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finding hohodemi 2

2015-09-22 | ancient history
薩摩半島にある南さつま市笠沙町野間岬
「吾田国の長屋の笠狭崎」

 日本の古代史を探るには、現在『日本書紀』に頼るしかありません。そこには古代の大王(おおきみ)がどこからやって来て、どのように畿内に律令国家を築いていったのかという物語が記されてあります。いわば、脈々と続く天皇家のルーツを物語っているのですが、この「天皇のルーツ」が、一般人が読んでも突飛に思えるものなのです。

 天照(あまてらす)と高皇産霊(たかみむすひ)は、孫・瓊瓊杵(ににぎ)を葦原中国(あしはらのなかつくに:日本のこと)の君主にさせようと目論むも、未だ日本の国の中に反抗しそうな勢力があるため、他の神々を先に送り込み、最終的に経津主(ふつぬし)と武甕槌(たけみかつち)が出雲の大己貴(おおなむち)に国譲りをさせて、ようやく天孫降臨させるのですが、その地が何故か出雲ではなく日向(ひむか)の高千穂の峯なのです。しかも、そこから「痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、よい国を求めて、吾田(あた)国の長屋の笠狭崎(かささのみさき)にお着きになった。」と書かれています。
 日向も吾田も南九州です。そのあと瓊瓊杵の息子たちの代になり、有名な「海幸山幸」の物語が挿入されていますが、結局またこの地に戻り、第一代目天皇となるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)はそこで生まれ育ち、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛(あひらつひめ)と結婚して男子を1人もうけた、と述べられています。
 吾田邑から畿内を目指す(神武東征)のは、彼が45歳になってからのことです。ということで、天皇家の故郷は、南九州に位置する日向国の吾田という地域だと『日本書紀』は明らかにしています。

 現代の日本地図ではどこになるのでしょうか。少し調べてみました。
 日向国は、現在の宮崎県と鹿児島県を含む地域で、宮崎と鹿児島の県境には「高千穂の峰」が位置し、宮崎県側の高原町には、カムヤマトイワレビコの幼少名・狭野尊(さののみこと)に由来する狭野神社があり、生誕地と伝えられているようです。
 また、吾田邑は阿多郡(あたのこおり)が明治時代まで存在していて、現・南さつま市金峰町に阿多という地区を見つけました。市町村合併で誕生した南さつま市には、笠沙町という名もあり、笠沙町は薩摩半島の西側の出っ張った辺りで、先端に野間岬があり、そこが「笠狭岬」だと言われています。
 確かに現在は同じ市になるくらい近い距離に阿多と笠沙があるので、古代の阿多は吾田国と言われていたくらい広い地域で、今の野間岬も圏内だったのでしょう。と、事はそう簡単ではありませんでした。
 笠沙町を調べていくと、笠沙町になったのは昭和15年で、その前は笠砂村、明治時代は西加世田村という名称だったと判明しました。笠沙という町名の由来は、『古事記』の「笠沙之御前」(=笠沙の岬)に因んだものだそうで…これでは本末転倒です。
 しかし、笠沙の東には長屋山があります。「ちょうやさん」と読みますが、麓にある小学校名は「ながや」と読むということで、「吾田国の長屋の笠狭崎」で間違いないと思います。そして、この付近には、縄文時代後期から弥生時代中期の遺跡(貝塚・墓地を含む)や古墳時代前期後半の円墳など多数出土している事実も、信憑性を高めています。
 地図で見ると、そこは九州の西の果て。

 天孫降臨で、出雲国に降ってもよかったと思われるのに(もしくは手っ取り早く大和国に降臨するとか)、何故わざわざ辺境の土地を選んだのでしょうか。本当にそんな伝承が、何百年も伝わっていたのでしょうか。また、伝わっていたとしても、それを正直に書かなくとも都合よく改竄して、颯爽と奈良盆地に登場させることも出来たのではなかろうか、と考えるのですが。

 編纂事業の責任者・舎人親王(皇子ともいうが、続日本紀では親王で統一されている)、最終稿にGOを出した時の天皇の思惑は、どうだったのでしょうか。
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finding hohodemi 1

2015-09-13 | ancient history
まとめてみたヒコホホデミの系譜
黒字が『古事記』、赤字が『日本書紀』
古事記がスッキリしているのに対して、日本書紀は彦火火出見が生まれた2か所の情報が交錯しているのが解ります

