TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

the purpose of excavations

2015-06-28 | bookshelf
『未盗掘古墳と天皇陵古墳』 松本武彦著
小学館 2013年初版
 図書館で古代日本に関する本を探していたら、↑地味な装丁の本を見つけました。古代史と関係なさそうな内容でしたが、最後の章に興味を惹かれて、借りて読みました。
 著者は考古学研究者の著作者の中では若い方で、遺跡の発掘調査の実体験と困難さ、発掘できない天皇陵などについて、一般読者にも理解できる文章で書いてあり、発掘調査の実態を知ることができました。
 『古事記』や『日本書紀』を読んで、日本古代の歴史が実際どうであったのか、何が真実で何が創られたもの(捏造)だったのか、はっきりいって日本国民だれも知りようがありません。巷にあふれる「卑弥呼本」「聖徳太子本」「継体天皇本」「蘇我馬子本」…様々な理屈の研究書がありますが、文献資料に頼っているだけでは「まやかし」の疑いはなくなりません。
 そこで考古学者の学術的発掘が必要になるわけですが、素人の私なぞは、治定されている古墳などは再調査して副葬品やお墓から正しい年代を割り出してくれれば、その古墳の主がどの時代の人物なのかくらいは特定できて、もし治定されている古墳とかけ離れていれば訂正して、それを何度も繰り返すことで正しい被葬者と古墳が治定できるのではないか…と思うのですが、事はそんな単純ではないと解りました。
 天皇陵は宮内庁管轄で、政治的規制がかかっているから難しい、というのはわかりますが、研究者の中にも「調査の技術がより進歩しているだろう未来の考古学に託すべきだ」として発掘に消極的立場をとる傾向が広まっているそうなのです。「技術が進歩しているだろう未来」って、ひょっとしてキトラ古墳と高松塚古墳の壁画の失敗にビビッてそんな発言をしているのだろうか?と思ってしまいました。しかし、古墳の内部を保護する技術は、考古学者とは畑が違うと思うのですが。技術があってもそれを正しく使わなければ、意味がありません。「技術が進歩しているだろう未来に託す」という考えの関係者は、壁画のカビも技術のせいだと思っているのでしょうか。
 子孫まで伝えたい貴重な文化財を、破壊のリスクを冒してまで発掘する意義とは何でしょうか。著者も本書の中で自問自答しています。
「古墳を発掘する理論とは何だろうか。
 遺跡の発掘とは、品物を獲得したり、隠されたものをあばいて好奇の目にさらしたりすることではない。
 物と物、物と遺構との関係をつかみ、記録することが発掘だ。
 そこに葬られた人がどのような人で、いかなる理由でそんなふうに手厚く葬られたかを知り、
 その背景の社会のありさま、思想や宗教の内容、それらをつかさどる政治のしくみなどを、
 具体的に明らかにする唯一の手段である。
 自分たちの過去について、正しく、詳しく知る。これが発掘の目的だ。」

 一般市民は、このように明らかにされた結果を「歴史」として学ぶことができます。昨今、過去に歴史の授業で習ったことが否定され、新たな歴史を知らされる事が増えました。それでいいと思います。明治時代に、記紀に書いてあったからこれじゃないか?と決められたようなものを信じさせられるよりは。本書には、天皇陵古墳の発掘の意義について、「正しく過去を知る」ことができると書かれています。
 私にとっては、初代の神武天皇と10代め崇神天皇が同一人物だとか、欠史八代と呼ばれる8人の天皇の陵墓が存在している事実など、矛盾だらけの日本史を解明してくれるのが、学術的発掘への願いです。ですから、古墳の壁画や出土品のお宝を見ることが、最後の目的ではありません。真実の歴史が知りたいだけです。歴史は、為政者や歴史学者だけのものではないです。自分の生まれ育った国の歴史の真実を知る権利は、一般市民にもあるはずです。
 同じ墓でも、エジプトのピラミッドとその周辺はどんどん発掘されて、新たな発見があるのに対し、日本は発掘禁止だという実態。
 科学技術の知識に脳がついていけない、または理解しようとしない頭の固い研究者が引退するのを待つしかないのかと思うと、どうにも歯がゆい思いでいっぱいです。
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the birth-myth of japan 3

2015-06-15 | ancient history
全現代語訳『日本書紀』全二巻 宇治谷 孟著 講談社学術文庫 1988年第1刷発行 
漢文で書かれた日本書紀を現代語に翻訳した、読みやすい本

