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tsutakaramaru

2009-08-24 | bookshelf
              蔦屋重三郎 江戸後期の有力版元・耕書堂店主

東洲斎写楽の肉筆画が発端となって「要注目人物」となった、写楽仕掛け人・蔦屋重三郎という人物。
ネットに載ってる以外で何か参考になる(自分の発想の裏づけとなる)ものでもないかと、書籍を取り寄せて読みました。
とりあえず、苦労せずに入手できた本が、れんが書房新社から1997年に出版された「探訪 蔦屋重三郎 天明文化をリードした出版人」でした。著者は、学者でも作家でもなく商業界の方で、第2次世界大戦後大学へ復帰して卒論テーマに悩んでいたら父親から蔦重のことを教えられ調べたことがきっかけとなってその後何年もかかって本業とは別に独自に調査した結果というか集大成にしたものでした。

「本業ではない」というところで、詰めの甘さも多く(逃げ口上的な文章がいくつかある)読んでいるうちにイライラしてくることもありましたが、江戸時代の一商人の記録などきちんと残ってはいないので(その後江戸は幾度も大火に見舞われ家も墓も焼失している)無から調べるのは大変な作業だったろうと察します。
それでも当時の古書から蔦重がどうやって出版社を起こし大きくしていったのか、という事実関係を拾い集めまとめてありました。
欲を云えば、狂歌本などに描かれてあったという蔦重の姿も掲載して欲しかったです。

上の画像が、蔦屋重三郎本人です。
袖についている紋章(手をついてるので模様は横向きになってます)が蔦屋の紋章なので、確かです。
このロゴは「入り山形に蔦の葉」なのですが、蔦だから植物の蔦の葉をロゴにするのは不思議なことではないですが、実はこの「蔦の紋章」には代表的なものが2種類存在します。蔦の葉が丸い、ただの「蔦」、それと蔦屋のロゴに使用されているギザギザ葉の「鬼蔦」。紋章は、「三葉葵」は徳川、「割菱」は武田…というように氏を表しています。因みに私は「源氏車」なので墓石にこのマークが彫り付けてあります。
で、蔦重が自分の蔦を何故「鬼蔦」にしたんでしょうか。この件について著者は疑問を抱かなかったみたいで追求してませんでした。
ただの「蔦」は藤堂、蔦重の使用した「鬼蔦」は松平です。松平といえば田沼失脚後老中となって倹約令を発した松平定信。この時、風俗取締りを受けて蔦重は厳罰に処せられています。蔦重と松平家は血縁関係は全くないと思われますが、蔦屋が見せしめ的に処せられたのは「鬼蔦」の紋章も関係していたのかも…なんて私は勘繰ったりもしてみます。

ネットでざっと調べた後では、総じて目新しい事実が浮かび上がった訳ではなく、目的としていた「蔦重に絵を描く趣味があった」という事実はついにどこにも発見できませんでした。ただ、蔦重は「蔦唐丸(つたからまる)」という名で狂歌を詠んだり自ら執筆した本を出したりしていたそうなので、浮世絵に関しても全く描けなかったということはなかったんじゃないかな、と可能性は捨て切れません。
しかも、本の中に挙げられていた蔦唐丸の狂歌は素人がみても「ヘタ」。どうも下手の横好きだったみたいですが、それでも器用にこなす蔦重のこと、浮世絵だってヘタなりに描いたかもしれないじゃないですか~。

コメント
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