしゃ食べてしまいました。怒った弥次さんは鹿に石をぶつけようとして周りの人に捕えられます。(鹿は神の使いだから)社司の所へ連れて行かれる前に女中が話をつけ、事なきを得ました。
 翌日は宮めぐりをしました。そこでも、またひと騒動起こし、弥次さんは他人に暴力をふるい、相手が持病の癲癇を起こして意識不明になってしまいました。宮嶋で人が死んでは祟られるというので、仕方なし駕籠を借りて2人で担いで別の場所へ向かいました。その途中で意識を取り戻した男は、すれ違いざまの者たちが、自分の女房と金太という男が浮気していると耳にして、慌てて駕籠から出て走り去ってしまいました。弥次さんと喜多さんは肝を潰しますが、どうしようもありませんでした。

『宮嶋参詣 続膝栗毛 二編』上下 終


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