 例えば自分のルーツを聞かれて、どのくらい遡って記憶しているでしょうか。
 私の家族は特に由緒ある家柄でもなく、平凡な家に生まれましたが、父母から聞いて何となく知っている祖先の出自があります。断片的に聞いた話をまとめると、父や母の家は、お寺さんと造り酒屋を営んだ元武家と庄屋(農家)出身の人たちから成っているようです。武家が出てくることを考えると、江戸時代まで遡っているのかもしれません。祖先は日本海エリア在住者なので、古代日本の越(こし:高志)の国の民ではないかと推測できます。聞いた話から推測できるのは、このくらいです。現在も続くお寺を探し出し、話を聞けばお寺の縁起くらいは判明するかもしれませんが、大昔の事、特に人物の名前など記録には残っていないと思うので、越(高志)国でのことを知ろうとしても知りようがありません。

 天武天皇(600年代後期)が発案したとされる『日本書紀』に記された、壮大な天皇家のルーツ。書紀編纂プロジェクトのリーダー・舎人親王(とねりしんのう:天武天皇の三男)は、一体どのようして自分のルーツを探り、導き出したのでしょうか。
 日本書紀は、古事記のように「誰の命令で、誰がどうやって作成したのか」を記した序文が存在しないため、成り立ちが判然としていませんが、797年(平安時代初期)出された『続日本紀』に「舎人親王、天皇の命を受けて『日本紀』の編纂に当たっていたが、この度完成し、紀三十巻と系図一巻を撰上した」と記載されているところから、当時、第三皇子でありながら他の皇子たちが早世したため、皇族の中で一番の権力者(位は正一位以上)舎人親王の指示の下に作成されたもので間違いないと思います。
 ここが古事記と違うところで、天武天皇が「わたしが聞いたところでは、諸家で持ち伝えている帝紀と本辞(旧辞)が、既に真実と違い、多くの偽りを加えているという。今の時代にその間違いを正さなかったら、幾年も経たないうちに、その本旨が無くなるだろう。これは国家組織の要素であり、天皇の指導の基本である。そこで帝紀を記し定め、本辞を調べて後世に伝えようと思う」と発意して、帝紀と本辞などを読み習わせたのは、稗田阿礼(ひえだのあれ)という下級役人でした。その後、作業は中断していましたが、711年元明天皇(中大兄皇子・天智天皇の娘であり、大海人皇子・天武天皇の息子・草壁皇子の妃で、舎人親王の義姉に当たる)の命令により、稗田阿礼に記憶させたものを筆録し完成させたのが、太安万侶(おおのやすまろ)です。その太安万侶も、任命された当時は正五位上(従五位下以上が貴族)の文官でしかありませんでした。【古事記完成後、従四位下に格上げされていますが、それ以上上がることはなかったようです。】これは、『古事記』が正史として作成されたものではなかったからでしょうか。
 
 日本の正史『日本紀』は国家プロジェクトだったでしょうから、律令国家の権力者が実権を握るのは当然です。元明~元正天皇時代は、藤原不比等が権勢を握っていた頃でもあります。「正史」の編纂事業は、天皇ではなく不比等の企画だったかもしれません。では、不比等が舎人親王を操って『日本書紀』を作らせたのでしょうか。書紀を読んだ限りでは、不比等(藤原氏)の力はさほど感じられませんでした。
 正史といっても、書紀はあくまで天皇家の歴史物語です。天皇のルーツを天神に結び付けたのは、皇族の権力者・舎人親王なのです。
 
 天武天皇の多くの息子が早世する中で、最後まで生き残った舎人皇子。この皇子、一体どんな人物なのでしょうか。
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the birth-myth of japan 6 break the spell

2015-09-07 | ancient history
 『日本書紀』に載っているだけでも、42代も脈々と血統を絶やしていない(ことになっている)天皇家。とても信じがたい事ですが、現代でもそういうことになっていますし、戦前戦中には、『日本書紀』中の神話でさえ、歴史教育として日本人に教え込まれていました。
 古墳や遺跡など、日本の古代史に興味を持たない私の父でさえ、奈良の資料館内のジオラマで八咫烏のマーク入りの幟を見つけたとたん、スイッチが入ったようにしゃべりだしたことがありました。どうやら子供の頃に習った神武東征の八咫烏のお話は、いくつになっても覚えているみたいです。逆に私は、日本サッカー協会のマークで見たのが最初だったでしょうか…。人は、子供の時聞いたことや習ったことは、それが例え後に虚偽だったとしても、なかなかリセットできないのだと思います。
 現代の私たちも、『古事記』や『日本書紀』に由来する説話を「童話」として聞かされています。もちろん、子供用にアレンジしてあるため、元の筋書きと違っていますし、云わんとしているテーマも異なっています。そして、そのことが、『古事記』や『日本書紀』を理解する妨げにもなっている、と感じました。

