TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

Ikku's another Hizakurige 3

2011-03-31 | bookshelf
***もう一つの膝栗毛3***

『方言修行 金草鞋』初編江戸見物之記&二編東海道之記 
十返舎一九著 1813年文化10年刊 馬喰町 森屋板  


 東北から初めて江戸見物に来た狂歌師・鼻毛の延高と千久羅坊は、江戸の賑わいや独特の慣習、美しい女衆などに肝を潰しながら名所を巡り、無事馬喰町の旅籠へ戻って初編は終ります。
 次は大坂京都編だったのが、好評だった為変更して東海道編が二編になりました。弥次喜多と同じルートを延高と千久羅坊がお伊勢さん目指して旅するのですが、元来が素朴で真面目な普通の庶民の初めての旅という設定なのでインパクトに欠ける上、東北弁での狂歌、田舎者から見た江戸&旧所名跡というアイデアはよかったと思うのに、二編からは狂歌が東北弁でなくなり、東海道石部宿から京都方面の東海道と伊勢神宮へ向かう伊勢街道へ分かれるので、頁の上部に東海道の宿場を描き入れるという、案内書なのか道中記なのかあやふやな趣向になり、折角の面白さが薄れてきます。
 十八編あたりから主人公の2人も出てこなくなり、単なる道中案内書と化してしまいます。狂歌にしても、『東海道中膝栗毛』で詠まれたのと類似した歌があったりします。たとえば御油宿では

             出女にとめられながら宿の名の御油るされよと急ぐ旅人
弥次さんの詠んだ歌:その顔でとめだてなさば宿の名の御油るされいと逃げて行ばや

 挿絵付きで読めた2編の挿絵で興味を持ったのが、一九の動物の描き方です。
     
①は江戸の東本願寺の場面。小僧の持ってる風呂敷包みを見ている犬の台詞「わんわんわん そちらの手に下げているものは何だ わんわん」。
②は東海道藤枝宿で、大名行列の奴がさぼってる場面。弓矢持ちの笠を見て犬が「わんわん ヲヤあの人の頭は笠と延引している こりゃおかしい わァんわァん」。
③は先に紹介した馬喰町の街並みの一部。犬の台詞はないですが、子供のお菓子を欲しがっています。
④は江戸の亀戸天神。童が手を伸ばし、橋の下の池には鯉とすっぽんが顔を出しています。一見微笑ましい場面ですが、鯉とすっぽんの台詞は「もっと煎餅を投げねへか。ヱゝ吝(しわ)い餓鬼だァ。成人の後が思ひやられる」です。しわいは、ケチの意。ここでは淡水魚づくしの洒落言葉もあります。

「この池へすっぽんとはまったら、水を飲んで鮒ふなして、泥鰌(どじょう)こうせうと思っても、泳ぐこたァ鯰(なまず)、緋鯉(ひごい)鰻(うなぎ)な目高(めだか)にあふだろうから、子供衆、そばへ寄りなさんな」
「この池にすっぽりはまったら、水を飲んでへなへなになってどうしようこうしようと思っても泳ぐこともならず、ひどい難儀な目にあうだろうから子供達そばへ寄ってはいけないよ」
⑤は真崎稲荷の名物油揚げを食べようとしている延高とちくら坊。その背後には狐たちが油揚げを狙ってうろうろ。「婆ぁ婆ぁ、早くその油揚を持ってこい。気の利かねへ奴だ。」と狐はつぶやいています。実際ここは狐が住んでいて、夜などによく出てきたということです。

 狐どのに化かされべいか知らないが 豆腐(遠く)にゐれば油揚(危なげ)はない
 以上のように、一九の道中記には動物が結構登場しますが、猫は見かけません。また、広重の東海道五十三次の版画には子犬が出てきますが、一九の犬はいつも成犬です。
 こうやって見ると、一九先輩は結構シニカルだったんじゃないかな、と思いました。




 
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Ikku's another Hizakurige 2

2011-03-30 | bookshelf
***もう一つの膝栗毛2***
『方言修行 金草鞋』初編江戸見物&二編東海道
馬喰町二丁目 錦森堂森屋治兵衛 版


 奥州から狂歌修行旅行へ出かけた鼻毛の延高と千久羅坊は、江戸のはずれ千住へ入りました。そこでは宿引きが多く、2人もなかば強引に馬喰町二丁目の旅籠へ泊まることになりました。
 宿の名ァ 聞けば千住(千手)観音か
         がゐに(ひどく)腕さあ出いてひこづる

