TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

now creating

2011-05-31 | Koshodo
板元“戯作の草稿は出来上がっているものの
画工がのうらくもので、3月経って一毛も描けておらん”

画工“只今キャラクターを吟味しておるのでござる”


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greed

2011-05-30 | photo



餌を求めて貪欲に池淵に上がって大口を開ける、国芳ちっくな鯉

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taking a trip to gero

2011-05-29 | trip
 下呂温泉の旅は天候に恵まれ、合掌村やもう少し山の奥へ入ると復元竪穴式住居群も見ることができて、温泉だけでなく歴史や自然豊かな森のマイナスイオンで身も心もリフレッシュできました。
高台から見下ろした合掌村の一部

 合掌造りの家の中に入ると牛さんがお出迎え。富山の合掌造りの家では馬だったけど、下呂は山の中なので荷物運びや農耕用に牛だったのでしょう。
最近の人形はリアル

 各部屋の用途に副って女性の人形たち、下男の人形達、養蚕用の2階にも作業する使用人の人形がありました。囲炉裏には本物の火が焚かれていてかなり遠くまで煙たかったのもリアリティありました。奥の間にはご主人様が。

 合掌造りの家々を見渡せる高台の茶屋で一休み。暑かったのでカキ氷を注文しました。甘酒のかき氷。酒といっても甘酒は元々アルコールではないので、もちろんこれもノンアルコールですが、さっぱりした甘さで美味しかったです。

 下呂温泉合掌村は、下呂温泉郷より山側、益田街道(国道41号)からちょっと山に入った所にあります。車で行くのがおすすめ。下呂温泉は温泉街に無料の足湯がいくつかあり、合掌村の中にもあり、温泉博物館の中にもあり、どうせだからと靴を脱いで入ってきましたが、旅の疲れを癒してくれて効果絶大でした。温泉寺の173段の階段を登った境内からの眺めも最高でした。
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wolpertinger@Gero-onsen

2011-05-25 | trip
***下呂のヴォルペルティンガー***
 下呂温泉合掌村では、まだまだ興味深いモノを見ることが出来ました。
 何故だか日本古来の狛犬を収集展示した博物館「狛犬博物館」なるものがあり、木製の狛犬、沖縄のシーサーまで様々な狛犬様が陳列されていました。正直入る前は「こまいぬなんかぁ退屈だろう」と思っていたのですが、陳列ケースの中にどうみても狛犬ぢゃないだろしかも舶来もんだろと思われる珍奇な1体を発見。これには説明が「ドイツの伝説獣 ヴォルぺル・ティンガー 兎に角が生え翼があり、足は片方鳥の怪獣」と紙に筆書きしてありました。
 狛犬博物館のヴォルペルティンガー
 こりゃまるでシュヴァンクマイエルが作ったオブジェみたいじゃないですか。これがドイツの狛犬様なのでせうか、、、と思ってさっき調べてみました。さすがに日本では情報なしなので、ドイツへgo!!

 ユニコーンと同様、ヨーロッパに伝わる架空の野獣らしいのですが、宗教絡みでないのかドイツ本国でも余り興味持たれてない様子で、まつわる伝説が載ってませんでした。ヴォルペルティンガーはWolpertingerと表記し、未確認動物のげっ歯目でドイツ・バイエルン地方高山の森林に生息している珍獣らしいです。ということは、架空の生物ではなく「つちのこ」「ネッシー」同様の珍獣ということです。ですから目撃情報もあります。一般的なものは、角の生えたリスorウサギで、牙を持ち翼がはえているというものだそうです。そしてこれも何処の国でもお決まりで、旅館や観光客相手のお店で、地域特有のぬいぐるみがお土産用に販売されてるということです。ミュンヘンの博物館にはドイツの生き物として収蔵してあるそうです。ひょっとして下呂合掌村の狛犬博物館のヴォルペルティンガーの剥製は、南ドイツ土産なのかもしれませんね?