 『古事記』の「国生み」神話、『日本書紀』の「神代」の巻に登場する「出雲神話」。「八岐大蛇退治」「因幡の白兎」「大国主の国造り」は出雲地方に伝承する伝説だと思っていました。ところが調べてみると、そうではないといいます。それで、『出雲国風土記』を読んでみました。ページをめくるまで、私は風土記がどんなものか知りませんでした。『宇治拾遺物語』のように、お話が載っているものだとばかり思っていたのです。
 「風土記」は、713年に43代元明天皇が各国に「実情を事細かに記したもの」を作製するよう命令して提出させた報告書で、現存するものは、写本として5か国。ほぼ完本として残っているのが『出雲国風土記』のみです。
 報告書なので、郷(さと)の名前、地名の由来、産物、人口、田畑、神社など社会生活にまつわること、池や岬、海岸、山などの地誌、気候や風土などが、延々と記されているので、読んでいて面白味はありません。その中に、例えばその土地の長老が言う伝承として、幾つか逸話が挿入されていました。それら逸話自体は、とても短いもので、その土地に根差した物語です。そして、その中にスサノオやオオクニヌシの物語がでてくるのかというと、記紀に書かれてあるような形では載っていません。
 というのも、『出雲国風土記』が完成したのが733年で(720年に世に出た『日本書紀』よりずっと後年)、アマテラスやスサノオなどの神名がでてきても、『日本書紀』に因った記述もあるため、逸話がどれだけオリジナルかどうか解りかねるからです。解ったことは、出雲神話というのは出雲国に伝わる伝承ではなく、「出雲国が舞台となっている物語」だ、ということでした。
 現代人が考えれば、逸話の挿入はむしろ報告書を雑多にするだけで、不必要だとされそうですが、この『風土記』はそれがあるから面白い読み物になっていると言えます。

 同じことが『日本書紀』にも当てはまるんではないでしょうか。大化の改新後、孝徳天皇(皇極天皇の同母弟・軽皇子)が出した詔は、読んでいても余り面白くはありませんが、その前に起こった蘇我馬子と物部氏の対立や蘇我入鹿暗殺は、小説のように引き込まれて読んでしまいました。近年、蘇我氏三代を悪者扱いしたのは後世の捏造とか云われていますが、読み物としては「乙巳の変」があったほうが、面白味が増します。
 そう、『日本書紀』には面白い物語がふんだんに散りばめてあるのです。それ故、読者はそちらの印象の方が強く残り、事実がフィクションに隠されて混乱させられているのではないか、と考えました。彦火火出見の矛盾も、日向神話(日向国、現在の宮崎県・鹿児島県を舞台にした物語)の面白さに負けてしまって、問題にされていません。
 『日本書紀』から歴史を読み解くには、明治・大正時代の偏った解釈や皇国史観、万世一系のみならず、物語(伝説)の呪縛を解く必要もある、と感じました。
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the birth-myth of japan 5 emperor's name

2015-09-05 | ancient history
梅原猛『天皇家の“ふるさと”日向をゆく』
2000年 新潮社

 古代天皇のルーツに関する書籍はたくさん出版されていますが、その中に「天皇家は渡来人」というのを前面に書き立てものが結構あるのに気づきました。「天皇」をどの時代から天皇と捉えているのか解りませんが、通説通り「神武天皇から」の事を言っているのであれば、天皇家に限らず、卑弥呼も織田信長も徳川家も「渡来人」と言っても間違いにはならないでしょう。
 弥生人は大陸・朝鮮半島から渡って来た人たちで、明らかに縄文人とは身体的特徴が異なっています。縄文時代に西からやって来た人々は、原住民と交わって、弥生人と呼ばれるハイブリット種になって現代の日本人に続いています。切れ長の一重の目、うりざね顔、なで肩、色白な肌、薄い体毛…渡来人の要素(弥生人の要素)は誰でも持ちうるものです。結局、天皇家だけでなく私たち日本国民全員が渡来人と言えるのではないのでしょうか。
 ですから、私は、天皇=古代政権のリーダーがどこから来たのか…という問題を人種問題と結びつけて考えることは、避けたいと思います。

