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Mt.Unebi in autumn

2023-11-05 | trip

畝傍御陵前駅から橿原考古学研究所附属博物館へ向かう途中
畝傍山がきれいに見えました。
秋なのに夏の暑さです。
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a trip to ancient Izumo 7

2017-06-10 | trip

山代二子塚古墳

 風土記の丘学習館から国道432号を松江市街方面にしばらく車を走らせると、左手に大庭鶏塚古墳が見えます。小さな駐車場がありましたが、ちょうど赤信号で停車したので車窓から見るだけにしました。ガイダンス山代の郷へ行くには、古墳と反対側に細い道路があるので右折して、住宅街のごちゃっとした道を進むと右側に見えます。平屋建てのこじんまりした建物の前に駐車場がありました。見学は無料です。
 島根県で最大の前方後方墳(94m)山代二子塚古墳に隣接するこの施設には、二子塚古墳だけでなく近隣の古墳や遺跡の説明や、昔話の紹介などがされていました。巨大円筒埴輪を模した柱の中にミニチュアセットが作られていたり、ちょっと変わった展示がしてありました。
 ガイダンスを出て、道を渡ると二子塚古墳公園がありました。日本で最初に「前方後方墳」と命名された古墳だそうですが、明治時代の陸軍射撃場を作るために墳丘の一部が削られてしまったそうです。今は復元整備されていますが、一見すると円墳が2つくっついているように見えます。
  
この古墳には、復元された時に墳丘の盛土(層)が見られるようにと観察室が設置されているので、その入口を探しました。
 墳丘の端に登れるような階段があったので、順路の矢印通り登ってみましたが入口はありません。反対側へ下りて時計回り回ってみると、登った場所とちょうど反対側に入口が開いていました。中は薄暗く、スポットライトが盛土の層を照らしていました。色の違う何十もの層を見ながら、これを人の手で造ったんだから大変な労力だったろうなぁ…と500年代半ばに生きた庶民の暮らしに思いを馳せました。・・・が、彼らの姿は浮かんできませんでした。なぜなら、古墳も四隅も博物館の出土品も、支配者の遺跡だからです。
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a trip to ancient Izumo 6

2017-06-07 | trip
島根県立 八雲立つ風土記の丘展示学習館

 荒神谷史跡公園の前の道路を道なりに北上すると、国道9号線にでます。進路を東へ車で30分ほど走って、その日は玉造温泉泊。風情ある温泉旅館街の真ん中を流れる玉湯川に、大きな勾玉オブジェを組み込んだ橋が架かっていたり、撮影スポットに自撮り用カメラ置き台があったり、足湯があったりと観光客が喜びそうな演出がされていました。玉造温泉は高いイメージでしたが、調べると結構リーズナブルに泊まれる旅館(ホテル)もあります。そして、泉質は良質です。
 翌日は、松江市にある「八雲立つ風土記の丘」を訪ねました。山陰自動車道無料区間を利用することもできましたが、敢えて花仙トンネルを抜けて県道を使って国道432号へ出ました。風土記の丘は、国道432の両側に広がる地域で古代の意宇(おう)郡にあたり、5~7世紀前半の古墳や奈良・平安時代の役所や倉庫の跡などが点在しています。散策するには、レンタサイクル(無料)で回っても1日かかってしまうので、出土品が展示してある学習館とガイダンス山代の郷を見学しました。
  
特徴ある外観の学習館(200円)へ入ると、意宇で発掘された埴輪がズラッと勢ぞろいしていました。その中心に「見返りの鹿」がいました。ちょっと興奮して、色々な角度から写真を撮ってしまいましたが、このコーナーの埴輪たちはレプリカでした…。本物は?奥の方でガラスケースに入っていました。
  
本物は薄暗い照明の展示室に陳列されてあり、ガラスケースの中でライトが当ててあるため、一緒に撮ろうとしてもフラッシュなしなので記念撮影できませんでした。これまで沢山の埴輪を見てきましたが、こんなポージングの動物埴輪は初めて見ました。
埴輪以外にも、貴重な出土品がありました。
   
岡田山一号墳は、風土記の丘学習館敷地内にあります。学習館を出て、芝生公園のようになっている敷地の小路を奥まで行くと、木が生えている古墳がありました。その隣りの古墳はちゃんと整備して中が見えるようになっていました。
目で確認できるのは、1号墳と2号墳だけでしたが、そこは大小7基から成る古墳群だということでした。意宇は、小規模ですが古墳群が密集しています。
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a trip to ancient Izumo 5

2017-06-04 | trip
左区画が銅剣、右区画が銅鐸と銅矛が埋納された場所
 
 古代史関係の番組に、必ず映し出されるのが「荒神谷遺跡」。銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本という出土数の多さもさることながら、銅鐸と銅矛が一緒に埋納されていた例は全国初。その現場を見られるワクワク感に心躍らせて、車を走らせました。
 出雲ロマン街道を東へ向かい、結構な山間部に入った所に荒神谷史跡公園の看板が見えました。荒神谷博物館と遺跡へ行くには、この看板から曲がります。少し走ると右側に博物館が見えたので、建物正面の駐車場に車を入れました。
   
