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folklore accepted as Japanese history 7

2018-09-30 | ancient history
西暦200年前後 弥生時代後期の鉄製釣針
広島経済大学敷地内にある「長う子(ながうね)遺跡」出土
  
 「海幸山幸」の物語はどの時代の物語なのか、考えてみました。
ウミサチ彦・ヤマサチ彦という名前自体が、コノハナサクヤ姫と同じく伝承よりずっと新しいと思われます。712年に完成した『古事記』では、山幸はホオリ・海幸はホデリ。720年に完成した『日本書紀』では、山幸はヒコホホデミとなっていて、一書の第四の山幸が古事記と同じホオリ、海幸は全てホスセリになっています。ホスセリは、『古事記』ではホデリとホオリの間に生まれた真ん中の兄弟の名前で、海幸山幸の物語には登場しません。ヒコホホデミという名は、山幸彦(ホオリ/ヒコホホデミ)と海女神トヨタマヒメの一人息子ウガヤフキアエズが、母親の妹タマヨリヒメとの間につくった息子の1人(後の名をカムヤマトイワレビコと云う)つまり神武天皇の実名・ヒコホホデミ(漢字は違いますが)と同名です。
 『日本書紀』編纂で何が起きたかわかりませんが、書紀での神代史の終わりはかなり混乱が見られるので、「海幸山幸」伝承の元の名は、ホデリとホオリだったのではないかと思います。ホスセリは古事記にも登場するので存在してはいたのでしょうが、海幸山幸伝承には関係しなかったのかもしれません。日本書紀では代わりにホアカリ(火明)という兄弟がいて、これを尾張連らの始祖と書いています。海幸彦(兄=ホデリ=ホスセリ)が隼人の始祖、山幸彦(弟=ホオリ=ヒコホホデミ)が「ヒコホホデミ」というのは記紀共通です。『日本書紀』は『古事記』より政治色が強いため、原始的な伝承は『古事記』の海幸山幸の物語に近いと思います。
 さて、海幸山幸の生きた時代を推測するのに注目したものが、「釣針」です。今までに発見された日本最古の釣針は貝製で、旧石器時代の遺物だそうです。石器時代は骨製。縄文時代は鹿角製。弥生時代になると鉄製になります。
 海幸彦の釣針は何製とは記してませんが、山幸彦は失くしてしまった釣針を「十握の剣(とつかのつるぎ)」をつぶして弁償しようとした、と記述されていますから、鉄製だと思われます。鉄は劣化が早いので釣針などは残りにくいようですが、広島県の弥生時代後期の遺跡「長う子遺跡」でカエシのある鉄製釣針が出土しています。また、岡山市の金蔵山古墳(古墳時代の大型前方後円墳)から出土した多量の鉄製品の中に、鉄製釣針が含まれていました。九州南部での出土は詳らかではありませんが、この伝承ができたのは、古くても弥生時代だと推測できます。
 さて、前出の『日本の歴史1神話から歴史へ』の中に、「海幸山幸の話は、神代史のもとの話にはなく、あとで採用された民間伝承であったと考えられるが、ほとんどの神話学者によって、インドネシアにひろがる話と酷似していることが指摘されている。」と書いてありました。
「英雄が釣針を失ってそれを探しにゆき、海中で釣針を見つけ出し、海中の処女と結婚する」という型の伝説は世界の広大な地域に分布していて、その中でもインドネシアのセレベス島(現スラウェシ島。インドネシア中部に位置するK字形の島)のミナハッサ(北部の東の方向に突き出した半島)の伝説がよく似ているそうです。
―〈カヴハサンという名の男が、友から釣具をかりうけ、小舟で海に出て釣りをしていると、魚に糸を切られ釣針を失ってしまった。帰って友に話したが許してくれない。困ったカヴハサンは海に出て、釣針を失くした場所で水中に潜ると一つの道がついており、それをたどってゆくとある村についた。一軒の家から、騒ぎと悲嘆の声が聞こえるので入って行くと、一人の乙女がのどに刺さった釣針で苦しんでいる。カヴハサンが釣針をのどから引き抜いてやると、両親は喜んで贈り物を彼に与えた。カヴハサンが帰ろうとすると舟がみえない。ところが一匹の大きな魚がやってきたので彼はその背に乗り、もとの岸に帰って来た。彼はおのれを苦しめた友に仕返しをするため、もろもろの神の助けを乞い、大雨を降らして友を窮地におとしいれた。〉―
 インドネシア周辺から九州南部に伝わったとすれば、この物語は海人族の伝承です。セレベス島の伝説では、主人公と友が狩猟民族か漁労民族かに触れてませんが、恐らく両人とも漁労民だったと思います。海幸山幸にしても、伝承していた隼人は海人族です。ですから、もとの話は、兄弟とか狩猟と漁猟とかの区別はなく、日本に渡ってからそういう設定になったのではないかと思われます。そして、セレベス島の伝説では、重要なアイテム「鹽盈珠、鹽乾珠(しほみつたま、しほふるたま)」が出てきません。この「玉」も日本的で弥生時代的な匂いのする物です。
 恐らく、「主人公が釣針を探しに海宮へ行く」という話は、弥生時代以降「玉」を呪術的に扱う種族に伝わっていた伝説で、記紀の編纂時に隼人の伝承に組み込まれたのではないでしょうか。なぜなら、海宮に着いたホオリ(山幸彦)は首に巻いていた玉をはずして口に含み、召使の持っている水瓶に吐き出し、それが豊玉比売への求愛の合図でしたし、主人公の相手も「玉」を象徴する豊玉という名で、「玉」に纏わるものが多いからです。
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folklore accepted as Japanese history 6