 それでは、初代天皇だと『日本書紀』に載っている神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ=神武天皇)は、どこから来たのでしょうか。『日本書紀』『古事記』に、日向(ひむか)国から一族郎党率いて、畿内を目指して東征していったと書いてあります。
 このカムヤマトイワレビコという名は、「神日本」「彦」は敬称や美称なので、名前だけだとイワレになります。でも元々カムヤマトイワレビコは、大和盆地の地元勢力を制圧してリーダーとして君臨した時名のった名前で、磐余は地名(彼が大和盆地に凱旋した地。現在の奈良県桜井市にあった)だと考えられます。
 『日本書紀』には、神武天皇の巻の最初に実名(諱 ただのいみな)が明記してあります。
「神日本磐余彦天皇の諱は、彦火火出見(ひこほほでみ)という。ウガヤフキアエズノミコトの第四子である。」
更に、橿原即位の段にも、「名づけて神日本磐余彦火火出見天皇という。」
 2度も出てきているので、彦火火出見が本名で間違いないと思います。ところが、そうなると話がおかしくなってくるのです。
 ヒコホホデミは、天孫・瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が日向に天下って吾田(あた)国の吾田津姫(別名:木花開耶姫このはなさくやひめ)と一夜の交わりで生まれた子供の1人、彦火火出見尊で、その後の「海幸山幸」の話の中では、山幸彦として登場し、海神の娘を娶ってウガヤフキアエズノミコトが誕生するのです。そして、ウガヤフキアエズは海神姉妹の妹(叔母にあたる)を娶って、4番目に生まれた子が彦火火出見だと書いてあるのです。神武天皇である彦火火出見は、祖父と同じ名前を付けられたのでしょうか。しかしその後、祖父または先祖と同じ名前を持つ人物は出てきません。
 なぜ、一番最初の天皇のお話を冒頭からしくじってしまったのでしょう。『古事記』では、ニニギノミコトの息子の名は火遠理(ほおり)で、別名を天津日高日子穂々手見(あまつひこひこほほでみ)、その息子の名は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合(あまつひこひこなぎたけうがやふきあえず)で、叔母を妻にして四子生まれています。イワレビコとなる男子は末っ子で若御毛沼(わかみけぬ)またの名を豊御毛沼(とよみけぬ)と書いてあり、ヒコホホデミの名は火遠理の別名でしか出てきませんでした。

 2人の彦火火出見。
『日本書紀』を読んだ人なら絶対変だと思うはずなのに、不思議と研究者の本で触れているものが見つかりません。
 この記事の「4」で紹介した『古代天皇陵の謎を追う』の中で、「神武天皇は実在したのか」という章があって、神武の名前について触れられていましたが、なぜか「生前の名を諱というが、『古事記』では神倭伊倭礼毘古命とあり、『日本書紀』には神日本磐余彦命という。」としか書いてなく、「諱は彦火火出見という」に触れていません。しかも、カムヤマトイワレビコはどう見てもヤマト政権に君臨してからの名前なので、日向国に居た時(45歳までいた)は、ヒコホホデミ(彦をとってホホデミかも)と呼ばれていたのは間違いないはずなのに。
 で、天孫降臨の地や日向神話ゆかりの地を巡った梅原猛氏の本があったので読んでみましたが、日向神話の矛盾については触れられていませんでした。そんな事は、研究者の間ではとるに足らない小さな事なのかもしれません。ネット上では、同じような疑問を書き綴ったサイトを見つけたので、疑問を抱く人も少なからずいるようですが。
 正史として編纂された『日本書紀』に記された、重要な「初代リーダー」=天皇家の礎となる実名。
 編纂した当時の人たちは、どういう意図があってあのような記述にしたのでしょうか。そこから「天皇家」のカラクリが解けるのではないか、と思いつきました。

 

 
 