 先に博物館を見学しました。入館料は無料ですが、展示室は有料です。加茂岩倉ガイダンスよりは広いですが、弥生の森博物館よりはこじんまりした展示室には、銅鐸や銅剣などがどうやって製造されたのかを再現した鋳型が展示されていました。これらの青銅器が造られた工房跡は、付近では見つかっていないそうですが、銅剣は全て100年代半ばに造られた同型で、完成後まもなく埋納されたということです。
う~ん何のために?博物館を出て、遺跡発掘現場へ向かいました。
  
 園内の小路を奥へ歩くと、丘陵の斜面が四角く削られた場所が見えてきました。ついに!
…遺跡はまだ調査中ということで立ち入り禁止。木製階段を昇って行くと展望デッキがあり、そこから遺跡全体が見渡せました。
 青銅器の埋納として考えられているのが、
1)祭祀説 2)保管説 3)隠匿説:部外者から奪われないように隠した 4)廃棄説:青銅器の時代が終わった 5)境界埋納説:共同体間の境界意識の反映
 1~3はあり得そうです。ここで出土した銅鐸の高さは約23㎝という小ささで、他地域で見つかった銅鐸より旧い型(終息期の銅鐸は1mを超える)だけしかなく、銅剣に関しては青銅器の時代の終わりに大量に製造する必要性が感じられないので、4は無いと思います。5の境界意識(縄張り意識ってこと?)はよく解りません。私がなるほどと思ったのが、武光誠氏が『「古代日本」誕生の謎』第3章に書いてあった説です。
 銅剣は4列に整理されていますが、1列めは34本、2列めは111本、3列め120本、4列め93本の各列の本数が、『出雲国風土記』に記されている古代出雲の神社の数に対応する、というものです。1列めは意宇(おう)郡(67社)、2列めは島根・秋角(あいが)・楯縫の三郡(113社)、3列めは出雲郡(120社)、神門・飯石・仁多・大原の四郡(97社)、意宇郡は国衙があったために神社数が多く、他地域の豪族が建てた神社も含まれているためだといいます。確かに、意宇郡以外は『出雲国風土記』に伝わる神社数とほぼ一致します。
 このことから武光氏は「荒神谷遺跡は、出雲の諸豪族が銅剣祭祀を通じて一個のまとまりを作っていたことを物語る=出雲の豪族たちの団結を示す」と結んでいます。
 ヤマト政権の支配下に置かれる前の出雲王国は、『出雲国風土記』で神名火山=神の山とされる仏経山周辺を祭祀場、斐伊川の対岸を王家(もしくは首長)の埋葬地だったと考えると腑に落ちます。四隅突出型墳丘墓が造られるのは、青銅器が埋められた後です。

 
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a trip to ancient Izumo 4

2017-06-01 | trip
西谷3号墳出土の首飾り
防腐剤・威信財として塗布された赤色顔料(水銀朱)の産地は
専門家の分析で中国産朱という結果がでている

 西谷墳墓群史跡公園の道路を挟んで向かい側に、出雲弥生の森博物館があります。
博物館側駐車場の斜面には塗りこめられた横穴墓群がある→クリックで拡大 
 入館無料(特別展は別途有料)で、常設展示室は2階にあります。見どころは、展示室の真中にある四隅突出型墳丘墓3号墳の1/10模型。当時どのように造られていたかを推測して、再現されていました。
  
 墳墓の頂上では、男王と女王が儀式をしています。墳墓の周囲には、異なる衣装を身に着けた別のクニ(邑?)の集団が、土器などを運び込んでいる様子が作られていました。実際このようだったのかはわかりませんが、西谷墳墓で出土した朱と福井県の四隅突出型墳丘墓小羽山30号墳から出土した朱が共に中国産と分析されていることから、日本海沿岸地域に広がる同一民族(親戚)たちが儀式に参加しに来ていた、ということはあり得ることだと思います。また、王族以外の首長もやって来たことでしょう。
 1800年前の「こしムラ」(下古志遺跡)は、北陸の越(古志、高志)から移住した集団のムラだったのではないでしょうか。『出雲国風土記』(神門郡古志郷条)に「池を築造りき。その時、古志の国人等、到来たりて堤を為りき」とあります。古代人は交易や勢力拡大のためだけでなく、灌漑などの技術指導をしに遠方まで移動することもあった、と知りました。
  
西谷墳墓で出土した水銀朱とガラス製勾玉。珍しい型の土器
 水銀朱・勾玉、近くに埋められた青銅器(銅鐸)・・・四隅突出型墳丘墓を造った王族は、道教を信奉していたようにみえますが、大陸からやって来た渡来人王国だったのでしょうか・・・。

 弥生の森博物館でも、学芸員さんが丁寧に説明案内してくださいましたが、出雲歴史博物館ほど広くないので、ゆっくりできました。
 このあと、出雲ロマン街道(広域農道)を東へ向かって15分ほど車で走り、荒神谷遺跡博物館に到着しました。
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a trip to ancient Izumo 3