 宿引きに従って蔵前通をまっすぐに行くと、馬喰町に着きました。
      当時の馬喰町の通り
 延高と千久羅坊は、都会の人の賑わいにびっくりしながら、まず旅の汗を流そうと銭湯へゆきます。初めての銭湯なので勝手がわからず、女湯へ行ってしまったり、銭湯へ来たばかりの人は「田舎者でござりやす」と断わって入って来るのを、「江戸の人は風呂へ入るのに自分の国所を名のる。さすがお屋敷付合いをするお江戸だけあって、堅いものだ。」と感心し、自分達も「わしどもは奥州仙台岩沼の者でござり申す。」と言って入ります。
 また、人形町・堺町・葺屋町に行って、芝居見物の人々の多さに肝を潰し、賑わう日本橋の魚市を見物し、日本橋通りをまっすぐ京橋を渡って尾張町の布袋屋・亀屋を見て驚き、芝神明宮から愛宕山の男坂を登り、虎ノ門の近くできらびやかな大名屋敷を見て肝を潰し、休憩も食事もなしで歩き続ける延高とちくら坊は肝をつぶしっぱなし。その後も2人は精力的に江戸中を歩き回ります。

 馬喰町は、版元の森屋治兵衛のある場所です。この本は、こういった楽屋落ちが多く、挿絵にもさり気なく版元や挿絵担当の月麿や一九の弟子・半九もちろん一九自身の名前などの書き入れも見られ、遊び心満載です。
 また、話とは全く関係ない宣伝広告文が書き入れてあったりします。広告文は、当時は作者の勝手で入れられるもので、一九は世話になったお店や頼まれたお店などの宣伝を広告文や挿絵に入れたりしています。『的中地本問屋』の最後の画中にも、蕎麦を食べている一九の前にある岡持ちに描いてある名前も、一九が贔屓にしていた蕎麦屋だろうということです。

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Ikku's joke in addiction more

2011-03-27 | bookshelf
***一九の冗談追ゝ記***

 1コ読んだだけではわからんね。繋がってんのね、いろいろと。
 一九先輩の『金草鞋 東海道編』を読んでいたら、『串談しつこなし』で謎だらけだった「手紙をくわえた女の首の入墨」や「狸のきんたま」が出てきました。
      東海道見附宿のすっぽん茶屋のオヤジ
 見附宿(現静岡県磐田市)には、天竜川で捕れたのかすっぽんが名物だったようで、延高とちくら坊が立ち寄った茶屋の店先で、おやじがすっぽんをさばこうとしています。このオヤジの二の腕に、「手紙をくわえた女の首」の彫物がしてありました。注釈には、当時この図柄が流行ったのか寛政から絵本の挿絵にしばしば見られる、と書いてあるばかりで、この女の首の正体はわからずじまいでした。ネットで調べたら、遠山の金さんが桜吹雪の前にしていたのがこの図柄だったという云われもあるそうです。この時期は彫物といってもこのくらいのものだったのだろう(女郎などが旦那の名前を彫ったり)ということです。
 「狸のきんたま」は、戸塚がキーワードでした。戸塚宿(現神奈川県横浜市戸塚区)には大睾丸の乞食がいて叩き鉦を睾丸の上にのせ、念仏を唱えながら物乞いをしていたのが評判になり、乞食なき後も「戸塚の大きんたま」という言葉だけが残り、戸塚の人がみんな疝気持ちの大睾丸だと思われるようになった...らしい。で、このページの稿本には『仮名手本忠臣蔵』の九段目の台詞があるので、そのお芝居とも関係あるのかもしれません。仮名手本忠臣蔵には狸の角兵衛という役名が出てきます。
 また、広重の東海道五十三次の本の中に、現在の戸塚宿周辺の説明文を読み返したら、家康の側室・お万の方が建立した清源院の敷地内に、若者と遊女の心中の句碑があると書いてあり、女の首はこの遊女なのかも?と推理しました。
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Ikku's another Hizakurige1

2011-03-26 | bookshelf
***もう一つの膝栗毛1***
『方言修行 金草鞋(むだしゅぎょうかねのわらじ)』十返舎一九著(49歳)
1813年文化10年~刊 馬喰町二丁目 錦森堂森屋治兵衛 版
墨亭月麿 画


