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2013-09-15 | bookshelf
春峯庵什襲浮世絵展観入札目録
東京美術倶楽部 1934年昭和9年刊
神保町の古書店にあり

 春峯庵事件の肉筆浮世絵贋作は、警察に押収されて保管庫に入れられたそうです。が、その後テント商(?)の近藤吉助に下げ渡された(なぜ?)、とか海外に売られたとか、現在は所在不明になっているようです。
 小説『春峰庵事件』では、入札会をするに至った作品は、上野の画商グループが贋作だと思わずに購入したもので、その画商グループの発起人が近常六郎という名で登場します。これが、近藤吉助だとすると、警察は購入者に返却したのだと思います。今ならコピー商品を返却するなんて考えられませんが、どうなんでしょうか。もっとも、入札会用に作成された笹川臨風推薦文付き目録があるので、うかつに真物としては売れないでしょう。
 矢田一家の作品は、「春峯庵もの」として古美術界で、現在も出回っているみたいです。(ネットで屏風を発見しました)
 しかし、海外へ売られたものはどうなんでしょうか。しがない浮世絵商の近藤吉助が、真物だとも贋作だとも言わないで、事情を知らない外国人に売ってしまった可能性は、大いに考えられそうです。春峯庵事件に絡んだ人は、みんな欲に目がくらんだ人たちばかりですから。
 贋作を描いた金満少年は、当時16歳で、その制作方法は実に子供っぽいやり方でした。当時雑誌の付録についていた、虫眼鏡みたいな物を大きく引き伸ばして見える道具で、浮世絵画集の一部を引き伸ばして模写していた、というのです。「恥かきっ子」で病身だった金満は、父親や兄弟が好きな浮世絵を描くことによって注目を浴びたかったのかもしれません。彼の模写絵に、他の大人が懐いていた欲がなかったのが、ホンモノと思われた要因かもしれません。
 さて、この春峯庵肉筆浮世絵入札会の内覧会に、渡邊庄三郎も出かけていた、と小説『最後の版元』に書いてありました。彼のその日の日記には、「全部にせもの」と書いてあったそうです。来場者に偽物だと言っても、耳を貸すものは誰もいなかったそうです。笹川臨風博士に賛同していた藤懸静也教授は、庄三郎と同郷で懇意にしていました。一目で贋作だと見破った庄三郎と、見破れなかった浮世絵の最高権威と美術史の泰斗と言われた帝大教授。後者2人は、大金に目がくらんで心眼が曇ってしまったのでしょうか、それとも初手から目利きではなかったのでしょうか。
 怖いのは、こういう権威のある専門家が誤りを犯した場合です。贋作でも「真物の太鼓判」を押してしまえば、真物として後世に伝えられてしまいます。春峯庵事件で実刑を受けた画商・金子浮水は、世間から事件の記憶が消えた頃、小布施に現れて北斎館開館に力を尽くしたといいます。
 また、「春峯庵もの」でない矢田家制作の浮世絵模写画は、今もどこかに埋もれているのでしょうか。
 金満少年は、根津嘉一郎という東武鉄道社長など務めた実業家で浮世絵収集家にその才能を買われて、箱根の別邸で浮世絵の模写を描かされました。根津氏は、日本橋の白木屋で「矢田模作展覧会」を企画していたそうです。更に、海外の名品模写をさせるために渡欧も計画していたとか。しかし、製作中の過労が原因で18歳で死んでしまいました。死後、「遺作発表会」が催され、作品は売約済みになったそうです。30作品ほどあったといいます。それらは、矢田金満の画として今も存在しているのでしょうか。
 根津家は、2代目が初代のコレクションを展示するため、根津美術館を開館しました。現在南青山にある根津美術館に、私は訪れたことありませんが、矢田金満の作品がもしあるのなら、実物を見てみたいものです。
 それにしても、それほどの天才少年に、どうして彼自身の絵を描かせなかったのかが疑問です。有名画家の模写をさせるためだけに利用したのであれば、結局お金目当てだったのか、と眉をひそめたくなります。しかし、有名画家の作品だから欲しがる愛好家が多い、というのが現実です。どんなに素晴らしい作品でも、名もない作家は売れませんが、ビッグネームであれば駄作でも高値がつきます。
