TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

before yamato 3

2016-03-20 | ancient history
縄文人の生活風景

 縄文や弥生時代の遺跡について、面白そうな本でもないかと図書館の棚をチェックしていたら、『海人たちの世界』というタイトルに目が留まりました。
 “海人”は“あま”と読みますが、アワビやサザエを素潜りで採る現代の海女の意味ではなく、海産物や塩など海を生活の拠り所としていた古代民族のことです。
 考古学者・森浩一編のこの本には、「東海の海の役割」というサブタイトルが付いていました。中部地方の古代を研究している様々な分野の研究者たちが、愛知県春日井市で定期的に開いている市民シンポジウムで発表したものをまとめたものでした。その中に、三河湾周辺の貝塚に関する興味深いものを見つけました。
 before yamato 2 の縄文文化遺跡の分布図を見ると、愛知県豊橋市と田原市(渥美半島)に●貝塚がかたまって記されていますが、この貝塚がただの貝塚ではなかった、というのです。
 貝塚といえば、古代人のゴミ捨て場と社会科で習いましたが、豊橋市の牟呂地区にある貝塚群のゴミは、ハマグリの貝殻に特化していたのです。なんと、貝層の堆積の96%がハマグリ。ハマグリしか採れなかったから、と言ってしまえばそれまでですが、普通なら生活用品のゴミも混じっているはずです。
 現代の牟呂町は海から離れていますが、紀元前500年頃(縄文時代晩期)には、豊川河口近くの三河湾に突き出した小さな岬でした。そこに大きな貝塚がいくつか形成され、代表される大西貝塚からは、ハマグリ層の途中に炉のような施設が数カ所見つかったそうです。そして、普通ならゴミ捨て場の近くには人の住居跡があるはずなのに、生活の痕跡が見当たらない、という不自然な点もありました。
 研究者が導き出した答えは、牟呂の貝塚群は、西日本最大級の干し貝加工工場だった、というものでした。三河湾で採れたハマグリをその場で茹でて身を出し、干し貝にして物々交換の材料にしていた、と考えられるそうです。
 豊橋の縄文人は、海から離れた安全な場所に居住し、海岸にあるハマグリ工場まで通勤していたのです。豊橋市の先にある渥美半島と、三河湾を挟んで対岸にある知多半島では、製塩遺跡も発見されています。豊橋市の遺跡は、今から約12000年~2300年前(縄文時代~弥生時代前期)のものが多いそうです。
 縄文人が温暖な気候だったこの土地に定住して、特産品の一部を貯蔵品として加工し、それを欲しがる人― 山岳地方に住む人々と物々交換している光景が目に浮かびます。
 豊かな土地に暮らす人々は、縄文人であろうと弥生人であろうと、わざわざ他の土地へ移動する必要はなかったはずです。足りないものは、交易で手に入れることが可能だったのですから。
 琵琶湖周辺でも、日本海側はどうだったのでしょうか。
 北陸地方の交易品といえば、糸魚川(いといがわ)のヒスイでしょうか。糸魚川のヒスイは世界最高品質で、日本列島で見つかった古代のヒスイ製品は、X線蛍光法による成分調査で糸魚川産だとわかったそうです。ヒスイは奈良時代まで高価な宝飾品とされていたので、糸魚川(ヒスイが採れるのは姫川の支流の小滝川)をテリトリーにしていた民族は、さぞかし裕福だったのではないでしょうか。でも、その辺りはフォッサマグナの上にあります。だから良質なヒスイや鉱石が豊富なのですが、火山をいくつも有するため、安定した集落作りはできなかったかもしれません。
 火山活動や寒冷化から逃れ、海岸伝いに南下すると、九頭竜川にぶつかります。九頭竜川を渡らず上流へ向かうと、美濃(岐阜県)に入ります。そこから長良川を下って、伊勢湾周辺(尾張地方)へ出られます。そこで海産物を糧とする海人族として暮らすのも悪くないでしょう。
 開拓精神にあふれた勇ましい集団は、九頭竜川を渡って、そのまま舟で角鹿(つぬが:現在の敦賀)まで行き、その先の若狭にも行ったかもしれません。福井県の三方五湖に、縄文時代前期の鳥浜貝塚があります。そこで見つかったのが、赤色漆を塗った櫛や木製品でした。漆製品といえば、青森の三内丸山遺跡でもヒスイ・黒曜石(北海道産)などの装飾品と共に発掘されています。この2つの遺跡はどちらも縄文時代前期なので、直接ではなくても間接的にでも交流があったに違いありません。
 敦賀は、豊橋と比べたら気候は劣るかもしれませんが、海産物の他、漆や丹(硫化水銀)・ベンガラ(土に含まれる酸化鉄)、北方から仕入れた鉱石などもあり、海の向こうの朝鮮半島とも近く、船着場に適した湾もあって海外との交易も可能なので、縄文弥生時代には、大いに繁栄した地域だったと思います。
 九州や西日本の縄文人は移動する必要性がなかったので、交易以外で東へ向かう事はなかったのでは、と考えると、縄文時代晩期に一番勢力を持っていたのは敦賀の海人族だったのではないでしょうか。弥生時代になり、彼らは越(こし)という部族勢力になります。
 越は、今の越前・越中・越後という広大な地域です。そこを制した大王は歴史に残っていませんが、『日本書紀』には、第26代継体天皇(即位507~531年)こと男大迹(おおど)またの名を彦太(ひこふと)の母親が、越前坂井の三国出身だと記されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