2017-05-29 | trip
四隅突出型墳墓の分布図

 加茂岩倉遺跡から、元来た道を戻らないで南に向って山を下りて行きます。集落に出る道路の幅は狭いですが、山を下ってしまうと2車線になります。川の堤防道路に出て、左へ行くと神原神社古墳があるのですが時間の都合でカット。右折してしばらく走ると森坂大橋という橋があるので渡って、県道26号で斐伊川を下って行きます。斐伊川は、上流には記紀に出てくる八岐大蛇伝説の里やたたら製鉄の里があり、古代出雲にはなくてはならない川です。出雲平野は斐伊川から流れて来た土砂が堆積してできたそうです。弥生時代にはまだ湿地帯であっただろう出雲平野に入る手前の小山に、今回の旅の最大の目的地「西谷墳墓群」がありました。
  
 古代の墓といえば、円墳・方墳・前方後円墳・前方後方墳・八角墳などの古墳がポピュラーですが、ここの墳墓(実は古墳の定義には当たらない)は四隅突出型墳丘墓と呼ばれていて、愛称は「よすみ」。四角錘台の四隅が舌のように伸びた形をした墳墓で、弥生時代の出雲の王家の墓だとされています。
 この変わった形の墳墓は、↑最初の画像の分布図でわかるように、日本海沿岸地域と出雲から内陸へ入った三次盆地で見つかっています。他の地域で見つかっていないだけ、とも言えますが、あれだけ多くの古墳が見つかっている畿内や河内、日本海側より開発が進んでいる太平洋側で1つも発見されていないということは、ヤマトとは異なる勢力がイズモを中心に存在したことを物語っている、と思います。↑西谷墳墓群史跡公園には5基の“よすみ”がありましたが、4号墳は芝生で覆われているので四隅部分がぼやっとしかわかりませんでした。
  
 3号墳は登れるようになっていて、上には発見された8つの墓穴のうち2つを記してありました。墳墓はかなり高い位置に造られているので、当時の民衆は異様な形の巨大墳墓を見上げるかたちになり、かなり威圧感があったのではないかと思いました。ここは展望台のように西谷をぐるりと見渡せ、隣りの2号墳が俯瞰できます。“よすみ”をバックに写真を撮るならここがお薦めです。
  
 2号墳は中に展示室があって、自由に見学できました。
 
 暗い中で、再現された墓穴の朱がぼんやりライトに照らされていました。前に立って見ていると、何もなかったところに白い人体がゆっくり現れてきました。もともと白い物体があって、ライトの具合で見えないようになっていたのか?と思いましたが、どうも何もないとことから浮かび上がってくるようなので、ホログラム(後で調べたら3Dホログラムというのがあるそうで)だったのでしょうか。史跡公園に隣接する弥生の森博物館では、種明かししてくれませんでした。
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a trip to ancient Izumo 2

2017-05-26 | trip
南側駐車場から見た「加茂岩倉ガイダンス」
銅鐸型の車止め

 ←旅の行程:クリックで拡大します
が訪問した場所  が宿泊地  が道程

 出雲大社と古代出雲歴史博物館の見学でその日は終了。県道28号と国道9号線が空いていたので、宿泊地の湯の川温泉まで車で30分くらいでした。出雲空港から一番近い天然温泉ですが、今回初めて知ったので泊まってみました。「日本三美人の湯」だそうですが、美人の湯だとか美肌の湯だとかはあちこちにありますから、正直期待していませんでした。が!とてもいい湯です。湯船に浸かったとたん、湯が肌に沁みわたるのを感じました。山里にあって夜も静かなので、ぐっすり眠ることができました。翌日はいよいよ古代遺跡巡りです。
 湯の川温泉から時計回りで、加茂岩倉遺跡→西谷墳墓群史跡→荒神谷遺跡というルートで巡りました。加茂岩倉遺跡はかなり山深い場所にあるため、大回りする形になりますが、湯の川温泉から山の方へ向かい、出雲ロマン街道(広域農道)を走り、国道54号に出て南下します。加茂岩倉遺跡の案内板のある交差点で右折して道なりに数分行くと、駐車場があります。山間部の道路ですが、整備されているので快適なドライヴでした。
 普通はこの駐車場から遺跡まで歩く(1㎞近く)そうですが、歩けない人は、駐車場をやり過ごして松江自動車道に並行している細い道路を進んで行って、自動車道のPAを通り越して右に向かう林道のような道路へ入って突き当たった所を右折すると、加茂岩倉遺跡ガイダンス(資料館)の裏手にでます。駐車スペースもあるので安心です。銅鐸車止めを抜けて行くと、右側の山の斜面にガイダンス入口エレベーターがあります。
 加茂岩倉遺跡は、ここに広域農道を作っている最中に見つかりました。見つかっていなければ、先の駐車場からこの道が自動車道路になっていたはずでした。開発という名の自然破壊かもしれませんが、それがなかったら永久に発見されなかったと思うと複雑な気持ちになります。
ガイダンスの中には、発掘された銅鐸のレプリカが展示されていました。
  
ここは自然光で見られるので、模様や文様や入れ子の状態もよく見えました。ガイダンスの入館は無料です。
 ガイダンス入口の反対側にあるドアから外へ出ると、木造の回廊が山肌に沿ってめぐらせてあります。スミレなど野草の花が斜面にいっぱい咲いていたし、ウグイスの大合唱が聞けて、とても気持ちがよかったです。その先に、銅鐸発見現場がありました。
  