 そんな風潮が、贋作詐欺事件を生んだのだ、と思います。
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2013-09-13 | bookshelf
 久保三千雄著『小説 春峰庵事件 浮世絵贋作事件』からわかる、1934年昭和9年に起こった、肉筆浮世絵の贋作詐欺事件の真相は、こうでした。
 天才的な模写絵が描ける矢田金満少年と、絵の勉強をしていた三男・修(小説では治)に、長男の三千男が指示を与えて、写楽、北斎、歌麿、岩佐又兵衛など浮世絵の巨匠の贋作を描かせ、父親・千九郎が真物に見えるように細工を施し、画商の金子浮水が「真物」として顧客に売って、金子と三千男が甘い汁を吸っていました。
 数少ない浮世絵が入手できるので、顧客は入手経路を他人にバラさないし、個人コレクターは自分だけが楽しむ為、多くは蔵へ仕舞い込んでしまい、人目にさらされる機会が少ない、という安心感があり、贋作制作は続けられました。
 ところが、しばらくすると商品がだぶついてくるようになりました。そこで考えたのが、肉筆浮世絵の入札会でした。それには、真物だと信じさせるお膳立てが必要でした。
 浮世絵の巨匠たちの肉筆画が大量に発見されるには、相当な人物がコレクションしていたと思わせなくてはなりません。そこで、金子らは、松平春嶽を連想させる春峯庵という号の、旧大名の華族から発見された、という話をでっち上げました。さらに、当時浮世絵の最高権威だった文学博士・笹川臨風(小説では竹内薫風)に、鑑定と図録の序文を依頼しました。笹川臨風は、多額の報酬と引き換えに、作品を絶賛した序文を書きます。笹川が絶賛すると、彼に師事していた藤懸静也(小説では藤田誠一)帝大教授も賛同しました。
  『小説春峰庵事件』に登場する人物
 藤懸静也は、同年文学博士になり、東京帝大教授となって、美術史界の泰斗と呼ばれた人物でした。これらの権威に裏づけされた作品なら、誰もが本物だと思うことでしょう。世紀の発見と報じた新聞もありました。入札会では、当時のお金で総額20万円の内およそ9万円が売約済みになったそうです。
 しかし、入札会の内覧会の時から、贋作疑惑が浮上しました。新聞各社が疑惑事件として書き立てたため、売約はほとんどキャンセルとなり、春峯庵なる人物が架空の存在だとばれて、金子浮水、矢田三千男、修が実刑を受けました。鑑定をした笹川博士については、真贋鑑定が正確にできるのかが争点となり、警察は、本物と金満少年が描いた絵で実験しました。正しく判定すれば逮捕されますし、わざと間違えれば地位と名誉を失います。博士は、金満少年のを本物だと答え、地位と名誉を失いました。
 笹川博士に賛同していた藤懸教授は、自分の身が危ういと気づいた時に手を引いたので、無事でした。本物そっくりの模写絵を描いた金満少年は、未成年だったためお咎めなし。むしろ天才少年画家として有名になり、ある有名実業家で浮世絵収集家に乞われて、本格的に名画の模写を描くことになりました。しかし、病弱だった彼は、19歳で病死してしまいました。
 結局、贋作詐欺は失敗に終り、被害も大きくなかったようです。この事件の教訓は、お金は人をだめにする、ということです。あと、人は権威に弱い。
 利用された薄幸の少年、金満くんだけが不憫に思えます。しかし、少年の描いた模写が、目利きの画商を欺くくらい素晴らしい出来だったのでしょうか。本の表紙↑の浮世絵が、彼の描いた絵です。東洲斎写楽と書いてなくても、写楽っぽい絵です。紙や顔料に江戸時代のものが使われていれば、鑑定しても真贋の判断は難しいかもしれません。
 事件はその後、風化していきましたが、これらの贋作がその後どうなったのかが、気がかりです。
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2013-09-11 | bookshelf
『小説 春峰庵 浮世絵贋作事件』久保三千雄著
新潮社 1997年刊

