TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

a trip to Sakai City

2015-11-21 | trip
利晶の杜近くにある小島屋の餅菓子。きな粉色のがけし餅。
細かい芥子の実がプチプチしていて、上品な甘さの小豆あんが美味しい

  
 堺に1泊したので、その夜は堺東駅前の商店街で、お好み焼きとビールのセットをいただきました。他県に支店がない地元のお店がいいと思い、アーケードから外れたよさげな雰囲気の専門店に入りました。自分で焼くのかと思いましたが、店員さんが焼き上がりまで面倒みてくれるので安心。枝豆をつまみながらビールを飲んで暫くすると、地元の常連さんらしきお客さんが入ってきて、店員さんと盛り上がっていました。お好み焼きは豚玉にして、ふっくらした生地で美味しかったです。3点セット税込1080円。お得です。
   
 翌日は、バスで「さかい利晶の杜」へ。堺出身の千利休と与謝野晶子を紹介する新しいミュージアムです。この建物の隣に利休の生まれた屋敷の跡があります。誰でも自由に入って見学できるようになっていて、ボランティアガイドさんもいました。ミュージアムの2階に、屋敷跡全体が俯瞰できる場所を見つけました。古墳群地域と違った、商人の町「堺」の雰囲気を感じることができます。
   
 ミュージアムの最寄りに、阪堺電車という路面電車の宿坊駅があるので、それに乗って堺の街中の景色を見ながら難波方面へ向かいました。車窓からは期待したほど古い建造物などは見えませんでした。阪堺電車は、難波へは行かないので、住吉大社前で乗り換えを兼ねて降りました。
 路面電車と自動車がギリギリですれ違う道路すぐに、住吉大社はありました。巨大石灯籠、巨大太鼓橋。反橋(太鼓橋)を渡ると本殿が見えます。とにかく立派です。そして敷地内には、興味深いものもありました。ぶらぶらしていると、何時間でもいられそうです。
  
 重要文化財だという石舞台もみましたが、アルミ製(?)の柵が雰囲気を壊している感が否めませんでした。反橋は、どこから見てもきれいでした。
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a trip to Mozu Ancient Tumulus Clusters 3

2015-11-18 | trip
堺観光ガイドブック(無料リーフレット)内の古墳map
訪ねたのは仁徳天皇陵と○で囲った古墳と案内所、博物館。
黄色で塗った道が竹内街道

 履中天皇陵まで自転車で大仙公園を抜けて行こうとしたら、途中方角が解らなくなってしまいました。園内地図看板で確認して履中陵の方角を目指しましたが、間違えて手前で道を曲がってしまったようで、たどり着けず。レンタサイクルの返却時間が4時半に迫る中、諦めていたすけ古墳へ向かいました。
JR阪和線の向こう側に古墳が見え、歴史観光のグループがいたのですぐわかりました。タヌキが現れるという地点へ行ってみましたが、ゴイサギと亀しかいませんでした。狸はエサがもらえる夕方頃姿を見せるというのですが、私が写真など撮っているうちに歴史ファンのグループが大勢周りにやってきて、ワイワイガヤガヤしていたら、コンクリートの向こうに何か動くものを発見しました。双眼鏡で確認すると、まさしく狸です。3匹くらいがこちらの様子を伺っている様子。他の人にも教えたら、みなさん「ほんとだ、ほんとだ」と眺めていました。どうやら、狸は、人がたくさん来たのでエサでももらえると思ったようです。ちらっとでしたが、見られてラッキーでした。
 この狸、人間が古墳に持って行ったのかと思っていましたが、仁徳天皇陵のガイドさんの話を聞いた限り、古墳に住み着いている(いた)狸や鹿は野生で、周濠を泳いで行き来している(いた)ということです。普段人間が立ち入られない古墳は、里に暮らす野生動物の格好の住処だと。それだけでも、古墳は現代にも役立つものだと思いました。
観光の目玉にもなっていますし。
  
 人気のいたすけ古墳ですが、今こうして私がのんびり狸なんかを見て喜んでいられるのも、60年くらい前に取り壊される危機を阻止した市民の保存運動があったからこそです。堺市博物館には、中心となった考古学者・森浩一氏の手書きの資料が展示してありました。いたすけ古墳から出土した冑型埴輪は、堺市のシンボルになっています。
 さて、時間を気にしながら御廟山古墳へ向かいました。全長約203mで、百舌鳥古墳群の中で4番目に大きい前方後円墳ですが、天皇陵(大王の墓)と言われていません。反正天皇陵は7番目の大きさなのに、です。造られたのは、仁徳天皇陵より少し早い5世紀前半。周濠に沿って遊歩道が整備してあり、とても美しい景観でした。
 