工事中に重機で掘り起こされた状態を、レプリカで再現したものです。まるで映画のセットみたいでした。これらは自由に触ることができるので、発掘気分も味わえます。そして、出雲の古代人がなぜこのような場所に39個もの銅鐸を埋めたのか、神名火山である仏経山を挟んで、358本の銅剣と銅鐸6個・銅矛16本が埋められていた荒神谷と直線距離で約3.3kmという近さには、何か関係があるのか?などと、現場に立って思いを馳せてみました。
 今でこそショベルカーを使って急斜面を掘る事ができますが、当時いったいどうやって沢山の銅鐸を運んで、穴を掘って埋めたのでしょうか。また、なぜここだったのでしょうか。
 出土した銅鐸の作られた年代は、弥生時代中期~後期(紀元前100年代~紀元200年代頃)と推定されているようです。埋められたのはそれ以後となりますから、倭国大乱(100年代後半)や邪馬台国(連合)の勢力と関係があるのでしょうか…。
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a trip to ancient Izumo 1

2017-05-24 | trip
島根県立古代出雲歴史博物館

 これまでに、青森県「三内丸山遺跡」福井県「鳥浜貝塚」など日本の古代遺跡を観光してきて、太古の日本海沿岸地域の文化的な繋がりを感じてきました。「古代日本海文化」とか「環日本海文化」と言われています。そこで今回は、越の国(福井県)とも交流があった出雲国(島根県)を訪ねてみました。
 島根県はずいぶん昔に、出雲大社や松江城など観光ルートを巡ったきりでした。一般の観光ルートなら電車やバスで行けますが、古代遺跡を巡るとなるとやはり車を使うのがベストです。遺跡までの道路は山の中でも整備されて走りやすいですし、博物館や遺跡に併設された資料館には無料駐車場が完備されていますから、安心です。
 出雲大社で参拝して、拝殿の裏手にまわって2000年に出土した本殿の巨大柱の跡を見学。
  
大木3本を1つに束ねた柱の様子を表した図が、数カ所石畳にはめ込まれていました。宝物殿の方に説明板と一部分の再現模型がありました。本物の柱は東隣りにある歴史博物館内にあるので、行きました。(↑画像右:境内遺跡から出土した宇豆柱)
 広い駐車場から館内の長い廊下を歩いて行くと受付カウンターがあり、チケットを買います。常設展だけですと610円(宿泊所やお店に割引チラシが置いてあります。490円)ですが、特別展や企画展があると別料金になります。この時は開館10周年記念企画展「出雲国風土記 語り継がれる古代の出雲」を開催していました。遠方からだと前売りWEBチケットを利用するとお得です(この時は200円引きになりました)。展示室前ロビーにガラスケースに入った宇豆柱が鎮座していました。常設展示室には、宇豆柱から想像した古代出雲大社本殿の模型が飾られています。これも見ものなのですが、一番の目玉は荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡から出土した銅剣・銅矛・銅鐸の展示でしょう。
遺跡にも同じものが展示してありますが(発掘現場にもありますが)、それらは全てレプリカ。本物はこの博物館でしか見ることができません。荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣と、上には新しい銅の色が光るレプリカ銅剣もディスプレイしてあって、圧倒されました。そしてガラスケースには銅鐸が。模様もはっきり残っています。ガラスがあるため見難いですが…。荒神谷と加茂岩倉を訪れる前の予備知識をつけるためにも、ここは必見です。
 見ている最中、いつの間にかガイドさんが傍らにいて、色々説明してくださいました。展示品を見て気分が高揚していた私は、ついついガイドさんと色々な事を話してしまい、90分ほどで見学できるところを時間が足らなくなってしまったくらいでした。企画展の方は、駆け足になってしまいちょっと勿体なかった気が…。ミュージアムショップやカフェも行きたかったのですが、いけずじまいでした。
 じっくり見学する場合は、3時間くらいの余裕を持って来た方が無難かもしれません。

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a trip to Eiheiji Temple and Foods

2016-07-17 | trip
  
 福井県縦断旅行最終日。芦原温泉から芦原街道を福井市まで下り、福井県立博物館へ立ち寄りました。無料駐車場完備、入館料100円、70歳以上無料。昭和30年代の町並みを再現した部屋や、レトロな国産車が陳列してあったりしますが、昭和レトロだけでなく縄文弥生の出土品の展示もありました。かなり大きな博物館でした。博物館から車で30分くらい山の方へ走って、永平寺に到着。市営駐車場に止めると随分歩くことになるため、参道まで車で上ると商店の人が道沿いで駐車してくれと手招きしていました。どうせなら近い方がいい、とお寺の正面のお店に1台分空いていたので駐車しました。車のキーを店の人に預け、そこで昼食を食べました。
 さすが観光地。たくさんの観光客がお寺の入口で記念撮影していました。境内は、樹齢何百年?というような木々が生い茂り、荘厳な雰囲気をかもしだしていました。
  