 明治政府が推し進めた西洋化によって、日本伝統美術工芸品が大量に海外へ流出する中、それらを商う商売人の中からもこの現象を懸念する人が出てきました。当時、浮世絵を商う画商は、趣味が高じたコレクターから成った者が多かったので、浮世絵を愛し、見る目も肥えていました。たとえ大店でなくても、優れた目利きだという信頼性から、浮世絵を購入する富豪らから、鑑定や相談を受けたりしました。
 現代では、絵画の鑑定で、紙や顔料など識別できるので、製作年代が判別でき、少なくとも後の時代に作られた物かどうかはわかります。しかし、そういった科学技術がなかった時代は、目利きの浮世絵愛好家や浮世絵の権威と認められた学者が、「真物」と言えば真物と認められました。では、目利きや権威が誤った鑑定をしてしまったら、どうなるのでしょう。それによって、大金が動いてしまったら・・・
 春峯庵(しゅんぽうあん)事件(↑小説では春峰庵と表記)は、混乱した時代に、浮世絵に纏わる様々な人々の間で起こった、大規模な贋作詐欺事件でした。新聞にも載り、美術専門書籍にも取り上げられ、事件に関係した人物が、後年事件について発表していたりします。しかし、「浮世絵」という専門的な世界での事件だったためか、庶民の関心は薄かったようです。吉川英治が『色は匂へど』という小説で書き始めましたが、途中で筆を折ってしまいました。理由は、悪人しかでてこないから嫌気がさした、そうです。図書館で目を通してみましたが、物語の序の口で終っていて、どんな話になるのかさえ想像できないものでした。どんなに酷かったのでしょうか。
 『小説 春峰庵事件』に登場する名前は、全て偽名にしてあるものの、ほぼ実名と判るようにしてあり、ノンフィクションに近い小説仕立てになっています。物語は、贋作を製作した一家を中心に描かれています。
 矢田(小説では矢野)家は、元は裕福な家でしたが、嫡男たちの不肖から落ちぶれて、江戸へ移り住みます。千九郎(小説では平九郎)は、裕福だった頃の贅沢が忘れられず、好きな浮世絵を収集したり遊廓で遊んだりの放蕩者でした。長男の三千男(小説では専太郎)は、父親が嫡男として特別扱いしたので、父親譲りの道楽者になりました。彼らの親しんだ浮世絵は、道楽の範囲を超えて通の域に達していました。しかし江戸でも立ち行かなくなった矢田一家は、岡山へ移り、千九郎は手持ちの浮世絵などを元に、古美術商を始めました。といっても新参者の上、田舎なので浮世絵などそうそう売れません。そのうち、千九郎は屏風や掛け軸の表装や直し技術に才能を発揮し、古美術屋は三千男に任せて、表具屋で細々生計を立てるようになりました。
 三千男が浮世絵の買い付けに、芸妓連れで東京へ行った時関東大震災に遭いました。混乱する町中で、荷車に戸板のようなものを集めて回る男と出会い、助けてやるからと言われてついて行きました。男は、贋作を手掛ける売れない画家で、贋作を作るために必要な古い屏風や掛け軸、浮世絵などを集めていたのでした。明治大正時代には、まだ江戸時代の巻紙や顔料が残っていて、それらを使って巧妙に細工していたのです。
 三千男の末弟の金満(小説では満)は、両親が40を過ぎてからできた子で、昔は「恥じかきっ子」と言われ、親が「いい年をしてまだそういう事をしてたのか」と世間から思われるのがいやで、生まれてすぐ親戚に養子に出された、病弱で絵ばかり描いている少年でした。
 世の中が不況になり、養子先の親戚も金満の面倒が見切れなくなり、矢田家が育てることになりました。金満があまりに巧く浮世絵を描くので、浮世絵の歴史などに詳しい三千男が指導して描かせてみました。その絵を表装して、知り合いの骨董屋へ置いてもらったところ、骨董品屋の主人がとんで来て、もっと絵が欲しいといいます。金満の絵がすぐ売れたからです。三千男は骨董屋の主人に問いただします。
 「ちゃんと模写絵だと言ったのか?」。
 骨董品を買う客は、それがいかにも有名浮世絵師が描きそうな絵だと思います。骨董品屋にしてみたら、模写絵だといえば買ってもらえないだろうし、贋作を売っているという信用問題にもなりかねます。主人は、模写だと明言しませんでした。
 気の小さい三千男はショックを受けましたが、古美術商の間では、例え他の店が贋物を置いていたとしても、それを教えないし、間違って自分が贋物を買ってしまっても、古美術商のプライドにかけても贋物だとは言わないで、さっさと手放してしまうのです。古美術の売買は、自分の目だけが頼りだ、ということを、三千男は商いをしている間に学んでいました。
 騙される方が悪い。元来、道楽者の三千男は、大金を手にして居直ります。三千男は、金満に写楽や北斎、岩佐又兵衛、鈴木春信など江戸の有名浮世絵師の模写絵を描かせ、父・千九郎に古く見えるような細工をしてもらい、真物として東京の美術商へ売り込るようになりました。また、震災で出会った贋作をしていた画家の助けも必要だったので、協力させました。
 この時代には、小林文七や渡邊庄三郎の努力の甲斐もあってか、日本国内における日本美術、浮世絵に対する関心も高まり、富豪や成金が浮世絵を高値で買うようになっていました。
 海外だけでなく、国内でも売れるようになった浮世絵は、ますます品薄に。画商たちが作品の入手に四苦八苦している時に、ある画商だけ、新しく見つかったとされる浮世絵の大家の肉筆画を売っている、という噂が業界に流れます。
 その画商と知り合いの、金子浮水(1897年-1978年。本名:金子清次。小説では浮田金次郎)という画商が内情を知って、もっと大々的な贋作制作を企てます。
 小説を読む限り、春峰庵事件の首謀者はこの金子浮水で、懲役刑も一番重くなっています。金子浮水は、浮世絵が海外に流出するのに反対し、肉筆浮世絵の台頭を提唱していた人物だそうです。それは多分真実でしょう。彼も浮世絵を愛するコレクターだったのですから。
 この贋作詐欺事件に関係した人たちは、春峯庵という架空の人物として名前を貸した渋谷吉福(元国学院大学庶務課長。小説では北小路清澄)を除いて、みんな浮世絵を愛する人々だった、という事実に驚かされます。
 何が彼らを失墜させたのでしょうか。
 
