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the gap between Japanese mythology and ancient history 2

2017-08-31 | ancient history

奈良県大和郡山市稗田町:平城京と藤原京を結ぶ下ツ道の途中にある
稗田環濠集落と稗田遺跡がある

 天武天皇の命令を受けて、稗田阿礼が諸豪族が保持していた『帝紀』『本辞』を記憶or保管してから25年以上、天武の計画は頓挫していました。
 時勢が変わって天武天皇が世を去り、皇后・鸕野讃良(うののさらら)が持統天皇として天武の後を継ぎ、天武と持統の息子・草壁皇子が天皇に成らずして早世し、草壁皇子の息子が文武天皇として即位したものの彼も早世してしまい、草壁皇子の正妃であり持統天皇の異母妹でもある元明天皇の治世となって、太安万侶の『古事記 序文』に拠れば、「天武天皇から命じられていた稗田阿礼が暗誦する『本辞(=旧辞)』(この部分に『帝紀』は入っていません)を記し定めて献上せよ」と元明天皇が安万侶に命じた事によって、ようやく作業が再開されたのでした。
 この時(711年)太安万侶は正五位下という地位で、翌年4月7日(古事記献上後)正五位上に昇進していました(『続日本紀』)。あの藤原不比等の4人の息子の一人、房前(ふささき)は従五位上だったので、この時点では安万侶の方が官等は上でした。ちなみに安万侶は、704年の段階で正六位下から従五位下に昇進したという記事が初出です。この時、無位の長屋王に正四位上が授けられています。
 さて、元明天皇の命令から4ヶ月余りで仕上がった『古事記』ですが、『続日本紀』にはその存在の片鱗も書かれていません。恐らく、『古事記』は『日本書紀』と違って「公的」な書ではなかったから、「公的な歴史書」には載せられなかったのだと思います。しかし、太安万侶は、壬申の乱で大海人皇子側で尽力した多品治(おおのほむじ:多=太)を出した多氏に生まれ、704年以前から正六位下という官位をもっていたほど良い家柄だったからか、『続日本紀』に死亡記事まで記載されています。716年には氏長(うじのかみ:一族の首長)にも任命され、亡くなった時は民部卿(民政を担当する行政機関の長官)という地位でした。そこまで出世したのは、『古事記』と『日本書紀』の完成に大いに貢献したという評価の結果ではないでしょうか。
 ところが、「公け」ではなかったにしても、天武天皇にその能力を買われ、元明天皇にも認められて、『古事記』の編纂作業に貢献した稗田阿礼に関するものは、一切ありません。それ故に、稗田阿礼別人説(時の権力者・藤原不比等だった、とか)などが出てきます。
 東洲斎写楽の場合と同じです。その人物に関するデータがないと、同時代の著名人の変名だったのではないか…という説を唱える者が出てくるのです。また、高名な民俗学者である柳田国男が稗田阿礼女性説を唱えたことで、現代でも阿礼が巫女だという説が存在しています。
 しかし、ここは太安万侶の序文を信じるしかありません。序文には「舎人(とねり)」と明記してあり、もし女性なら「采女(うねめ)」と書くはずです。
 序文での阿礼の記述の仕方は唐突で(「そのとき、稗田阿礼という舎人がありました。」)、安万侶より年上であると思われますが敬っているような書き方がされていないところから、舎人といっても身分が高くない舎人だったのではないでしょうか。そんな身分の低い舎人(雑用人)が天武天皇にどうやって見つけられたのか不思議ですが、それだけに、天皇の耳に届くほど飛び抜けて優れた記憶力・表現力の持ち主だったという印象が強まります。そして、太安万侶は実際に会って話を聞いたのであるから、「人柄が賢く、目で見たものは口で読み伝え、耳で聞いたものはよく記憶しました。」という序文の記述は、阿礼に対する安万侶の評価だと思います。
 身分が低いため官位もなく、『古事記』編纂に貢献しても出世には結びつくことなく、また編纂者として名前を連ねることさえ許されない身分であるにもかかわらず、阿礼は欲得なく安万侶に最大限の協力を惜しまなかったのだと思います。序文に2度も阿礼の名前を書いたのは、そういったことを踏まえてのことだったのかもしれません。もし古事記の序文が偽書だとしたら、何のために稗田阿礼を創作したのでしょうか。多(太)一族の手柄のためなら、むしろ阿礼の存在は不要なはずですから。
 データはありませんが、稗田阿礼の稗田は出身地の名称でしょうから、「ヒエダ」という場所を探しました。するとすんなり見つかりました。
 