before yamato 2

2016-03-17 | ancient history

今から2000年以上前、石器時代に区分される縄文文化時代の遺跡分布

 finding hohodemi10内の弥生文化時代の遺跡分布図と比較すると、弥生遺跡が極端に少ない東北地方に数多くの縄文遺跡があることがわかります。●貝塚を取ってしまうと、大陸からの文化が早く伝わったとされる九州地方より、関東東北地方の方が縄文遺跡が多く見つかっているのに気づきます。
 海外から稲作文化を持って渡来した弥生人が、日本列島の西半分で増えていく遥か昔から、縄文人は日本列島全体に満遍なく暮らしていたのでしょう。佐賀県の吉野ケ里の3000年以上も前に、青森県の三内丸山に縄文人の大集落があったことからも想像できます。
 復元された三内丸山遺跡は、昨年訪れた静岡の登呂遺跡(弥生時代後期)と比べても、そこに水田がないというくらいで、優るとも劣らないほど立派な集落でした。そんな豊かなイメージの縄文文化が衰退したのは、渡来人のもたらした弥生文化のせいだったとは思えません。
 三内丸山遺跡の周囲には、大湯環状列石に代表される謎のストーンサークルが幾つか存在します。何のために造られたのか今もって謎ですが、紀元前4000年より前から(縄文時代後期)数百年に渡って造られたものだそうです。ストーンサークルと同じ場所に住居跡がないことから、天文台か何かの祭事場だったと推測されています。大湯環状列石を間近で見た時、私は天文台だと思ったのですが、数箇所で競うように造られたことや、縄文時代後期の数百年に集中している事を考え合わせると、この頃大きな気候変動があったため縄文人が天(神)に祈りを捧げたのでは…とも考えるようになりました。
 縄文人が東北でも豊かに暮らせた温暖な気候が、徐々に寒冷化していき、木の実や山菜が採れなくなったり、寒さで病死する人々が増えたり。天変地異を鎮めるには、自然の神様に祈る(生贄を捧げたかもしれません)しかなく、環状列石のような祭場を各集落が競うように造ったのかもしれません。
 しかし、祈っても気候変動は人間の思うようにはなりません。住むに適さなくなった土地を捨て、縄文人は何処へ行ったのでしょうか。
 そう考えた時、弥生人が西方からやって来て大和の国(奈良県)に移り住んだ、という固定観念が私の中でグラリと揺れました。私なら、食糧のある温暖な南へ向かう―縄文人も南へ、そして西へ移動して行ったのではないでしょうか。
 とはいっても、街道があるわけでもなく、彼らの行く手を阻む山や谷、何より河川を渡るのは容易ではなかったと思います。特に日本列島の中心のくびれ部、琵琶湖と木曽三川(木曽川、長良川、揖斐川)と九頭竜川を渡ろうとする者は、少なかったのではないでしょうか。多くは適当な土地に落ち着き、そこで西方からやって来た弥生人を受け入れ、農耕技術を学んで弥生人と同化していったのでは、と想像しました。
 西方からやって来る弥生人は、南方系であれば黒潮に乗って舟で東や北へ移動できたでしょうし、大陸伝来の知恵と技術でもって大河を渡る術を持っていたことでしょう。後にヤマト政権からエミシ(蝦夷、毛人)と十把一絡げに呼ばれる民族が、このような北方からやって来て定住した縄文人たちだったのではないでしょうか。蝦夷は中央からの差別用語という印象が強かったのですが、『日本書紀』などを読んでも蝦夷を差別的に使っている記述が見当たらず、むしろ「エミシ」は「勇猛果敢な人」という意味だったのではないか、と思います。鹿児島の「ハヤト(隼人)」と同じように。
 さて、問題はもとから中央にいた民族のグループです。琵琶湖周辺に住んでいた人たちは、東や西へ移動したのでしょうか。
 ←静岡市登呂遺跡
←登呂博物館内の弥生人の生活原寸大再現

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする