TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

信長公記読んでいます

2021-06-27 | bookshelf
昨年の大河ドラマの結末にがっかりしたので、信長公記の現代語訳版を読んでいます。

当時の戦国武将の価値観は、現代人とは全く異なっていたことが解ります。
現代の戦国ドラマは「戦いのない世の中を…」などと天下泰平を謳っておりますが、当時の武将に「平和」という概念があったかどうか大いに疑問です。少なくとも織田信長にとって泰平=平和ではないことは確かだと思います。
明智光秀もしかりだとは思いますが、光秀でなくとも信長を止めたくなります、あれでは。
読了後、明智光秀の謀反の実情を改めて考えてみたいと思います。

after reading"Das Spiegelbild theater" 3 final

2021-01-23 | bookshelf

ミステリー小説はあまり読みませんが、食指が動いた要因は"E.T.A.ホフマン"だけではなく『鏡影劇場』というタイトルにもありました。
内容が推し量れない怪しげなタイトル。ですが、読了後、混乱した脳みそを整理してゆくと、確かにこの小説は"鏡影"であり"劇場"でもあるなぁ、と思いました。
E.T.A.ホフマンを"エータ・ホフマン"と読んで"ホンマエイタ"と名付けられた人物は、あたかもホフマンを体現したかのような姿かたち、所作、性質の持ち主。作中で言及されていた言葉で言うなら、doppeltganger ドッペルトゲンガーと云えるでしょう。本書によると、よく使われるドッペルゲンガーという言葉は〈二重人格〉を意味するのですが、" t "の入るドッペルトゲンガーは〈分身〉という意味合いを持つのだそうです。あたかも鏡に映る自分を見るような感覚ではないでしょうか。
他の登場人物もホフマンを取り巻く人々の名前を踏襲させて、作者の意のままに動く操り人形のように役割を与えられています。黒い重厚な装丁の本が、この人形たちの劇場のように思えます。そして人形遣いは、読者までもこの劇場の中に取り込んでしまおうと仕掛けたのでしょうか。"本間鋭太"をネットで検索した人は要注意ですね。
作者・逢坂剛の正しい読み方を知らなかった私は致命的でした。逢坂剛はOHSAKAGOで、KOGASAHOに組み換えたということで、これがわかっていれば作者のドッペルトゲンガーが解りますから、鳥瞰的に物語を読むことができたのですが・・・。

2年前、ロシアのストップモーションアニメ『ホフマニアダ』が日本公開されましたが、ホフマン自身の生き様が彼の作品以上に後世の人々を魅了してやまないみたいです。
 子供の頃、ピアノの練習曲で"ホフマンの舟唄"というのがあったのを思い出しました。今の今までそれがE.T.A.ホフマンの事だとは知りませんでした。ホフマンは生前、元々マルチな才能の持ち主でしたが音楽の方に傾倒していて、小説家としてデビューしてから病で亡くなるまでの十数年間はマイナー文筆家で貧乏だったそうです。死後ドイツ以外の国で人気が高まり、ホフマンの小説を使ってフランス人が創作した戯曲をフランス人作曲家オッフェンバックが『ホフマン物語』というオペラに仕立て、その中で歌われる曲が"ホフマンの舟唄"だとわかりました。
 気味の悪いお話が多いホフマンの作品ですが、人の心を捉えて離さない何かがあります。


after reading "Das Spiegelbild theater" 2

2021-01-16 | bookshelf

逢坂剛 著『鏡影劇場』袋綴じ部分

 一杯食わされた! これが袋綴じ以降を読んだ私の感想です。
川本三郎氏の書評の中に「入れ子構造になっているのが工夫」とさり気なく書いてありましたが、この作品の構造はさながらマトリョーシカみたいなのです。
『鏡影劇場』という本の作者は逢坂剛ではありますが、表紙をめくると、実は『鏡影劇場』という小説の原作者は本間鋭太という見ず知らずの人物で、その人物から勝手に原稿(フロッピーディスク)を送り付けられた逢坂氏が編者となって出版の仲介をした、というお断りが〈編者識語〉に明記され、次に始まる本編には―『鏡影劇場』本間鋭太・作 逢坂剛・編― と扉が付いているのです。
無垢な読者は"本間鋭太"が書いたんだ…と思いながらプロローグを読み始めることになります。
舞台はスペイン。モノローグだけれども主語が省略されているため性別が不明ですが、どうやら成人男性らしく、かなり専門的なクラシック・ギターの話から始まります。彼はマドリードの古書店で、裏にギター譜が手書きされた古文書を入手します。この時点でこの人物像の叙述はないけれどもこの男が主人公だと思って読み進んでいくと、舞台が日本に移ったところで脇役に回ってしまいます。
古文書が古いドイツ語の文字で書かれてあり、解読するためにドイツ浪漫派の専門家に翻訳の仕事を依頼することになるのですが、その専門家の名前が原作者と同じ"本間鋭太"。
その本間鋭太が翻訳した古文書の内容と補足説明が、E.T.A.ホフマンの半生記になっているのです。ホフマンとドイツ文学を知らない読者も、読み終えた時には立派なホフマニアン(シャーロック・ホームズのシャーロキアンのようなもの?)になっている仕掛けです。
更に古文書―ヨハネスがホフマンの妻に宛ててホフマンの言動を報告したもの―から派生した本間鋭太の雑学が、ホフマンの生きた同時代の日本(江戸末期)にまで話が及び本間自身とつながっていた?!と仰天な展開になります。本当ですか、逢坂さん・・・と思った瞬間、ハタと気づきました。
この小説の作者は逢坂氏で、原作者・本間鋭太は作中人物、つまり架空の人物なのだった、と。だからここに登場する人物の日本名に違和感を感じるのは、作者が意図的に造った名前だからに違いないのです。なにはともあれ、袋綴じ以降で種明かしされて、本編は完結します。
ところが、続く〈あとがき〉には、「この作品は原作者自身が実際に行った例の古文書の解読と翻訳の作業、もしくは自分の専門分野の研究成果を小説風に組み立ててまとめたもの、ということになろうか。」などと書かれてあり、『鏡影劇場』の分析がなされているのです。
おまけに、逢坂氏は仕事の合間に謎の原作者を探して会いに行った、と書いてあります。その様子は〈あとがき〉にしては長文で、まるでホラー小説のような・・・ですが、ちゃんと最後に"逢坂剛"と書いてあります。続いて【謝辞】、文献一覧が掲載されあり、学術書みたいだなと思いながらページをめくると〈編者跋語〉というのがあって、〈あとがき〉から文献一覧までは原作者が逢坂剛になりすまして書いた偽作だと明かされます。
ところが、逢坂氏自身も本間鋭太宅を訪ねて、そこで真の原作者(だと思われる)人物に会ったと告白してページが尽きます。
無垢な読者はいよいよ混乱します。どこまでが幻想(妄想)でどこからがリアルなのか・・・



