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Expressing My Inspirations

kusazoushi:edo gesaku-zoushi

2010-12-31 | bookshelf
 年末のばたばたしてる時に注文していた本が届きました。
2000年小学館刊 校注編者:棚橋正博教授 
 悪玉ぁ~~~~!いっぱいついてる。踊ってるし。
 内容は、山東京伝の戯作5作(解説・注釈・現代語訳付き、勿論画付き!)と京伝と京伝戯作・浮世絵のカラー掲載&解説で、なんといっても『人間一生胸算用』が載っているのが嬉しいです。まだパラパラっとしか見てませんが、一発目が蔦重の「まじめなる口上」で始まる『箱入娘面屋人魚(はこいりむすめめんやにんぎょう)』京伝作/北尾重政画1791年寛政3年刊。うわっ、すごいことになってます。江戸時代の人魚は西洋の人魚のように美しくないのだ。でも、私はこっちのが好みです。ストーリーも浦島太郎のパロディーから始まって…エグイ、良い子は読まないほうがいいんでしょうね~。

visiting a grave 2

2010-12-16 | Edo
***墓参り~一九編~***
 私は馬琴ファンではないですが、蔦重やその周辺について書いてある本の参考文献を見ると、必ず馬琴の『物之本江戸作者部類』『伊波伝毛乃記(いわでものき)』が引用されているので、自然と馬琴ともお近づきになってしまいました。
 でも、元々私が18~19世紀江戸にトリップする動機は十返舎一九に会いたかったからなのです。だから墓参りも一九先輩が本命でした。墓や墓碑は写真で見ているのですが、やはり実際に行って墓前に手を合わせたかったので勝どき4-12-9にある東陽院へ出向きました。地下鉄駅から歩くこと数分。お寺を見つけるよりお墓の方が先に見つかりました。なんと墓と墓碑はお寺の外、大通りの歩道に面しているのです。
     右手前が墓碑、後方が墓石
墓碑は写真で見たものと同じでしたが、墓石がどうも綺麗すぎるなぁと思って墓碑銘を見ようと側面を見ましたが、山茶花に遮られてよく読めませんでした。持っている本に載っている一九の墓石は正面は何が書いてあるかわからなくなっていて、基礎の石の正面には○の中に貞(本名:重田貞一さだかつ)の字を入れた熊手形の判が刻まれていて、沢山の卒塔婆に囲まれていました。東陽院は浅草にあったのが現在の地に移転しているので、墓石は新しくしたのかもしれません。何にしても一九先輩のお墓は文化財として誰にでも見える場所に安置されています。
          
 山茶花がとても美しく、これなら一九先輩も喜んでいるだろうな、と私は感激したのであります。馬琴の墓と比べると明るくて華やかな印象で、生前の人間像が偲ばれるようなお墓だと感じました。石の上に一円玉が数枚置いてあり、今も一九は愛されてるんだと思うと、とても嬉しくなりました。帰宅してから、一円玉を9枚置いてくればよかったと洒落のきかない私は後悔・・・。
 私を江戸時代のおもしろ人たちに引き会わせてくれた一九先輩ありがとう。

 サントリー美術館の蔦屋重三郎展には、山東京伝作/十返舎一九画の草双紙がありました。
     『初役金烏帽子魚』1794年蔦屋版 
 1794年は、蔦重が写楽作品を刊行した年で、一九はこの年の秋に蔦屋に居候しました。浮世絵の版画を摺る紙にドウサを引く仕事をしながら戯作していたそうです。
 彼が画をどこで誰から会得したのかはわかっていませんが、素人にしては相当上手いです。『東海道中膝栗毛』の初編を蔦重は売れないと判断して出版しなかった、といわれていますが(その根拠はどこからきているのかは不明。もし馬琴の記した物だったら真実でない可能性大。)私はそれは初代蔦重じゃなかったんじゃないかと思います。もし蔦重が健康で経営が順調だったら、一も二もなく出版していたに違いないと私は信じています。
 一九が最後に住んでいた家がどこであったのか、火事で焼けたりしているので、深川佐賀町から通油町へ戻ってきてたのかはっきりしたことは不明です。蔦重の墓は、倉本初夫氏の著書によれば、浅草の正法寺にあったのですが関東大震災で焼け崩れた為処分されてしまったそうです。墓には大田南畝撰の墓碑銘が書かれてあったそうです。そして崩れた墓石の碑文の部分だけを何人かが拾い集めて持ち去った、と書いてあります。ということは、何処かに残っている可能性はあります。倉本氏は第2次大戦前に訪れた時は、宿屋飯盛(石川雅望)撰の蔦重の死を悼んだ碑文を刻んだ石碑を見たそうですが、それも東京空襲で跡形もなくなってしまったということです。