 

 
 
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2013-09-09 | bookshelf
『最後の版元 浮世絵再興を夢見た男 渡邊庄三郎』高木凛著
講談社 2013年6月19日刊

 さて、北斎の作品について調べていると、浮世絵贋作事件に行き当たりました。昭和初期に起こったかなり大規模な詐欺事件だったようで、それを元に書かれた小説が出版されていたので読みました。その作品はあくまで小説(フィクション)として書かれていたので、正確な実名も知りたくなり、事件について書かれた書籍がないかと探していたら、今年発売されたばかりの本に、ページが割かれてあるのを発見しました。それが、『最後の版元 浮世絵再興を夢見た男 渡邊庄三郎』↑という本でした。
 浮世絵版元、渡邊・・・現在も東京銀座に店を構える、浮世絵木版画の老舗渡邊木版美術画舗の創業者、庄三郎の木版浮世絵に捧げた生涯を綴った作品です。
 著者は、表紙になっている伊東深水の木版画の襦袢の鮮やかな紅色が、ずっと記憶に残っていて、ある時、スティーヴ・ジョブズの背後に並べられた、アップル社のパソコン画面のひとつに映し出されているのを目にしました。ジョブズは生前、大正~昭和初期に製作された、日本の新版画と呼ばれる浮世絵木版画のコレクターだったそうです。そんな事が契機となって、新版画を生み出した、渡邊庄三郎の日記やメモから書き起こしたノンフィクションを執筆したそうです。庄三郎の生き方が、蔦屋重三郎とリンクするものがあり、興味深く読みました。
 彼は、小学校を出るとすぐに働いたのですが、将来英語が必要になるだろうと考え、英語を勉強します。そして貿易商小林文七商店の横浜支店に就職。小林文七は、飯島虚心に『葛飾北斎伝』を書かせたあの人物です。当時、日本美術、浮世絵などを購入するのは西洋人ばかりで、文七商店も海外輸出で販路を拡大していました。庄三郎は、芸術と何の関係もありませんでしたが、この仕事で浮世絵に関する知識と、いいものを見極める目を養いました。文七は1898年明治31年にフェノロサと「浮世絵展覧会」を開催、明治34年には「北斎展」も主催して、浮世絵の芸術性をアピール。浮世絵の国際的地位をさらにアップしました。著名な日本美術品の輸出窓口は、ほぼ文七商店が取り仕切っていたようで、文七商店は一流美術商社になりました。
 一方、日本の伝統美術品、特に木版浮世絵の海外への大量流出に危機感を持った庄三郎は、なんとか江戸時代から続く浮世絵木版画の技術を伝承できないものか、と悩みます。そして、明治39年、独立して「渡邊木版画店」をオープンさせます。商人としてだけでなく、画家や職人たちと一体になって作品をプロデュースし販売した、江戸時代の板元(版元)を復活させようと、紆余曲折しながら「新版画」を完成させ、販売ベースにのせることに成功しました。しかし、大正の関東大震災、昭和の2度の大戦の影響で、渡邊版画店も開店休業状態になってしまったそうです。

 文明開化後の日本から、浮世絵が流出していくのを危惧していたのは、渡邊庄三郎ばかりではありませんでした。
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2013-09-07 | bookshelf
『葛飾北斎伝』 飯島虚心著 鈴木重三校注 岩波文庫 初版は昭和40年
飯島虚心原著の蓬枢閣版は1893年明治26年刊