after reading "Das Spiegelbild theater" 1

2021-01-14 | bookshelf
逢坂剛 著『鏡影劇場』新潮社2020年9月刊

新聞の書評欄で、久しぶりに私の尊敬する評論家の名前を見つけました。
逢坂剛という作家の『鏡影劇場』という本のレヴューで、掲載されたコラムの真ん中には、"ドイツ文学への愛"と大きな文字が書かれてありました。
最近の小説家に疎く、恥ずかしながらこの作家の名前の正しい読み方も知らない私は、お堅い学術書の類いなのかと思いましたが、E.T.A.ホフマンという文字が目に付き、食指を動かされ読んでみました。どうやら学術書などではなく、19世紀ドイツの文豪E.T.A.ホフマンの伝記+ミステリーという趣向の日本が舞台の現代小説だと判明。ちょうど本を読む余裕ができた頃でもあったので、ネットで中古本を取り寄せました。
書評の最後に、謎が解けるくだりから袋綴じになっていると書いてありましたが、中古本なので期待はしていなかったものの、何と新品同様の代物が届きました。ハードカバーはお高いので、よい買い物をしました。
さて、19世紀ドイツの作家の作品を読んだことがない人、ホフマンなんて作家聞いたこともない人にとってはハードルが高そうに思われそうなこの作品。確かに作中に出てくるホフマンに関する報告書や、その報告書の翻訳をこなす、この『鏡影劇場』を書いたとされる本間鋭太(ホンマ エイタ)なる人物による注釈の部分は、ホフマンに少しも興味がない人にとっては退屈かもしれません。
しかし、そこはミステリー小説たるこの作品の強みで、「ホフマン文書」とも云える報告書を書いたヨハネスの正体は?本間鋭太とは何者なのか?報告書を発見し翻訳を依頼した倉石夫妻との関係、さらに本間と倉石夫妻の仲介をする本編の主人公(?)古閑沙帆や謎めいた登場人物(名前しか登場しない者もいます)たちとの因果関係等々・・・謎解きのためにとりあえず先へ先へと読み進んでしまいます。ショートカットしたくても、そこはほれ、袋綴じになっているので作者の意のままに読み続けるほかないのです。
本物であれば大発見になるかもしれない「ホフマン文書」の謎解きと、本編に登場する人物たちの不思議な因果関係が同時進行し、更に本間鋭太による「ホフマン文書」の内容に関する考察などが組み込まれ、読者の脳は少々混乱させられるかもしれませんが、勘の鋭い人ならば、ドイツ文学の知識がなくても、ちりばめられたヒントを基に登場人物たちの相関図がおぼろげに浮かび上がってくることでしょう。その頃には、袋綴じを開封するところまできているかもしれませんが。
そして遂に綴じられていたページをピリピリと開くと、「ホフマン文書」を書いたヨハネスの正体が明かされます。登場人物たちの謎は何となく早い段階で察しがつきましたが、ヨハネスの正体は思いつきませんでした。何故かという説明もされているので、ナルホドと納得。
謎は解けたのでこれで終わり、と思いきや、本当の"謎"はここから始まるのでした。

who killed Nobunaga? "I,"said ...(1)

2020-05-27 | bookshelf
『本能寺の変 431年目の真実』明智憲三郎著
文芸社文庫 初版2013年

新型コロナウィルス禍で図書館も閉館していたので、自分のものではない家にある本を読んでみました。
 今年の大河ドラマで注目の人物「明智光秀」。
歴史的大事件である本能寺の変は、学校で習うので日本人なら誰でも知っています。そのため、さほど新鮮味がなく興味もありませんでした。一連の事件は、織田信長の重臣明智光秀が主君を裏切ったという謀反、というのが明白な歴史的事実だからです。明智光秀が信長を裏切った理由には様々な説や憶測があり、その代表的なものが光秀の感情的なものだというのが一般論になっています。その他、黒幕説や生存説など現代人が発想した面白おかしい説もありますが、400年以上経った今となっては「真実」など誰にもわかるはずないであろう、と思います。ただし、真実に迫ることは可能です。その真実に迫ったのが明智光秀の子孫とあらば、歴史学者よりも信憑性があるのではないか、と興味をそそられました。
 ひとつ心配だったのは、血縁が故にご先祖様を贔屓目に見てしまう事でした。しかし、著者は自らのやり方を「歴史捜査」と名付けて、権威ある歴史学者によって編纂された歴史書に記載されてある「定説」に囚われることなく、孫引き資料を排除して信憑性の高い史料を1から研究しなおし、導き出された全ての証拠を辻褄が合うように復元するという作業方法は、合理的で読者を納得させるに足るものでした。そのように導き出された「答」(著者は結果を「答」と書いています)は定説と大きく異なり、著者自身驚いたそうです。
 私が関心を抱く古代史(聖武天皇時代より前)の書籍にしても、著名な歴史学者が著した本に記載されたものが定説となっているものの、その原典が疑問に思われるもの、また学者自身の考えに政治的な時代背景が見え隠れするのを感じることがあります。勿論、「銅鐸の謎」「邪馬台国の謎」「聖徳太子の謎」だとか古代史ファンの興味をそそる突飛な説を唱えて、それを生業にしている怪しげな歴史家もいますので、それよりは信頼できます。時代が変われば見方も変わりますし、明治大正昭和の定説が正しいとは断言できませんから、新しい発見や史料などから昔の定説とは異なる説が浮かび上がるのは合点がいきます。また、そうやって導かれた「答」が自身の立てた仮説と違ってしまう、というのは証拠に忠実に従ったが故の結果ですから、信憑性が高いと感じます。「歴史捜査」というように、信長殺害を刑事事件として捉えて証拠を探していく手法は、読者も刑事か探偵になった気分にさせられ、先へ先へと難なく読み進めることができました。だからといって、内容は決して軽いものではありません。一般人が学校では習わなかった、戦国武将の「闇」を理解しなければなりません。そして近代の政治的な「歴史」の利用も。
 明智光秀が何故本能寺の変を起こしたのか?なぜ信長を殺さなければならなかったのか?という核心に迫るあたりを読んでいたら、マザーグースのWho killed Cock Robin? (誰が殺したコックロビン)の一節が頭の中に浮かんでいました。この童謡は、コマドリcock robinを殺した犯人はスズメだと最初に唄っていますし、目撃者もいます。その後さまざまな鳥たちがコマドリの葬儀に関わりますが、スズメが何故コマドリを殺したのか、犯人のスズメがどうなったのか、という事には一切触れられていません。
 本能寺の変はこれと似ていると感じました。犯人は明智光秀だとわかっています。でも動機がいっこうに掴めません。衝動的な犯行だったのでしょうか、それとも計画的だったのでしょうか?
 定説では、光秀は信長に疎まれるようになってから彼の事を恨むようになり、茶会を開くため上洛した信長の警備が手薄だと知っていた光秀は天下取りのチャンスだと思い、誰にも告げずに独断で兵を本能寺へ向かわせた、という単独犯行説になっています。有名な「敵は本能寺にあり」ですが、そもそもこの一連のストーリーは、誰の記録したものだったのでしょうか。

