TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

a trip to ancient Izumo 3

2017-05-29 | trip
四隅突出型墳墓の分布図

 加茂岩倉遺跡から、元来た道を戻らないで南に向って山を下りて行きます。集落に出る道路の幅は狭いですが、山を下ってしまうと2車線になります。川の堤防道路に出て、左へ行くと神原神社古墳があるのですが時間の都合でカット。右折してしばらく走ると森坂大橋という橋があるので渡って、県道26号で斐伊川を下って行きます。斐伊川は、上流には記紀に出てくる八岐大蛇伝説の里やたたら製鉄の里があり、古代出雲にはなくてはならない川です。出雲平野は斐伊川から流れて来た土砂が堆積してできたそうです。弥生時代にはまだ湿地帯であっただろう出雲平野に入る手前の小山に、今回の旅の最大の目的地「西谷墳墓群」がありました。
  
 古代の墓といえば、円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳・八角墳などの古墳がポピュラーですが、ここの墳墓(実は古墳の定義には当たらない)は四隅突出型墳丘墓と呼ばれていて、愛称は「よすみ」。四角錘台の四隅が舌のように伸びた形をした墳墓で、弥生時代の出雲の王家の墓だとされています。
 この変わった形の墳墓は、↑最初の画像の分布図でわかるように、日本海沿岸地域と出雲から内陸へ入った三次盆地で見つかっています。他の地域で見つかっていないだけ、とも言えますが、あれだけ多くの古墳が見つかっている畿内や河内、日本海側より開発が進んでいる太平洋側で1つも発見されていないということは、ヤマトとは異なる勢力がイズモを中心に存在したことを物語っている、と思います。↑西谷墳墓群史跡公園には5基の“よすみ”がありましたが、4号墳は芝生で覆われているので四隅部分がぼやっとしかわかりませんでした。
  
 3号墳は登れるようになっていて、上には発見された8つの墓穴のうち2つを記してありました。墳墓はかなり高い位置に造られているので、当時の民衆は異様な形の巨大墳墓を見上げるかたちになり、かなり威圧感があったのではないかと思いました。ここは展望台のように西谷をぐるりと見渡せ、隣りの2号墳が俯瞰できます。“よすみ”をバックに写真を撮るならここがお薦めです。
  
 2号墳は中に展示室があって、自由に見学できました。
 
 暗い中で、再現された墓穴の朱がぼんやりライトに照らされていました。前に立って見ていると、何もなかったところに白い人体がゆっくり現れてきました。もともと白い物体があって、ライトの具合で見えないようになっていたのか?と思いましたが、どうも何もないとことから浮かび上がってくるようなので、ホログラム(後で調べたら3Dホログラムというのがあるそうで)だったのでしょうか。史跡公園に隣接する弥生の森博物館では、種明かししてくれませんでした。

a trip to ancient Izumo 2

2017-05-26 | trip
南側駐車場から見た「加茂岩倉ガイダンス」
銅鐸型の車止め

 ←旅の行程:クリックで拡大します
が訪問した場所  が宿泊地  が道程

 出雲大社と古代出雲歴史博物館の見学でその日は終了。県道28号と国道9号線が空いていたので、宿泊地の湯の川温泉まで車で30分くらいでした。出雲空港から一番近い天然温泉ですが、今回初めて知ったので泊まってみました。「日本三美人の湯」だそうですが、美人の湯だとか美肌の湯だとかはあちこちにありますから、正直期待していませんでした。が!とてもいい湯です。湯船に浸かったとたん、湯が肌に沁みわたるのを感じました。山里にあって夜も静かなので、ぐっすり眠ることができました。翌日はいよいよ古代遺跡巡りです。
 湯の川温泉から時計回りで、加茂岩倉遺跡→西谷墳墓群史跡→荒神谷遺跡というルートで巡りました。加茂岩倉遺跡はかなり山深い場所にあるため、大回りする形になりますが、湯の川温泉から山の方へ向かい、出雲ロマン街道(広域農道)を走り、国道54号に出て南下します。加茂岩倉遺跡の案内板のある交差点で右折して道なりに数分行くと、駐車場があります。山間部の道路ですが、整備されているので快適なドライヴでした。
 普通はこの駐車場から遺跡まで歩く(1㎞近く)そうですが、歩けない人は、駐車場をやり過ごして松江自動車道に並行している細い道路を進んで行って、自動車道のPAを通り越して右に向かう林道のような道路へ入って突き当たった所を右折すると、加茂岩倉遺跡ガイダンス(資料館)の裏手にでます。駐車スペースもあるので安心です。銅鐸車止めを抜けて行くと、右側の山の斜面にガイダンス入口エレベーターがあります。
 加茂岩倉遺跡は、ここに広域農道を作っている最中に見つかりました。見つかっていなければ、先の駐車場からこの道が自動車道路になっていたはずでした。開発という名の自然破壊かもしれませんが、それがなかったら永久に発見されなかったと思うと複雑な気持ちになります。
ガイダンスの中には、発掘された銅鐸のレプリカが展示されていました。
  