 現代では余り知られていない一九先輩のベストセラー『方言修行 金草鞋』の初編「江戸見物」を読みました。この作品は、『続膝栗毛』(四国~安芸の宮島~中山道~江戸終着編)と同時期に書かれ出版された同じ趣向の道中もので、『膝栗毛』が完結するのに21年かかったのと同様、22年間(中断4年、歿後2年1833年天保4年まで)出版されました。
 『膝栗毛』と同様、2人組の旅人が主人公ですが、弥次さん喜多さんのような滑稽お調子者と違って、奥州の田舎狂歌師が日本全国を回って狂歌を詠みながら旅をするお話です。一九はこの東北出身の2人の狂歌を方言のままに詠んでいます。他の読者にしてみたら東北弁は未知の言葉なので、「方言修行」とタイトルにつけたのでしょう。しかし、方言を「むだ」と読ませて、それを会得したところで為にはならないだろうと最初に釘を刺しています。「金の草鞋」は諺にある金の草鞋をもじっていますが、年上女房を探しに行く旅ではありません。

 右は二編序一九自筆稿本
 読者と一緒に江戸名所を巡ってくれるのは、東北では有名な狂歌師・鼻毛延高(はなげののびたか)と狂歌修行者の生臭坊主・千久羅坊のご両人。上の画像では、左が千久羅坊、右が延高。この絵の千久羅は頭が黒く見えますが、これは頭に手拭をまいているからで、禿げ頭です。『膝栗毛』と違い、冒頭に主人公の旅装束全身図を入れ、狂言の言い回しで紹介をしています。『金草鞋』の挿絵は、五編までは『滑稽しつこなし』で一緒に酒を飲んでいた月麿さんです。
 右の画は、次の東海道編の序文ですが、枠デザインが旅道具づくしとシャレています。これは稿本なので一九が描いたもので、京伝に劣らないくらいデザインセンスがあったとうかがい知れます。実際彼は上野の呉服屋・常陸屋の単衣などをデザインしたりしていました。

 歌人として諸国を巡る旅に出た鼻毛延高は、先ず江戸へ行こうとしますが、一人旅も寂しいのでよい連れはないかと探していると、同じ方向へ向かう僧を見つけ声を掛けます。するとその僧も江戸へ行くところで、しかも狂歌修行だというので、一緒に江戸旅行することにしました。
「江戸さあへ つん出来べいとよつばるか思ひ 今度が初めての旅」
「国さあを やくとう出来てきせちない 旅もあだけて気ばらしぞする」
 2人は道すがら歌を詠みながら歩いていくと、江戸に近い千住の宿に着きました。


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Kuniyoshi:Spectacular Ukiyo-e Imagination

2011-03-25 | art
 2011年は浮世絵師・歌川国芳の没後150年にあたるのですね。
 十返舎一九より32歳年下ですが、一九の挿絵も描いたりしているので、一九先輩とも交流があった(一九の本を読む限り、可愛がってたような気がします)国芳は、無類の猫好きであったため、多くの猫や猫見立ての浮世絵や寄せ絵などが有名です。北斎・広重と同時代を生きたので彼らの影響も大きかったでしょう。広重の「かげぼしづくし」と同じ趣向の写絵(うつしえ)も有名です。
           猟人にたぬき 金魚にひごいっ子
絵の部分を塗りつぶすと、金魚2匹と鯉の稚魚1匹が現れます。
こんなおかしな絵を残し、海外からも絶賛される国芳の没後150年を記念する展覧会が大阪→静岡→東京で開催されます。
   没後150年 歌川国芳展
 2011年4月12日-6月5日 大阪市立美術館
 2011年7月9日-8月21日 静岡市美術館
 2011年12月17日-2012年2月12日 東京六本木ヒルズ森美術館

詳しくは公式HPで歌川国芳展
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Ikku's joke in addiction

2011-03-23 | bookshelf
一九の冗談追記***

『串談しつこなし後編』の登場人物、左甚五郎や猪熊入道が過去の伝説や実在した人物であったので、他の登場人物も何かあるだろうと気になってちょっと調べてみました。
 『串談しつこなし』では「狸の角兵衛」は有徳者ですが金玉がでかく、それを入れる袋を首からさげていたという設定でしたが、あっけなく死んだことになって2代目の狸の角兵衛が登場して、あとで袋は2つの首を入れて持ち歩いて、首たちは生臭くていやがった、というくだりになっていたので、一九先輩お得意の下ネタに狸のきんたまを使いたかったからか、と思っていたら、そんなくだらないだけの理由ではありませんでした。 
 調べたら「狸の角兵衛」という芝居のキャラクターがありました。その芝居の役者絵を描いた浮世絵もあり、描いた絵師が歌川国芳でした。ということは、『串談しつこなし』の狸の角兵衛は、この狸の角兵衛の息子という設定なのでしょう。