 
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the birth-myth of japan 4

2015-09-04 | ancient history
大塚初重『古代天皇陵の謎を追う』
2015年 新日本出版社

 古墳の中でも、天皇陵と云われる特別な古墳があります。
 古代の天皇、初代神武から『日本書紀』の最後に名が登場する42代文武(大友皇子を39代弘文天皇として含む)まで、現在陵墓が存在しています。
 「神」がいわゆる天孫降臨して「天皇」一族が登場し、ヤマト政権を畿内に樹立して各地を制圧・支配下に置いていったという事が、『古事記』『日本書紀』に書かれている内容です。『古事記』はさておき、日本に現存する(写本だが)最古の正史とされる『日本書紀』に明記されている天皇のお墓があるのは当たり前のことだと思っていました。
 しかし、『日本書紀』に書いてある天皇名は、大友皇子(600年代中期の人)の曾孫・淡海三船(おうみのみふね:700年代中期の人)が後から付けた漢風諡号(かんふうしごう)で、『日本書紀』の編纂を命じた天武天皇(大海人皇子:600年代後期の天皇)でさえ、当時「天武」とは呼ばれていなかった、という事を知りました。ちなみに「弘文天皇」は、明治時代に諡号を付けられたそうです。しかも大友皇子は「天皇」に値する地位についていたかどうかも不確かであったのに。
 正史といっても『日本書紀』の初めの方の内容は、神話と現実が混在した世界観で、どう読んでも現実性が乏しいので、戦後は「神話」として扱われるのが一般的です。ですから、逆に神武天皇のお墓が存在することのほうが、おかしいことになります。↑画像の『古代天皇陵の謎を追う』という新しい本が出ていたので、読んでみました。
 現在の天皇陵がどのようにして治定されたのか、ということが解りやすく説明されてあります。また、治定されている陵墓の場所と墳形を表にして、その信頼度を◎○△●で評価してあり、それによると疑問無しに認められる陵墓が10基ありました。初代~6代までは全て●「陵墓とは認められない」。非実在説が有力な欠史八代(2代綏靖~9代開化)のうち7代まで●で、8、9代は△「陵墓だが異説あり」でした。欠史八代と云われる天皇たちは、『日本書紀』の中で名前のみ書かれてあるだけなので、実在していたとしてもお墓を見つけることは不可能でしょう。にもかかわらず、陵墓がある、という不可思議。
 『古事記』『日本書紀』を読んで、当時「天皇(てんのう)」という位はなかった歴史的事実は誰もが認識しているのに、未だに日本史では「神武天皇」や「推古天皇」やらと古代政権の最高権力者を「天皇」と呼び続けています。『日本書紀』には和風諡号もあり、こちらも死後付けられた名前ですが、こちらの諡号は実名を使ったのではないか、とされる諡号もあるそうです。
 和風諡号では「天皇」は「すめらみこと」と読まれ、元々「スメラミコト」と言われていたのではないかと思います。古代日本には文字表記がなかったため、漢字を輸入した際「天皇」の文字を当てはめたのでしょう。700年代後期になって、漢風諡号を付ける慣例ができて過去のスメラミコトたちにも漢風諡号が付けられました。今日わたしたちは、便宜上、漢風諡号を使っているだけなのです。
 ヤマト政権の権力者が「天皇」と呼ばれるようになったのは、天武(大海人皇子)からだと言われています。それ以前は、色々な呼び名があったみたいです。『日本書紀』の中でも、同一人物にいくつも別の名が書かれています。
 そもそも、淡海三船が統一的に○○天皇と表記したのは、「天皇」一族が「天孫」の家系であること、「神話」の世界の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から続く血族であることを解りやすく表現する意図があったのではないか、と考えました。天皇家の系図は、『日本書紀』に記されている時代だけでも42代続いています。神日本磐余彦(カムヤマトイワレビコ)が初代天皇に即位したのが西暦紀元前660年とされています。これは考古学的にありえないと思います。
 卑弥呼が君臨していたのが西暦200年代初めから半ばくらいなので、カムヤマトイワレビコが日向(九州南部一帯。現代の日向市とは異なる)から畿内の大和盆地へやってきて、支配したのはそれより後年だと考えられるからです。15代応神天皇が270年に即位ということになっているので、西暦300年前後から大和盆地にヤマト政権が樹立されたのではないか、と頭の中で年表を作ってみました。
 それでは15代より前の「天皇」はいなかったということなのか、というと、そうは思えません。私は、「神話」の域にある「神武天皇」の話こそに、歴史的事実が描かれてあると感じるのです。橿原にある神武天皇陵が本物でなくても。

 
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