・・・て、狛犬様はそーいう類のものじゃないから全然ちゃうやろが~



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ningyo@gero-onsen

2011-05-23 | prose
 大阪から帰った翌週、日本三大名湯のひとつ下呂温泉へ行きました。目的はもちろん温泉でしたが、そこで思わぬ出会いをしました。

 宿の近くに下呂温泉合掌村という合掌造りの家々を展示したテーマパークがあったので行ってみたのですが、白川郷などから移築した合掌造りの民家10棟で集落を再現しており、想像していたよりもすごくよかったのです。その中の1棟が「竹原文楽記念館」になっていたので入ったら、これがまた凄かった。

 「文楽」とつくからには人形浄瑠璃だと思ったのですが、大阪の人形浄瑠璃文楽とは関係ないらしく、こちらは地元下呂が生んだ天才人形浄瑠璃師・洞奥一郎氏(大正7年生まれ)が自作した人形を一人で操る人形歌舞伎というものでした。多いものでは、100体以上の人形をたった一人で操ったそうです。見てみたい!しかし、洞奥氏は既に故人であり、跡継ぎもなかったため、今は過去の映像でしか見ることができないのは無念です。

 パソコンやテレビといった娯楽がない江戸時代、人形芝居は全国で人気を博していた見世物だったらしく、現代のように一つの職業として確立されていない人形座も多く、それらは時代の移り変わりと共に衰退しほとんど消滅してしまったようです。大阪ではかろうじて文楽座が残ったおかげで現在人形浄瑠璃を見ることができます。あれほど立派な芝居ではないけれども、地方にはもっと素朴な人形芝居がたくさんあって、祭りや祝い事の席で上演されていたそうです。現在だと江戸時代上方から伝わった人形芝居が佐渡に残っていて、国の重要無形文化財に指定されています。
 芥川龍之介も日暮里の知人宅で見たことがある、滑稽な芝居「のろま人形」をいっぺん見てみたいです。
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following Kuniyoshi to Osaka-Minami 3

2011-05-20 | trip
***国芳と行く大阪3***
 御堂筋方面へ歩き、途中再び南へ下り道頓堀を千日前の方まで行くと、人形が呼んだのでしょうか、工事中の囲いの間に竹本座跡を見つけました

ここは飲食店の大きな看板が目を引く一番の繁華街。カメラで街並みを撮っている人も見かけましたが、これに気付く人はいませんでした。あれ?国芳親分どこ行きやしたか。

ああ、そこでしたか。お疲れさんでした。ではわたくしはこのへんでおいとましやす。大坂の後、駿府、お江戸と長丁場の絵画会ご成功お祈りいたしやす。

     
 展覧会の図録の解説に、実際に国芳を見たことある人物の話が載っていました。明治・大正の実業家で大倉財閥の創始者が、少年の頃狂歌を習っていて、その師匠の家で国芳を見かけたというのですが、その話が揮っています。
 “ある日師匠の家へ出かけていくと、半纏を着たとびの者がやって来て「ネエさんこれ一本借りて行きやすよ」と師匠の奥さんに言って、台所の漬物桶から大根を一本つかみ出し、鼻唄まじりて帰って行った。「あれは何ですか?」と尋ねると「あの方は国芳さんですよ」と奥さんは別に呆れた顔もしなかった。”
というエピソード。この方が14,5歳から狂歌をたしなんでいたそうなので、仮に14歳だとすると1851年で国芳55歳の時のお話です。前年に月岡芳年が弟子入りしているので、既に高名な絵師であったのに、何とも庶民的で気さくな人柄だというのがわかります。 国芳の画は、所狭しと沢山の人物、あるいは動物が描かれ、その中には国芳も紛れ込んでいたりします。どれも表情が違っていて主役となるものも脇役のものもエキストラも手抜きなしに描かれています。表情豊かな金魚の絵からは金魚への愛情が感じられ、見ていると心が和みます。国芳はあらゆるものに愛情もって接していた人だという事が絵を見て解ります。そして、そんな国芳はみんなから愛されていたのだと思います。
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following Kuniyoshi to Osaka-Minami 2