about Hoffmaniada

2019-07-11 | bookshelf

E.T.A.ホフマンを初めて読むなら↑この短編集がお薦めです
訳者による解説あとがきにホフマンの人物像も書かれてあります

 『チェブラーシカ』などを手掛けたロシアのアニメーション制作会社が2018年に完成させた長編パペットアニメーション作品『ホフマニアダ ホフマン物語』。『チェブラーシカ』は『ピングー』と同じように、その愛らしいキャラクターで大ヒットし、CGアニメに押されて廃れていきそうだったストップモーション・アニメの救世主になりました。日本でパペット・アニメといえば、英国のアードマン社の『ひつじのショーン』『ウォレスとグルミット』に代表されるような子供向けのアニメーションが多いですが、一方で、チェコやポーランド制作のアート・アニメーションと呼ばれている難解な作品も、根強い人気があります。『ホフマニアダ ホフマン物語』は、アートアニメの部類に入ります。
 パペット・アニメは、1つの動作を一コマずつ撮影してゆく手法で、途方もない手間と時間とお金がかかるので、今やコマ撮りアニメは短編が主流です(ヤン・シュヴァンクマイエルやクエイ・ブラザーズも長編は実写映画です。)が、『ホフマニアダ』は製作に15年かけて完成された72分の長編作品。人形は口も動くしまばたきもしますから、制作過程を想像すると気が遠くなりそうです。しかし、見る方は大概そんな苦労は知りませんから、「面白い」「面白くない」で作品を評価します。
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オリンピアに魅了されるホフマン

 アニメーションの技術自体に興味があって観ている方にとっては、興味が尽きない作品だと思われますが、「映画」として見る場合、それなりに前知識がないと「つまらない」と思います。ストーリーは、下敷きになっているE.T.A.ホフマンの作品を知らないと、どこが面白いのか解らないと思いました。
 シュヴァンクマイエル、クエイ兄弟、イジー・バルタ、川本喜八郎などアート・アニメーション作品のキャラクターが、「人形」自体が「芸術作品」で、「作品が動いている」という印象なのに対し、こちらのキャラクターは子供向け操り人形っぽく(アートっぽくない)、『チェブラーシカ』のように「愛らし」くもないので、人形にあまり魅力が感じられませんでした。そういった点では、アート・アニメーションとは一線を画しています。
 『ホフマニアダ』の一番の魅力は、パペット・アニメ云々ではなく、題材の「E.T.A.ホフマン」と「ホフマンの作品」にあると思います。

『砂男』の自動人形オリンピア
 例えば、『砂男』が好きな人なら、どんなオリンピアが登場するか心待ちだと思います。錬金術師のコッペリウスは?ホフマンの勤務先の王立大審院の一室や行きつけの居酒屋の様子は?文字を読んで想像していた世界が具現化されるのを見るのは、胸がときめきます。時には自分の想像と違ってがっかりすることもありますが…。
 作家と作品をない交ぜにしたオリジナル映画で思い出したのが、ポーランド人作家ブルーノ・シュルツの『砂時計サナトリウム』をベースにしたヴォイチェフ・イエジー・ハス監督の『砂時計サナトリウム』と、カフカを題材にしたスティーブン・ソダーバーグ監督の『KAFKA迷宮の悪夢』。これらも、作家と作品を知らないと面白さが半減する映画(アニメでなく実写です)でした。裏返すと、作家と作品を知れば、面白味が何倍にもなる映画ということです。
 私は、『ホフマニアダ』のベースに使われていた『黄金の壺』は読んでいませんでしたし、ホフマンの作品はまだ数作しか読んでいません。それでも上記の岩波文庫『ホフマン短編集』を読んでいたので、十分楽しめました。
 ただ、『砂時計サナトリウム』のアデラ同様、オリンピアの「目玉」には納得いきませんでした。原作では生気のない眼のはずですから。本の挿絵のように。


