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奈良県大和郡山市稗田町:平城京と藤原京を結ぶ下ツ道の途中にある
稗田環濠集落と稗田遺跡がある
天武天皇の命令を受けて、稗田阿礼が諸豪族が保持していた『帝紀』『本辞』を記憶or保管してから25年以上、天武の計画は頓挫していました。
時勢が変わって天武天皇が世を去り、皇后・鸕野讃良(うののさらら)が持統天皇として天武の後を継ぎ、天武と持統の息子・草壁皇子が天皇に成らずして早世し、草壁皇子の息子が文武天皇として即位したものの彼も早世してしまい、草壁皇子の正妃であり持統天皇の異母妹でもある元明天皇の治世となって、太安万侶の『古事記 序文』に拠れば、「天武天皇から命じられていた稗田阿礼が暗誦する『本辞(=旧辞)』(この部分に『帝紀』は入っていません)を記し定めて献上せよ」と元明天皇が安万侶に命じた事によって、ようやく作業が再開されたのでした。
この時(711年)太安万侶は正五位下という地位で、翌年4月7日(古事記献上後)正五位上に昇進していました(『続日本紀』)。あの藤原不比等の4人の息子の一人、房前(ふささき)は従五位上だったので、この時点では安万侶の方が官等は上でした。ちなみに安万侶は、704年の段階で正六位下から従五位下に昇進したという記事が初出です。この時、無位の長屋王に正四位上が授けられています。
さて、元明天皇の命令から4ヶ月余りで仕上がった『古事記』ですが、『続日本紀』にはその存在の片鱗も書かれていません。恐らく、『古事記』は『日本書紀』と違って「公的」な書ではなかったから、「公的な歴史書」には載せられなかったのだと思います。しかし、太安万侶は、壬申の乱で大海人皇子側で尽力した多品治(おおのほむじ:多=太)を出した多氏に生まれ、704年以前から正六位下という官位をもっていたほど良い家柄だったからか、『続日本紀』に死亡記事まで記載されています。716年には氏長(うじのかみ:一族の首長)にも任命され、亡くなった時は民部卿(民政を担当する行政機関の長官)という地位でした。そこまで出世したのは、『古事記』と『日本書紀』の完成に大いに貢献したという評価の結果ではないでしょうか。
ところが、「公け」ではなかったにしても、天武天皇にその能力を買われ、元明天皇にも認められて、『古事記』の編纂作業に貢献した稗田阿礼に関するものは、一切ありません。それ故に、稗田阿礼別人説(時の権力者・藤原不比等だった、とか)などが出てきます。
東洲斎写楽の場合と同じです。その人物に関するデータがないと、同時代の著名人の変名だったのではないか…という説を唱える者が出てくるのです。また、高名な民俗学者である柳田国男が稗田阿礼女性説を唱えたことで、現代でも阿礼が巫女だという説が存在しています。
しかし、ここは太安万侶の序文を信じるしかありません。序文には「舎人(とねり)」と明記してあり、もし女性なら「采女(うねめ)」と書くはずです。
序文での阿礼の記述の仕方は唐突で(「そのとき、稗田阿礼という舎人がありました。」)、安万侶より年上であると思われますが敬っているような書き方がされていないところから、舎人といっても身分が高くない舎人だったのではないでしょうか。そんな身分の低い舎人(雑用人)が天武天皇にどうやって見つけられたのか不思議ですが、それだけに、天皇の耳に届くほど飛び抜けて優れた記憶力・表現力の持ち主だったという印象が強まります。そして、太安万侶は実際に会って話を聞いたのであるから、「人柄が賢く、目で見たものは口で読み伝え、耳で聞いたものはよく記憶しました。」という序文の記述は、阿礼に対する安万侶の評価だと思います。
身分が低いため官位もなく、『古事記』編纂に貢献しても出世には結びつくことなく、また編纂者として名前を連ねることさえ許されない身分であるにもかかわらず、阿礼は欲得なく安万侶に最大限の協力を惜しまなかったのだと思います。序文に2度も阿礼の名前を書いたのは、そういったことを踏まえてのことだったのかもしれません。もし古事記の序文が偽書だとしたら、何のために稗田阿礼を創作したのでしょうか。多(太)一族の手柄のためなら、むしろ阿礼の存在は不要なはずですから。
データはありませんが、稗田阿礼の稗田は出身地の名称でしょうから、「ヒエダ」という場所を探しました。するとすんなり見つかりました。