visiting a grave 1

2010-12-14 | Edo
***墓参り~馬琴編~
 友人お薦めスポット、小石川植物園内にある東京大学総合研究博物館・小石川分館へ行ってきました。
          
この建物は旧東京医学校の校舎で、建築物自体が見る価値あり。テラス付き2階建ての館内は一部改装してありますが、動物の標本や薬草を収納した棚やら昆虫標本、骸骨、剥製、ホルマリン漬けのガラス瓶…ヤン・シュヴァンクマイエルが欲しがりそうなものがいっぱい。それらを陳列した机や棚の質感はブラザーズ・クエイの世界…。
     入口前の窓より室内を覗く
・・・なのに。なのに、行った日が悪かった。特別展をやっていて館内撮影禁止。おまけにその展示品が標本の間に置いてあって、せっかくのダークでミステリアスな雰囲気が台無しに。作品は、良く言えばミスマッチ・対極の妙というのでしょうか。私にはキモカワ系安っぽいポップ・アートとしか見えず、芸術品でない古い標本の方がアートに見えました。
 さて、茗荷谷の谷底にある博物館から駅へ這い上がって行き、駅裏の細い坂道を拓殖大学方面へ行くと、曲亭馬琴の墓がある深光寺があります。小さいながらも江戸古地図にも載っている古いお寺です。
          
坂を上って本堂左手すぐに馬琴の墓はありました。今はもうお参りする人もいないのか、枯れた松葉が墓石の上にいっぱい落ちていたので、それを綺麗に掃って撮影。
        墓碑銘など判読不可能になってました
このお寺は小石川七福神の恵比寿さまだったので、福があるようにお参りしました。
          
 同じ道筋に、しばられ地蔵尊もありました。そういうのがあるのは知ってましたがこんな処とは知らなかったので興味本位で見てみましたが、お地蔵様たいへんなことになっています。
            
願をかけたヒモでお地蔵様をしばって、成就するとヒモを解くのだそうですが、この状況から察するに願いがかなっている人少ないのかな?



strolling around the toriabura-chyo

2010-12-12 | trip
***蔦重を訪ねて~耕書堂編~***
 台東区千束4丁目に出店していた蔦屋は、10年後商いの中心地・日本橋へ移転します。蔦重が日本橋通油町にオープンした耕書堂があった場所を探してみました。
 現在、日本橋に通油町という地名はありません。草双紙に記載されている所在地には、「本町筋北江八町目通油町」とありますが、古地図に記載されている通油町は現在の大伝馬町のはずれ辺りじゃなかったかと思われます。
       
 地下鉄小伝馬町駅のある国道6号線の南にある本町通りという1本入った筋をうろつきましたが、何の変哲も無いオフィス街の裏通りでした。
          ここからもスカイツリーが見えます
 ただ、歩道に埋め込まれた浮世絵を模した絵タイルが、私の妄想を駆き立ててくれました。確かにこの本町通りを蔦重や京伝、一九が歩いたのです。ちょいと感激。
          
 耕書堂は蔦重亡き後、嫡男がいなかった為に番頭が跡を継ぎ二代目となりました。三代目の記録がないので、二代で終わってしまったようです。耕書堂も移転したのか、小伝馬町三丁目(1820年二代目蔦重刊「狂歌百鬼夜行」記載)になっています。
 読んだ本には、養子を取りながらも蔦重所縁の人は昭和の初めまでいたことが確認されていますが、何も伝わっていなかったそうです。初代蔦重の妻の実家の蔵に文庫があったようですが、それも震災や戦火で失われてしまいました。
 一縷の望みは、晩年蔦重が業務提携していた名古屋の永楽屋東四郎にある、と私は思います。蔦重は、蔦屋・喜多川氏へ養子へ入りましたが、実の父は尾張出身で、重三郎は通油町に移転した際実の両親を呼び寄せて同居しています。ひょっとしたら実父の故郷ということで重三郎は尾張にコネクションがあったのかもしれませんし、永楽屋と懇意になれたのかもしれません。
 永楽屋は三重県出身の国学者・本居宣長の版元で、重三郎は宣長に執筆を依頼する為会いにいっています。もちろん道中、永楽屋に寄ったに違いないですし、老舗の永楽屋ですから蔦重をもてなしたでしょう。
 永楽屋が廃業した後どうなったのかは調べていませんが、蔵でも残っていたらその中に蔦重に関する何かがあるやもしれません。