下男三助狸の角兵衛是ヲ舟頭伊豆屋の次郎実は久上のぜんじ市川海老蔵
これは、歌舞伎の「菅原流国字曽我(すがわらりゅうかながきそが)」という演目の場面で、1791年寛政3年の浄瑠璃「筆始いろは曽我」の焼き直しらしいです。といってもどちらもストーリーがわからなかったので、どうして一九がこの登場人物を撰んだのかわかりませんでした。当時流行の歌舞伎演目だったのでしょうか。
 1791年当時一九は大坂住まいですが、1789年に並木川柳らと浄瑠璃『木下蔭狭間合戦』を合作しているので、もちろん「筆始いろは曽我」を知ってるはずで、彼のお気に入りキャラクターだったのかもしれません。(一九は大坂に7年居ました。)
 または、一九のお気に入りではなく、狸の角兵衛や左甚五郎の絵を描いていた国芳の趣向だったのかもしれません。
 絵に描かれた狸の角兵衛は、手紙の巻紙を持っています。『串談しつこなし』の片腕に彫られた女の首に手紙をくわえさせた由縁も理解できます。何にしても、当時江戸で人気のあった海老蔵の芝居の役者名を出せば、読者の興味を惹くことは間違いなかったでしょう。
 猪熊入道と若い女の首絵を描いた古法眼(こほうげん)も、なんでこんな名前をつけたんだろうと思ったら、こちらはなんと実在した絵師でした。狩野派の画風を確立した室町時代の絵師・狩野元信(1476?-1559年)で、のちに古法眼と通称された人物でした。
 
 ということで、一九先輩の草双紙は滑稽本といえども、さまざまな知識の寄せ集めでできているのがわかります。時代の変化のせいもありますが、江戸という枠の中でのお話が中心だった山東京伝と違って、一九は大坂(関西)での知識も巧く取り入れているので、幅広い読者に受け入れられたのでしょう。
 短いお話だけれども、いろいろ解って面白かったです。



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Ikku's joke 2

2011-03-21 | bookshelf
***一九の悪ふざけ2***

『串談(じょうだん)しつこなし後編』十返舎一九(65歳)著
1829年文政12年 山口屋藤兵衛 板
歌川国芳・渓斎英泉 画


 1805年に出版した『滑稽しつこなし』の後編を書いてくれと版元に乞われて書いたと一九先輩は記述してますが、24年後に後編って…。しかも前作は読み切りだったし。趣向も構成も何もかも前作と異なってますが、これアリですか、先輩?
 昔々、戸塚の宿場町に、狸の角兵衛という有徳者がいました。その角兵衛が病死し2代目角兵衛という男が飲んだくれ者で、或日、高名な絵師・古法眼(こほうげん)と酒を飲んでいて、酔いつぶれて眠ってしまいました。悪戯好きな古法眼は、角兵衛の片腕に猪熊入道を、もう片方の腕に若い女の首の絵を描きました。
 たまたま居合わせた彫刻の名工・左甚五郎が、これまた冗談好きで、その絵を彫り上げました。名手たちによる絵は生命を持ち、2つの首たちは腕から離れて江戸の町で騒動を巻き起こします。角兵衛たちが困っていると、地獄の閻魔王に噂が届き、ちょうど見る目・嗅ぐ鼻が病死して跡継ぎを探しているので、その首たちを養子として迎えたいと頼まれました。首たちは閻魔王のもとで働くことになりましたが、地獄も退屈で娑婆が恋しくなり、お盆に江戸へ戻ってきました。
 角兵衛たちも懐かしがり、盆の間中首たちは娑婆で愉しく過ごしました。

 この話は、猪熊入道や左甚五郎の伝説を知らないと面白さがわからないんだろうと思います。
           凧絵の猪熊入道
 猪熊入道については詳しくわかりませんが、大江山に住む怪力の大きな化物で、凧絵によく描かれたらしいです。口には鎧の一部をくわえていて、一九は女の首の絵には手紙をくわえさせています。
 左甚五郎は、江戸初期に活躍した彫刻職人で、日光東照宮の「眠り猫」が有名ですが、実在の人物であったかどうか確定できてないようです。