 通用門で参観料500円を払い中へ入ると、1つの部屋へ集まって、注意事項と簡単な説明をお坊さんからされました。そのあとは、てんでに順路に沿ってお寺の中を写真を撮りながら自由に見学できました。山の斜面に建っているので、それぞれの建物をつなぐ階段が結構急でした。禅寺ですが、お堂の中は中々絢爛豪華でした。以上で福井旅行終了。
 道中、福井名物グルメも食べてきました。
  
 道の駅若狭おばまのフードコーナーでは、焼き鯖寿司がついた鯖の竜田揚げ入りうどんセット。水まんじゅうも付いてて美味しかったです。美浜温泉旅館での夕食は、ズワイガニと海鮮会席。カニは時期が終わっていましたが、身が詰まってて、ミソも濃厚で満足。イカの酢味噌和えも美味。やはり日本海は海の幸です。日本海側でも内陸部だとお蕎麦。丸岡城のお蕎麦屋さんで食べた「越前おろしそば」は、つゆにおろし汁が入っているぶっかけ蕎麦で、暑い日にはさっぱりしてて美味しいです。
  
 芦原温泉での夕食も、ズワイガニと海鮮。こちらの蟹の方がひと回り大きく、他の料理も豪華でしたが、すでに前日カニ1杯食べていたので、ちょっと食傷気味。当分カニは食べなくてもいい…と思いました(贅沢)。永平寺参道での食事は、ソースかつ丼にしました。薄いカツをさっとソースにつけて、ご飯の上にのせたものですが、ソースがくどくなく肉も薄いから、揚げ物が苦手でも大丈夫でした。永平寺は胡麻豆腐も名物なので、お土産に買って家で食べました。ちょっと変わっていて、違う種類の胡麻がマーブル状に流し込まれていて、ちょっとお高いお豆腐。甘味噌だれをつけると美味しいですが胡麻豆腐の味がしなくなり、つけないと胡麻の味がほんのりしますが物足りない味…上品なお味といえばいいのでしょうか、微妙でした。
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a trip to Toujinbou

2016-07-11 | trip
北陸自動車道を丸岡インターから出て、インターからほど近い丸岡城へ行きました。丸岡城の駐車場の所に食事処があって、そこで名物越前おろしそばを堪能。庭園の横にあるテラス席からは丸岡城の天守閣の上部が見えました。小腹を満たすには丁度良い量のお蕎麦でした。
 城見学はなしで、そこから田んぼの中の一般道をひたすら三国に向けてドライヴ。
  
 三国は、男大迹(おおど=継体天皇)王の生誕地とされています。母親の振媛(ふるひめ)は容貌端正で大変な美人だったと伝えられているので、男大迹もイケメンだったんじゃなかろうか…と。『日本書紀』では、父親が応神天皇の5代後の子孫で、母親が垂仁天皇の7代後の子孫となっていて、何とか天皇の血筋を引いていることから、子のなかった先王の後継ぎとして候補の挙げられたとなっています。最初は丹波国の倭彦王だったそうですが、弱腰になって逃げてしまったため、男大迹を三国から迎えることになりました。音頭取りは、大伴金村。
 日本海方面へ田園地帯を抜ける道路を北へ曲がると、三国の町に入りました。といっても、三国の市街地には行かず、丘に上る道を進みます。登り切った所に、目的地「出世山古墳公園」がありました↑。
 復元してある古墳が4つほど。そのうち1基が石室内部に入れますが、崩れていたのをコンクリートで固めたため、遊園地の遊具のような感じがしました。公園の中心にはレプリカ銅鐸があり、鳴らし放題でしたが、詳しい発掘の説明がないため、史跡というより単なる町の公園でした。しかし高台にあるので展望は良く、三国港の方まで見渡せました。三国神社の辺りに振媛の宮殿があったとしたら、出世山古墳群は彼女らの一族の墓地だったのでしょうか。とにかく福井県は古墳群がたくさんあります。
  
 出世山古墳から5分ほどで、東尋坊へ到着。晴れててよかったです。最高の見晴らしです。希少な柱状節理が見れて満足。
 市営駐車場は500円ほど取られますが、奥の方へ入って行くと商店の駐車場がいくつもあり、私は東尋坊まで歩きたくなかったので、東尋坊に一番近い(一番奥の)お店やさんの駐車場に止めました。そこからも雄島や海喰洞(かいしょくどう)が見えました。エレベーターで下へ降りると店の中に出て、正面がすぐ記念撮影場所でした。岩場にはどこにも柵がないので、自己責任で散策です。この日のためにぺったんこの靴を履いて行きましたが、さすがに先端まで行って下を覗くことはできませんでした。ベタな観光名所と侮らず、来てよかったと思える場所でした。
 遮る物がなく、岩からの反射熱もあって、かなり暑い。駐車料金の代わりに店内で冷たい物を買って、一休み。2日目は芦原温泉泊。