 レンタサイクルを返却し、夕陽を見るために再び市役所展望ロビーに上りました。あまり知られていないのか、ちらほらと人がいるだけだったので、撮り放題でした。たまたま居た人を写りこませたら、影絵のようになりました。画像右は、夕日を撮る人を撮ってみました。
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a trip to Mozu Ancient Tumulus Clusters 2

2015-11-10 | trip
堺市役所21階展望ロビー壁面の航空写真:東から見た古墳群
 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の遥拝所の前の道路を渡ってすぐ、大仙公園内に堺市博物館があります。自動車の人は、遥拝所の東側にある有料駐車場へ。自転車は博物館の入口前のスペースに止められます。
  
 まずは、百舌鳥古墳群シアターで、古墳群についての映像を10分間くらい観ました。会場が地下だったのですが、博物館の受付から地下へ降りる階段が見えなくて、解りづらいなと感じました。映像は数回に分けて上映されていて、それぞれ内容も違ったようなのですが、時間がないため1つだけ見て常設展示室へ向かいました。常設展示室は有料ですが200円なので安いです。
 まずは、古代ゾーン。部屋の中央には長持形石棺の実物大レプリカが。その周りに出土品の展示がされていますが、奈良の橿原考古学博物館と異なるのが、甲冑が多いことです。
  
 橿原の方の武具は、装飾的なものでしたが、こちらは実用的で、実際身に着けて戦った古代人の姿が想像できました。明らかにこの時代は、戦争の時代だったのだと思います。
 百舌鳥古墳群は西暦300年の終わりから400年後半くらいのものだとされています。ここに巨大前方後円墳がある仁徳天皇・反正天皇・履中天皇は、古代中国の歴史書『宋書』の夷蕃(いばん)伝・倭国条=「宋書倭国伝」の中に登場する「倭の五王」、讃・珍・済・興・武の誰かに当てはまる大王です。これらの大王がしていた軍事と外交について、『日本書紀』『古事記』は触れていないので、4世紀~5世紀の倭国については多くの謎がありました。百舌鳥とタッグを組んで世界遺産登録を目指している古市古墳群も含め、天皇陵=大王の墓の学術調査によってその謎を解明することができれば、日本古代史に大きな成果が得られると思います。また、謎が解明できなければ、世界遺産の価値も問うことができないのではないかな、とも感じました。
  
↑レプリカ石棺には、副葬品がどういう位置にあったかも再現してありました。また、実際の甲冑の重さを体験できるようになっていて、試しに兜を持ってみたら結構重かったです。中庭にぽつんと置かれた石室は、これこそ本物なのにどうして雨ざらしなのでしょうか…。
  
 ↑埴輪は、犬や馬など動物や踊る人型など、ユニークな埴輪が目を引きました。
 ↓博物館には、中世や近世のものも展示してあるので、古代の焼き物と中世の焼き物を見比べられるのも面白いです。
 
 画像左は、古代のマグカップ。ドイツでビール注いで飲んでいそうなカップです。右の画像は、本物の織部。逆さにした扇子形だと思ったら、パラソル形なのですね。古代と中世、どちらも甲乙つけがたい作品です。
 興味を引く資料もありました。
 
 奈良時代、民衆のために尽くした僧・行基は堺市出身だそうです。
 館内を半周したかたちで、受付ロビーにでました。無料休憩室でしばし休息。ガラス張りの壁から公園内のタワーが見えました。
  
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a trip to Mozu Ancient Tumulus Clusters 1

