TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

radio lecture of Edo literature

2013-02-23 | Edo
2013年1月~3月ラジオ第2放送 
木曜 午後8:30-9:00 金曜再放送 午前10:00-10:30
カルチャーラジオ『文学の世界 江戸に花開いた「戯作」文学』
講師:早稲田大学院文学博士 棚橋正博氏

 今年1月からスタートしていて、テキストは昨年12月に発売されていましたが、つい最近友人に教えてもらうまで、全く知りませんでした。危ういところでした。テキストを入手する前に講座を聞いてみました。まさしく私がハマっている内容なので、30分はあっという間に感じましたが、ラジオなので当たり前なのですが、音声のみでは物足りない感が否めませんでした。映像というより、戯作者のペンネームの表記も愉しみの一つだからです。
 例えば、第7回は田沼意次の政治背景を視野に入れた「洒落本」についての講義でしたが、その中で「いなかのろうじんただのじじい、のペンネームで・・・」という所で私は思わず噴出してしまいました。こりゃ結構諧謔的なペンネーム、と苦笑しながら「田舎老人只之爺」?只ではヒネリがないな…なんて考えていたら、取り残されてしまいました。
 翌日テキストで確認すると、田舎老人多田爺でした。こんなペンネームから、当人が自身の事をどう捉えて(ほしがって)いるか想像をめぐらす愉しみ方もあります。
 講師の先生は、私が読んで学んだ本の執筆者のひとりで、地方在住の一般人が早稲田の大学院の先生の講義を受けに行ける訳もない中、ラジオで講義が受けれるなんて、私にとっては嬉しい限りです。
 残念ながら聞き逃した回は、いつかまとめて再放送されるのを願いつつ、まだ一九先輩が講座に登場する前に知って助かった、と友人に感謝したのであります。
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at the end of the year

2012-12-27 | Edo
としのくれに

今更に何かをしまん神武より二千年来(らい)くれてゆくとし

四方赤良(大田南畝)

意味:今更何を惜しむというのだ。神武天皇以来二千年、毎年暮れてゆく年なのに。
   (くよくよしないで新しい年を迎えよう)

 四方赤良(よものあから)こと大田南畝(蜀山人)が詠んだ狂歌。
 なかなかいいこと言ってます。
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the shame of Ikku's comic poetry

2011-12-30 | Edo
 “も~いーくつねるとぉーおしょおがつぅ~”と年の瀬の江戸へ、一九先輩の正月風景をのぞきに行きました。
 十返舎一九の伝奇で、年始の挨拶に来た客を風呂に入れて、客人の晴れ着を拝借して年始回りをした、なんてゆうのがありましたが、実際はどうだったんでしょうか。膝栗毛がヒットしたから金には不自由してないはず・・・
『江戸名所図会』十返舎一九序・編集・画 1813年文化十年刊

 一九先輩が師匠の三陀羅法師や門人達の狂歌を編集、自画をつけて出版した狂歌集の中に↑な自作がありました。
壱文も払わぬうちへ かけとりの
あきれが礼にきたる元日

正月早々、借金の歌かいっ!!
 この時代の掛取り(借金取り)は年に1回年末(orお盆と2回)取り立てに来たそうです。一九先輩描くのは、掛取りに掴まって前を歩くお侍さん(?) 元日にまで取り立てが来たってことは、どんだけ払ってないんだか。そりゃ呆れかえります。こんな光景が見られるのも江戸ならではってこと?!化政期は町人バブル時代でしたが、太平の世の中で武士階級の暮らしのリアルな一場面を見事に切り取った作品です。
 この『江戸名所図会』が出版された1813年は、一九先輩49歳、東海道中膝栗毛大ヒット後、『続膝栗毛四編』や『方言修行金草鞋』などベストセラー執筆中の頃です。彼の著作には侍の言動を茶化した表現が少なくありませんが、これもお侍さんに対するブラックユーモアなのでしょうか。
 それにしても、折角めでたい正月狂歌にもかかわらず、銭関係から離れられない一九先輩にも負けず劣らず“呆れが礼に来”てます。

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the high-class toilet

2011-09-29 | Edo
十返舎一九著『続膝栗毛十二編 中巻』の雪隠のエピソードで登場した上雪隠。
どんなトイレだろうと思っていたら、鵜沼宿で発見しました。
中山道鵜沼宿脇本陣(復元)にて
なんと畳敷きトイレ。これなら弥次さんでなくても、ついつい長居してしまいます。

同所。上湯殿
鵜沼宿脇本陣は、幕末まで脇本陣として使われていた坂井家を復元したものです。当時の一般住宅でもかなり大きなもので、トイレは4つ風呂は3つあります。写真の上雪隠と上湯殿は、一番奥の座敷・上段の間から渡り廊下でつながっていて、中庭が見渡せる配置になっていました。雪隠の小窓から見える外の景色が、浮世絵のように見えます。さすが、「上」です。

 ひとり色めき立ってカメラでバチバチ撮っていたら、渡り廊下の向こう側から(中が見えない位置)おじさんが「なに、茶室かね」と聞いてきたので、にやりとして「トイレです」と答える可笑しみもまた一興でした。
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great find !!