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a trip to Tsuruga

2016-07-09 | trip
 翌朝、美浜温泉から国道27号線で敦賀市へ向かいました。バイパス道路は綺麗で走りやすく、天気もよくて快適なドライヴ。20分くらいで鮮魚市場の日本海さかな街に到着。ひと回り買物して、気比の松原へ。真っ直ぐ日本海方面へ向かうと松林が見えてきました。駐車場は松林の間の細い道路を入った先です。来る前は駐車場までどうやって行くのか心配でしたが、松林の中を走れるのは感動です。足腰弱い人でも安心。駐車場の目と鼻の先は、美しい砂浜。すでに観光客や釣り人がちらほら。写真を撮っていたら、学校の遠足らしい観光バスが数台入って来たので、早々に次の目的地へ向かいました。駐車場は海水浴シーズンは有料になるようです。
 
 気比の松原から東へ5分ほどで気比神宮が見えてきました。裏の駐車場の入口がわからなかったため、参拝者用駐車場に車を止め、正面から入りました。大きな赤い鳥居。午前中から観光ツアー客が大勢来ていましたが、敷地内に入ると不思議と人の姿が減ったように感じました。空気も違います。事前に調べて、長命水というパワースポットがあると知っていたので、きょろきょろ探すと、目立たない場所に亀さんの口からちょろちょろと水が流れておりました。パワースポットという割には、みんな知らないのか素通りで、私ひとり喉を潤しました。
  
 本殿で参拝を済ませ、一休みしようと思い、裏にある喫茶処へ行きましたが開いていなかったので、がっかりしていると、その奥に何やら神社らしいお社が。誰も来ないひっそりした場所に「角鹿神社」はありました。
 年代は明確ではないですが(私は4世紀頃ではないかと)、朝鮮半島の南部にあったとされる大加羅という国からやって来たツヌガアラシト(別名ウシキアリシチカンキ)という名の王子が、崇神天皇の時代に越の国の笱飯(けひ)の浦に一艘の船で来た、と『日本書紀』の垂仁天皇の巻に書かれています。それによると、彼らの額には角が生えていて、それでその地を「角鹿(つぬが)」と名付けたそうです。王子が越国に着いた時、崇神天皇が亡くなり垂仁天皇が即位したので、3年垂仁天皇に仕えた後、帰国する折、彼の国の名を先王・御間城(みまき:崇神天皇の名前)の名前に改名せよと言われ、大加羅が「みまな(任那)」と云われる由縁を伝えています。「みまき」→「みまな」は苦しいですけどね。何にしても、朝鮮半島の南にあった国の王子が気比の海岸に来たことは、事実のような気がします。『日本書紀』では天皇に謁見する目的で出発し、海岸線伝いに出雲国から回って来た(要するに奈良が目的地)ようになっていますが、それは肯定しかねますが。
  
 そんなことを考えながら散策していると、観光バスが止まっている横に何やら鳥居と石碑があり、写真撮ってる人たちが。何だろうと行ってみると、奈良時代以前にあった気比宮殿の跡地だそうで…。気比神宮の下も発掘すると遺構が出てくるのでしょうね。
 気比神宮を後にして、北陸自動車道で一気に丸岡へ。
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a trip to Wakasa & Mikata

2016-07-08 | trip
北陸の古代史を訪ねて御食国(みけつくに)若狭と
縄文時代の遺物を見に、三方五湖へ行きました

 初めての福井県の旅。福井県は通過したことはあっても、ちゃんと見て回ったことがなかったので、色々調べに調べました。
 目的は縄文弥生時代の遺跡見学だったので、小浜市の若狭歴史博物館と国道27号線沿いの古墳群、そして何といっても外せないのが、鳥浜貝塚の出土品を展示している三方五湖畔の縄文博物館。さらに、越の国発祥の地「つぬが」こと敦賀の気比神宮。せっかくだから気比の松原も行きたいし東尋坊も見てみたい…蟹も食べたいし温泉も楽しみたい。永平寺も行ってみたい…。2泊3日に抑えるため、諦める名所旧跡の多い事…。旅は小浜市からスタートでしたが、市内の観光地や古寺、鯖街道関連は今回はパスし、道の駅若狭おばまから東へ車を走らせました。
  
 道の駅から車で10分弱。遠敷(おにゅう)にある福井県立若狭歴史博物館は、無料駐車場完備、入場料300円、70歳以上無料です。地図上で「遠敷」が読めなかったのですが、どうやら元は「お丹生(にゅう:硫化水銀or酸化鉄の産地)」の当て字だというようでした。
 そんな古代若狭の国の匂い漂う地にある博物館。しかし館内撮影禁止のため、パンフレットとスタンプの画像です。↑鳥浜貝塚出土の漆塗り櫛はレプリカです。ここは古代だけでなく若狭の歴史を展示しているので、仏像の展示室も充実していて(レプリカが多いですが)よかったです。意外にも、若狭の地理的なことを立体地図上に光でマッピングした装置(ヒストリーマップ)が、解りやすかったです。鯖街道は1つじゃなかったんですね。他にも、解体新書が展示されていたりして、なぜ?と思ったら、杉田玄白と中川淳庵が小浜藩医だったんです。思わぬところで江戸に遭遇しました。
  