ここは自然光で見られるので、模様や文様や入れ子の状態もよく見えました。ガイダンスの入館は無料です。
 ガイダンス入口の反対側にあるドアから外へ出ると、木造の回廊が山肌に沿ってめぐらせてあります。スミレなど野草の花が斜面にいっぱい咲いていたし、ウグイスの大合唱が聞けて、とても気持ちがよかったです。その先に、銅鐸発見現場がありました。
  
工事中に重機で掘り起こされた状態を、レプリカで再現したものです。まるで映画のセットみたいでした。これらは自由に触ることができるので、発掘気分も味わえます。そして、出雲の古代人がなぜこのような場所に39個もの銅鐸を埋めたのか、神名火山である仏経山を挟んで、358本の銅剣と銅鐸6個・銅矛16本が埋められていた荒神谷と直線距離で約3.3kmという近さには、何か関係があるのか?などと、現場に立って思いを馳せてみました。
 今でこそショベルカーを使って急斜面を掘る事ができますが、当時いったいどうやって沢山の銅鐸を運んで、穴を掘って埋めたのでしょうか。また、なぜここだったのでしょうか。
 出土した銅鐸の作られた年代は、弥生時代中期~後期(紀元前100年代~紀元200年代頃)と推定されているようです。埋められたのはそれ以後となりますから、倭国大乱(100年代後半)や邪馬台国(連合)の勢力と関係があるのでしょうか…。

a trip to ancient Izumo 1

2017-05-24 | trip
島根県立古代出雲歴史博物館

 これまでに、青森県「三内丸山遺跡」福井県「鳥浜貝塚」など日本の古代遺跡を観光してきて、太古の日本海沿岸地域の文化的な繋がりを感じてきました。「古代日本海文化」とか「環日本海文化」と言われています。そこで今回は、越の国(福井県)とも交流があった出雲国(島根県)を訪ねてみました。
 島根県はずいぶん昔に、出雲大社や松江城など観光ルートを巡ったきりでした。一般の観光ルートなら電車やバスで行けますが、古代遺跡を巡るとなるとやはり車を使うのがベストです。遺跡までの道路は山の中でも整備されて走りやすいですし、博物館や遺跡に併設された資料館には無料駐車場が完備されていますから、安心です。
 出雲大社で参拝して、拝殿の裏手にまわって2000年に出土した本殿の巨大柱の跡を見学。
  
大木3本を1つに束ねた柱の様子を表した図が、数カ所石畳にはめ込まれていました。宝物殿の方に説明板と一部分の再現模型がありました。本物の柱は東隣りにある歴史博物館内にあるので、行きました。(↑画像右:境内遺跡から出土した宇豆柱)
 広い駐車場から館内の長い廊下を歩いて行くと受付カウンターがあり、チケットを買います。常設展だけですと610円(宿泊所やお店に割引チラシが置いてあります。490円)ですが、特別展や企画展があると別料金になります。この時は開館10周年記念企画展「出雲国風土記 語り継がれる古代の出雲」を開催していました。遠方からだと前売りWEBチケットを利用するとお得です(この時は200円引きになりました)。展示室前ロビーにガラスケースに入った宇豆柱が鎮座していました。常設展示室には、宇豆柱から想像した古代出雲大社本殿の模型が飾られています。これも見ものなのですが、一番の目玉は荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣・銅矛・銅鐸の展示でしょう。
遺跡にも同じものが展示してありますが(発掘現場にもありますが)、それらは全てレプリカ。本物はこの博物館でしか見ることができません。荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣と、上には新しい銅の色が光るレプリカ銅剣もディスプレイしてあって、圧倒されました。そしてガラスケースには銅鐸が。模様もはっきり残っています。ガラスがあるため見難いですが…。荒神谷と加茂岩倉を訪れる前の予備知識をつけるためにも、ここは必見です。
 見ている最中、いつの間にかガイドさんが傍らにいて、色々説明してくださいました。展示品を見て気分が高揚していた私は、ついついガイドさんと色々な事を話してしまい、90分ほどで見学できるところを時間が足らなくなってしまったくらいでした。企画展の方は、駆け足になってしまいちょっと勿体なかった気が…。ミュージアムショップやカフェも行きたかったのですが、いけずじまいでした。
 じっくり見学する場合は、3時間くらいの余裕を持って来た方が無難かもしれません。