2011-05-19 | trip
***国芳と行く大阪2***
 国芳の絵画会をやっている大阪市立美術館を出て、国芳親分は通天閣見物へ。そこで奇妙な物体に出会い、親分肝を潰したようなご様子。

 それは、今流行の串かつのゆるキャラです。中に人間が入っているんですよ。からくり人形より安上がりだしお手軽ですからね。串かつおいしかったです。次はどこ連れてってくれんですかい?地下鉄乗って日本橋へ?大阪にも日本橋ってあるんですねぇ、こっちが先?“にっぽんばし”て読みます。この近くに黒門市場がありますから寄ってきましょう。

 江戸の本町通日本橋界隈が懐かしくなっちゃいました?それよりあそこに国立文楽劇場がありますよ。

 え?文楽って何か?人形浄瑠璃のことです。私も知らなかったのですが、1789年~1801年(寛政~享和元年)植村文楽軒という人が座元になって高津新地に設けた人形浄瑠璃小屋が文楽座で、他には太夫が座元の、1684年に竹本義太夫が道頓堀に創設した竹本座、その門人・豊竹若太夫が1703年に創設した豊竹座などがあったのですが幕末に衰退して、明治末期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃劇場になったことから「文楽」が「人形浄瑠璃」の代名詞として使われるようになったそうです。
 高津新地は画像の文楽劇場より奥一帯です。劇場裏手はホテル街で、昼間でもちょっと気の抜けない地域。ここを北上して堀川を渡ると、一九先輩が『木下蔭狭間合戦』を書いたりした時期に住んでいたであろう島之内に入ります。寛政元年から翌年あたりの時期ですから国芳親分が生まれる8,9年前のことです。世話をした近松東南の家が島之内の塗屋町にあって、一九先輩は大西芝居で操り芝居(人形浄瑠璃のことでしょう)を見たと自著の序文に書いているので多分その辺りに借り住まいしていたと思います。この大西芝居小屋で、一九先輩と並木柳と若竹笛躬(ふえみ)合作の『木下蔭狭間合戦』が寛政元年興行されました。


 現在は普通の住宅街ですが、筆紙屋という筆と紙を売っているお店を見つけたので、こんな風情の家並みだったのかなぁと妄想しながら更に北上、南船場まで来て今度は心斎橋方面(現在位置は東心斎橋)へふらふらと。。。
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following Kuniyoshi to Osaka-Minami 1

2011-05-15 | art
***国芳に従って大阪ミナミへ***
 江戸じゃあちょっと名の通った国芳ってェ絵師がやって来て、「上方でわっちの絵画会をやってるから連れてってぇやる」と言われました。まるでとび職のような格好してて怖かったから、逆らわないほうがいいと思って付いて行きました。
          
第1の部屋は武者絵ですか。凄い筋肉に彫り物を施した武者たちの勇ましいお姿。着物の柄から鎧や刀の鞘の装飾や意匠に至るまで細かく描かれています。特に水中を描いた『通俗水滸伝豪傑百八」シリーズ気に入りました。それから、予習で知って凄いなと思った絵も生で見れて感激。
                  
国芳もやう正札附現金男 野晒悟助:部分

 国芳印イケメン・シリーズの1作品ですが、着物の髑髏柄が猫で作られてるのと蓮で作られているのと、下駄が髑髏になっていてだまし絵になってるのが素晴しいです。
 描かれているのは、山東京伝の読本『本朝酔菩提』(1811年刊)の登場人物。悟助は葬儀屋で、野に晒されたしゃれこうべの地紋の着物をまとった侠客。京伝51歳の作品で、この5年後歿します。国芳先生が描いたのは1845年頃だということです。
 国芳先生は動物などを擬人化した戯画でも有名ですが、海に住む生物も表情に富んでいてなごませてくれます。