 『古事記』に記述されているのは、推古天皇時代(厩戸皇子が摂政となった593年~蘇我馬子が死んだ2年後の628年)までだとなっていますが、私の読んだ梅原猛著全現代語訳『古事記』は、400年代後期の兄弟天皇、第23代顕宗天皇(袁祁おけ、弘計ヲケ・弟)と24代仁賢天皇(意祁おけ、億計オケ・兄)の即位の経緯を述べた後、25代武烈天皇から33代推古天皇までを端折ってあるので、実質、残り100年余りは書かれていません。原文(写本)を見たことがないので、最後が単に天皇の系譜の羅列で終わっていたのかどうか知りませんが、とにかく武烈天皇以降は『日本書紀』に頼るしかありませんでした。
 『日本書紀』も写本でしか残されていませんが、当時の日本の正史として編纂されたものだけあって、天皇の和風諡号(しごう)・諱(いみな。実名のこと)も明記してあるので、解りやすいです。しかし、まとめてあるといっても、「一書にいう」という形で、同じ逸話についての他の説がいくつも続いて書かれるため、読んでいるうちに話がこんがらがってしまいました。
(人代になってからは「一説には」とか「ある説には」になりますが)
 そもそも、「天皇」という称号は弥生時代からあったのでしょうか。普通に考えてあるわけないでしょう。そんな事は社会生活にも日常生活にも関係ない事なので、それまで深く考えたことなどありませんでした。家でこんな本↓を見つけたので読んでみました。
   長部 日出雄『天皇はどこから来たか』新潮社 初版1996年
 この本は、『古事記』や『日本書紀』などに登場する古代伝説を著者の解釈で綴ったエッセイです。これを読んで、初めて『日本書紀』が戦後長い間評判の良くない本だった、という事を知りました。評判がよくなかった理由として著者が挙げたのが、皇国史観の記憶を呼び起こさせるものだった、というものでした。戦後生まれの私は、「皇国史観」の意味が解からなかったのですが、すぐ調べて納得しました。
 記紀をしっかり読んだ人なら、天皇家が万世一系だと考える人はいないだろうと思います。しかし、天皇を担いで明治維新を起こした人々や富国強兵を勧めた政府の人間が、記紀の「天皇家は神の子孫で、血脈は途絶えていない」というスタンスを利用して、皇室が日本を一貫して治めていたのだから天皇が最高権力者だと位置づけようとしていたのです。特に太平洋戦争中は、皇国史観批判に対して厳しく、戦中に教育を受けた一般市民は、戦争が終わった今でもこの皇国史観という呪縛から抜け出せないでいるようです。昭和9年生まれの長部氏も、この本を読んだ限り解放されていないように感じました。
 私は、皇国史観の教育を受けた教授や学者、歴史家や作家の著した記紀に関する本は、どこかしらこの観念に囚われているように感じました。文中に「皇国史観」などという死語が出てくる事自体が、自然科学が発達した現代にはナンセンスだと思います。『古事記』『日本書紀』から日本の歴史を読み取ろうとするならば、そのような先入観は正しい理解の妨げになりかねません。それで、古代史関係の書籍を選ぶ際に、できるだけ戦後生まれの研究者(小説家やエッセイストはNG)ができるだけ最新の考古学的見地も盛り込んで書いたもの、他人の見解の批判ばかりでないもの、という基準を設けました。
 とはいえ、内容が良ければ古代史の重鎮のものでも読みますし、逆に皇国史観と無縁でも「聖徳太子はいなかった」とかいうタイプの読み物は避けました。(読んでもためにならなかったので)