観音様を彫っている中央の男が左甚五郎
 上の画像は、猫好きで知られる歌川国芳が描いた絵です。この物語の挿絵も担当しているので、もしかしたら左甚五郎つながりで国芳に頼んだとか、国芳が描くから左甚五郎を登場させたとか?
 もう一人の挿絵担当・渓斎英泉は、「木曾街道六十九次」の前半を描いた(後半は広重)浮世絵師&戯作者で、酒好き女好きで、武家出身なのに娼家の経営をしていた異色の人物。一九先輩と馬が合ったのかもしれません。
 終わりの口上に、一九先輩の友人・鬼武(節分の鬼と記述している)が後ろに居て笑っている、というくだりがあるので、鬼武さんは一九の家に入り浸ってたのでしょうか。冗談しっこなしシリーズは、物語の内容より、一九の交友関係、彼の家には友人達が集まり愉しそうだという私生活のほうに興味を惹かれました。


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Ikku's joke 1

2011-03-19 | bookshelf
***一九の悪ふざけ1***

『滑稽(じょうだん)しつこなし』十返舎一九(41歳)著
1805年文化2年 山口屋板 栄松斎長喜画


前出の『的中地本問屋(あたりやしたじほんといや)』で、一九先輩は蕎麦が好物だと書いていましたが、『滑稽しつこなし』では、生まれつき生魚が食べられないと明かしています。酒と滑稽好きは既に知れた事。これらが仇となって、とんだトホホな話が生まれました。
 友人のおにたけ(京伝の弟子・感知亭鬼武)・月丸(一九の挿絵担当・喜多川月麿)・一作(不明)たちと一緒に一九の自宅で酒を飲んでいる時、初物の鰹が付届けられたので、たたきにして食おうということになりました。生魚がダメな一九は忌々しく思い、悪戯を思いつきます。たたきの上にのせるからしみそに、おろした薬を混ぜて食べさせ、一人可笑しがっていました。
 しばらくして3人の様子がおかしくなり、鰹にあたったのかと雪隠へ吐きに行っても何も出ず、右往左往するのを見て、さすがに一九も気の毒になり悪いことをしたと反省しました。後で事の次第を知った3人は一九に仕返ししようと企みます。
 皆で集まっている時、髪結いが来たので一九は髷を結い直してもらいました。後ろに居た3人は、近くにあった漆を、気付かれないように一九の髷に塗り、髪結いも悪戯だと知って黙って帰りました。それから一九は頭が異常にかゆくなり、女房・お民が医者にみせると漆かぶれだと判明。一九は仕返しされたと気付きますが何も言えず、滑稽はするものでない、と反省。 

3年前から執筆している『東海道中膝栗毛』が爆発的ヒットをしている中、作者の私生活を垣間見られるこのエピソードで掴みはOK。次に子供向けなお話が続きます。
 ある山奥にうわばみ(大蛇)が住んでいて、往来の人間を丸呑みして食っていました。或る日、お腹一杯で寝っころがっていたうわばみの近くで、年配の侍2人が敵討ちの決闘をしていました。このうわばみは悪ふざけが好きだったので、腹は空いてないのに面白がってその侍2人を丸呑みしました。ところが腹の中でも侍は刀を振り回しているので、うわばみは大層苦しい思いをするハメに。侍がお互い打ち果てたので、ようやくうわばみも助かりました。
 一見たわいもないお話ですが、うわばみは大酒飲みの意味もあり、例えばこんな見方もできます。大酒飲み=一九は仇討ちものの戯作を書こうとするが書いてみると思いの外うまくゆかず、七転八倒してようやく仕上げることが出来た、なんてのは穿ちすぎでしょうか。
 次は大人向けのお話です。

 神田八丁堀の同じ長屋に住む3人の男が、江ノ島旅行に出掛ける事になりました。折角だから道中愉しく過ごす為に、どんなことがあっても怒ってはならないと約束しました。
 途中の茶屋で一人が酒を飲んで酔いつぶれて眠ってしまい、一向に起きないので、他の2人は悪ふざけをします。その男は坊主嫌いなので坊主頭にしてしまったのです。  目覚めた男は丸坊主にされたので腹を立てましたが、約束した手前怒ることが出来ず、黙って江戸へ引き返しました。
 坊主頭の男を見た長屋の住人は驚いてどうしたことかと尋ねると、「道中事故に遭って2人が死んだので、自分も死のうとしたが知らせる者がいないので、坊主になり戻って来た」と男は涙ながらに嘘を言いました。死んだ男の女房たちが自分も死ぬと言い出した為、そこは思いとどまらせ、代わりに剃髪して尼になってはどうかと提案しました。女房たちは髪を切り、その髪を持って男は江ノ島への道へ戻って行きました。
 鎌倉あたりで江ノ島見物を終えて帰る2人の男と出会い、「俺たちの女房らがフグの毒にあたって死んだ」と言って髪を見せました。男達は信じ、自分達も頭を丸めました。
 さて、男達が長屋へ帰ると、頭を丸めた女房を見てお互いびっくり。この時ようやく悪戯の仕返しだったとわかり、2人は謝り、悪戯はするものでないと生真面目になり、以前より仲良くなりました。商売も協力し合い、数年後には身代も増えて、髪も元通りになり、めでたしめでたし。