the connection between Aska and Scythian

2017-05-22 | bookshelf
ウクライナにあるスキタイ人の石像
明日香村の猿石とそっくり

 明日香村にある石造物の謎について少し調べてみました。すぐ目についたのが、講談社学術文庫の『興亡の世界史』シリーズの表紙でした。なんと、吉備姫王墓内に置いてある猿石にそっくりではありませんか。見た瞬間、ゾロアスター教をユーラシアに広めたソグド人の石像かと思ったのですが、違いました。表紙の石像はスキタイ人の石像だということです。
 スキタイ人はソグド人と同じ遊牧民ですが、ソグド人は交易の民でスキタイ人は騎馬遊牧民。また、ソグド人はソグディアナ(現ウズベキスタンとタジキスタンの一部)を中心として中央~東アジア、スキタイは現ウクライナを中心とした西アジアが勢力範囲だったようで、スキタイ人=ソグド人ではありません(両者とも同じコーカソイドでアーリア人=インド・ヨーロッパ語族ですが)。活躍した時代も若干差があり、スキタイは8B.C.~3B.C.なのに対しソグド人は4B.C.あたりから活発に活動してきたそうです。
 ウクライナの遺跡には、このような人型石像が点在してあり、その下は墓になっていたそうです。とすると石像は埋葬された人の生前の姿を模した物なのでしょうか?この本を読んだ上では、何ともわからないようです。しかし、スキタイ人の石像とそっくりな明日香村の猿石は、古代日本の飛鳥時代にスキタイ人が来ていた(もしかしたら埋葬された?)証拠なのではないでしょうか。ウクライナからシベリアの辺りまで、スキタイの古墳も多数発見されていて、その古墳は日本の古墳に似ています。
 ただ、個人的には明日香村の猿石は、スキタイ人ではなくソグド人のような気がします。
 ソグド人の風貌がよくわかる画像を見つけました。ソグド人は馬またはラクダに乗って移動していたので、袖や裾が体にぴったりした衣服を着て、ベルトを締めていました。そして(三角の形をした?)帽子を被り右手にはグラスを持ち、膨らんだ腹部・・・、服を脱がせばこちらの方が明日香村の猿石に似ています(グラスは持っていませんが)。お腹に両手を回しているのはスキタイの石像の定番ポーズですが、ひょっとしてスキタイが滅んで交易商人ソグド人と融合して、飛鳥に到達した頃には2つの文化が合体した状態だったのかもしれません。吉備姫王墓の猿石は、中へ入れないため背後を見ることができませんが、猿石の背には別のものが掘ってあります。↑画像の猿石の裏には別の顔を持つ人物が。二面石のような意味を持っているのでしょうか。
また、裏が鳥になっている石人像もあります。鳥といえばソグド人の信仰するゾロアスター教の鳥葬の鳥を想起します。異なる2つの要素を持たせる、というのもゾロアスター教の二元論に結びつきます。
 猿石が斉明天皇期(600年代中期)に造られたものならば、ソグド人たちはそれ以前から飛鳥に居たと考えられそうです。彼らが日本の記録に残っていないのは、商人として非公式に日本に渡って来たからなのかもしれません。
 今年1月、橿原考古学研究所の所長さんが「東アジアのソグド人」をテーマに講演をされ、『日本書紀』孝徳天皇期と斉明天皇期のトカラ国から来た人たちの中に、ソグド人が同行していた可能性を指摘されたそうです。この講演、拝聴したかったです。
 橿原市の益田岩船がゾロアスター教の拝火壇だとは思いませんが、飛鳥時代の石造物の謎を解く鍵は「ソグド人」ではないか、と思いました。そして、中央アジアのコーカソイドは弥生時代(縄文時代後期から?)に既に日本列島に侵入していたのでは・・・出雲を旅した後、そんなふうにも感じました。

a fire circuit―the stone statues in Aska

2017-05-12 | bookshelf
橿原市の丘の頂上付近にある益田岩船
大きさ11×8×4.7メートル 大きさ推定800トンの花崗岩

 本の整理をした時出てきた松本清張の短編『陸行水行』を再読して、その「解説」に紹介されていた『火の路』(発表当時のタイトル『火の回路』)を読んでみました。
 『陸行水行』は、邪馬台国の所在地を探求する在野の歴史愛好家を通して、著者独自の邪馬台国論をサスペンス絡みで描いた古代史推理小説。その後発表された古代史ミステリー小説の布石になった作品で、長編作『火の路』はその集大成だそうです。
 松本清張全集第50巻めの一冊2段組約500頁は、正直読むのに大変でした。量もそうですが、内容が、『陸行水行』では歴史愛好家の語り口だった古代史が、『火の路』では日本古代史専攻の研究室の助手・通子が主人公で、今度は専門家の語り口で古代史論が展開されているからです。殺人事件が起こるのでミステリー小説としてそれなりに読めますが、やはり日本古代史(特に飛鳥時代)に少しでも関心がないと愉しめないかもしれません。ですが、一度でも明日香村を訪ねたことがある人や、村内に点在する不思議な石造物―亀石、猿石、酒船石、須弥山石、石人像などを見たことがあれば、この作品で取り上げられた古代史の謎に引き込まれることでしょう。
 私は以前、飛鳥資料館を訪れた時、そこの庭には点在する石造物のレプリカが一堂に展示されていてるのですが、石像の解説や説明が腑に落ちませんでした(未だ解明されていないためですが)。
    
あとで石造物の謎に迫った書籍を探してみましたが、定説と変わりないのであまり熱心に研究する学者もいないのだなぁと思っていました。ですが、松本清張氏はこの謎に40年以上前に挑んでいたのでした。小説家の歴史物は無責任なので敬遠していましたが、清張氏の考証は「歴史愛好家」の範疇を超えた本格的なものでした。
 清張氏は、『日本書紀』での斉明天皇(皇極天皇の重祚:天智・天武天皇の実母。吉備姫王の娘)の人物像が、他の天皇と違う点―即位した年に“大空に竜に乗った者が現われ、顔かたちは唐人に似ていた”。“天皇は工事を好まれ…水工に溝を掘らせ…宮の東の山に石を積み垣とした…時の人はそしって「石の山岡をつくる つくった端からこわれるだろう」”―に着目して、彼女が神道や仏教・儒教とも異なる異教を取り入れていたのではないか、それゆえ人々から理解されず謗られたのではないか、と考えたようです。そして、その宗教がゾロアスター教(拝火教・祆教)だったのではないかと仮説を立てた主人公通子は、ゾロアスター教の中心地イランを巡廻します。帰国した通子は明日香村の石造物とゾロアスター教を結び付けた論文を発表します。
 ゾロアスター教。世界史の教科書に名前だけは出てきたので記憶にはありましたが、どのような宗教か全く知りませんでした。何となく怪しげな宗教かと思っていました。『火の路』では通子が体験したことが描いてあって解りやすかったですが、「著者撮影」となっている“沈黙の塔”やゾロアスター教寺院内の写真が掲載されているので、通子が訪ね体験したことは清張氏が実際取材し感じた事なのでしょう。
 ゾロアスター教について調べてみると、“鳥葬”という変わった葬儀が印象的です。樹木が少なく乾燥した大地での死体の処理法として、鳥類に食べさせるというのは理にかなっていたのでしょう。現在では、その“鳥”はハゲタカやハゲワシといった猛禽類と考えられているようですが、古代ペルシャ時代は“カラス”だったようです(本文では烏になっています)。
 この宗教は、火を崇拝するだけでなく、水・大地・空気なども神聖なものとしているため、それらを穢さない方法=鳥葬を選んだということです。教義は、光明神アフラ=マズダ(善神)と敵対する暗黒神アーリマン(悪神)との抗争という善悪二元論。開祖ザラスシュトラ(英語読みゾロアスター。独語読みツァラトゥストラ)は紀元前600年代前期生まれの人(伊藤義教論)、紀元前1200年頃の人(メアリー=ボイス論)など研究者によって大きな違いがみられますが、どちらにしても彼の説いた教えは世界最古の啓示宗教で、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・仏教などに影響を与えたそうです。
 その宗教が、本当に飛鳥時代の日本に伝わっていたのでしょうか?『火の路』では、その根拠を橿原市の岩船山の頂上付近にある益田岩船という謎の巨石に求めています。通子の論文は、素人の私が読んでも無理があるなと思わせるものでしたが、「光明」が聖武天皇の皇后になった藤原光明子(安宿あすかべ:藤原不比等と県犬養橘三千代の娘。藤原四兄弟の異母妹)に使われていること、光と闇の二元論がヤマト対イズモに当てはめてあること、鳥葬の鳥である神聖なカラスがヤマト政権では八咫烏として神聖化されていること、アマテラス(日の神)とスサノオ(闇の神)の伝説、彦火火出見尊とその兄弟が「火」に関係する名を持つこと…飛鳥時代以外にも、ゾロアスター教に縁がありそうな事柄が『古事記』『日本書紀』に見られます。
 記紀の編纂が始まった600年末~700年代に、ゾロアスター教徒のシルクロード交易商人ソグド人が伝えたソロアスター教がマニ教に変化し、唐で仏教と融合して日本に入っていた可能性はあるのでは、と思いました。