2018-09-25 | ancient history

全国で唯一海幸彦をお祀りする神社
「潮嶽神社(うしおだけじんじゃ)」

 高天原の神様一族の内で、アマテラスの孫に当たる邇邇芸命(ニニギノミコト)が豊葦原水穂の国(または葦原の中国:日本列島の一部)を統治するために降り立った事を、天孫降臨と呼んでいますが、天孫が地上で第一に行った事がその土地の権力者の娘との婚姻でした。婚姻によって自分が権力者の後継者になり、ゆくゆくは首長になるのが目的だからです。では、次に何をしたのでしょうか。『古事記』や『日本書紀』を読む限り、首長の娘を孕ませただけです。ところが、「一夜で孕んだのが信じられないから自分の子じゃない」と拒否したのです。妻・コノハナサクヤ姫が激怒したのも当然でしょう。激怒した挙句、子供が無事生まれなかったら国つ神の子で、天つ神の子だったら無事に生まれるだろう、と産屋に火をつけて出産しました。そして3人の男の子が無事生まれました。3人とも天孫の御子だったわけですが、この後二ニギはどう弁明したのか?しかし彼は二度と登場しません。
 神代の中で、記紀の編纂者たちは、天孫ニニギノミコトに天つ神と国つ神の混血種を創る役割しか与えなかったということです。あとは、イワナガ姫との婚姻拒否により皇族の寿命が縮んだ、という上手い口実を作るのに一役買わされたくらいでした。記紀がニニギノミコトより紙面を割いているのが、「海幸彦・山幸彦」の物語です。歴史的伝承と関係ないようなお伽噺の要素の強い伝承に、なぜ700年前後の歴史書の編纂者たちはこだわったのか、不思議でなりませんでした。
 この物語でのキーワードは、海と山、兄と弟です。最初私は政治的解釈で、弟=大海人皇子(天武天皇)、兄=葛城皇子(天智天皇)だと思いました。劣勢だった弟が最終的には兄を打ち負かす。しかしそうなると、兄に打ち勝った弟は山幸彦なので、海人族に育てられた大海人皇子が山間部の狩猟民族という矛盾が生まれてしまいます。
 狩猟民族または稲作民族VS海洋民族という構図だと、稲作民族が海洋民族を服従させた伝承だと理解できます。記紀が編纂された時代は天武天皇系皇族が権力者でした。天武系つまり海人族由縁の一族が、同族を負け組にすることはあり得ません。海幸山幸の物語をどう理解したらいいのか、ずっと悩まされていました。
 前出の『日本の古代8海人の伝統』にヒントがありました。
―〈山幸彦ははじめは兄の海幸彦に頭の上がらない立場にいる。この山幸彦がひとたび海宮に行って帰ってくると、兄弟の優劣の関係は逆転する。『古事記』によれば、海神からもらった霊力で兄を苦しめた時、兄は「あなたの昼夜の守護人となってお仕えします」と言った。そこで今にいたるまで隼人はその溺れたときの仕業を演じて天皇に仕えるのである。
つまり、山幸彦は支配者となり、海幸彦はそれに仕える臣下となった。このように見てくると、山幸彦の海宮訪問は、王者になるためのイニシエーション(通過儀礼)という性格を持っていたということができる。〉―
 『古事記』では、二ニギの3人の息子の長男はホデリノミコト(火照命)=海幸彦、末弟はホオリノミコト(火遠理命)=山幸彦となっていて、記紀共にホデリノミコトの子孫は九州の隼人族だと書いています。実際に、700~800年代になっても隼人は度々中央に逆らっていました。そして、服従して中央に仕えていた隼人はその忠誠心を忘れさせないために、天皇の前で溺れる仕草の舞いをさせられたり、天皇の宮の垣のそばで吠える犬の役をして仕えさせられたと『日本書紀』に記されています。このことは、海幸・山幸の伝承が九州南部(阿多隼人・薩摩隼人・日向隼人・大隅隼人などの居住地)で周知されていた理由になります。『日本書紀』の一書には、物語の締めくくりとして「世の中の人が失せた針を催促しないのは、これがそのもとである。」と記載していて、海幸山幸噺の主題が「小さな事にこだわりすぎるのは良くない/許す心も大事」という教訓だったのではないか、と思わせるものがあります。
 確かに、王になる前に海宮へ行く場面は、王者になるためのイニシエーションを伝える伝承だったのかもしれませんが、元々はいち地方の素朴な伝承でしかなかったものを、記紀の編纂者が2重3重に他の伝承を組み入れてこの物語を作り上げたようにも感じます。
 