 冗談も行き過ぎると痛い目にあうから真面目に生きよう、という教訓的な短編ですが、絵がなくても面白く読めたので、有名な浮世絵師・長喜(生没不詳、姓名不詳。鳥山石燕の門人で、馬琴・京伝・梅暮里谷峨などの戯作の挿絵も描いている。)の挿絵があれば、もっと愉しめただろうに…と残念です。

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Ikku's theory of economic life

2011-03-16 | bookshelf
***一九の経済的生活論***

『討は致さぬ金がかたき 世中貧福論』十返舎一九著
1812年文化9年~刊行 角丸屋甚助 他 板


 現代において十返舎一九の著作が、出版社・近世文学研究者・博士・教授・大先生等などに半ば無視されている背景には、彼の書物の多くが滑稽本で、その内容はおちゃらけと下ネタ、駄洒落やこじつけに覆われていて、知的レベルが低いと位置付けられていることにあると思います。『東海道中膝栗毛』以外に見るべき価値はない、とバッサリ斬り捨てられている記述も目にします。
 確かに私が斜め読みした数十作品だけでも、卑俗な物語のオンパレードなので、一九先輩も草葉の陰から頭掻いて苦笑しているだろうなぁ、と思います。
     おいら、そんなにダメ?
 しかしそれは一九先輩お得意の技法であって、正しい読者は、相当な学識と幅広い知識に裏打ちされたものであると気付かされます。難しい題材を難しく書くのは容易い事ですが、彼は、誰にでも愉しく読めることを信条にしていたのではないでしょうか。
 『世中貧福論』なんて哲学めいたタイトルの滑稽本は、当時の江戸庶民の心持ちを代弁しているような彼の運命論がお伽噺風に綴られています。
 
 五十年ぶりに小便せし。これが出だしです。この物語は、福神と貧報神(びんぼうがみ)が人間の運命を左右してしまう、というものです。
    自画らしいです
多羅福や孫太郎は、福神が蔵に棲みついていて金持ちでした。がらくた道具やの正作は元はそれなりの家柄だったのが、貧報神が憑いている為貧乏暮らしでした。ある日貧報神が孫太郎に、福神が正作の家に引越しをしました。すると多羅福やはどんな善い事をしても禍に転じ、正作には幸運が舞い込みたちまち大金持ちになりました。ところが実直な正作にも欠点があり、女好きで酒癖が悪い。裕福になった正作は羽目を外すようになります。福神が憑いているときはそれでもよかったのですが、貧報神が戻ってきたので彼の運命も悪い方へ傾き始めます。一方、貧乏生活を味わった多羅福やは、慎ましやかな生活を心掛けるようになり福神が戻ってきました。人間の世界では、盛衰は善悪の報いによるといいますが、ひとつにはその人に備わっている運次第で栄枯こもごも転変するものです。

 ざっとこんなお話。金持ち・貧乏は、本人の努力如何だけでなく、運の良い者は何をやっても良い方に転び、運の悪い者はどんなに努力しても浮かばれない、貧福なんてそんなものだ、と生涯大金を持ちつけなかった十返舎一九先生は論じているようです。
 『世中貧福論』の自序には、一九先輩が大坂勤めだった時期に、井原西鶴の浮世草紙を読み影響を受けて自作するようになり、江戸に戻る折書いたものを大坂の本屋に与えたこともあったこと、再び「西鶴の唾を嘗めて此巻を編(つづ)る」(原文引用)と、西鶴の著書からネタを戴いて戯作したことを明かしています。
 一九先輩は大坂で、近松余七の名で浄瑠璃を合作していますが、それ以外にも西鶴風の草双紙を書いていたのでしょうか。
 文化9年一九48歳。この6月、木曾街道へ取材旅行に出かけました。
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Ikku's Hizakurige