 次に向かったのは、上中という地区にある若狭町歴史文化館。国道27号線へ向かおうと、博物館の駐車場を出てスグの角地に古墳らしきものがありました。草木が生えてなかったので整備中なんでしょうか。国道27号線・丹後街道沿いにも、小さな前方後円墳がたくさん点在しているので寄りたかったのですが、現存する古墳は整備していないから解りづらいそうです。27号を熊川宿方面へ行く手前で南へ折れると、若狭町役場上中庁舎があり、歴史文化館はその建物の中の1室でした。よくある地域の出土品を展示した部屋なのですが、展示品が明日香村とか桜井市だとかに負けてないです↑。受付もなく勝手に入室できるのも驚きです(入館無料)。上中周辺の古墳から土器・鎧・装飾品など豊富な物が出土したということは、若狭国も越国に引けを取らないほど豊かな国だったに違いありません。ここは、行ってよかったです。

 再び丹後街道に戻り、三方五湖方面へ向かいました。途中、脇袋古墳群という田んぼの中に点在する古墳群があり、それは車窓から少し見ることができました。こんもりした木々ですけど。街道から脇道に入る面白そうな場所が点在していましたが、時間がないので三方まで一直線。三方から三方五湖方面へ逸れて、今回の旅行最大のお目当て「若狭三方縄文博物館」に40分弱で到着。湖に面した公園の中に、古墳みたいな建物があり、2階(?)に入口がありました。
  
 「縄文のタイムカプセル」と呼ばれる鳥浜貝塚に関するものが展示してある博物館は、無料駐車場完備、入場料500円です。受付からエレベータで降りると、縄文後期の埋没林の杉の大株が出迎えてくれます。私は漆塗り櫛の実物が見れると期待していたのですが、ここのもレプリカでした。本物は特別展示があったようです。ちょっと残念でしたが、たくさん並べられた丸木舟を見たら心が躍りました。縄文後期~晩期の丸木舟で、古代日本海文化は丸木舟に乗った海人族によって繁栄したんじゃないかという推測の信憑性が強まったからです。(ユリ遺跡出土)
館内は撮影禁止。鳥浜貝塚については、鳥浜貝塚が詳しいです。
 丹後街道へ戻り、美浜方面へ。1日めは美浜温泉で宿泊。ぬるめのお湯にじっくり浸かり、体を癒し肌もツルツル。夕食は、ズワイガニ1杯!と海の幸。
 
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a trip to Sakai City

2015-11-21 | trip
利晶の杜近くにある小島屋の餅菓子。きな粉色のがけし餅。
細かい芥子の実がプチプチしていて、上品な甘さの小豆あんが美味しい

  
 堺に1泊したので、その夜は堺東駅前の商店街で、お好み焼きとビールのセットをいただきました。他県に支店がない地元のお店がいいと思い、アーケードから外れたよさげな雰囲気の専門店に入りました。自分で焼くのかと思いましたが、店員さんが焼き上がりまで面倒みてくれるので安心。枝豆をつまみながらビールを飲んで暫くすると、地元の常連さんらしきお客さんが入ってきて、店員さんと盛り上がっていました。お好み焼きは豚玉にして、ふっくらした生地で美味しかったです。3点セット税込1080円。お得です。
   
 翌日は、バスで「さかい利晶の杜」へ。堺出身の千利休と与謝野晶子を紹介する新しいミュージアムです。この建物の隣に利休の生まれた屋敷の跡があります。誰でも自由に入って見学できるようになっていて、ボランティアガイドさんもいました。ミュージアムの2階に、屋敷跡全体が俯瞰できる場所を見つけました。古墳群地域と違った、商人の町「堺」の雰囲気を感じることができます。
   
 ミュージアムの最寄りに、阪堺電車という路面電車の宿坊駅があるので、それに乗って堺の街中の景色を見ながら難波方面へ向かいました。車窓からは期待したほど古い建造物などは見えませんでした。阪堺電車は、難波へは行かないので、住吉大社前で乗り換えを兼ねて降りました。
 路面電車と自動車がギリギリですれ違う道路すぐに、住吉大社はありました。巨大石灯籠、巨大太鼓橋。反橋(太鼓橋)を渡ると本殿が見えます。とにかく立派です。そして敷地内には、興味深いものもありました。ぶらぶらしていると、何時間でもいられそうです。
  
 重要文化財だという石舞台もみましたが、アルミ製(?)の柵が雰囲気を壊している感が否めませんでした。反橋は、どこから見てもきれいでした。
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a trip to Mozu Ancient Tumulus Clusters 3

2015-11-18 | trip
堺観光ガイドブック(無料リーフレット)内の古墳map
訪ねたのは仁徳天皇陵と○で囲った古墳と案内所、博物館。
黄色で塗った道が竹内街道

