縄文人の生活風景
縄文や弥生時代の遺跡について、面白そうな本でもないかと図書館の棚をチェックしていたら、『海人たちの世界』というタイトルに目が留まりました。
“海人”は“あま”と読みますが、アワビやサザエを素潜りで採る現代の海女の意味ではなく、海産物や塩など海を生活の拠り所としていた古代民族のことです。
考古学者・森浩一編のこの本には、「東海の海の役割」というサブタイトルが付いていました。中部地方の古代を研究している様々な分野の研究者たちが、愛知県春日井市で定期的に開いている市民シンポジウムで発表したものをまとめたものでした。その中に、三河湾周辺の貝塚に関する興味深いものを見つけました。
before yamato 2 の縄文文化遺跡の分布図を見ると、愛知県豊橋市と田原市(渥美半島)に●貝塚がかたまって記されていますが、この貝塚がただの貝塚ではなかった、というのです。
貝塚といえば、古代人のゴミ捨て場と社会科で習いましたが、豊橋市の牟呂地区にある貝塚群のゴミは、ハマグリの貝殻に特化していたのです。なんと、貝層の堆積の96%がハマグリ。ハマグリしか採れなかったから、と言ってしまえばそれまでですが、普通なら生活用品のゴミも混じっているはずです。
現代の牟呂町は海から離れていますが、紀元前500年頃(縄文時代晩期)には、豊川河口近くの三河湾に突き出した小さな岬でした。そこに大きな貝塚がいくつか形成され、代表される大西貝塚からは、ハマグリ層の途中に炉のような施設が数カ所見つかったそうです。そして、普通ならゴミ捨て場の近くには人の住居跡があるはずなのに、生活の痕跡が見当たらない、という不自然な点もありました。
研究者が導き出した答えは、牟呂の貝塚群は、西日本最大級の干し貝加工工場だった、というものでした。三河湾で採れたハマグリをその場で茹でて身を出し、干し貝にして物々交換の材料にしていた、と考えられるそうです。
豊橋の縄文人は、海から離れた安全な場所に居住し、海岸にあるハマグリ工場まで通勤していたのです。豊橋市の先にある渥美半島と、三河湾を挟んで対岸にある知多半島では、製塩遺跡も発見されています。豊橋市の遺跡は、今から約12000年~2300年前(縄文時代~弥生時代前期)のものが多いそうです。
縄文人が温暖な気候だったこの土地に定住して、特産品の一部を貯蔵品として加工し、それを欲しがる人― 山岳地方に住む人々と物々交換している光景が目に浮かびます。
豊かな土地に暮らす人々は、縄文人であろうと弥生人であろうと、わざわざ他の土地へ移動する必要はなかったはずです。足りないものは、交易で手に入れることが可能だったのですから。
琵琶湖周辺でも、日本海側はどうだったのでしょうか。
北陸地方の交易品といえば、糸魚川(いといがわ)のヒスイでしょうか。糸魚川のヒスイは世界最高品質で、日本列島で見つかった古代のヒスイ製品は、X線蛍光法による成分調査で糸魚川産だとわかったそうです。ヒスイは奈良時代まで高価な宝飾品とされていたので、糸魚川(ヒスイが採れるのは姫川の支流の小滝川)をテリトリーにしていた民族は、さぞかし裕福だったのではないでしょうか。でも、その辺りはフォッサマグナの上にあります。だから良質なヒスイや鉱石が豊富なのですが、火山をいくつも有するため、安定した集落作りはできなかったかもしれません。
火山活動や寒冷化から逃れ、海岸伝いに南下すると、九頭竜川にぶつかります。九頭竜川を渡らず上流へ向かうと、美濃(岐阜県)に入ります。そこから長良川を下って、伊勢湾周辺(尾張地方)へ出られます。そこで海産物を糧とする海人族として暮らすのも悪くないでしょう。
開拓精神にあふれた勇ましい集団は、九頭竜川を渡って、そのまま舟で角鹿(つぬが:現在の敦賀)まで行き、その先の若狭にも行ったかもしれません。福井県の三方五湖に、縄文時代前期の鳥浜貝塚があります。そこで見つかったのが、赤色漆を塗った櫛や木製品でした。漆製品といえば、青森の三内丸山遺跡でもヒスイ・黒曜石(北海道産)などの装飾品と共に発掘されています。この2つの遺跡はどちらも縄文時代前期なので、直接ではなくても間接的にでも交流があったに違いありません。
敦賀は、豊橋と比べたら気候は劣るかもしれませんが、海産物の他、漆や丹(硫化水銀)・ベンガラ(土に含まれる酸化鉄)、北方から仕入れた鉱石などもあり、海の向こうの朝鮮半島とも近く、船着場に適した湾もあって海外との交易も可能なので、縄文弥生時代には、大いに繁栄した地域だったと思います。
九州や西日本の縄文人は移動する必要性がなかったので、交易以外で東へ向かう事はなかったのでは、と考えると、縄文時代晩期に一番勢力を持っていたのは敦賀の海人族だったのではないでしょうか。弥生時代になり、彼らは越(こし)という部族勢力になります。
越は、今の越前・越中・越後という広大な地域です。そこを制した大王は歴史に残っていませんが、『日本書紀』には、第26代継体天皇(即位507~531年)こと男大迹(おおど)またの名を彦太(ひこふと)の母親が、越前坂井の三国出身だと記されています。