春峯庵什襲浮世絵展観入札目録
東京美術倶楽部 1934年昭和9年刊
神保町の古書店にあり
東京美術倶楽部 1934年昭和9年刊
神保町の古書店にあり
春峯庵事件の肉筆浮世絵贋作は、警察に押収されて保管庫に入れられたそうです。が、その後テント商(?)の近藤吉助に下げ渡された(なぜ?)、とか海外に売られたとか、現在は所在不明になっているようです。
小説『春峰庵事件』では、入札会をするに至った作品は、上野の画商グループが贋作だと思わずに購入したもので、その画商グループの発起人が近常六郎という名で登場します。これが、近藤吉助だとすると、警察は購入者に返却したのだと思います。今ならコピー商品を返却するなんて考えられませんが、どうなんでしょうか。もっとも、入札会用に作成された笹川臨風推薦文付き目録があるので、うかつに真物としては売れないでしょう。
矢田一家の作品は、「春峯庵もの」として古美術界で、現在も出回っているみたいです。(ネットで屏風を発見しました)
しかし、海外へ売られたものはどうなんでしょうか。しがない浮世絵商の近藤吉助が、真物だとも贋作だとも言わないで、事情を知らない外国人に売ってしまった可能性は、大いに考えられそうです。春峯庵事件に絡んだ人は、みんな欲に目がくらんだ人たちばかりですから。
贋作を描いた金満少年は、当時16歳で、その制作方法は実に子供っぽいやり方でした。当時雑誌の付録についていた、虫眼鏡みたいな物を大きく引き伸ばして見える道具で、浮世絵画集の一部を引き伸ばして模写していた、というのです。「恥かきっ子」で病身だった金満は、父親や兄弟が好きな浮世絵を描くことによって注目を浴びたかったのかもしれません。彼の模写絵に、他の大人が懐いていた欲がなかったのが、ホンモノと思われた要因かもしれません。
さて、この春峯庵肉筆浮世絵入札会の内覧会に、渡邊庄三郎も出かけていた、と小説『最後の版元』に書いてありました。彼のその日の日記には、「全部にせもの」と書いてあったそうです。来場者に偽物だと言っても、耳を貸すものは誰もいなかったそうです。笹川臨風博士に賛同していた藤懸静也教授は、庄三郎と同郷で懇意にしていました。一目で贋作だと見破った庄三郎と、見破れなかった浮世絵の最高権威と美術史の泰斗と言われた帝大教授。後者2人は、大金に目がくらんで心眼が曇ってしまったのでしょうか、それとも初手から目利きではなかったのでしょうか。
怖いのは、こういう権威のある専門家が誤りを犯した場合です。贋作でも「真物の太鼓判」を押してしまえば、真物として後世に伝えられてしまいます。春峯庵事件で実刑を受けた画商・金子浮水は、世間から事件の記憶が消えた頃、小布施に現れて北斎館開館に力を尽くしたといいます。
また、「春峯庵もの」でない矢田家制作の浮世絵模写画は、今もどこかに埋もれているのでしょうか。
金満少年は、根津嘉一郎という東武鉄道社長など務めた実業家で浮世絵収集家にその才能を買われて、箱根の別邸で浮世絵の模写を描かされました。根津氏は、日本橋の白木屋で「矢田模作展覧会」を企画していたそうです。更に、海外の名品模写をさせるために渡欧も計画していたとか。しかし、製作中の過労が原因で18歳で死んでしまいました。死後、「遺作発表会」が催され、作品は売約済みになったそうです。30作品ほどあったといいます。それらは、矢田金満の画として今も存在しているのでしょうか。
根津家は、2代目が初代のコレクションを展示するため、根津美術館を開館しました。現在南青山にある根津美術館に、私は訪れたことありませんが、矢田金満の作品がもしあるのなら、実物を見てみたいものです。
それにしても、それほどの天才少年に、どうして彼自身の絵を描かせなかったのかが疑問です。有名画家の模写をさせるためだけに利用したのであれば、結局お金目当てだったのか、と眉をひそめたくなります。しかし、有名画家の作品だから欲しがる愛好家が多い、というのが現実です。どんなに素晴らしい作品でも、名もない作家は売れませんが、ビッグネームであれば駄作でも高値がつきます。
そんな風潮が、贋作詐欺事件を生んだのだ、と思います。