説話-龍宮城 田原藤太秀郷に三種の土産を贈 部分

よく見ると、蟹が両腕で刀を高々と持ち上げていて、先頭の鯛はこちらを向いて睨んでいるし、手前には片ヒレを挙げて何やら叫んでいる勇ましい魚(うなぎ?はたまた川魚の鯉?)が泳いでいます。
 役者絵、美人画、子ども絵、風景画、動物画、風俗画…どれも細かく色彩豊かで見ていて飽きませんが、目がチカチカしてきました。一気に見るのはしんどいです。
 完成作品だけでなく、何かの理由で彫られなかった版下絵や、修正した下絵などの展示もあって、これは貴重な資料。昔は墨で描いていたから失敗したら消しゴムで消せないのでどうしていたのだろう?という疑問が解消されました。上から紙を張って描いていたんです。実物で見ないとその凄さはわかりません。
 真面目な絵の中にもどこかクスっとさせてくれる遊び心をわすれない国芳先生の絵の本領は、私などは戯画にあるのではと思うのですが…
 下の画像は、「朝比奈義秀小人遊」(1842年頃)部分ですが、剛力無双の朝比奈という鎌倉前期の武将が小人島へ行ったという設定の絵の中で、沢山いる小人の一人が朝比奈のへその穴を覗いているのが俗っぽくって大できです。


 え、なんです?先生。「さっきから先生先生言ってるが、わっちゃあ未だ先生にゃなりやせん。先生ていうなぁね、そらアノ豊国みたいな人サ」ですって?そりゃまたしつれいしやした。じゃ私もお弟子さんみたいに国芳親分ってェ呼ばせていただきやす。絵画会の後は通天閣連れてっておくんなせェ。
国芳死絵 1861年芸斎芳富画:お供は前年24歳で亡くなった弟子

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construction time again 4

2011-05-11 | Koshodo
普請兄弟が一夜で完成させてくれた『好書堂(こうしょどう)』



“はじめまして
好書堂主人の顔裏です。
まだ商品はございませんが
店内ご覧下さいませ。”


“いめぇじ・ですぷれぃとして手前が手描きした道中画と
尊敬奉る十返舎一九先輩の自画像模写を中央に
右におしるしを置かせていただきました。
左のは北尾張屋のしるしです。”


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construction time again 3

2011-05-11 | Koshodo
普請兄弟
好書堂 建築中


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construction time again 2

2011-05-10 | Koshodo
好書堂モデルハウス

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construction time again

2011-05-08 | Koshodo
 
好書堂 普請中
紙製簡易模型


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correcting

2011-05-07 | bookshelf
 草双紙・浮世絵に関する書籍を読んでいると過去の無知や間違いが判明します。『国芳展』に行く前に予習しようと読んだ本に載っていたのが、Ikku's joke 2 で国芳画の左甚五郎の大判三枚続の浮世絵。傍に猫がいるし派手な着物着てるから甚五郎も国芳みたいな人物だったのかな、と思っていたら、これ左甚五郎に見立てた国芳の自画像画だったのですね。
 この絵が制作されたのは1845-52年で、幕府の取り締まりが厳しく、彼は禁令を逆手にとって諷刺絵を描いていました。これもその一つで、彫物の顔は役者(役者絵も禁止されていた)の似顔絵で、中にはキリスト教の宣教師(ザビエル頭)の仏像も見られます。絵のタイトルは『名誉右に無敵左り甚五郎(めいよみぎにむてきひだりじんごろう)』。
 国芳は自画像を描く時、顔を描かない代わりに判るように猫と国芳の紋(芳桐)を近くに描き入れていました。猫といえば、最近家の近所の野良たちが騒がしいのですが、江戸時代には野良猫はいなかったようです。街並みを描いた風俗画の道路に犬は描かれていても猫が見当たらないのはそのためで、猫は高価で家の中でしかいなかったそうです。江戸で猫が飼われていたのは、鼠捕りの為でした。猫のいない家では鼠が出ると、鼠をよく捕る評判の猫を借りてきたそうです。

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the rocal academic book wholesaler

2011-05-03 | Koshodo
               
 NOW CONSTRUCTION


                    
地本問屋 好書堂
北尾張屋顔裏御前
  


                






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