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finding hohodemi 7

2015-12-31 | ancient history
神日本磐余彦=彦火火出見の畿内征服ルート

 熊野に上陸したイワレビコ(後の神武天皇)一行は、熊野の高倉下(たかくらじ)という人物の助けにより復活しました。しかし、前途の山は険しく道もわかりません。すると天照大神が八咫烏を遣わし、烏の後について行くと宇陀(奈良県宇陀郡)にたどり着きました。
 宇陀→吉野へ旅行→宇陀の高倉山→→国見丘(くにみのたけ)→忍坂邑(おさかのむら)→
 磐余邑(元は、片居or片立)→磯城邑

宇陀には兄猾・弟猾(えうかし・おとうかし)というリーダーがいましたが、イワレビコを騙して殺そうとする兄を弟が裏切って、イワレビコに従属したため、兄は殺され宇陀はイワレビコに征服されました。
 イワレビコが宇陀の東にある高見山に上って回りを見ると、国見丘に八十梟帥(やそたける)を、磐余邑に兄磯城(えしき)の軍があふれているのが見えました。勝敗に不安だったイワレビコは、占いをしてから国見丘の八十梟帥を攻撃して討ち取りました。また、たくさんいた残党は、忍坂邑でだまし討ちにしました。
 占い通りに事が運び勢いに乗ったイワレビコ軍は、磯城邑を攻めることにしました。戦の前に帰順した弟磯城(おとしき)に、兄磯城(えしき)に降伏するよう説得させましたが、兄は断固として戦いました。イワレビコ軍は挟み撃ち作戦で兄磯城を討ちました。
長髄邑(ながすねむら)=鳥見(とみ)→そほの県の波哆の丘岬(はたのおかざき)→和珥(わに)の坂下→臍見の長柄(ほそみのながら)の丘岬→高尾張邑(たかおわりむら)→橿原
それから約1か月後、遂に長髄彦との戦争がはじまりました。かつて孔舎衛坂(くさえのさか)で戦って、兄イツセに負傷を負わせた敵です。何度も戦いましたが、なかなか勝つことができなかったイワレビコの元に、金色の鵄(とび)が飛んできて弓の先にとまりました。その鵄は雷のような光を放って、長髄彦を眩惑させました。それにちなんで、長髄邑は鵄の邑と呼ばれ、後になまって鳥見となりました。
 長髄彦は、イワレビコに使者を送って、「自分は饒速日命(にぎはやひのみこと)という天神に仕えているが、天神が2人もいるものなのか。天神の子と名のって人の土地を奪おうをする偽者だろう」と伝えます。イワレビコと饒速日は天神である証拠品を見せ合います。両方本物だとわかった饒速日はイワレビコに帰順しますが、長髄彦は信じようとしなかったため、君主の饒速日に殺されてしまいました。その後饒速日はイワレビコに忠実に仕えたので、寵愛されました。彼が物部氏の祖先となります。
 最大の敵、長髄彦に勝利したのち、帰順しない土族―添県(そほのあがた)の女賊、和珥(現在の天理市)の居勢祝(こせのはふり)、臍見の猪祝(いのはふり)を一部の軍を使って皆殺しにし、高尾張邑にいた土蜘蛛(躰が短く手足が長いという身体的特徴を持った人々)を葛で編んだ網で捕えて殺しました。それで、この邑を葛城と改名しました。
 約2年半で畿内を征服したイワレビコは、「畝傍山の東南にある橿原の地は、国の真中である。ここに都を造るべきである」と言って都を造り、天皇に即位しました。
 翌年戦いに尽くした人物に論功行賞を与えた中に、兄を裏切って帰順した弟磯城―名前は黒速(くろはや)がいました。彼は磯城の県主に任命されました。また、葛城では、剣根(つるぎね)という者が国造になりました。