記紀を編纂したヤマト政権について読んだ書籍の一部
 長部氏の本を読んでも「天皇の起源」は解りませんし、記紀をいくら読んでも「天皇」の起源は書かれていないので、天皇制を確立したヤマト政権について調べるのが近道かと考えました。図書館に揃っていた講談社学術文庫の日本の歴史シリーズ、岩波新書のシリーズ日本の古代史、文春新書、中公新書など…。簡単な話、日本書紀に記されている「○○天皇」は、記紀が世に出てから半世紀近く後に、大友皇子の曾孫・淡海三船という学者が歴代天皇の漢風諡号(漢字二文字の名)を選定したもので、『日本書紀』の原本には書かれていなかったそうです。『古事記』の現代語版には、便宜上( )カッコ内に天皇の名が書いてあります。
 私の読んだ本の中に、記紀の編纂を命じた天武天皇が、最初に「天皇」という称号を使った、と書いてあったような記憶があるのですが、『日本書紀』は天武天皇の死後完成したものですし、淡海三船が選定したのが事実ならばそれは違うと思いました。
 戦後生まれの万世一系を信じていない世代の日本人でも、カムヤマトイワレビコノスメラミコト(神日本磐余彦天皇、神倭伊波礼比古命)=初代神武天皇に疑問を持つ人はほとんどいないのではないでしょうか。カムヤマトイワレビコという名も、和風諡号といって死後に付けられた名です。では、元々の名は?というと、『古事記』では、若御毛沼(わかみけぬ)またの名を豊御毛沼(とよみけぬ)もう一つの別名を神倭伊波礼比古となっていて、3つある実名の一つが『日本書紀』の神日本磐余彦と表記は違いますが、同じ名前になっています。しかし、『日本書紀』の神日本磐余彦は和風諡号で、諱(いみな:真の名)は彦火火出見(ひこほほでみ)だと書いてあります。神武天皇は実在しないけれども、彦火火出見という男性は実在していた可能性はあります。
 本名があるのに、便宜上「○○天皇」と書かれてしまうため、「万世一系」の呪縛から抜け出せないでいます。記紀を本名で読んでみるとどうなるのでしょうか。本当の日本の歴史が見えてくるかもしれません。
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a trip to Nara ―museums & ruins 5 final

2015-06-05 | trip
平城宮大極殿 奈良市

 国道24号線を平城宮跡に向かって北上。奈良市での宿は、平城宮跡の西隣にあるかんぽの宿奈良。奈良公園方面の方がたくさん宿泊施設がありますが、こちらは静かで広い大浴場の温泉があるのが魅力でした。客室は3階までですが、階段を頑張って4階まで上ると、奈良盆地が見渡せます。夜にはライトアップされた大極殿も見えました。
   
 翌日の朝食後、散歩がてらに朱雀門まで歩いて行きました。平城宮の敷地内は、今や湿地帯めいて草花と鳥の宝庫となっていて、散歩にはもってこいでした。駐車場(無料)まで来ると、北側に遠く大極殿が見えます。朱雀門から大極殿までは約800mもあるそうです。
 
 駐車場の出入り口近くに、平城京歴史館があります。入館料500円もしますが、せっかくなので入りました。外に復元した遣唐使船が置いてありました。全長30mある立派な船です。館内から船の甲板に出ることができます。今まで立ち寄った博物館や資料館と違って、遺物の展示はなく、歴史上の著名人とせんとくんを使って、平城京の時代のことを解りやすく説明する施設でした。何だか修学旅行生向けだなと思いましたが、700年代をよく知らない自分にとっては手っ取り早くイメージすることができました。最後に入ったシアタールームは、まるで自分がドローンに乗って見ているかのような気分で、当時を復元したCGで平城京の町を見ることができて、楽しめました。
   
  
 平城宮跡敷地内の北西角に平城宮跡資料館があり、北側に駐車場入口があります。平城宮敷地内の施設と駐車場は、全て無料です。資料館には発掘された遺品やそのレプリカや復元品などが展示してあり、当時の生活が垣間見れる木簡もあり、新しい発見もありました。思えば、それまでは古墳にしろ博物館の出土品の遺品にしろ、天皇家や貴族豪族の宝飾品または祭祀品や武器などでした。この資料館には、当時の貴人の生活や役人の仕事が垣間見れるような史料が数多く展示してあり、古代人の生活感を感じ取ることができました。
   
特に、落書きのような絵が描いてある木簡や呪いの人型なんかを見ていたら、およそ1300年も前の古代人がぐっと身近に感じられてきました。
 また、無粋な話ですが、昔のお城のような史跡へ行くと、どうしてもトイレはどうしていたのだろうと疑問に思ってしまいます。今まで見てきた博物館や資料館に、便器の欠片らしきものは展示してありませんでしたし。そんな懸念もこれで解消しました。↑右の画像は、平城宮で見つかった排泄物です。一緒に出土した木の棒は、お尻を拭きとるのに使用したものだそうです。3本一束になっていたものが多かった、と説明を受けました。やぁ~これは痛そうです
発掘していると、結構たくさん出てくるのだそうです。発掘する人も大変ですね。
  