 
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folklore accepted as Japanese history 5

2018-09-17 | ancient history

参考にした書籍↑『海人(かいじん)の伝統』
編集:大林太良 森浩一 岸俊男
日本の古代シリーズ全15巻 初版昭和62年

 古代の天皇(大王:オオキミ)が太陽神であるアマテラスを皇祖神だと強く印象付けたのは、大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱を起こす際、大海人皇子勢が奈良県の吉野から三重県鈴鹿市に至り、近江から脱出した大津皇子と合流する朝に、朝明郡(あさけのこおり:現四日市市・菰野町・朝日町・川越町一帯)の迹太川(とおかわ:四日市市の米洗(よない)川。ゆかりの地には天武天皇迹太川御遥拝所跡がある)のほとりで大海人皇子が天照大神を遥拝した、という『日本書紀』の記述です。その後大海人皇子勢(実際に戦の指揮したのは高市皇子)が勝利して、天武「天皇」が誕生したことで、短い一文にもかかわらず、日本の歴史に重要な影響を与えました。日本の国のトップである「天皇」は日の神の御子…という神話です。そういえば、神武東征の時も、畿内に進行する際、長髄彦(ながすねひこ)に阻まれたため「自分は日神の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは天道に逆らっている。背中に太陽を負い、日神の威光をかりて敵に襲いかかるのがよいだろう。」と言って熊野から上陸していました。これらの記述は編纂者の意図的な作為を感じます。
 記紀でこれほど天皇(大王)=日神・アマテラスの子孫、つまり天上から降臨した神の子と位置付けているにもかかわらず、天皇家(王家)の背後には常に「海」が存在しています。東南アジア諸国の海人族から伝わった「天の岩戸神話」が「冬至の儀式」を伝承するものなら、その祭りを伝承していた稗田氏(猿女君)は、九州の海人族・安曇(阿曇)連氏と同族だといいます。そもそもアマテラスの誕生も、黄泉国から生還したイザナギが、筑紫の日向の橘の小さな湊で禊(みそぎ)をした時に現われた海の神々の後に現れた事になっています。この時現れた三柱の綿津見神(わたつみのかみ)の子孫が阿曇連一族だと『古事記』に記されています。
 アマテラス・ツクヨミ(月読)・スサノオの三姉弟は、天上ではなく海中で生まれました。それからアマテラスは高天原を、ツクヨミは夜の国を、スサノオは海原を支配するようイザナギに言われました。いわば、スサノオだけが生まれた場所に残されたのです。しかし、スサノオは海の世界を嫌って母イザナミのいる根の国に行くと言ってきかなかったため海から追放され、根の国に行く前に姉アマテラスに報告しに高天原へ行き…姉弟の争いとなり「天の岩戸神話」へと繋がります。
 このあたりの物語は面白いので、ついつい見落としてしまいましたが、既に綿津見神が支配している海を、後から生まれたスサノオが支配するというのは明らかに矛盾です。別の書籍で、元来は日神と月神の二柱だった神話に、編纂者がスサノオを後から加えた(スサノオは別の神話の登場人物)という説を読みました。そう考えると納得できます。
 記紀を編纂した時代には、既に綿津見神の信仰が九州から中央まで(阿曇連の同族がいる信州・安曇野あたりまで)浸透していたため、皇族は「皇祖神の弟が海を支配することになっていた」と苦しい言い訳を考えたのではないでしょうか。
 このような、多分当時信じられていた伝承を、為政者にとって都合のよい物語に作り替えるプロパガンダ的要素を盛り込んだ神話の一番の傑作が、「海幸・山幸神話」だったと『海人の伝統』を読んでやっと理解できました。
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