 以上のように、『日本書紀』の神武東征の物語は、奈良県に入って急に詳細になり、侵略ルートも理屈に適うように思われます。実際、現代の地図上に地名が残っているものが多いことも、信じやすくさせてしまいます。
 でも、実際は、神武天皇という「天皇」自体がこの時代には存在しなかったのですから、この奈良盆地を征服して大王となった人物は、九州の西のほとりから海を渡ってやって来た、神がかり的な力を持ったホホデミという1人の勇者、という事になります。
 しかし、誰が考えても、エンジンのない舟で地図もなく畿内を目指すことなど6年では無理でしょうし、日向を発ったのが例えホホデミで、瀬戸内海を難なく航海できたとしても、吉備国に3年いた時点で既に吉備国に吸収されてしまった、と考えた方が理に適っていると思えるのですが。つまり、竜田を侵略しようとしたのは吉備国軍で、孔舎衛の戦いは長髄邑の英雄伝として伝承され、負けた吉備の方には残らず、後の物部氏の本記(もとつふみ)にでも記してあったのではないでしょうか。
 長髄邑は、現在の奈良市鳥見町(生駒山を越えた西側は日下町)、登美ヶ丘、富雄一帯にあったのではないかと思います。そして、長髄邑のリーダーが従っていたニギハヤヒという大王が、河内湖の東から生駒山周辺、北は鳥見を含み、南は大和川辺りまで支配していたのではないでしょうか。
 ニギハヤヒが物部氏の祖先だと伝えられているので、ヤマト政権が樹立する以前、奈良県の北部一帯は物部氏の支配地だったと考えられます。物部氏を調べてみると、古代の土着豪族で、全国各地に物部の末裔を名乗る集落があるようなので、蘇我氏に敗れる前の繁栄は、ニギハヤヒの時代から続いていたのではないかと、私は想像を膨らませてしまいました。(ニギハヤヒの時代は弥生時代後期?)

 しかし、ニギハヤヒを帰順させたのはホホデミではなかった、と私は思います。
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finding hohodemi 6

2015-12-04 | ancient history
『日本書紀』に基づく近畿の東征ルート

 『古事記』に「安芸国の多祁理宮(たけりのみや)に7年、吉備国高嶋宮に8年滞在してから、明石海峡で亀の背に乗って釣りをしていた国つ神を水先案内人として家来にして、浪速の船着場を経て、白肩津(しらかたのつ)という港に船をつけた」と書いてあることが、『日本書紀』では、安芸国埃宮に1年ちょっと滞在後、吉備国高島宮に移り、一挙に天下を平定するため、3年間で船舶を揃え兵器や食糧を蓄えて東へ向かった、ということになっています。
 ルートは一緒でも、かかった年月が15年と4年では、大きな開きがあります。正確な年月が解らなくとも、10年以上なら長いということでしょうが、4年というのは短かすぎで、どちらが真実に近いのか迷いました。それで、自分なりの考えを導き出してみました。
 『日本書紀』は日向から浪速までの期間を短くしたかったのだと思います。なぜなら、東征に出発した時イワレビコは45歳だと決めてしまったからです。『日本書紀』の巻第三神武天皇の章から一応年月日が記されています(編年体で書かれている)が、編纂者によって数字は操作されていると思いました。書紀によれば、神武天皇(=イワレビコ)は127歳で死去したことになっていますが、もし神武天皇が実在の人物であったなら、127歳まで生きたというのは虚実でしょう。東征にかかった年月は、『古事記』で最低16年、『日本書紀』では6年余りと短縮されています。瀬戸内海ルートを端折ったのは、そこでの情報が少なかったからとも考えられます。
 私が考えたのは、『日本書紀』編纂チームはイワレビコ東征当時の西日本の情報を殆ど持っていなかった、というのと、古事記に明記されていた年月を大幅修正してまでイワレビコ出発時の年齢を45歳にしたかった(古事記は年齢に触れていません)のではないか、という事です。この疑問も、イワレビコの東征をたどった後で解いてみようと思います。
 日向国吾田邑→筑紫国宇佐→筑紫岡水門→安芸国埃宮(えのみや)→吉備国高島宮→難波碕(なにわのみさき)→河内国草香邑の白肩津
イワレビコ軍は、船団を率いて難波津までやって来て、当時まだ存在していた河内湖に侵入します。この湖は生駒山の麓あたりまであったようで、4~5世紀頃河内湖は草香江(くさかえ)と呼ばれていたそうです。現在の東大阪市日下町あたりです。そこの白肩津に着岸した一行は、陸路で竜田へ向かおうとしましたが、道が狭く険しいので断念し、白肩津へ戻ります。
 竜田は、生駒山地の最南端・信貴山の麓にある奈良県生駒郡斑鳩町龍田だと思います。斑鳩といえば法隆寺と聖徳太子が思い浮かびますが、地図を見るとここは大阪から奈良盆地へ出る最短の水路(大和川)があることがわかりました。どうして川を利用しなかったのでしょう。この時代には、大和川は河内湖に続いてなかったのでしょうか。
 白肩津→孔舎衛坂(くさえのさか)→草香津(盾津=蓼津)→茅渟(ちぬ)の山城水門(やまきのみなと:雄水門(おのみなと))→紀の国の竈山(かまやま)→名草邑→佐野→熊野の神邑・天磐盾→熊野の荒坂の津→宇陀
 とにかくイワレビコたちは引き返しました。恐らく、彼らが上陸したのを知って待ち伏せされたのでしょう、生駒山地周辺を統治していた地元勢力の長髄彦(ナガスネヒコ)が軍を率いてやってきて、孔舎衛坂で戦闘になりました。孔舎衛は、現在日下町の国道170号線が走る辺りに地名が残っています。
 その戦いで、イワレビコの兄・イツセノミコトが負傷します。イワレビコ軍は「自分は日神の子孫であるのに、日に向って敵を討つのは、天道に逆らっている。云々」ともっともらしい言い訳をつけて、退却します。それから1ヵ月後、山城水門(現在の和歌山市小野町らしい)に着き、竈山へ行きますが、そこでイツセが死に竈山に葬った、と書かれています。『古事記』では、イツセは男之水門(おのみなと=山城水門)で亡くなったことになっており、そこから南へ回り更に東へ回って熊野村に着いたとなっていて、海路で熊野に行ったと思われます。
 しかし、日本書紀に書いてあるルートだと、竈山は内陸地(和歌山市和田に竈山神社がある)で次に向かった名草邑は現在の名草山だと考えられ、そうなると陸路で紀伊半島を南下したように思えます。しかも名草邑で女賊を討伐した後、佐野を越えて熊野の神邑(みわむら)に至った、と書いてあり、海路ならば「越える」必要はない(佐野は現在の和歌山県新宮市佐野だと思われ、現在の新宮市の熊野川河口と思われる神邑の手前に当たります)と思いました。
 海路にしろ陸路にしろ、紀伊半島を縦断するのは大変な道のりです。そこがポッカリ抜けているのは、イワレビコの進軍は、和歌山市辺りで終わっていたのでは?と考えると納得できます。というのも、神邑から荒坂の津(三重県熊野市)までの間に、イワレビコの他の2人の兄たちも荒波を鎮めるため人身御供として死んでしまい、残ったイワレビコと彼の息子手研耳(タギシミミ)と兵士たちも熊野に上陸した後、神に毒気を吐かれて萎えてしまったとなっているからです。これは、全滅したという事ではないでしょうか。
 彼らが復活して奈良県宇陀に行き着く過程も、神代の神話めいた有名な「八咫烏」の物語などが登場し、現実味が薄れてしまっています。果たして、イワレビコは熊野に上陸して、険しい山河を越えて奈良へ入ることができたのか、大いに疑問を感じます。
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finding hohodemi 5