the connection between Aska and Scythian

2017-05-22 | bookshelf
ウクライナにあるスキタイ人の石像
明日香村の猿石とそっくり

 明日香村にある石造物の謎について少し調べてみました。すぐ目についたのが、講談社学術文庫の『興亡の世界史』シリーズの表紙でした。なんと、吉備姫王墓内に置いてある猿石にそっくりではありませんか。見た瞬間、ゾロアスター教をユーラシアに広めたソグド人の石像かと思ったのですが、違いました。表紙の石像はスキタイ人の石像だということです。
 スキタイ人はソグド人と同じ遊牧民ですが、ソグド人は交易の民でスキタイ人は騎馬遊牧民。また、ソグド人はソグディアナ(現ウズベキスタンとタジキスタンの一部)を中心として中央~東アジア、スキタイは現ウクライナを中心とした西アジアが勢力範囲だったようで、スキタイ人=ソグド人ではありません(両者とも同じコーカソイドでアーリア人=インド・ヨーロッパ語族ですが)。活躍した時代も若干差があり、スキタイは8B.C.~3B.C.なのに対しソグド人は4B.C.あたりから活発に活動してきたそうです。
 ウクライナの遺跡には、このような人型石像が点在してあり、その下は墓になっていたそうです。とすると石像は埋葬された人の生前の姿を模した物なのでしょうか?この本を読んだ上では、何ともわからないようです。しかし、スキタイ人の石像とそっくりな明日香村の猿石は、古代日本の飛鳥時代にスキタイ人が来ていた(もしかしたら埋葬された?)証拠なのではないでしょうか。ウクライナからシベリアの辺りまで、スキタイの古墳も多数発見されていて、その古墳は日本の古墳に似ています。
 ただ、個人的には明日香村の猿石は、スキタイ人ではなくソグド人のような気がします。
 ソグド人の風貌がよくわかる画像を見つけました。ソグド人は馬またはラクダに乗って移動していたので、袖や裾が体にぴったりした衣服を着て、ベルトを締めていました。そして(三角の形をした?)帽子を被り右手にはグラスを持ち、膨らんだ腹部・・・、服を脱がせばこちらの方が明日香村の猿石に似ています(グラスは持っていませんが)。お腹に両手を回しているのはスキタイの石像の定番ポーズですが、ひょっとしてスキタイが滅んで交易商人ソグド人と融合して、飛鳥に到達した頃には2つの文化が合体した状態だったのかもしれません。吉備姫王墓の猿石は、中へ入れないため背後を見ることができませんが、猿石の背には別のものが掘ってあります。↑画像の猿石の裏には別の顔を持つ人物が。二面石のような意味を持っているのでしょうか。
また、裏が鳥になっている石人像もあります。鳥といえばソグド人の信仰するゾロアスター教の鳥葬の鳥を想起します。異なる2つの要素を持たせる、というのもゾロアスター教の二元論に結びつきます。
 猿石が斉明天皇期(600年代中期)に造られたものならば、ソグド人たちはそれ以前から飛鳥に居たと考えられそうです。彼らが日本の記録に残っていないのは、商人として非公式に日本に渡って来たからなのかもしれません。
 今年1月、橿原考古学研究所の所長さんが「東アジアのソグド人」をテーマに講演をされ、『日本書紀』孝徳天皇期と斉明天皇期のトカラ国から来た人たちの中に、ソグド人が同行していた可能性を指摘されたそうです。この講演、拝聴したかったです。
 橿原市の益田岩船がゾロアスター教の拝火壇だとは思いませんが、飛鳥時代の石造物の謎を解く鍵は「ソグド人」ではないか、と思いました。そして、中央アジアのコーカソイドは弥生時代(縄文時代後期から?)に既に日本列島に侵入していたのでは・・・出雲を旅した後、そんなふうにも感じました。