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the gap between Japanese mythology and ancient history 1

2017-08-29 | ancient history

 日本海沿岸地域に点在する四隅突出型墳丘墓や、古代出雲期に埋蔵された銅鐸や銅剣が出土した「荒神谷」と「加茂岩倉」遺跡などを訪ねて、「ヤマト政権以前の日本」はどういうものだったのか知りたくなりました。
 といっても、最古の公的歴史書である『日本書紀』に書かれている500年代初期(欽明天皇)より前の記述は、全否定ではありませんが事実とは認められないので、中国・西晋代200年代末期の『三国志』に書かれた魏志倭人伝しか記録がありません。そこからは、卑弥呼に象徴されるようなシャーマニズム・アニミズム的社会生活が読み取れます。200年代弥生時代後期の日本は、「神の存在」(を信じること)によって統合されていたのだと思います。その後、ヤマト政権のような新興勢力は「神の存在」を利用することによって、民族を統一していきました。
 「神の存在の利用」が、『古事記』や『日本書紀』に記される神代=日本神話ではないでしょうか。しかし、古事記に書いてある神話と日本書紀に書いてある神話は同じではないですし、古事記の中で「出雲での出来事」として書かれている神話が、ご当地『出雲国風土記』に出てこないという矛盾があります。では、日本神話はヤマト政権が創作した昔話なのでしょうか。ならば、神代記は誰が創作したのでしょうか。そこで『古事記』の神代記を読み返してみました。
 まず、神様が数人ずつ現われます。各神様には現代人には難しい名前がついています。それらの神様にはそれぞれ固有の力が割り当てられています。神様の中にはその後活躍をする神様もいれば、現れてすぐどこかへ隠れ、その後一度も活躍しない神様もいます。かと思えば、突然現れて威厳を持つ神様もいます。これら大勢の神様の名前を考えるだけでも大変な作業です。
もし600年代に古事記の神代記を創作した人がいたのなら、紫式部も真っ青だと思います。ですから、古事記に書かれた神話は、元々各地に伝承されていた物語だったと憶測されます。
 『古事記』にはその成立を記す「序文」が残っています。この序文を「後世の偽書」とする研究者もいますが、その問題はひとまず置いておいて、序文を書いた太安万侶が云う所の「和銅四年九月十八日を以って、わたくし安万侶に仰せられまして、稗田の阿礼が読むところの天武天皇の仰せの本辞(先代旧辞)を記し定めて献上せよと仰せられましたので、謹んで仰せの主旨に従って、こまかに採録いたしました。」を受けて、稗田阿礼について調べてみました。
 和銅四年というのは711年、『古事記』編纂が完成する前年です。「序文」を時の天皇・元明天皇に提出したのが和銅五年正月二十八日となっているので、太安万侶が稗田阿礼から伝えられた古い記録(古代の古代史。皇族以外の諸家が代々伝えている神話や伝説、皇族の系譜の記録など)を文字に書き起こして編集した期間は、4ヶ月くらいという案外短期間の作業でした。そのくらいで完成させることができたのは、安万侶が編纂する以前に、稗田阿礼のところで既に大方の物語ができていたと考えられます。
 太安万侶の序文に拠れば、天武天皇(大海人皇子)が「諸家に伝わっている『帝紀』と『本辞』には、虚偽が加えられている。国家の根本、天皇政治の基礎となる『帝紀』『本辞』を調べて、虚偽を正して後世に伝えたい」と考えて、舎人の稗田阿礼(当時28歳)に『帝皇日継(すめらみことのひつぎ)』と『先代旧辞(さきつよのふること)』を誦(よ)み習わせた、と伝えられていて、稗田阿礼という人物が天武天皇期(673年~686年)に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみのはらのみや)に出仕していた事がわかります。
 この時28歳だと年齢まで明記されているので、太安万侶に『本辞』を伝えた頃は50~60歳代になります。『続日本紀』に太安万侶の位階が記してあり『古事記』完成後出世もしているのに対して、稗田阿礼という名は『続日本紀』に(もちろん『日本書紀』にも)出てきません。出てくるのは、太安万侶が書いたとされる古事記の序文中のみです。
 天武天皇に大抜擢され、その存在は元明天皇にも伝えられていた(少なくとも25年間)ほどの人物ではあったものの、一生無位の舎人(出世しなかった下級官人)で終わったのでしょうか。