strolling along the gojukken street

2010-12-10 | trip
***蔦重を訪ねて~吉原編~***
 江戸時代の江戸町人文化の発祥の地(天明・寛政文化のルーツ、元禄文化の発祥の地でもある)吉原へ行ってみることにしました。
 日本映画や時代劇などのイメージで、吉原遊廓は貧しい田舎娘を買ってきて売春させるやくざな場所―という暗いイメージしか持っていませんでしたが、蔦重について調べていくにつれてそういった汚いだけの場所ではないことが解り、蔦屋重三郎が生まれ育った吉原をぶらついてみました。
     吉原細見・吉原の地図
 元禄時代の吉原は旧吉原で、蔦重の生まれた吉原は新吉原といって現在台東区千束4丁目あたりです。三ノ輪駅から土手通りを南へ下ってゆくと、通り反対側の左手にテレビ番組「和風○○家」にも出てきた老舗馬肉鍋屋と天婦羅屋さんが見えてきます。なかなか風流です。土手通りは文字通り嘗ては土手で日本堤側は水路で、通人は隅田川から舟で吉原へ乗り付けていたそうです。細見の地図S字形の道を「五十間道」と云い蔦重の最初のお店、蔦屋重三郎・吉原大門口店は×印の場所にありました。五十間道入ってすぐ左の柳の木は、「見返り柳」と云って吉原を去る人が名残惜しそうにここで振り返ったと云われています。柳は道路拡張の為移動され石碑とともに吉原大門交差点にあります。
            石碑の背後電信柱右側の黒い幹が柳
見上げると東京スカイトゥリーが。新し物好きな重三郎青年も喜んで見てるでしょう。
            吉原大門交差点よりスカイトゥリーを見る
S字形の五十間道は現在もその名残りを残しています。大名が土手道を通り過ぎるとき遊廓が見えないようにという配慮だそうです。
     
さて、五十間道を歩いて蔦屋を探してみましたが、それっぽそうなのはありません。現在は一本道でなく脇道もできてますし、間口も昔と違うでしょうし…。
     この辺か?
     もうちょっと手前だろうか?
西に向かって歩いていくと、吉原の玄関口、吉原大門がありました。こっから奥が遊廓。現在はソープランド街です。昼間なのでやってませんが、ちょっと路地へ入るとタオルが干してあったり裏口が開いていたり、と夜の街の昼の顔「青楼錦之裏」を偲んでみたり、、、。
          吉原大門口の現在の門
 ここから三ノ輪駅まで戻る途中に、樋口一葉記念館があるのですが、時間が無いので寄らないことにしていましたが、フラフラしていたら親切なおじさま(江戸っ子か?)に声を掛けられ、一葉記念館に行くのか?と聞かれて道筋を教えてくださったので、ちょっと前を通って記念館と句碑を写真に収めて帰りました。


Santoh Kyoden's ukiyo-e

2010-12-06 | art
***サントリー美術館「蔦屋重三郎展」其の二***
 蔦屋から刊行された錦絵は写楽と歌麿が世界的に有名なため、その蔭に隠れてしまった感のある浮世絵師としての山東京伝(画号:北尾政演)の作品は、草双紙の挿絵師程度にしか認識されていないようでしたが、今回の蔦重展に出品されていた彼の絵画作品は、歌麿と肩を並べるくらい質の高いものだということを見せつけられました。京伝24,5歳で描いた「助六図」(掛け軸になっていました)は、写真で見たよりも実物は華やかで、人物の配置やポージング、色使い、女性(遊女)の表情、背景の金色とのバランスなど全てパーフェクト。着物の柄やデザインも、自ら模様のデザイン画を描いているだけあって凝っています。
     京伝行き付けの茶屋「伊勢屋」開店祝いに贈られたもの     
それに、歌麿や北斎、鳥居清長の絵にはない、ユニークで粋な何かが含まれているのは、戯作者ならではの強味でしょう。助六図で敢えて役者の市川団十郎を後姿で描き遊女を覗かせる、という心憎い発想。役者絵であり美人画でもあるこの絵は、京伝会心の作だったんじゃないでしょうか。自作「江戸春一夜千両」の挿絵で自慢したくもなるでしょう。
 ヨーロッパではアルチンボルドに代表される「だまし絵」が流行し、それが江戸時代の日本にも飛び火して日本画にも「だまし絵」が数多く存在しますが、京伝もだまし絵を描いていたのを発見しました。
     吾妻曲狂歌文庫1786年(天明6年)蔦重刊   
吾妻曲狂歌文庫(あずまぶりきょうかぶんこ)は宿屋飯盛(やどやめしもり)の撰による50人の狂歌師たちの肖像画入り狂歌絵本。上の画像は四方赤良(よものあから:大田南畝)下の画像は、唐来参和(とうらいさんな:志水燕十)。
      画は全て北尾政寅(山東京伝)
これを見たとき私は小躍りしたい気持ちでした。
 京伝は途中から戯作に専念してしまう為、絵師として評価する人が少ないのかとは思いますが、挿絵や雑貨の意匠も含めてもっと作品を見たいと感じました。
 展示の締めくくりは耕書堂店先の復元でしたが、どうせなら北斎の「東遊」そのままに、人物も人形で置いて欲しかったです。