a fire circuit―the stone statues in Aska

2017-05-12 | bookshelf
橿原市の丘の頂上付近にある益田岩船
大きさ11×8×4.7メートル 大きさ推定800トンの花崗岩

 本の整理をした時出てきた松本清張の短編『陸行水行』を再読して、その「解説」に紹介されていた『火の路』(発表当時のタイトル『火の回路』)を読んでみました。
 『陸行水行』は、邪馬台国の所在地を探求する在野の歴史愛好家を通して、著者独自の邪馬台国論をサスペンス絡みで描いた古代史推理小説。その後発表された古代史ミステリー小説の布石になった作品で、長編作『火の路』はその集大成だそうです。
 松本清張全集第50巻めの一冊2段組約500頁は、正直読むのに大変でした。量もそうですが、内容が、『陸行水行』では歴史愛好家の語り口だった古代史が、『火の路』では日本古代史専攻の研究室の助手・通子が主人公で、今度は専門家の語り口で古代史論が展開されているからです。殺人事件が起こるのでミステリー小説としてそれなりに読めますが、やはり日本古代史(特に飛鳥時代)に少しでも関心がないと愉しめないかもしれません。ですが、一度でも明日香村を訪ねたことがある人や、村内に点在する不思議な石造物―亀石、猿石、酒船石、須弥山石、石人像などを見たことがあれば、この作品で取り上げられた古代史の謎に引き込まれることでしょう。
 私は以前、飛鳥資料館を訪れた時、そこの庭には点在する石造物のレプリカが一堂に展示されていてるのですが、石像の解説や説明が腑に落ちませんでした(未だ解明されていないためですが)。
    
あとで石造物の謎に迫った書籍を探してみましたが、定説と変わりないのであまり熱心に研究する学者もいないのだなぁと思っていました。ですが、松本清張氏はこの謎に40年以上前に挑んでいたのでした。小説家の歴史物は無責任なので敬遠していましたが、清張氏の考証は「歴史愛好家」の範疇を超えた本格的なものでした。
 清張氏は、『日本書紀』での斉明天皇(皇極天皇の重祚:天智・天武天皇の実母。吉備姫王の娘)の人物像が、他の天皇と違う点―即位した年に“大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐人に似ていた”。“天皇は工事を好まれ…水工に溝を掘らせ…宮の東の山に石を積み垣とした…時の人はそしって「石の山岡をつくる つくった端からこわれるだろう」”―に着目して、彼女が神道や仏教・儒教とも異なる異教を取り入れていたのではないか、それゆえ人々から理解されず謗られたのではないか、と考えたようです。そして、その宗教がゾロアスター教(拝火教・祆教)だったのではないかと仮説を立てた主人公通子は、ゾロアスター教の中心地イランを巡廻します。帰国した通子は明日香村の石造物とゾロアスター教を結び付けた論文を発表します。
 ゾロアスター教。世界史の教科書に名前だけは出てきたので記憶にはありましたが、どのような宗教か全く知りませんでした。何となく怪しげな宗教かと思っていました。『火の路』では通子が体験したことが描いてあって解りやすかったですが、「著者撮影」となっている“沈黙の塔”やゾロアスター教寺院内の写真が掲載されているので、通子が訪ね体験したことは清張氏が実際取材し感じた事なのでしょう。
 ゾロアスター教について調べてみると、“鳥葬”という変わった葬儀が印象的です。樹木が少なく乾燥した大地での死体の処理法として、鳥類に食べさせるというのは理にかなっていたのでしょう。現在では、その“鳥”はハゲタカやハゲワシといった猛禽類と考えられているようですが、古代ペルシャ時代は“カラス”だったようです(本文では烏になっています)。
 この宗教は、火を崇拝するだけでなく、水・大地・空気なども神聖なものとしているため、それらを穢さない方法=鳥葬を選んだということです。教義は、光明神アフラ=マズダ(善神)と敵対する暗黒神アーリマン(悪神)との抗争という善悪二元論。開祖ザラスシュトラ(英語読みゾロアスター。独語読みツァラトゥストラ)は紀元前600年代前期生まれの人(伊藤義教論)、紀元前1200年頃の人(メアリー=ボイス論)など研究者によって大きな違いがみられますが、どちらにしても彼の説いた教えは世界最古の啓示宗教で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教などに影響を与えたそうです。
 その宗教が、本当に飛鳥時代の日本に伝わっていたのでしょうか?『火の路』では、その根拠を橿原市の岩船山の頂上付近にある益田岩船という謎の巨石に求めています。通子の論文は、素人の私が読んでも無理があるなと思わせるものでしたが、「光明」が聖武天皇の皇后になった藤原光明子(安宿あすかべ:藤原不比等と県犬養橘三千代の娘。藤原四兄弟の異母妹)に使われていること、光と闇の二元論がヤマト対イズモに当てはめてあること、鳥葬の鳥である神聖なカラスがヤマト政権では八咫烏として神聖化されていること、アマテラス(日の神)とスサノオ(闇の神)の伝説、彦火火出見尊とその兄弟が「火」に関係する名を持つこと…飛鳥時代以外にも、ゾロアスター教に縁がありそうな事柄が『古事記』『日本書紀』に見られます。
 記紀の編纂が始まった600年末~700年代に、ゾロアスター教徒のシルクロード交易商人ソグド人が伝えたソロアスター教がマニ教に変化し、唐で仏教と融合して日本に入っていた可能性はあるのでは、と思いました。