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Marr and The charlatans

2017-08-02 | music

The Charlatans 『Different Days』
26 May 2017

 1988年に結成、レコード・デビューも1990年という、RIDEと同時期に現れたUKバンド、ザ・シャーラタンズ。
 90年代のブリットポップ、マンチェスタームーブメントが盛り上がる中、ストーン・ローゼスと似たようなダンスサウンドのバンドがいくつも誕生し、一時ヒットし消えてゆきました。彼らもそんなムーブメントの中でこそ人気があるバンドなんだろう…つまりムーブメントが終わればいなくなるのでしょう…と思わせるような、特に特徴的なサウンドでもなく歌も上手くもありませんでした。おマンチェと云われたバンドには、彼らよりもっと優秀なのがたくさんいたからです。ところが、残ったのはシャーラタンズだけでした。
 私は1995年発表の4thアルバム(バンド名と同じタイトル)にやられました。ティム・バージェスがまだファルセットボーカルを取り入れる前で、3rdまでの聞き取りづらいフワフワした歌い方から、浮遊感を残しつつ少し芯のある声になり、何を置いても楽曲がよかったのです。特にロブ・コリンズのハモンドオルガンは大好きでした。彼のハモンドがあってこそのシャーラタンズサウンドでした。このアルバムで、彼らが単なるマンチェ・ムーヴにのったバンドではない事を証明されたと思います。このまま順風満帆にいくものだと思っていました。
 悲劇は突然やって来ました。翌年ロブが交通事故を起こして亡くなってしまったのです。97年に発表された5thアルバムは、録ってあったロブのパートが使えたので、実質そのアルバムがロブの遺作となりました。シャーラタンズは、それ以前にもマーティン・ブラント(b)がうつ病になったり、ロブが刑務所行きになったりと、メンバーに不幸があったりしましたが、彼らの結束は固く解散することはありませんでした。ロブ亡き後のシャーラタンズの音楽は、時代と共に変わってゆき、私はそれを好きにはなれませんでした。ロブの代わりに鍵盤担当でトニー・ロジャースが加入した後何年かして彼らのライブに行きましたが、ロブを思い出して(彼のいた時期のライヴも見ているので)しんみりしてしまいました。それ以来、シャーラタンズからは離れて(もう聴くこともない)いました。それから何年かしてドラムのジョン・ブルックスが脳腫瘍で亡くなり、現在は4人で活動しています。
 今回、13作めのニューアルバムを購入したのは、シャーラタンズの曲が聴きたかったからというより、ゲストにJohnny Marrが参加しているからでした(最終曲にはポール・ウェラーが参加)。
 久しぶりに聴いたシャーラタンズ・サウンドは、彼らの過去のアルバムほど興奮するようなものではありませんでした。しかし、ジョニーが参加したPlastic Machineryは90年代のシャーラタを彷彿させる曲で、ジョニーのチャカチャカしたギターフレーズが聴こえて、少し胸が高まりました。実のところ、そのギターフレーズがマーのものなのか、マーク・コリンズが弾いてるのかはっきり解りませんが(笑)
 1曲だけだと思っていたら、もう1曲 Not Forgottenにも参加していました。しかもこの曲は、4thアルバムの頃のグルーヴ感のある楽曲に、ジョニーのチャラチャラ音がスパイスとなって、アルバムの真ん中を盛り上げてくれてます。ゲストはいないけれど、Let's Go Togetherはいい曲ですし、P.ウェラーが参加した曲はスタイルカウンシル調?でアルバムの最後にぴったりな曲。
1曲目から聴いていった時は、シャーラタンズこういう方向性なのか?!(2~3曲は80年代エレポップ調)と不安になりましたが、最終的には満足する内容でした。

 さて、ソロ・アルバムがいまいちかな?と感じたジョニー・マーですが、最近はライブでThe Smithsの曲をプレイしているそうで。ようやく「スミスの呪縛」が解けたと思うと嬉しいです。アンディ・ルーク(元スミスのベース。マーの幼馴染)とも共演しましたし。マーの動画を見ていたら、最近のステージで着ていたシャツが、The Smithsの1984年ハンブルグ・ライヴで着ていたのと同じじゃないか…と。
←これが最近のジョニマ 痩せたってこと?物持ちがいいってこと?

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