Tsutaya Juzaburo Exhibition@suntory museum of art

2010-12-05 | art
***サントリー美術館「蔦屋重三郎展」其の一***
 11月3日からスタートした「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎」展へ出掛けました。会場のサントリー美術館は、六本木駅から地下で繋がる東京ミッドタウン・ガレリアの3~4階にあり、初めて行った私は迷わないようにB1の案内カウンターで最短の行き方を尋ねました。女性コンシェルジュは美人の上親切丁寧で、提示するだけで100円割引になる「あとろバッジ」をくださいました。当日券で入場するつもりだった私には嬉しい特典!ガレリアの商業施設を見ながら教えられたエレベーターで3階へ。このフロアもショップが立ち並んでいて、その一角にありました。
               
                      入口。左にミュージアムショップが。
チケット売場の正面にロッカーがあり、百円硬貨を入れて後で戻ってくるシステムのものでこれも観覧者にとって嬉しい配慮です。

 時間帯にもよるのでしょうが、結構混雑していました。浮世絵とか江戸時代の書物とか地味な展示物ですが、お年寄りが少なかったのが意外でした。もっとも場所が場所だからかもしれません。これが江戸東京博物館ならば若者が少なかったんじゃないかと。
展示物が書物なので、絵画と違い硝子ケースの中に展示してあるものを覗き込まなくてはならないので、列を成して順番にのろのろと見ることになりました。じっくり見たいものは、後ろの人に「お先にどうぞ」と声を掛けて抜かしてもらいながら、何か新たな発見(自分にとっての)がないかと探しながら見ていたら、蔦重直筆の短冊がありました。この短冊を蔦重が手に持ったんだと思い、何年かは表記されていないのでわかりませんが1780年代終わりから1790年代へ魂が飛んでいきました。や、字上手いです。
これは『書画述壁』の中の蔦重(狂名:蔦唐丸つたのからまる)自筆狂歌の頁
書籍は、喜三二や春町、京伝などの作で展示されている頁も図書館で借りた本に載っていて(全ての画が載っている訳ではない)このブログにも登場してるものが多かったのが物足りませんでした。京伝の「人間胸算用」がなかったし。そのかわり、馬琴の「心学草紙」が見れたのは嬉しかったです。
 書物は古本屋で売られた時に個人コレクターがセットでなくバラで(例えば本を入れた袋だけとか)購入されることが多かったのか、個人蔵の展示品にかなり貴重なものが多いように思われました。
 狂歌絵本や浮世絵は、歌麿の美人画、写楽の役者絵を中心に状態の良いものがずらりと並んで豪華。中でも歌麿画・宿屋飯盛(公事宿主人で国学者・石川雅望:いしかわまさもち蔦重の親友で墓碣銘[死者の姓名生い立ち人と成りを石に刻んだもの]を書いた)撰の豪華絵入り狂歌本『画本虫撰(がほんむしえらみ)』(1788年天明8年刊)文学的にも美術的にも素晴しいもので、その画はとても木版画とは思えない繊細さ美しさで目を奪われました。彫師は名匠藤一宗。昆虫植物図鑑でも通用しそうな緻密さです。
 それから山東京伝の画才に改めて感歎。京伝作品は単独で。

 私が行った期間は展示されてなかったけれど、図録に載っていてラッキーだった一枚。葛飾北斎の描いた一九先輩。
          『五十鈴川狂歌車』1802年2代目蔦重刊
狂歌会では狂歌人は趣向を凝らしたおかしな仮装(コスプレ)をして歌を詠んでいました。十返舎一九も頭に扇子を乗せて一句。このとき37歳。北斎42歳。