the purpose of excavations

2015-06-28 | bookshelf
『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦著
小学館 2013年初版
 図書館で古代日本に関する本を探していたら、↑地味な装丁の本を見つけました。古代史と関係なさそうな内容でしたが、最後の章に興味を惹かれて、借りて読みました。
 著者は考古学研究者の著作者の中では若い方で、遺跡の発掘調査の実体験と困難さ、発掘できない天皇陵などについて、一般読者にも理解できる文章で書いてあり、発掘調査の実態を知ることができました。
 『古事記』や『日本書紀』を読んで、日本古代の歴史が実際どうであったのか、何が真実で何が創られたもの(捏造)だったのか、はっきりいって日本国民だれも知りようがありません。巷にあふれる「卑弥呼本」「聖徳太子本」「継体天皇本」「蘇我馬子本」…様々な理屈の研究書がありますが、文献資料に頼っているだけでは「まやかし」の疑いはなくなりません。
 そこで考古学者の学術的発掘が必要になるわけですが、素人の私なぞは、治定されている古墳などは再調査して副葬品やお墓から正しい年代を割り出してくれれば、その古墳の主がどの時代の人物なのかくらいは特定できて、もし治定されている古墳とかけ離れていれば訂正して、それを何度も繰り返すことで正しい被葬者と古墳が治定できるのではないか…と思うのですが、事はそんな単純ではないと解りました。
 天皇陵は宮内庁管轄で、政治的規制がかかっているから難しい、というのはわかりますが、研究者の中にも「調査の技術がより進歩しているだろう未来の考古学に託すべきだ」として発掘に消極的立場をとる傾向が広まっているそうなのです。「技術が進歩しているだろう未来」って、ひょっとしてキトラ古墳と高松塚古墳の壁画の失敗にビビッてそんな発言をしているのだろうか?と思ってしまいました。しかし、古墳の内部を保護する技術は、考古学者とは畑が違うと思うのですが。技術があってもそれを正しく使わなければ、意味がありません。「技術が進歩しているだろう未来に託す」という考えの関係者は、壁画のカビも技術のせいだと思っているのでしょうか。
 子孫まで伝えたい貴重な文化財を、破壊のリスクを冒してまで発掘する意義とは何でしょうか。著者も本書の中で自問自答しています。
「古墳を発掘する理論とは何だろうか。
 遺跡の発掘とは、品物を獲得したり、隠されたものをあばいて好奇の目にさらしたりすることではない。
 物と物、物と遺構との関係をつかみ、記録することが発掘だ。
 そこに葬られた人がどのような人で、いかなる理由でそんなふうに手厚く葬られたかを知り、
 その背景の社会のありさま、思想や宗教の内容、それらをつかさどる政治のしくみなどを、
 具体的に明らかにする唯一の手段である。
 自分たちの過去について、正しく、詳しく知る。これが発掘の目的だ。」

 一般市民は、このように明らかにされた結果を「歴史」として学ぶことができます。昨今、過去に歴史の授業で習ったことが否定され、新たな歴史を知らされる事が増えました。それでいいと思います。明治時代に、記紀に書いてあったからこれじゃないか?と決められたようなものを信じさせられるよりは。本書には、天皇陵古墳の発掘の意義について、「正しく過去を知る」ことができると書かれています。
 私にとっては、初代の神武天皇と10代め崇神天皇が同一人物だとか、欠史八代と呼ばれる8人の天皇の陵墓が存在している事実など、矛盾だらけの日本史を解明してくれるのが、学術的発掘への願いです。ですから、古墳の壁画や出土品のお宝を見ることが、最後の目的ではありません。真実の歴史が知りたいだけです。歴史は、為政者や歴史学者だけのものではないです。自分の生まれ育った国の歴史の真実を知る権利は、一般市民にもあるはずです。
 同じ墓でも、エジプトのピラミッドとその周辺はどんどん発掘されて、新たな発見があるのに対し、日本は発掘禁止だという実態。
 科学技術の知識に脳がついていけない、または理解しようとしない頭の固い研究者が引退するのを待つしかないのかと思うと、どうにも歯がゆい思いでいっぱいです。

found a sensational old issue 3 excursus

2014-12-14 | bookshelf
先の記事found a sensational old issue の余談です。
 ターディスに乗って偶然訪れた200年後の日本。
お騒がせな古書を見つけたために、よく見ることもできませんでしたが、帰りのターディスの中でDoctorが面白い事を教えてくれました。
 書店から印刷本が消えたのは、読書人口が減った為でも紙資源の節約からでもなかった、という事です。

 この200年の間に増え続けたゴミ対策問題は世界規模で対応することになり、CO2排出の早急な削減も相まって、先ず可燃物を極力生産しない政策が、国際廃棄物対策委員会によって各国に通達されたそうです。
 これによって直ちに実行されたのが、読み捨ての確率が高い印刷物の発行禁止でした。ゴシップ週刊誌はもとより学校で使う教科書が全世界から消えたそうです。小説の類いは、幾度となく起きた世界規模の災害によって都市が崩壊(!)した際、紙媒体の書籍が被害を受けてしまい、それを契機に電子化することに決め、国際図書出版連盟が選出した作品のみ印刷物として出版されることになったそうです。私が日本橋の書店で見た「○○賞おめでとう!印刷本で発売です」の意味が、ようやく理解できました。
 短い滞在だったので、街中がどうなっていたのかよく見ていませんでしたが、日本列島を襲った、巨大地震と津波、火山爆発による災害などは、東京のような大都市にも多大なダメージを与えたようです。耐震構造がしっかりした建物は倒壊はしなかったものの、高層建築物から落下したガラスが、悲惨な結果を招いたといいます。また、高齢者の多くが避難に手こずり犠牲になりました。それ以来、超高層建築物の建設は禁止されました。高層マンションの上の方に住みたがる人がいなくなったのも一因だったという事です。

