東海道三十五次 吉田<吉田城址鉄櫓>
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の35番目の宿場「吉田」とは、愛知県豊橋市のこと。広重の浮世絵に描かれた風景は、吉田城(現豊橋公園となっている)の櫓の外壁を塗りなおしている左官屋さんの1人が、高く組んだ足場からすぐ下を流れる豊川に掛かる吉田橋(現豊川橋)を渡る大名行列を眺めている、というもの。
豊橋公園は豊川市から豊川橋を渡ってすぐの所に位置し、現在は当時の石垣や堀も部分的に残っているのみで、水も枯れていますが、唯一復元されている鉄櫓(くろがねやぐら)の傍から川と橋(国道1号線)を臨むと広重の世界に浸れます。
この吉田橋(豊川橋)は、江戸時代でも長さが約216㍍あったそうですが、現代でもなかなか渡り応えのある橋です。
東海道中最長の橋が、39番目宿場・岡崎(家康生誕の岡崎城所在地)の矢作川に掛かる矢作橋で、374㍍あったそうです。広重の時代は真っ直ぐな橋ですが、今では途中くねっていて信号もあったりします。
広重の画中で左官屋さんが足場に登っていた鉄櫓は、決まった開放日があって中に入れるみたいです。
旅人をまねく薄のほくちかとここも吉田の宿のよねたち
吉田宿は「吉田通れば二階から招く、しかも鹿子の振袖で」と唄われるくらい、客を招く宿の遊女が多かったそうです。この歌を踏まえて、「東海道中膝栗毛」の喜多八が詠んだ狂歌です。「招く」から「薄(すすき)の招く」→「薄の穂」、「穂」から「ほくち(火口:火をおこす道具で吉田の名産だった)」にかけて、薄の穂のゆれる様子を遊女が手で招く有様に例えてあります。
歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」の35番目の宿場「吉田」とは、愛知県豊橋市のこと。広重の浮世絵に描かれた風景は、吉田城(現豊橋公園となっている)の櫓の外壁を塗りなおしている左官屋さんの1人が、高く組んだ足場からすぐ下を流れる豊川に掛かる吉田橋(現豊川橋)を渡る大名行列を眺めている、というもの。
豊橋公園は豊川市から豊川橋を渡ってすぐの所に位置し、現在は当時の石垣や堀も部分的に残っているのみで、水も枯れていますが、唯一復元されている鉄櫓(くろがねやぐら)の傍から川と橋(国道1号線)を臨むと広重の世界に浸れます。
この吉田橋(豊川橋)は、江戸時代でも長さが約216㍍あったそうですが、現代でもなかなか渡り応えのある橋です。
東海道中最長の橋が、39番目宿場・岡崎(家康生誕の岡崎城所在地)の矢作川に掛かる矢作橋で、374㍍あったそうです。広重の時代は真っ直ぐな橋ですが、今では途中くねっていて信号もあったりします。
広重の画中で左官屋さんが足場に登っていた鉄櫓は、決まった開放日があって中に入れるみたいです。
旅人をまねく薄のほくちかとここも吉田の宿のよねたち
吉田宿は「吉田通れば二階から招く、しかも鹿子の振袖で」と唄われるくらい、客を招く宿の遊女が多かったそうです。この歌を踏まえて、「東海道中膝栗毛」の喜多八が詠んだ狂歌です。「招く」から「薄(すすき)の招く」→「薄の穂」、「穂」から「ほくち(火口:火をおこす道具で吉田の名産だった)」にかけて、薄の穂のゆれる様子を遊女が手で招く有様に例えてあります。