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before yamato 7

2016-05-04 | ancient history
甘樫丘から東南方向の眺望
山の向こうは宇陀

 伊勢神宮を掘り起こすことは不可能なので、考古学的には何ら確証が得られませんが、畿内にヤマト政権が誕生する以前は、軍事・宗教両面で勢力を持った大国が、伊勢にあったのではないかと想像してみました。
 九州島の卑弥呼を中心とした邪馬台国連合のような大国(古代中国王朝から“倭国”だと認識された)が存在したように、伊勢湾を取り巻く邑々が交易などで結び付きあって、1つの国のような社会を作っていた、という可能性もあると思うのです。
 彼らは、伊勢の海に頼って生活する海人(アマ)族。日本海沿岸の大国・越(コシ)の人々も海人族です。では、内陸で木の実や獣を捕って暮らしていた人々は、何と呼ばれていたのでしょうか。
 『日本書紀』には“毛人”という民族がでてきます。毛人は“エミシ”と読まれています。字面を見ると野蛮な印象を受けますが、山の中の高地は冷えるので、髭や髪の毛を伸ばし毛皮を着ていたせいだと思います。“毛人”をエミシを呼んだのは後のヤマト政権なので、毛人=蝦夷とは言えないでしょう。しかし、山に頼って暮らしていた民族を、一応エミシとしておきます。
 あと、『日本書紀』には隼人(ハヤト)というのがでてきます。この呼称もヤマト政権によるものですが、元々は“隼(ハヤブサ)のように速い人”という意味だそうで、九州の南部から種子島・屋久島に住んでいた民族を指すので、南方から海を渡って来たアマ族に近い民族ではないかと思います。アマ族との違いは、アマ族が定住型なのに対し、ハヤト族は、丸木舟を操って海や川を自由自在に素早く移動できる民族だ、という事です。
 さて、海人があるなら山人があってしかるべしです。記紀でも外せなかった「海幸山幸」の例もあることですし。
 “山人”の音韻は、単純に“ヤマト”じゃないでしょうか。いえ、この場合逆ですか。“ヤマト”という言葉があっての漢字表記にならなければなりませんから。ところが、“ヤマト”の漢字表記は“倭”“大倭”“大和”“日本”…どれもヤマトとは発音できません。“倭”は元々中国側が付けた国名です。日本列島を支配する王朝が“倭”だと国際的に認識されていたとすれば、ヤマト族の為政者は、自分たちの建てた国を名づける際、“倭”という文字をそのまま使って、国内向けに“ヤマト”と呼ばせたのではないでしょうか。
 内陸部であっても、毛人と違い、山々に囲まれた低地で暮らしていたヤマト(山人)族というのが、琵琶湖の辺り・京都・奈良といった地域にいたのでは?と考えました。
 縄文時代から、東西の交易の中心地として様々な民族や文化が交差していたこの地域は、支配者も流動的だったのではないでしょうか。それ故、外敵にもろい面があったのだと思います。
 北陸の越(コシ)のアマ族が南下してイセにたどり着き、イセのアマ族と融合します。コシのアマ族が持ってきた朝鮮伝来の最新技術と武器で、イセは大国になります。やがて彼らは川をさかのぼって、背後の山地へ侵入します。そこにはヤマト族の邑(ムラ)がありました。アマ族はヤマト族のムラを従属させ、磐余邑を作り君臨します。そのリーダーはイワレヒコと呼ばれ、武勇伝は“歌”として口承されていったのでは・・・
 この時点では、アマ族のイワレヒコは、奈良盆地の端(片立、片居というのは傍立・傍居ということで、中心からはずれた場所という意味ではないかと思いつきました。)しか支配していないため、ヤマト族の首長とは認められないはずですが、後のヤマト政権は、イワレヒコを初代天皇としています。この矛盾は、天武天皇が大海人皇子と呼ばれていたことと関係があるのではないか、と思いましたが、それより先に、アマ族が何故ヤマト族の地を侵略する必要があったのかを考えてみようと思います。
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before yamato 6