大極殿の高欄から見た朱雀門。遺構展示館入口。宮内省の復元。
 資料館から歩いて第一次大極殿へ行きました。とにかく大きい。ぐるっと塀に囲まれていますが、本当は塀ではなく回廊だそうで、後々回廊も復元する計画だそうです。何百億とかかるのだそうですが、なんと国税だそうです。そういえば、ここは文化庁管轄。国税で賄ってるから全て無料は当たり前ですね。日本国民来なきゃ損です。
 平城宮の北側の道路を東に行って大極殿の裏を過ぎると、遺構展示館というのがあります。発掘した状態が保存され、見学できる施設です。野外の宮内省があっただろうと推測される場所に、役所の建物が復元されていました。館内には、説明を読まないとわからないような、柱の跡や礎石などがありました。
   

 見学に結構時間を割いてしまったため時間が押してしまい、遺構展示館も足早に見ただけになってしまいました。庭園などもあったのですが、先を急いで奈良町の元興寺へ向かいます。
   
 世界遺産元興寺は、飛鳥時代に蘇我馬子が建立した法興寺が、平城京遷都に伴って移転したお寺です。拝観者は、お寺の駐車場に無料で止められます。拝観料は500円。受付でお寺の見どころを早口で説明してくれます。聞き取れたのは、瓦のこと。本堂の裏に回ってみてください、ということだったので見てみました。色が変わっている瓦が、飛鳥時代の古式瓦だそうです。魚の鱗のように綺麗です。お寺の資料館もじっくり回ると結構時間がかかります。若者観光客向けの「ならまち」は、週末にもかかわらず天候が良くなかったせいか、想像と違って余り賑わっていませんでした。
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a trip to Nara ―museums & ruins 4

2015-06-01 | trip
藤ノ木古墳出土 金銅製履レプリカ
奈良県立橿原考古学研究所付属博物館

 明日香村の西隣、橿原(かしはら)市の神武天皇陵の近くに考古学研究所付属博物館があります。附属となっているので、こじんまりしているのかと思っていましたが、大きくて立派な博物館でした。駐車場も観光バスが止められる広いスペースで、無料です。入館料は400円ですが、特別展開催中は特別展料金になります(常設展だけ見ることはできません)。私が訪れた時は『継体天皇とヤマト』展をやっていました。
 第25代武烈天皇に子供が一人もいなかったため、最初大臣と大連は丹波国にいる14代仲哀天皇の5世の孫を迎えようとしましたが逃げられて、再度協議した結果、越前国高向(福井県坂井市)にいた第15代応神天皇(父はヤマトタケルの息子・仲哀天皇、母は女傑・神功皇后)の5世の孫、男大迹王(おおどおう)を天皇に迎えた、という即位の経緯が『日本書紀』で細かく説明されている継体天皇。その出自や最初の妻・目子媛(めのこひめ)が尾張国(愛知県)出身などということから、地方の豪族との関係でも注視されています。
  
 入ってすぐのエントランスホールに、眩いばかりのキンキラ金の靴「金銅製履」が展示してありました。博物館内は撮影禁止ですが、このエリアは大丈夫、展示品はもちろんレプリカです。奥にはフリーゾーンが設けられ、中庭を眺めながら休めるソファもありました。そのゾーンの隅に、2メートル以上ありそうなビッグサイズの円筒埴輪が展示してありました。その時は、レプリカを作るにしてもこれはちょっと…なんて苦笑していたのですが、常設展示室で埴輪を見て、本当にそのくらいの巨大埴輪があったことを知りました。『日本書紀』によれば、垂仁天皇が亡くなった叔父の埋葬時に、陵の回りに生き埋めにされた多くの殉教者が泣き苦しむのを見て、余りに惨いから止めさせ、皇后の日葉酢媛が亡くなった時、近習の野見宿禰(のみのすくね)の提案で、出雲国の職人を呼んで造らせた土物(はに)を人や動物の代わりに立てたのが始まりだそうです。この博物館の埴輪展示コーナーは必見です。
 そして、目を引くのは、男2人のミイラ遺体が埋葬されていた藤ノ木古墳の出土品コーナー。エントランスホールの金銅製履の本物が展示してありました。履だけでなく、同じくキンキラであっただろう金銅製冠も含め、本物の出土品を見ることが出来ます。資料が豊富なのでじっくり時間をかけて見学したい場所です。また、ミュージアムショップも充実しています。ミニチュア埴輪や勾玉アクセサリー、三角縁神獣鏡を模した手鏡など、手軽な値段で販売していました。10cmほどの飾り馬が680円、勾玉(天然石)チョーカー670円、手鏡は直径6cmくらいのものが1,515円でした。鏡はちょっと高いですかね。35g入りの古代米は、県下のお土産店にありますが、飛鳥駅前の産直市場で各150円で購入しました。
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