「さて…悦びのあまり名物の焼蛤に酒酌みかわして…と本文にある処さ、旅籠屋へ着の前に、停車場前の茶店か何かで、一本傾けて参ろうかな。(どうだ、喜多八)と行きたいが、其許は年上で、ちとそりが合わぬ。だがね、家元の弥次郎兵衛どの事も、伊勢路では、これ、同伴の喜多八にはぐれて、一人旅のとぼとぼと、棚からぶら下がった宿屋を尋ねあぐんで、泣きそうに成ったとあるです。ところで其許は、道中松並木で出来た道づれの格だ。その道づれと、何んと一口遣ろうではないか、ええ、捻平さん」
と言って、泉鏡花作『歌行燈』に最初に登場する62,3歳の弥次さん気取りの男と、70近い同伴の老人が向かった先の旅籠屋が『川口の湊屋』。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5a/06/7e326d62f8c6a375b1c460b9ab43aa28.jpg)
この旅籠のモデルが船津屋という旅館で、現在も三重県桑名市の東海道五十三次桑名宿の北端揖斐川堤防沿いに料亭として残っています。(小説では「川口(町)」とありますが実際は船馬町にあります)
桑名七里の渡し伊勢神宮の一の鳥居のすぐ近く。『歌行燈』の登場人物2人は桑名駅から人力車で宿屋へ直行。
この小説は明治43年の作で、この頃はまだ当時の宿場町の名残があったのでしょうか。江戸時代の桑名宿は、伊勢参りや熱田参詣の人々で賑わった宿場で旅籠も多く芸妓も多かったようですが。作中の桑名の街の描写には
寂しい処幾曲り。(略)両側の暗い軒に、掛行燈が疎(まばら)に白く、(略)桑名の妓達(こたち)は宵寝と見える、寂しい新地(くるわ)へ差掛った。
とあり、明治の終わり頃にはその衰退ぶりが伺えます。
現在の桑名宿は、七里の渡し跡を中心に整備され、名物「蛤」料理をうりにした飲食店が街道沿いに軒を連ねてます。しかしほとんどの家は現代建築で、弥次北の時代を偲ぶものは船津屋の旧館と小説のもう1つの舞台、饂飩屋・歌行燈(旧 志満や)など、まばらです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/46/5eeb39dbc0ae710df0d1c7f09341cfa5.jpg)
船津屋の板塀に歌行燈の句碑があります。風雨に曝されたせいか、かすかに何か書いてあるなぁと判る程度の石碑でした。
そう、ここは伊勢湾台風の被災地でした。とすると、古い建造物などよく残っていたものです。
「かはうそ」の句ですが、作中に書かれる湊屋の評判の中で、湊屋には悪戯好きのカワウソが這入り込んで廊下や厠の灯りを消したりして悪さをするのですが、恐ろしい化け方はしないし、安い使賃で豆腐を買いに行ったりもする愛嬌があると言って旅人の間で評判がよい…と書かれているところからきています。
お化け好きの鏡花にしては可愛らしい挿話ですね。
『東海道中膝栗毛 五編追加』で、弥次北は伊勢内宮の近く宇治山田の古市にある「藤屋」という旅籠を根城にしてお伊勢参りや遊郭へ遊んだりします。
膝栗毛ファンの鏡花は『歌行燈』の中で、西から東京へ帰る途中の弥次郎兵衛気取りの男に
「内宮様へ参る途中、古市の旅籠屋、藤屋の前を通った時は、前度いかい世話に成った気分で、薄暗いまで奥深いあの店頭に、真鍮の獅噛火鉢がぴかぴかとあるのを見て、略儀ながら、車の上から、帽子を脱いでお辞儀をして来た。」と言わせています。私も藤屋の前に立ったらば同じ思いになるでしょう。