2015-11-07 | trip
堺市役所21階展望ロビーから見えたあべのハルカス

 歴史の教科書で何度も見てきた世界最大のお墓「仁徳天皇陵」。せっかく日本に住んでいるのだから一度はこの目で見てみたい―と思い立って、大阪府堺市の百舌鳥古墳群を見学してきました。数か月前から下調べをして、仁徳天皇陵の前にある公園の中に白い高層タワーを見つけたので、そこから古墳を見渡すことができると期待したところ、そのタワーは単なる記念オブジェ的なもので昇れないと解りがっかり。
 かわりに、南海電鉄の堺東駅前にある市役所の展望ロビー(年中無休、無料)から古墳群が見れるというので、到着してまず向かいました。
  画像をクリックすると拡大します
 ↑左画像が、仁徳天皇陵古墳を中心とした百舌鳥古墳群の一部。森のようにこんもりしている左側が後円部、右側が前方部。画像中央の白い建物のある辺りが、大仙公園。その右に履中天皇陵古墳。仁徳陵の後円部の奥に、御廟山古墳が見えます。まだ小さな古墳(といっても結構な大きさ)がたくさんありますが、展望ロビーから見分けるのは苦しいです。ロビーの東側の窓からは、一番近い位置にある巨大古墳、反正天皇陵が見えます(画像右)。右手が前方部です。
 まずは、反正天皇陵を目指します。市役所の向かいにある観光案内所でレンタサイクルを借りて、地図を片手に住宅街の細い道を進みました。
   
 古墳めぐりのルートの道は、色分けしてあります。閑静な住宅地の中に、反正天皇陵の遥拝所を見つけました。18代反正天皇は、淡路島出身。生まれつき歯が一本の骨のようになっていて、瑞井(みずのい)という井戸の水を産湯に使ったので、瑞歯別皇子(みつはわけのみこ)と名づけられたと『日本書紀』にあります。統治期間、特に何もなかったようで、数行の記述しかありません。
 反正天皇陵から仁徳天皇陵まで少し距離があるため、近道するのにルートを外れ住宅地の路地を南に下っていると、赤レンガの廃墟っぽいものを見つけました。古い貯水池の跡でした。
  
 そこから更に路地を通って大きな通りに出ようと思ってのですが、ちょっと方向を間違えてウロウロしていたら、「竹内街道」という道標を見つけました。竹内街道!日本書紀にも出てくる、日本最古の官道の一つ。堺の東方にある二上山の竹内峠を越えて奈良県葛城市に出る街道で、壬申の乱にも使われたという道です。今はアスファルト敷きの生活道路ですが、私の脳が急に過去を遡りし始めて、くらくらしてしまいました。こんな時にタイムトリップはしてられません。気持ち新たに、仁徳天皇陵の遥拝所を目指します。
 仁徳天皇陵の後円部の西側から周濠に沿って行きましたが、途中小さな古墳の横をいくつか通り過ぎました。仁徳陵は、二重の濠があるので、木々と堀の水しか見えません。学校の手前から古墳の周遊道に入れました。所々に万葉集の歌碑が立っていました。前方部分の角を曲がると大きな道路にでました。さらに進むと、遥拝所が。道路を挟んで反対側は大仙公園。
   
↑画像左から2番目は、市役所展望ロビーから見た仁徳天皇陵古墳。さすが一番の観光地だけに、ボランティア・ガイドさんがいっぱいいました。
 ルートとしては、遥拝所から向かい側の堺市博物館へ行き、大仙公園を突っ切って履中天皇陵へ、いたすけ古墳でタヌキを見てから御廟山古墳へ行き、再び仁徳天皇陵へ戻って東側を走って戻りましたが、話のつながりから、仁徳天皇陵の東側を先に書きます。
 南京錠が掛けられているのは、仁徳天皇陵の前方部分の東側。陵墓のお手入れをする時、ここから入るのかしらん…と思いながら自転車を走らせていると、道路工事にぶつかりました。「気を付けてぇや」と工事のおじちゃん。こういう時、大阪に来たな~と感じます。難なく工事現場をすり抜けて暫く行くと、「ううん!」という男性の大きな咳払いのような声が周濠の柵の中から聞こえました。
 え?まさか。自転車を止めて後ろを見ても誰もいません。東側の堀の幅は2メートルあるかないくらいなので、柵を越えて堀を渡る事はできなくもないです。目を凝らして茂みの中を見ても、人の気配はありません。遥拝所のガイドさんが、昔は古墳にタヌキや鹿がいたことがある、と言っていましたが動物らしい生き物も見えません。なんだかちょっと不気味でしたが、それからは周濠の茂みから目が離せませんでした。道は三国ヶ丘駅の近くで、左へカーブします。後円部分に来て、さらに堀の幅が狭くなりました。そして画像の一番右のような、入れそうな場所がありました。でもよく考えたら、仁徳天皇陵の堀は二重周濠だから、渡れても堀と堀の間の場所しか行けないんじゃないか?いや、でも、間の場所でも十分幅があって広いから、誰かが住んでいてもおかしくないな…などと考えながら、レンタサイクルを返しに行きました。
 
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