2011-03-14 | bookshelf
***十返舎一九の膝栗毛***

『十返舎一九全集 第四巻』収録
『大山道中 膝栗毛』滝亭鯉丈(りゅうていりじょう)著1817年文化14年~1821年文政4年
『奥羽一覧 道中膝栗毛』2世十返舎一九著1845年弘化2年~1850年嘉永3年刊行
 一般書店で手に入る十返舎一九の本といえば『東海道中膝栗毛』しかなく、彼より古い作家・井原西鶴は『好色一代男』『好色一代女』『日本永代蔵』など複数あるのに何故だろう?一九先輩は少ししか書かなかったのかな、と思っていたら、その著作ナント500以上あるとのこと。それら全てが現存しなくても、泉鏡花の300余作を軽く上回る数。
 それでは、『東海道中膝栗毛』以外は駄作で、同時代の戯作者・曲亭馬琴ほど読み物として面白くない作品ばかりだったのかと首をかしげていたところ、日本図書センターから1954年に発行された全集(全4巻)が手に入ったので読んでみました。
 この全集は元は明治時代に編纂されたもので、旧漢字&活版印刷の活字なので、文字がかすれていたり誤字も多いので読みにくく、特に注釈解説もない為、作品についての詳しいことは素人には一切わかりません。
          一返舎一九って誰?
          十返舎一九著「奥羽一覧道中膝栗毛初編上巻」

 草双紙の生命である挿絵も掲載されていません。知識の無い私は惑わされました。『道中膝栗毛』とあったので、これは東海道中膝栗毛に続く弥次喜多ものだと思って読もうとしたら、滝亭鯉丈著という知らない名前が。一九全集だから一九の別ペンネームかと思って調べたら、本名:池田八右衛門1777-1841年という戯作者で一九の弟子でもありませんでした。弥次さん喜多さんも出てきません。
 紛らわしいなーと思いつつページをめくると、『奥羽一覧 道中膝栗毛』十返舎一九著があり、序文には、弥次喜多がのうらく者の十返舎一九に留守宅を任せ奥羽に旅に出ると書かれていたので、嬉々として読み始めたのですが、間もなく「東陽院は故人十返舎一九のお寺だ」と出てきて、自分を殺すなんて一九先輩も人が悪いなぁなんて呑気に読んでましたがどうにも合点がゆかず、刊行年を探してみると弘化2年。西暦1845年。一九先輩は1831年に死んでます。じゃ、この十返舎一九って誰さ?2代目を継いだ門人でした。あーやられた。こんなの読んでる暇はありません。
    挿絵には一返舎十九の名が。
    こちらは九返舎一なんとか。
一九の弟子には、九返舎一八、五返舎半九、十字亭三九など多数いたみたいです。ひょっとして一返舎一九という弟子もいて三編上巻だけ執筆したのかな?

 『奥羽一覧 道中膝栗毛』は『東海道中膝栗毛』の弥次喜多コンビが『方言修行 金草鞋(むだしゅぎょう かねのわらじ)』(1813年文化10年~刊行森屋板)の主人公、奥州の狂歌師・鼻毛の延高(のびたか)と千久良坊(ちくらぼう)を誘って狂歌の旅に出る、という初代十返舎一九の人気コンビ2組を登場させた最強膝栗毛です。『東海道中~』に次いで24編も続いたベストセラー『方言修行金草鞋』を読んでから、読みたいものです。

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Ikku shows how to make a cake Ⅱ

2011-03-05 | bookshelf
『近世菓子製法書集成』収録
十返舎一九著『餅菓子即席手製集』

狂言の太郎冠者の口上で序文を書いた一九は、次に附言として次のような3条を書き記しています。

○餅菓子手製集は予てから名前は聞いているものの実在を確かめることができなかった。しかし、今さる人の処に埋もれているのを頼んで借り、専門家に見てもらって間違いを直し、簡単に作れるのを第一としたので、菓子好きの人々はこの書をみて春の日を楽しんでいただきたい。
○すべての煮加減は文章で表現できないので、堅くなるものが軟らかくなり、その逆になったりしてしまうのは、習熟にかかってくるものだ。従って出来不出来はあっても作れないことはないからいろいろ試みて製法を考えるべし。
○調理器具は日常使うもので特別なものはいらない。されど婦人、小児のこゝろをなぐさめんと聊(いささか)画図に其おもむきをあらはす而巳(のみ)。ただ女性や子供を楽しませようといささか挿絵を入れて赴きを表現した。