 履中天皇陵まで自転車で大仙公園を抜けて行こうとしたら、途中方角が解らなくなってしまいました。園内地図看板で確認して履中陵の方角を目指しましたが、間違えて手前で道を曲がってしまったようで、たどり着けず。レンタサイクルの返却時間が4時半に迫る中、諦めていたすけ古墳へ向かいました。
JR阪和線の向こう側に古墳が見え、歴史観光のグループがいたのですぐわかりました。タヌキが現れるという地点へ行ってみましたが、ゴイサギと亀しかいませんでした。狸はエサがもらえる夕方頃姿を見せるというのですが、私が写真など撮っているうちに歴史ファンのグループが大勢周りにやってきて、ワイワイガヤガヤしていたら、コンクリートの向こうに何か動くものを発見しました。双眼鏡で確認すると、まさしく狸です。3匹くらいがこちらの様子を伺っている様子。他の人にも教えたら、みなさん「ほんとだ、ほんとだ」と眺めていました。どうやら、狸は、人がたくさん来たのでエサでももらえると思ったようです。ちらっとでしたが、見られてラッキーでした。
 この狸、人間が古墳に持って行ったのかと思っていましたが、仁徳天皇陵のガイドさんの話を聞いた限り、古墳に住み着いている(いた)狸や鹿は野生で、周濠を泳いで行き来している(いた)ということです。普段人間が立ち入られない古墳は、里に暮らす野生動物の格好の住処だと。それだけでも、古墳は現代にも役立つものだと思いました。
観光の目玉にもなっていますし。
  
 人気のいたすけ古墳ですが、今こうして私がのんびり狸なんかを見て喜んでいられるのも、60年くらい前に取り壊される危機を阻止した市民の保存運動があったからこそです。堺市博物館には、中心となった考古学者・森浩一氏の手書きの資料が展示してありました。いたすけ古墳から出土した冑型埴輪は、堺市のシンボルになっています。
 さて、時間を気にしながら御廟山古墳へ向かいました。全長約203mで、百舌鳥古墳群の中で4番目に大きい前方後円墳ですが、天皇陵(大王の墓)と言われていません。反正天皇陵は7番目の大きさなのに、です。造られたのは、仁徳天皇陵より少し早い5世紀前半。周濠に沿って遊歩道が整備してあり、とても美しい景観でした。
 
 レンタサイクルを返却し、夕陽を見るために再び市役所展望ロビーに上りました。あまり知られていないのか、ちらほらと人がいるだけだったので、撮り放題でした。たまたま居た人を写りこませたら、影絵のようになりました。画像右は、夕日を撮る人を撮ってみました。
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a trip to Mozu Ancient Tumulus Clusters 2

2015-11-10 | trip
堺市役所21階展望ロビー壁面の航空写真:東から見た古墳群
 仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の遥拝所の前の道路を渡ってすぐ、大仙公園内に堺市博物館があります。自動車の人は、遥拝所の東側にある有料駐車場へ。自転車は博物館の入口前のスペースに止められます。
  
 まずは、百舌鳥古墳群シアターで、古墳群についての映像を10分間くらい観ました。会場が地下だったのですが、博物館の受付から地下へ降りる階段が見えなくて、解りづらいなと感じました。映像は数回に分けて上映されていて、それぞれ内容も違ったようなのですが、時間がないため1つだけ見て常設展示室へ向かいました。常設展示室は有料ですが200円なので安いです。
 まずは、古代ゾーン。部屋の中央には長持形石棺の実物大レプリカが。その周りに出土品の展示がされていますが、奈良の橿原考古学博物館と異なるのが、甲冑が多いことです。
  
 橿原の方の武具は、装飾的なものでしたが、こちらは実用的で、実際身に着けて戦った古代人の姿が想像できました。明らかにこの時代は、戦争の時代だったのだと思います。
 百舌鳥古墳群は西暦300年の終わりから400年後半くらいのものだとされています。ここに巨大前方後円墳がある仁徳天皇・反正天皇・履中天皇は、古代中国の歴史書『宋書』の夷蕃(いばん)伝・倭国条=「宋書倭国伝」の中に登場する「倭の五王」、讃・珍・済・興・武の誰かに当てはまる大王です。これらの大王がしていた軍事と外交について、『日本書紀』『古事記』は触れていないので、4世紀~5世紀の倭国については多くの謎がありました。百舌鳥とタッグを組んで世界遺産登録を目指している古市古墳群も含め、天皇陵=大王の墓の学術調査によってその謎を解明することができれば、日本古代史に大きな成果が得られると思います。また、謎が解明できなければ、世界遺産の価値も問うことができないのではないかな、とも感じました。
  
↑レプリカ石棺には、副葬品がどういう位置にあったかも再現してありました。また、実際の甲冑の重さを体験できるようになっていて、試しに兜を持ってみたら結構重かったです。中庭にぽつんと置かれた石室は、これこそ本物なのにどうして雨ざらしなのでしょうか…。
  
 ↑埴輪は、犬や馬など動物や踊る人型など、ユニークな埴輪が目を引きました。
 ↓博物館には、中世や近世のものも展示してあるので、古代の焼き物と中世の焼き物を見比べられるのも面白いです。
 
 画像左は、古代のマグカップ。ドイツでビール注いで飲んでいそうなカップです。右の画像は、本物の織部。逆さにした扇子形だと思ったら、パラソル形なのですね。古代と中世、どちらも甲乙つけがたい作品です。
 興味を引く資料もありました。
 
 奈良時代、民衆のために尽くした僧・行基は堺市出身だそうです。
 館内を半周したかたちで、受付ロビーにでました。無料休憩室でしばし休息。ガラス張りの壁から公園内のタワーが見えました。
  
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