 私はターディスの中で、そういえば日本橋界隈の空が開けているような気がしたことに気がつきました。Doctorの説明は英語だったので、私の理解が正しいかどうかは定かではありませんが・・・
 教科書が印刷本じゃなくなった、というのが意外でしたが、考えてみれば教科書ほど時代や権力によって内容が変化する、当てにならない読み物ってないなぁ、と思いました。特に「歴史」なんて。
 少し前、5歳児並みの疑問を解くため関連本を読んでいたら、古代史へ足を突っ込むことになってしまいました。日本国の歴史・・・え?私が教えられてきた日本国の歴史って何だったんだろう? 『日本書紀』恐るべし、です。
 

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2014-12-11 | bookshelf
『平成うろ覚え草紙』の断片
左に「吊上駕籠」、右に「回り階段」と書いてある

 Doctorにお礼の言葉とさよならを言って、早々にパソコンで『平成うろ覚え草紙』なる本を調べてみました。結果は・・・
「著者は歌川芳細(うたがわよしこま)という江戸時代の浮世絵師。出版されたのは安政七年二月、西暦になおすと1860年になります。(略)
不穏な情勢が災いしたためか、この本は、すぐに幕府から発行禁止の命令を受けました。発行数が極端に少なく、今まで現物が発見されずに、題名と出版にまつわる不思議な逸話だけが伝わっていました。その逸話というのは、このようなものです。
 ある絵師が、誰も見たことがないものを描きたいと神仏に願っていた。すると、あまりの情念のためか、本当にはるか未来の世に迷い込んでしまった。しばらくして戻ってきたはよいが、ショックのためか、どうにも記憶があやふやである。しかし、取るものも取りあえず筆をとってあらわした。それが、『うろ覚え草紙』である。
(略)さて、それから百年以上も経った昭和四十六年のこと。群馬県前橋市の旧家で、蔵の解体作業中にその幻の『うろ覚え草紙』全五編が発見されたのです。当初は、意味不明な絵も多く、荒唐無稽なものとして学者たちの研究対象から外されていたのですが、ここ数年の再調査で、平成以降の社会と符合する点が新たに数多く見つかり、歴史、いや科学の根幹を揺るがす一大発見なのではないかということで、一躍、あらゆる学界を巻き込んでの大論争が起きているところなのです。
 本書は、その時発見された『うろ覚え草紙』を、翻訳し紹介するものです。(以下省略)」
という前書きを、館林大学文学研究センターの洞田創(とだはじめ)なる人物が書き、文化・文明・流行・子供など幾つかのカテゴリーに分類し、編集された『うろ覚え草紙』が現代語訳・注釈とともに掲載されていました。
 この本がパロディであることは、一目見てわかりましたが、著者には騙されました。本当にそういうセンターに属する研究者か大学の先生が、お遊びで作ったのだと思ったのです。それほど、この本はよくできています。改めて紹介します
 『平成うろ覺え草紙』洞田創 著 2014年飛鳥新社刊 1389円+税
 特に、途中に挟まれた、草紙が発見された経緯や、学界や研究者からの扱われ方、時代の流れに伴う草紙への見解の変化など、著者(ここでの監修者)による解説は、もちろん創作文ですが、この分野の専門書を読んだことがない人なら、「なるほど」と納得させられ、読み慣れている人は苦笑感心することでしょう。洞田研究室では「赤外線吸収インキを用いた文献鑑定」で年代を測定していましたが、できれば、放射性炭素C14年代測定法を採用してほしかったですが(笑)。
 本文(うろ覚え草紙)中にも突っ込み処はありますが、そこはご愛嬌でしょう。例えば、「男の妓楼はやること」では婦人が吉原で遊ぶ様を取り上げていましたが、幕末では地方の豪商婦人たちが吉原のお座敷で一席設けて遊んでいましたし、男芸者(男の格好をしたままの)もいたので、芳細にはさほど驚くことでもなかったのでは、と感じました。
 しかし、これだけネタを集めるのも一苦労だったと思います。本文は、一種の「絵解き」で平成の世の風刺とも捉えられます。『ガリバー旅行記』と比較するのは大袈裟でしょうが、そんな意味も含まれているのかなぁと感じました。
 著者のプロフィールによれば、イラストレーターさんだそうです。本文の浮世絵調挿絵は全て著者の作なので、よほど江戸の絵草紙などがお好きなようです。芳細のように文才もあるので、このような面白い本を作れたのだと思いました。医学書編、本草学編など作ってもらえたら、面白いなと思いました。
 

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2014-12-08 | bookshelf
江戸末期に発禁になり、平成時代に研究まとめられたという書籍
『平成うろおぼえ覺え草紙』2014年10月初版
右下に「館林大学文学研究センター 監修 洞田創」と書いてある

それは、まだ薄手のジャケットでも汗ばむような季節のことでした。
戸外の木々の彩りに誘われて、ふらふらと外を歩いているとターディスがありました。
 Time and Relative Dimension In Space 通称TARDIS
 
何故こんな所にターディスが?・・・深く考えずに入ってしまったのが後の祭り。
外へ出たら、200年後の日本でした。
 もちろん、最初はいつだがわかりませんでしたが、過去ではないことは明白でした。でも街の風景は近未来的でもなんでもなく、違和感は覚えませんでした。そこは見たことのある場所で、どうやら日本橋の本屋のビルの前だと気付きました。
 驚いたのは店内に入ってからでした。本が一冊も置いてなかったのです。いえ、本や雑誌は売っているのですが、紙媒体ではなかったのです。棚には見慣れた陳列の仕方で、本の背表紙が並んでいましたが、よく見るとそれはボードに印刷してあるだけでした。
 どうやって本を買うのか観察していると、客がタブレット端末をタイトルにかざして、ひとしきり画面でチェックした後、画面をタップしてそこを立ち去って行きました。どうやら現代(平成の世)の図書館蔵書検索機能のような画面が見れて、更に試し読みもでき、購入はネットショッピング形式で、荷物を持たず帰れるような仕組みでした。それならわざわざ書店に来る必要がないと思われますが、特に読みたい本がない場合、本の背表紙を眺めて面白そうな本を見つけたい、という人間の欲求は変わらなかったようです。
 それに、よく見ると、紙の本も置いてありました。紙の本、私たちが普通に文庫本と呼んでいる本ですが、古典の棚には見慣れた明治の文豪の名作、昭和・平成時代に出版された名著といわれたような本が並んでいました。それから、この時代の作家の本でしょうか、「○○賞おめでとう!印刷本で販売です!!」と画面に映し出された文字を背景に、平積みしてありました。
 そのビルに、アンティークブックを扱う書店が入っていたのを思い出し、行ってみました。果たして、Y堂は存在していました。「今月のおすすめ品」のコーナーに、絵草紙が陳列してありました。その中に「江戸時代にコンピューターが?! 謎の絵草紙発見!」と書かれたキャプションがあり、横にばらばらになったページが幾枚か並べてありました。
  