 北斎について書かれた書籍は数多くあれど、本人を知る人から聞き取り調査をしたり、北斎自身の手紙などを基にして書いた伝記と聞けば、信憑性がありそうです。
 その名も『葛飾北斎伝』。明治に書かれた本なので、言い回しなど難しかったですが、名古屋での大達磨図イベントの記述もありました。しかし、内容は、猿猴庵の『北斎大画即書細図』を元にして、改めて描き直して紹介した、小田切春江の『小治田之真清水(おわりだのましみず)』に収録されていたものを元にしたようです。紹介されていた北斎が達磨絵を描いている絵が、猿猴庵のものではなかったからです。先に猿猴庵の方を知っていた者として、著者の調査が甘いんじゃないかと思いましたが、この時代では致し方なかったのだ、と後になって気付きました。
 江戸時代から明治に移行して、政府が欧米化を勧めるにつれ、庶民の生活や嗜好も少しずつ変化していった時代です。江戸風俗を写し取った浮世絵に、芸術的価値を認める人は少なく、量産された木版画は特に価値がないので、ふすまの裏紙や割れ物を包んだりするのに使われたといいます。北斎や歌麿、広重、春信などの錦絵(多色摺り木版画、肉筆画)は、外国人が高値で購入して持ち帰っていました。浮世絵を扱っていた骨董品店や古美術商は、手持ちの浮世絵版画がなくなると、クズ屋へもらいにいったそうです。黄表紙や浮世絵が、乱雑に扱われていた時代でした。
 世間で浮世絵が流行らなくなったとはいえ、まだ江戸気質が残る人々の間で浮世絵は愛され、そういう人々の中から、浮世絵通が高じて浮世絵研究者になったり、大学の先生や学者からは、浮世絵の大家と呼ばれる人物も現れてきました。優れた目利きの商人・小林文七(小林文七商店社長)は、フェノロサやビゲローらに多くの浮世絵を売り、一流の美術商になりました。彼は、蓬枢閣という書籍出版部門を立ち上げ、美術書を出版します。
 『葛飾北斎伝』も、小林文七に依頼された飯島半十郎(虚心)が書き上げた作品で、今日伝わっている北斎の逸話は、ほとんどここが基になっているそうです。北斎に会ったことがある人から聞いたという爺さんの話とか、身内に伝わる北斎の話だとか、一応調べたものは全て載せている風ですが、いかにも怪しい内容に対しては、虚心も肯定していません。私の読んだ岩波文庫版は、鈴木重三(1919年-2010年。近世文学、美術研究者)の解説が付いていたので、この伝記が書かれたいきさつも知ることになりました。
 それが、なんとも謎めいていて、浮世絵(近世肉筆画、木版画)の世界、それに纏わる人々の利害・因果関係、慾と権力の渦巻く淵は、深く暗いのだと感じました。
『葛飾北斎伝』に載っていた肖像画  
 飯島虚心は、幕臣の長男に生まれ、榎本武明の江戸湾脱出に同行し函館戦争に参加した、という経歴を持つ浮世絵研究家で、1872年明治5年文部省に入省、教科書編集に従事した人物だということです。彼に北斎の伝記執筆を依頼したのが小林文七で、北斎の肖像画だと言って↑の肖像画を載せるように指示したのも、小林文七でした。
 北斎だという確たる証拠のない肖像画を載せることに、虚心は納得しなかったそうですが、出版者の文七が強行したのか、表紙の次のページに何の説明もなく画像だけが載せられています。
 坊主頭の北斎の姿絵は沢山あるはずなのに、なぜ作者不明のこの画にしなければならなかったのでしょうか。関係者が死んでしまった今、永遠の謎です。                             
 