『近世菓子製法書集成』は、江戸時代に著された貴重なお菓子レシピ本を専門家が収集編纂したもので、その中に一九先輩のお菓子本が入ってたのを見つけたのですが、真面目な近世菓子研究者には申し訳ないけれど、これはお菓子のレシピ本として書かれたものではないでしょう。序文から黄表紙の芳ばしい匂いがただよってたものね。黄色字で記した箇所に「女子供を喜ばせる為に」と書いてあるし。他に収録された本を見ると違うこと明白です。まあいい、とにかく見てみましょ。

レシピは名古屋名物うゐろう餅から始まって全77。餅菓子以外煎餅やカステラも有り。
○本かすてゐら
 一小麦の粉 一升五合
 一たまご 二十五
 一砂糖 一斤半
 三品、よくねり合わせ、鍋の中へ紙をしき、上下にすみ火を置いてやくなり。
        

江戸の有名菓子屋のレシピではこうなってます。
○嘉寿亭羅(かすてら)
 小麦御膳粉 百二十匁
 大鶏卵 十五
 唐三盆砂糖 二百目
 是は生砂糖のまま塵をふるい取りて、小麦の粉を水にて程よくゆるめ、玉子を入れて、三品とも一所にして、とくとかきまわし、かすてら鍋の中へ厚紙にて文庫を拵え、入子にして置き、其の中へ種をあけて鍋の友蓋をして其蓋の上へ火をのせて焼くなり。火加減は上の火が七分、下の火が三分との定めなり。(以下省略)



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Ikku shows how to make a cake

2011-03-04 | bookshelf
近世菓子製法書集成収録
『餅菓子即席 増補手製集』十返舎一九(41歳)著
1805年(文化2年)往来物(実用書)
通油町鶴屋喜右ヱ門・同所村田屋治郎兵衛・同所嶌村平蔵・本石町西村源六板


それがしの主人は、世に知れた大名。この主人、あちらこちらの会合に出かけては、食べてきた料理の話を、さもうまそうに語られるのでござる。そこでそれがし、申し上げたのは、「殿さま、こうお話ばかりでは、旨いのか不味いのかわかりませぬ。ちとそれがしめにも食わせて下され。さりながらそれがし、下戸でござれば、あなたこなたでの食後に出されるお菓子の話が、鼻についたままで困っておりまする」と申したら、殿様がおっしゃるには、「ヤイ冠者、それはたやすいことじゃ。わが家には昔から伝わる手製集という本があり、餅菓子いっさいの作り方が書いてある。その中から何なりと、お前好みのお菓子を作って食わせてやろう」といって、仮名書きの本を一冊だされた。
それを拝見して、「殿さま、日ごろから菓子菓子と仰せられるが、このうちそれがしの望むものはまず食わせてはいただけますまい」と言うと、「いや何なりと食べさせてやろう、望め望め」と言われる。「それならば申しましょう、この本にあるものを残らず食べとうござる」「これはとんでもないことだ。祖父の代から持ち伝えてきたが、まだ手製したことがない。お前に食わすのは惜しいが、考えてみればいい機会じゃ。ヤイ冠者、この本のもの残らず作れるか。拵えてみろ。うまく作ったら三分の一はお前にやろう。」
「かしこまりました。さてさて、喜ばしいことである。さあ、拵えましょう。そもそも菓子の製法といえば、もち米・うるち米に小麦粉、うどん粉、黄粉と葛粉、砂糖は雪白・出島、凍砂糖(しみさとう:氷砂糖の洒落?)、黒砂糖、包んで塗って、べったり、べったり、べったりこ……」。
「これはサテ出来た出来た。殿様、ご覧ください、手製集残らず一段とよく出来ました。ご褒美にはこの本をそれがしに下さい。お蔵の中で虫に食わせるよりは、人に食わせたいと思います」「それはどういうことだ」「これを版木に彫らせて、本を作りましょう」「それならお前にやろう」「ありがとうございます。すぐに版元へ行きましょう」「さあ、早く行け」。
「いつも私は版元へ行くと、いろいろ頼みごとをするので、今日もまたあれかと居留守を使われなければいいが…。ヤア来たのは栄邑堂(村田屋)だ。ご主人いらっしゃいますか。今日来たのは他でもない。この餅菓子手製集というものを出版してください。私がいつも持ち込む例の戯れ言と思うでしょうが、そうではありません。これは主人の家の相伝の書物ですが、出版されるなら原稿料と引換えにしましょう。どうでしょうか?」「原稿料はやらないよ」「これは何としたことだ。余計な仕事をしてしまったようだ」。
             江戸の遊民 十返舎一九 記
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a wooden horse

2011-03-03 | photo
               
                    つぶらな瞳が 
                     ひづめが 
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