2011-08-13 | Edo
太田宿中山道会館にあった広重画「太田の渡し」の多色摺りゴム版画とスタンプ
 
 所用のついでに中山道太田宿へ行ってみました。
 さほど期待してなかったのですが、一九先輩が船で渡った「太田の渡し」跡を見て、国道21号線の途中、神明堂から旧中山道へ入り(東から西へ向かう)、太田宿の資料館「太田宿中山道会館」を見学しました。ここには広い無料駐車場があるし、宿場町を再現した展示室や地元の野菜や工芸品を売っているコーナーなどがあり、同じ敷地内には岡本太郎の父で漫画家の岡本一平氏の住んでいた家屋も展示してあって、全て入場無料という嬉しいサービス。しかも、資料コーナーには一九先輩の著作も置いてあったんです!!

な・な・な・なんとーーー東海道中膝栗毛の本物が!この質感、感動・・・

しかし、ここは中山道ではないか。木曾街道続膝栗毛はないのか…と思って先へ進むと、

ありましたぁーー。挿絵は見開きで本文とは別で挿入されていたんですね。展示されてるページは、続膝栗毛五編の太田宿と鵜沼宿の間、芦渡(あしど)のひとつ茶屋を描いたもの。『続膝栗毛』には「えだ柿が名物」と書かれていますが、季節が違うので、会館内のお土産売場には芋茎(ずいき)や茄子、瓜、南瓜など新鮮な夏野菜がほとんど百円ほどで売っていました。醤油の割れせんべいを買って食べましたが、旨かったです。隣接するお食事処のランチは、地元野菜を使ったおふくろの味で美味しく、コーヒー付けても780円。涼しくてゆったりしてて穴場でした。

中山道美濃路十七宿(落合~今須)の行程をわかり易い地図と名所旧跡、広重&英泉の浮世絵も掲載した散策ガイドは、街道ファンには有難い代物です。(
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edo

2011-02-03 | Edo
blogに江戸江戸と書いていたら、意外な人から江戸情報をもらいました。
名古屋市博物館で売っている幕末 城下町名古屋復元マップ(明治元年頃写)なる3枚1セットの地図。幕末の尾張(名古屋城南~東くらいの範囲)を西部・南部・東部に分けて詳しく記してあるのですが、貸本屋大野屋大惣は載ってないよと言われましたが、譲っていただきました。載っていないので、所在地が載っている地図をコピーしてくれていました。江戸時代の住所を頼りに行った場所から少し離れていましたが、だいたい同じような感じの地区で、現在は駐車場だそうです。まぁ、仕方ないです。よっぽどの重要文化財じゃない限り保存などしてませんからね。何も残っていなくても、嘗てそこにそれがあったこと、そして江戸人たちがそこへ来ていたことを想像してみると、見えてくるんです。着物を着て髷を結った人々が忙しそうに行ったり来たりする姿が。もっと妄想力を働かせると当時の匂いも嗅ぐことができます。
大野屋大惣の載っていた地図には、もうひとつ重要な場所が記してありました。大野屋大惣の斜め下に永楽屋東四郎の文字が!こんな近いところだったんだ~。
私ひとり興奮してその後古地図を眺めること数時間。名古屋市博物館、あったかくなったら行こ。
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visiting a grave 2

2010-12-16 | Edo
***墓参り~一九編~***
 私は馬琴ファンではないですが、蔦重やその周辺について書いてある本の参考文献を見ると、必ず馬琴の『物之本江戸作者部類』『伊波伝毛乃記(いわでものき)』が引用されているので、自然と馬琴ともお近づきになってしまいました。
 でも、元々私が18~19世紀江戸にトリップする動機は十返舎一九に会いたかったからなのです。だから墓参りも一九先輩が本命でした。墓や墓碑は写真で見ているのですが、やはり実際に行って墓前に手を合わせたかったので勝どき4-12-9にある東陽院へ出向きました。地下鉄駅から歩くこと数分。お寺を見つけるよりお墓の方が先に見つかりました。なんと墓と墓碑はお寺の外、大通りの歩道に面しているのです。
     右手前が墓碑、後方が墓石
墓碑は写真で見たものと同じでしたが、墓石がどうも綺麗すぎるなぁと思って墓碑銘を見ようと側面を見ましたが、山茶花に遮られてよく読めませんでした。持っている本に載っている一九の墓石は正面は何が書いてあるかわからなくなっていて、基礎の石の正面には○の中に貞(本名:重田貞一さだかつ)の字を入れた熊手形の判が刻まれていて、沢山の卒塔婆に囲まれていました。東陽院は浅草にあったのが現在の地に移転しているので、墓石は新しくしたのかもしれません。何にしても一九先輩のお墓は文化財として誰にでも見える場所に安置されています。
          
