薩摩半島にある南さつま市笠沙町野間岬
「吾田国の長屋の笠狭崎」
「吾田国の長屋の笠狭崎」
日本の古代史を探るには、現在『日本書紀』に頼るしかありません。そこには古代の大王(おおきみ)がどこからやって来て、どのように畿内に律令国家を築いていったのかという物語が記されてあります。いわば、脈々と続く天皇家のルーツを物語っているのですが、この「天皇のルーツ」が、一般人が読んでも突飛に思えるものなのです。
天照(あまてらす)と高皇産霊(たかみむすひ)は、孫・瓊瓊杵(ににぎ)を葦原中国(あしはらのなかつくに:日本のこと)の君主にさせようと目論むも、未だ日本の国の中に反抗しそうな勢力があるため、他の神々を先に送り込み、最終的に経津主(ふつぬし)と武甕槌(たけみかつち)が出雲の大己貴(おおなむち)に国譲りをさせて、ようやく天孫降臨させるのですが、その地が何故か出雲ではなく日向(ひむか)の高千穂の峯なのです。しかも、そこから「痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、よい国を求めて、吾田(あた)国の長屋の笠狭崎(かささのみさき)にお着きになった。」と書かれています。
日向も吾田も南九州です。そのあと瓊瓊杵の息子たちの代になり、有名な「海幸山幸」の物語が挿入されていますが、結局またこの地に戻り、第一代目天皇となるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)はそこで生まれ育ち、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)と結婚して男子を1人もうけた、と述べられています。
吾田邑から畿内を目指す(神武東征)のは、彼が45歳になってからのことです。ということで、天皇家の故郷は、南九州に位置する日向国の吾田という地域だと『日本書紀』は明らかにしています。
現代の日本地図ではどこになるのでしょうか。少し調べてみました。
日向国は、現在の宮崎県と鹿児島県を含む地域で、宮崎と鹿児島の県境には「高千穂の峰」が位置し、宮崎県側の高原町には、カムヤマトイワレビコの幼少名・狭野尊(さののみこと)に由来する狭野神社があり、生誕地と伝えられているようです。
また、吾田邑は阿多郡(あたのこおり)が明治時代まで存在していて、現・南さつま市金峰町に阿多という地区を見つけました。市町村合併で誕生した南さつま市には、笠沙町という名もあり、笠沙町は薩摩半島の西側の出っ張った辺りで、先端に野間岬があり、そこが「笠狭岬」だと言われています。
確かに現在は同じ市になるくらい近い距離に阿多と笠沙があるので、古代の阿多は吾田国と言われていたくらい広い地域で、今の野間岬も圏内だったのでしょう。と、事はそう簡単ではありませんでした。
笠沙町を調べていくと、笠沙町になったのは昭和15年で、その前は笠砂村、明治時代は西加世田村という名称だったと判明しました。笠沙という町名の由来は、『古事記』の「笠沙之御前」(=笠沙の岬)に因んだものだそうで…これでは本末転倒です。
しかし、笠沙の東には長屋山があります。「ちょうやさん」と読みますが、麓にある小学校名は「ながや」と読むということで、「吾田国の長屋の笠狭崎」で間違いないと思います。そして、この付近には、縄文時代後期から弥生時代中期の遺跡(貝塚・墓地を含む)や古墳時代前期後半の円墳など多数出土している事実も、信憑性を高めています。
地図で見ると、そこは九州の西の果て。
天孫降臨で、出雲国に降ってもよかったと思われるのに(もしくは手っ取り早く大和国に降臨するとか)、何故わざわざ辺境の土地を選んだのでしょうか。本当にそんな伝承が、何百年も伝わっていたのでしょうか。また、伝わっていたとしても、それを正直に書かなくとも都合よく改竄して、颯爽と奈良盆地に登場させることも出来たのではなかろうか、と考えるのですが。
編纂事業の責任者・舎人親王(皇子ともいうが、続日本紀では親王で統一されている)、最終稿にGOを出した時の天皇の思惑は、どうだったのでしょうか。