左の画には「鼠の手を借す」、右の画には「吸屑桶 家の屑を吸う」
と江戸変体文字で記されていました。
 なんと、この本は平成時代に見つかった江戸時代末期の草紙を編集したもので、その内容がこの時代(平成から200年後)が認識していた日本の歴史と科学技術の進歩を覆すものだと、物議を醸しだしていたのでした。
 私も初めて見た(知った)絵草紙でした。ばらばらになったページ数枚と薄汚れた表紙しか存在しないために、この本については調べようがなく、「館林大学文学研究センター」という機関の情報もでてこない、という事でした。
 題箋に「平成」と付いているから、平成に戻れば何かわかるかもしれないと思い、せっかくの未来見物も打ち切ってターディスに乗り込むと、幸いにもDoctorがいたので元の場所へ戻してもらいました。

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga final

2014-07-31 | bookshelf
源内櫛だそうです

 平賀源内の刃傷事件の高松藩の木村黙老説は、被害者2名が役人と土木工となっている点で間違っているのは明らかです。更に、源内自身「下戸(酒が飲めない)」と言っているので、正気がなくなるほど泥酔するとは考えられません。
 「代地録の写」に明記された被害者、秋田屋の久五郎というのは米屋の倅で、丈右衛門というのは勘定奉行の中間(雑務担当)でした。彼らは源内の友人とされていますが、米屋と勘定奉行所の雑務担当者が揃ってやってきて、いわくつきの幽霊屋敷で一泊した、と聞けば、借金の取り立てじゃなかったのか、と安易に想像できます。
とすると、a.源内先生は借金を踏み倒すために2人の殺害を目論んだのではないでしょうか。
 田沼意次が源内を秋田へ派遣したのは、密かに蝦夷と貿易するためだったという説もあります。源内先生は田沼の抜け荷(密貿易)に関わっていて、密偵だった久五郎と丈右衛門に隠し持っていた機密文書を盗まれそうになったため、阻止しようして斬ったという、b.田沼意次を守るため自己犠牲で犯してしまったという可能性もあります。
 世間から冷たい目で見られ、人間不信に陥り、精神不安定になって癇癪も起こったので、自ら薬草を調合して安定剤的な薬を作り服用したのが、実は幻覚作用を引き起こすもので、c.薬の効果で犯した突発的な事故、という線も有りうると思います。源内は本草学者で薬草や鉱物をたくさん貯蔵していましたから。
 もし、a.だとしたら、生き残った丈右衛門が斬りつけられた理由を話しているはずなので、借金絡みの線は薄いと思います。
 c.は、突発的なところから、現代の危険ドラッグ的な事故を連想させる事件なので、アリかなと思いましたが、そうなると小田野直武の急死の因果関係がなくなってしまいます。また、投獄された源内がだんまりを決め込む理由がみつかりません。
 そうすると、やはり事件の裏には源内が死んでも言えない理由があったわけで、そこまでして守らなければならなかったからには、ばれれば国の一大事になるほどの秘密だったのでしょう。それが、田沼の抜け荷だったかどうかは確定できないとしても、源内は発作的に罪なき人を斬りつけたのではなかった、と考えられます。秘密を守るため、源内は牢獄で一切釈明しなかったのだし、1か月後獄中で死んだ(病死となっていますが)のでしょう。被害者も源内がバラさない事をわかっていて、「自分は何もしてないのに突然」みたいにしらばっくれた、小田野直武は源内に近かったため秘密を知られたと思い、田沼側から秋田藩へ圧力がかかって処分された、とも考えることができます。
 これらの推理は、『学校では教えない日本史』にも載っていました。
 b.が一番信憑性が高いように思われますが、それだと源内先生が正義感の強いいい人すぎな気がしないでもありません。
 お金に困った源内が、田沼意次にお金を用立てして(或は仕事の世話)貰おうと、脅迫めいたことをほのめかして金を無心したために、刺客(久五郎と丈右衛門)を送られ、信じていた田沼意次に裏切られたというショックと、自分の存在意義を見失って、獄中で果てた(自殺未遂の傷から破傷風にかかって死んだ、という説もある)のかもしれないなぁ、などいろいろ想像すればするほど、源内先生が哀れに思えてなりません。
 end