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people who have Ukiyo-e relations 2

2013-09-05 | bookshelf
北斎席画の大達磨 画:小田切春江
猿猴庵著『北斎大画即書細図』を後に小田切春江が描き改めた

 文化14年に尾張に滞在した北斎は、尾張の有力新興出版書店・永楽屋のバックアップで、どデカい達磨絵を即興で描くというイベントを開催することになりました。どうしてやることになったのか、詳しい経緯はわかりません。北斎の大画即書会は1804年が最初で、地方にもその評判は届いていました。120畳の和紙と大量の墨汁を使うイベントは、藩から墨の販売権を持っていて、美濃和紙の里・美濃出身の永楽屋にとって、宣伝にはもってこいだったのは確かでしょう。
書店に即書会の引札(広告)が貼られている。永楽屋の店先か?

  猿猴庵が描いた画

 大成功だったイベントを余すことなく記した猿猴庵のリポートは、北斎の尾張の門人・墨僊(ぼくせん。月光亭)に書いてもらった序文をつけて、製本されました。それが版本になったのかはわかりません。そして、墨僊がその本を北斎に見せました。北斎は大いに喜び、お礼として即興で描いた「芋の画」を墨僊に託しました。
 本の中には、奇抜な新芸を褒める例えに、屁ひり芸のことを書いた平賀源内の『放屁論』を書名を伏せて記述していました。北斎は、すぐにその意図するところを察し、“屁”につながる“芋”で洒落た、という後日談が、翌年「追加」されて、巻末に北斎直筆の「芋の画」が綴じられました。
 私はこれを見て、北斎にしちゃお粗末な絵だな、と思いました。肉筆画だとこんな稚拙だったのかな?あまりに変に感じたので、よくよく最後まで見てみると、最後に文政8年(1825年)と書かれてありました。実は、猿猴庵オリジナル本をトレーシング・ペーパーみたいに薄い紙に写し取って、裏打ちして製作した転写本でした。作ったのは、『尾張名所図会』の図画を担当した小田切春江(1810年~1888年)という画家です。彼は、猿猴庵の書物を他にも所有していた形跡があり、もし版本で存在していたら、購入していたでしょう。わざわざ精緻に転写したのは、『北斎大画即書細図』は自筆本しか存在しなかったからではないでしょうか。
 コピー機がなかった時代、図画は手書きで写すしかなかったのですから、たとえ版本があったにせよ、北斎の肉筆画は猿猴庵オリジナル私家版にしか綴じられていなかったわけで、小田切春江はオリジナルを借りて写したのでしょう。
 北斎直筆画の付いたオリジナル版は、未発見だそうです。畳120畳大の達磨図も、寺に保管されているのでしょうか?も少し北斎について調べてみました。
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2013-09-03 | bookshelf
57歳の葛飾北斎
1817年文化14年猿猴庵(えんこうあん)作『北斎大画即書細図』
1825年文政8年小田切春江転写版より

