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who is syaraku?

2009-08-02 | art
「四代目松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪」1795年5月写楽作

1794年5月から1795年1月までの間に28枚の大首絵を含む約150点の錦絵(全工程カラー摺りの浮世絵版画)を発表後存在が消え、「東洲斎写楽」という名以外出生不詳の絵師の「肉筆画(扇子に描かれた直筆画)」が2008年ギリシャで発見された。
詳細は公式webサイトで→写楽 幻の肉筆画マノスコレクションより

謎の天才浮世絵師として、その正体を推理され続けている写楽の、活動終了4ヵ月後に描かれた肉筆画が発見された事実によって、数々ある「写楽説」の中から「写楽死亡説」が淘汰される。それから、この絵には加古川本蔵の台詞の一部の前に「五代目松本幸四郎」と記してあるが、これは似顔の特徴から明らかに四代目の誤りであるとされている。ということで、「写楽役者説」も現役役者がこのようなミスは犯さない、と思うので可能性が薄まる。

写楽が誰かの変名であってもそうでなくても、真相に近い人物を探ってみるのが一番近道だと考え、写楽の浮世絵を発表した版元・蔦屋重三郎の書店「耕書堂」に1794年前後出入りしていた人物に当たりをつけてみた。

蔦屋重三郎(1750-1797東京吉原生まれ、本名:喜多川重三郎。出版業者&出版プロデューサー、「耕書堂」オーナー)
葛飾北斎(1760-1849東京墨田区生まれ、本名:川村?鉄蔵。「富嶽三十六景」など描いた浮世絵師)
山東京伝(1761-1816東京深川生まれ、本名:岩瀬醒<さむる>。戯作家・浮世絵師。曲亭馬琴の師)
十返舎一九(1765-1831静岡生まれ、本名:重田貞一<さだかつ>。「東海道中膝栗毛」を書いた作家)
曲亭馬琴(1767-1848東京深川生まれ、本名:滝沢興邦<おきくに>。「南総里見八犬伝」を著した作家)

この5名は、少なくとも写楽に会ったことあるか存在は知っていたにちがいない。
出版元の蔦重は説明いらないが、北斎(当時は師事していた絵師の一派の号勝川春朗<しゅんろう>と号していた)は馬琴(山東京伝に師事し蔦屋から黄表紙本など発表)の挿絵を描いていたことがあったから、蔦屋に出入りしていた。事実絶頂期の耕書堂の浮世絵を残している。山東京伝は蔦屋から洒落本など出版。京伝の弟子・馬琴は1794年まで蔦屋に下宿していたことがあり、彼と入れ替わりに下宿したのが十返舎一九だった。
この中で絵師でない人物がいるが、一九も馬琴も錦絵こそ描かないが本の挿絵くらいならプロ並みの腕前である。

さて、この5名の絵もしくは筆跡が写楽のそれと一致すれば事は簡単に解決する。
写楽の絵の特徴は「耳」だとテレビで専門家が言っていた。確かに写楽の大首絵の耳、肉筆画の耳を見るとどの人物も同じである。耳たぶに線が一本ある、ややふっくらめの耳たぶだ。ただ、こういう比較は、理由あって変名で描いたものについては当てにはならない。何故ならわざと特徴を隠したり変えて描くからだ。サインについても同様。写楽の落款はお手本のように整っている。

写楽がこの5名の誰かなのか、別の人物なのか…1765年に鈴木春信が錦絵を開発し、「絵暦交換会」で錦絵が大流行してから蔦重が死去した1797年を中心に調べているとき、曲亭馬琴のペンネームの由来を見つけた。曲亭馬琴を別の読み方にすると「くるわでまこと=廓で誠」で、「遊郭でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男」という意味だそうだ。江戸時代の町人は「洒落」と「粋」が身上。ペンネームにはそれなりの意味があるはずだ、と思い「名まえ」から写楽の人物像を想像してみた。
山東京伝は「江戸城紅葉‘山’の‘東’に住む‘京’屋の‘伝’蔵」だそうだ。

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