2016-05-01 | ancient history

『倭国大乱と吉野ケ里』 山川出版社 1990年刊
1989年の“古代シンポジウム・倭国大乱と邪馬台国―吉野ケ里とのかかわり”を中心にまとめたもの


 “倭国大乱”について何かよい本がないかと探して、随分情報が古くなりますが↑上記の本を借りて読んでみました。
 ちょうど佐賀県の吉野ケ里遺跡が盛り上がった時期だったのでしょうか、そこから再び興った邪馬台国「九州説vs.畿内説」みたいな討論は、読んでいて辟易しましたが、少しだけ触れられていた“倭国大乱”についての研究者の見解が、自分が思い描いたものと近いものだったので、安心しました。
 邪馬台国については、陳寿が編纂した『三国志』の魏志倭人伝の記述は、魏王朝側の誇張―朝貢してきた東の夷狄(いてき)が大国であればあるだけ自国の威厳が増す―が多分に含まれていると思うので、この国が畿内のヤマト政権に結び付くとは、私は考えられません。邪馬台国は邪馬台国(それが邪馬壱であっても)。奈良盆地で隆盛し“天皇”を創り出した政権を樹立した権力者は、記紀の伝承にあるように、紀伊半島から上陸し奈良県の宇陀を占領して、磐余(現・桜井市一帯)を治めた武装集団のリーダーだったと思います。
 ただし、彼らは熊野から上陸したのではなく、三重県側から川を遡って宇陀へ抜けたのではないかと推理しました。
 そう考えるきっかけになった物は、『日本書紀』の神武天皇の条で、国見丘の八十梟帥(やそたける)との戦いの前に天皇が歌った「カムカゼノ イセノウミノ オホイシニヤ イハヒモトヘル シタダミノ シダダミノ アゴヨ アゴヨ シタダミノ イハヒモトヘリ ウチテシヤマム ウチテシヤマム―神風の吹く、伊勢の海の大石に這いまわる細螺(キサゴ貝という巻貝)のように、わが軍勢よ、わが軍勢よ、細螺のように這いまわって、必ず敵を打ち負かしてしまおう」という歌でした。
 熊野から北上してきたのなら、伊勢の海など縁もゆかりもないはずです。古事記ではこの歌について何も言っていませんが、さすがに舎人親王はまずいと思ったのでしょうか、「大いなる石は国見丘を比喩したものだ」と苦しい説明を付け加えています。
 この後、梟雄兄磯城(たけるえしき)との戦いの際に疲労した兵士を慰める歌「タタナメテ イナサノヤマノ コノマユモ イユキマモラヒ タタカへバ ワレハヤヱヌ シマツトリ ウカヒガトモ イマスケニコネ―盾を並べて、伊那佐の山の木の間から、行ったり来たりして敵を見張り、戦をしていたので、我らは腹が減った。鵜飼いをする仲間たちよ、今助けに来てくれ」が出てきます。伊那佐山を地図で探したら、近鉄大阪線榛原駅の南方に見つけました。近くに国道369号伊勢本街道が通っています。伊勢本街道は櫛田川に沿って松坂市から、あるいは宮川を下って直接伊勢市に繋がります。
 伊勢国にほど近い伊那佐山を「行ったり来たり」できたのは、この軍勢が伊勢国の者か友好関係にあった者だと推測できます。私は伊勢神宮の歴史に詳しくないですが、伊勢神宮の正式名称は単に「神宮」だそうです。神の住む宮殿。そういえば、三重県の県庁所在地は「津」。何か日本創生の大本が、伊勢湾の三重県側にありそうな気がしてきました。神宮の敷地(外宮、内宮とも)の下には、古代の王宮が埋まっているかも…。もしそうならば、古代日本の歴史の真実は、永遠に解き明かされることはないでしょう。
 
 
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