 きっかけは、他愛のないものでした。
 江戸時代の著名人の肖像画のほとんどが、なぜ坊主の老人の姿しか残されていないのか…山東京伝のような、優しいおじ様的肖像画をどうして残さなかったのだろうか…というどーでもいい疑問でした。十返舎一九先輩のは、盃を手にした、いかにも飲んべえ面した60代の男、という情けない肖像画が一番出回っています。広重のは、豊国が描いた数珠を手にした剃髪姿の肖像画ですが、これは死絵なので仕方ないですが、表情はきりりとして生前を偲ばせるものです。
 メディアで紹介される肖像画は、誰が描いたのか表記してないものも多いので、描いた人が生前の本人を見たことない画家である場合もあるでしょう。年老いて死んだ北斎なんて、しわくちゃ爺の肖像ばかりで可哀想になってきます。
  左:作者不明 右:渓斎英泉画
 英泉の絵も坊主の画ですが、表情は北斎を如実に写し取っているように思えます。それなら、自画像だったら確かじゃないか?というと、これが一番当てにならないものでした。以前このblogにも載せた一九先輩の自画像は、ふざけてるとしか思えないものでしたし、北斎にしても同様でした。
「時太郎可候」とあるので、40歳代前半であるはず。
ぜんたいこの時代の画家はシャイだったのでしょう。京伝にしても、戯作に登場させる自画は、艶次郎そっくり(団子鼻)です。しかし、戯作に登場させる実在の人物を、うまく特徴を掴んで描いている場合も多々あります。
 若い北斎 ― 描いたのは、北斎より5つ年上の尾張の文筆家&画家、猿猴庵(本名:高力種信こうりきたねのぶ。1756年宝暦6年~1831年天保2年。尾張藩中級武士)。
 元禄に朝日文左衛門あれば、化政に猿猴庵あり。猿猴庵も文左衛門と同じく、1772年(16歳)から著作活動をしていて、世間の出来事を綴った『猿猴庵日記』や、名古屋城下の出来事を取材した絵入りの記録本を遺しています。文左衛門はプライベートなものでしたが、猿猴庵のほうは、世に伝えるジャーナリストとして活動していたようです。
 そんな彼が、1817年文化14年名古屋へやって来た江戸の有名画家・北斎先生が、西本願寺掛所で120畳の達磨の大画即書会をやる、と聞いてすっとんで行っただろうことは、安易に想像できます。既に江戸などで催され話題になっていたイベントの模様を、猿猴庵は画入りで実況中継風に書き記しました。出来上がったものが『北斎大画即書細図』。猿猴庵の名前が現代でも有名なのは、この作品の存在あってだと思います。
 かくして、ジャーナリストの目で見て描かれた57歳の北斎が、私の目の前に颯爽と登場することになりました。
太い線を描く時は、俵5つ分の藁を束ねた筆を使用。左が北斎。先の画の北斎より皺がない。

彩色は、棕櫚ほうきを使用。右が北斎の後姿。ほうきが達磨の黒目となっているトリック画。
 即書会では弟子が2人補助しています。それぞれ袴の色で識別できるのですが、冒頭の北斎の姿以外、顔に注意を払って描かれていないようです。作品に最初に登場する北斎の姿(冒頭の絵)が、北斎を写し取った画ではないかと思います。
 こうして見ると、どうみても普通の中年侍にしか見えません。ちゃんと髷結ってるし、服装もきちんとしています。想像していた、エキセントリックな北斎のイメージとかけはなれた姿に、最初は信じられませんでしたが、冷静に考えれば、そうだろうな~と納得しました。
 
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