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga 4

2014-07-29 | bookshelf
『学校では教えない日本史』扶桑社 2008年刊行
平賀源内の刃傷事件の謎が、解りやすく簡潔に掲載されていました。

 平賀源内が小田野直武と出会ってから刃傷沙汰で投獄-獄死するまでの期間が、7年ほど。源内先生が一番輝いていた時期は、エレキテルの復元に成功した時だったと思うのですが、エレキテル復元成功で時の人になったのは、私は漠然と源内先生が江戸へ出て暫くしてから、彼が江戸へ来たのが30か31歳だったので40歳くらいかと思っていました。ところが、エレキテル復元に成功したのは、刃傷事件のほんの3年前だったとは、意外でした。
 壊れたエレキテルを手に入れたのはもっと前の事ですが、復元するのは容易ではなく、桂川甫周の知恵を借りたりしながら、弥七という工人と共に6年かけて復元したのでした。尤もその間、エレキテルだけに没頭していたわけではありませんでした。没頭できない理由が、彼にはありました。
 源内先生は、自由を求めて高松藩を脱藩した際、藩から「仕官御構(しかんおかまい):他藩へ仕官することを禁ずる」に処されたのです。自分の好きな事をして身を立てようと大志を抱いて江戸へ出た源内先生は、仕官御構のせいで、誰のために働いてもそこに根を下ろし大成することができませんでした。彼の才能を買って仕官して欲しいという藩があっても、仕官御構の身であることを隠さなければならず、体よく断っていたのです。後ろ盾も資金源もない源内先生は、己一人で稼いで生活し、研究をしなければなりませんでした。
 彼は本業の本草学を活かして、江戸の本草学者・田村藍水に師事し、物産会を主催して実績をあげていました。1772年、田沼意次が老中になると、彼の推し進める殖産政策と源内の利害が一致。田沼意次は源内を登用し、翌年幕府直轄の銅山がある秋田藩へ、鉱山開発の指導員として派遣しました。
 幕府の重鎮からの仕事とはいえ、源内はあくまで個人として雇われているため、生活費や研究のための鉱物や植物の採取にかかるお金は実費。鉱山開発には巨額なお金がかかりますが、当時秋田藩はジリ貧で、源内への礼金も十分ではなかったと思われます。源内は、著した書籍や造った物などで得たポケットマネーもつぎ込んだ、と言われています。そこまでしてやった鉱山開発は、失敗に終わりました。莫大な借金を抱え、それでも源内先生は秋田藩から来た直武の面倒を見、生活費のために浄瑠璃本や戯作執筆しました。
 そうこうして漸く、エレキテルが完成したのです。源内先生はこの摩擦起電機の電気の発生原理を理解していませんでしたが、兎に角ここで起死回生、大いに宣伝し儲けました。源内は48歳になっていました。
 アンディ・ウォーホルは「誰でも15分間有名になれるときがある」と言いましたが、源内先生の黄金期は2年ほどでした。見世物としてのエレキテルが飽きられたこともありますが、2年後一緒に復元作業をした弥七が勝手にエレキテルを製造し見世物にした偽造事件が起こったのです。源内はお上に訴え、弥七は牢獄へ入れられましたが獄死してしまいました。この事件で、江戸の町人たちは弥七が死んだのは源内のせいだ、と言ったのです。
 時代の寵児から一転、山師(詐欺師)呼ばわりされるようになった源内先生の胸中を想像してみると、自暴自棄になってもおかしくなかった、と思います。事実、源内先生は友人への手紙に「癇癪が起こる」と書いていました。癇癪がどの程度のものか知る由もないですが、偽造事件の翌年1779年の春、例の幽霊屋敷へ移り住みました。エレキテルが下火になって以降、源内先生は金唐革紙の煙草入れや豪華な源内櫛(菅原櫛)を製造販売して収入を得ていました。
 
 弥七のエレキテル偽造は、源内の著したエレキテルについての本を見たからこそ出来たことでした(弥七のエレキテルは結局静電気が発生しない失敗作だったそうですが)。この事件が、馬琴の『作者部類』に書いてあった「当時の源内は親しい友人にさえ著述の稿本を見ることを許さなかった」という噂の裏付けにならないでしょうか。鉱山開発の失敗もあり、本草学者としてこれといった業績を未だあげられない源内は、田沼意次に対して焦燥感を持っていたに違いありません。そんな時、近しい人に裏切られたショックは、大きかったと思います。自覚ある「癇癪持ち」と焦燥感、これが源内を狂気へ向かわせたのでしょうか。
 勿論、精神的な不安定さもあったかもしれません。しかし、刃傷事件の真相として伝わっている説は、大事な部分がぽっかり抜けていて、そこを無理やり「源内発狂」で埋めているように思えてなりません。

attempted murder or negligent homicide?―the case of Gennai Hiraga 3

2014-07-28 | bookshelf
『風狂の空 平賀源内が愛した天才絵師』 城野隆 著
祥伝社 2009年刊行 執筆2006~7年

 前野良沢・杉田玄白らが翻訳出版した『解体新書』に、平賀源内が少なからず関係していることは知っていましたが、どう関わっていたのかまでは知りませんでした。以前読んだ『源内先生舟出祝』に、『解体新書』の挿絵を担当した絵師が源内の門人だった、ということだったので、本当にそんな人いたのだろうかと吉村昭『冬の鷹』を再度めくってみたら、ちゃんと記述がありました。『解体新書』の挿絵画家なぞ興味なかったので、存在さえ気にもしていませんでした。
 『解体新書』の挿絵を描いた男、小田野直武(1750-80年)を主人公にした歴史小説があったので、読んでみました。↑
 小説なので、どこまでが史実でどれがフィクションかはわかりませんが、この『風狂の空』や以前読んだ『源内先生舟出祝』にしてみても、小田野直武という人物は、源内とかなり親密に交わっていたように書かれていました。『風狂の空』では、直武が源内先生の秘密を知り、刃傷事件も目撃してしまうのですが、『源内先生舟出祝』では、そこまで源内に深く関わった人物として描かれていませんでしたが。源内と直武の関係は資料に残っていないので、執筆者の創作なのでしょう。
 しかし、直武のその後の処遇を知ると、源内先生の刃傷事件と投獄が、なおさら「源内発狂」ですまされない何かが隠されているように思えてきました。秋田藩角館の藩士小田野直武は、幼少の頃から絵画を好み、藩主にも認められるほどの才能を持っていました。1773年、秋田藩主から鉱山開発の指導員として招かれた源内は、そこで直武と出会いました。正確には直武の描いた屏風絵に興味を持った源内が、描いた者に会いたいと申し出たのですが、源内は直武に並々ならぬ才能を感じて江戸へ来るように藩に働きかけ、直武は異例の待遇で江戸へ来ることが出来ました。江戸ではちょうど『解体新書』の出版に向けて、杉田玄白ら蘭学者が作業を進めている最中でした。彼らは、原本から挿絵を写し取る絵師を探していました。その絵師が角館から出て来て間もない直武に決まったのは、記録にはないものの源内の推薦によるものでしょう。直武は、本草学者であり蘭学者である源内先生から遠近画法を使った蘭画を教わり、後に秋田蘭画と呼ばれる一派をなすほどの蘭画絵師になりました。
 ところが、一旦郷里へ戻った後、再び江戸に出て絵の修業をしていた直武は、源内の刃傷事件の同年、突然「遠慮謹慎」を藩から申し渡され帰国、源内が獄死した翌年に急死しているのです。享年30歳。死因は不明です。
 江戸時代の「遠慮」は、門を閉じて昼間の外出を禁じた軽い刑で、夜間目立たないように出入りするのは許されていたそうです。江戸で特に罪を犯した訳でもないのに謹慎を命じられ、さほど厳しくもない状況下で急死した、という不自然さ。それが源内の死とオーバーラップするように起こっていたという事実。彼は何か秘密を知っていたのでしょうか。だとしたら、秘密とは何だったのでしょうか。