 山茶花がとても美しく、これなら一九先輩も喜んでいるだろうな、と私は感激したのであります。馬琴の墓と比べると明るくて華やかな印象で、生前の人間像が偲ばれるようなお墓だと感じました。石の上に一円玉が数枚置いてあり、今も一九は愛されてるんだと思うと、とても嬉しくなりました。帰宅してから、一円玉を9枚置いてくればよかったと洒落のきかない私は後悔・・・。
 私を江戸時代のおもしろ人たちに引き会わせてくれた一九先輩ありがとう。

 サントリー美術館の蔦屋重三郎展には、山東京伝作/十返舎一九画の草双紙がありました。
     『初役金烏帽子魚』1794年蔦屋版 
 1794年は、蔦重が写楽作品を刊行した年で、一九はこの年の秋に蔦屋に居候しました。浮世絵の版画を摺る紙にドウサを引く仕事をしながら戯作していたそうです。
 彼が画をどこで誰から会得したのかはわかっていませんが、素人にしては相当上手いです。『東海道中膝栗毛』の初編を蔦重は売れないと判断して出版しなかった、といわれていますが(その根拠はどこからきているのかは不明。もし馬琴の記した物だったら真実でない可能性大。)私はそれは初代蔦重じゃなかったんじゃないかと思います。もし蔦重が健康で経営が順調だったら、一も二もなく出版していたに違いないと私は信じています。
 一九が最後に住んでいた家がどこであったのか、火事で焼けたりしているので、深川佐賀町から通油町へ戻ってきてたのかはっきりしたことは不明です。蔦重の墓は、倉本初夫氏の著書によれば、浅草の正法寺にあったのですが関東大震災で焼け崩れた為処分されてしまったそうです。墓には大田南畝撰の墓碑銘が書かれてあったそうです。そして崩れた墓石の碑文の部分だけを何人かが拾い集めて持ち去った、と書いてあります。ということは、何処かに残っている可能性はあります。倉本氏は第2次大戦前に訪れた時は、宿屋飯盛(石川雅望)撰の蔦重の死を悼んだ碑文を刻んだ石碑を見たそうですが、それも東京空襲で跡形もなくなってしまったということです。

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visiting a grave 1

2010-12-14 | Edo
***墓参り~馬琴編~
 友人お薦めスポット、小石川植物園内にある東京大学総合研究博物館・小石川分館へ行ってきました。
          
この建物は旧東京医学校の校舎で、建築物自体が見る価値あり。テラス付き2階建ての館内は一部改装してありますが、動物の標本や薬草を収納した棚やら昆虫標本、骸骨、剥製、ホルマリン漬けのガラス瓶…ヤン・シュヴァンクマイエルが欲しがりそうなものがいっぱい。それらを陳列した机や棚の質感はブラザーズ・クエイの世界…。
     入口前の窓より室内を覗く
・・・なのに。なのに、行った日が悪かった。特別展をやっていて館内撮影禁止。おまけにその展示品が標本の間に置いてあって、せっかくのダークでミステリアスな雰囲気が台無しに。作品は、良く言えばミスマッチ・対極の妙というのでしょうか。私にはキモカワ系安っぽいポップ・アートとしか見えず、芸術品でない古い標本の方がアートに見えました。
 さて、茗荷谷の谷底にある博物館から駅へ這い上がって行き、駅裏の細い坂道を拓殖大学方面へ行くと、曲亭馬琴の墓がある深光寺があります。小さいながらも江戸古地図にも載っている古いお寺です。
          
坂を上って本堂左手すぐに馬琴の墓はありました。今はもうお参りする人もいないのか、枯れた松葉が墓石の上にいっぱい落ちていたので、それを綺麗に掃って撮影。
        墓碑銘など判読不可能になってました
このお寺は小石川七福神の恵比寿さまだったので、福があるようにお参りしました。
          
 同じ道筋に、しばられ地蔵尊もありました。そういうのがあるのは知ってましたがこんな処とは知らなかったので興味本位で見てみましたが、お地蔵様たいへんなことになっています。
            
願をかけたヒモでお地蔵様をしばって、成就するとヒモを解くのだそうですが、この状況から察するに願いがかなっている人少ないのかな?


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