神日本磐余彦=彦火火出見の畿内征服ルート
熊野に上陸したイワレビコ(後の神武天皇)一行は、熊野の高倉下(たかくらじ)という人物の助けにより復活しました。しかし、前途の山は険しく道もわかりません。すると天照大神が八咫烏を遣わし、烏の後について行くと宇陀(奈良県宇陀郡)にたどり着きました。
宇陀→吉野へ旅行→宇陀の高倉山→→国見丘(くにみのたけ)→忍坂邑(おさかのむら)→
磐余邑(元は、片居or片立)→磯城邑
宇陀には兄猾・弟猾(えうかし・おとうかし)というリーダーがいましたが、イワレビコを騙して殺そうとする兄を弟が裏切って、イワレビコに従属したため、兄は殺され宇陀はイワレビコに征服されました。
イワレビコが宇陀の東にある高見山に上って回りを見ると、国見丘に八十梟帥(やそたける)を、磐余邑に兄磯城(えしき)の軍があふれているのが見えました。勝敗に不安だったイワレビコは、占いをしてから国見丘の八十梟帥を攻撃して討ち取りました。また、たくさんいた残党は、忍坂邑でだまし討ちにしました。
占い通りに事が運び勢いに乗ったイワレビコ軍は、磯城邑を攻めることにしました。戦の前に帰順した弟磯城(おとしき)に、兄磯城(えしき)に降伏するよう説得させましたが、兄は断固として戦いました。イワレビコ軍は挟み撃ち作戦で兄磯城を討ちました。
長髄邑(ながすねむら)=鳥見(とみ)→そほの県の波哆の丘岬(はたのおかざき)→和珥(わに)の坂下→臍見の長柄(ほそみのながら)の丘岬→高尾張邑(たかおわりむら)→橿原
それから約1か月後、遂に長髄彦との戦争がはじまりました。かつて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦って、兄イツセに負傷を負わせた敵です。何度も戦いましたが、なかなか勝つことができなかったイワレビコの元に、金色の鵄(とび)が飛んできて弓の先にとまりました。その鵄は雷のような光を放って、長髄彦を眩惑させました。それにちなんで、長髄邑は鵄の邑と呼ばれ、後になまって鳥見となりました。
長髄彦は、イワレビコに使者を送って、「自分は饒速日命(にぎはやひのみこと)という天神に仕えているが、天神が2人もいるものなのか。天神の子と名のって人の土地を奪おうをする偽者だろう」と伝えます。イワレビコと饒速日は天神である証拠品を見せ合います。両方本物だとわかった饒速日はイワレビコに帰順しますが、長髄彦は信じようとしなかったため、君主の饒速日に殺されてしまいました。その後饒速日はイワレビコに忠実に仕えたので、寵愛されました。彼が物部氏の祖先となります。
最大の敵、長髄彦に勝利したのち、帰順しない土族―添県(そほのあがた)の女賊、和珥(現在の天理市)の居勢祝(こせのはふり)、臍見の猪祝(いのはふり)を一部の軍を使って皆殺しにし、高尾張邑にいた土蜘蛛(躰が短く手足が長いという身体的特徴を持った人々)を葛で編んだ網で捕えて殺しました。それで、この邑を葛城と改名しました。
約2年半で畿内を征服したイワレビコは、「畝傍山の東南にある橿原の地は、国の真中である。ここに都を造るべきである」と言って都を造り、天皇に即位しました。
翌年戦いに尽くした人物に論功行賞を与えた中に、兄を裏切って帰順した弟磯城―名前は黒速(くろはや)がいました。彼は磯城の県主に任命されました。また、葛城では、剣根(つるぎね)という者が国造になりました。
以上のように、『日本書紀』の神武東征の物語は、奈良県に入って急に詳細になり、侵略ルートも理屈に適うように思われます。実際、現代の地図上に地名が残っているものが多いことも、信じやすくさせてしまいます。
でも、実際は、神武天皇という「天皇」自体がこの時代には存在しなかったのですから、この奈良盆地を征服して大王となった人物は、九州の西のほとりから海を渡ってやって来た、神がかり的な力を持ったホホデミという1人の勇者、という事になります。
しかし、誰が考えても、エンジンのない舟で地図もなく畿内を目指すことなど6年では無理でしょうし、日向を発ったのが例えホホデミで、瀬戸内海を難なく航海できたとしても、吉備国に3年いた時点で既に吉備国に吸収されてしまった、と考えた方が理に適っていると思えるのですが。つまり、竜田を侵略しようとしたのは吉備国軍で、孔舎衛の戦いは長髄邑の英雄伝として伝承され、負けた吉備の方には残らず、後の物部氏の本記(もとつふみ)にでも記してあったのではないでしょうか。
長髄邑は、現在の奈良市鳥見町(生駒山を越えた西側は日下町)、登美ヶ丘、富雄一帯にあったのではないかと思います。そして、長髄邑のリーダーが従っていたニギハヤヒという大王が、河内湖の東から生駒山周辺、北は鳥見を含み、南は大和川辺りまで支配していたのではないでしょうか。
ニギハヤヒが物部氏の祖先だと伝えられているので、ヤマト政権が樹立する以前、奈良県の北部一帯は物部氏の支配地だったと考えられます。物部氏を調べてみると、古代の土着豪族で、全国各地に物部の末裔を名乗る集落があるようなので、蘇我氏に敗れる前の繁栄は、ニギハヤヒの時代から続いていたのではないかと、私は想像を膨らませてしまいました。(ニギハヤヒの時代は弥生時代後期?)
しかし、ニギハヤヒを帰順させたのはホホデミではなかった、と私は思います。