2015-12-01 | ancient history
『日本書紀』の記述に基づいて、ホホデミの東征ルートを現代の地図上に記してみると、
多くの矛盾と疑問が浮かび上がりました(難波津に河内湖を描き加えてあります)

 日本の初期中央集権国家が形作られていく過程で、重要な働きをした畿内の権力者の祖先は、最古の歴史書『日本書紀』によれば、西のほとり日向(ひむか:現在の鹿児島県南さつま市)から船でやって来た一族のリーダーだということになっています。一族の兄弟の名前の違いや畿内に至るまでの年月などの違いがみられる『古事記』でも、この一族の東征ルートに大きな相違はありません。
 ただ、諸本で記された東征ルートは、古事記と日本書紀と地元の風土記や伝承を併せて研究者が作成したものなので、少々混乱させられてしまいました。↑上記のルートは『日本書紀』のみの記述で作成しましたが、出発点の「日向国美々津」というのは定説になっているため出発点にしてみました。
 実は、記紀には東征のスタート地が明記されていないのです。古事記には、「カムヤマトイワレビコノミコトは、同母兄のイツセノミコトと高千穂宮に居て、『どこに行ったら天下を治めることができるだろうか、やはり東の方へ行った方がよかろう』と相談して、日向を発って筑紫へ行った」と大雑把に書かれてあるだけです。日本書紀においては、「天皇は自ら諸皇子・舟軍を率いて、東征に向われた」としか書かれてなく、彼らがどこに居住していたのかさえも不明です。それ故、研究者は日本書紀で不明の部分を古事記で補い、穴のあいた部分をそれ以外の史料(風土記や土着の伝承など)で調べて明らかにしたのでしょう。しかし、その作業はあくまで天皇家が神武から少なくとも飛鳥時代の天皇まで一系で繋がっている、という史観をベースにして成り立つものだと気付きました。古代に天皇家はなく、いくつかの大王の統治する国々が存在していた、という観点で歴史を考えるとき、この謎解きのような研究が、皇国史観の刷り込みを招いているのではないか?と疑問に感じてきました。
 記紀で不明な箇所は、編纂者が敢えてぼかして書いたのではないでしょうか。勿論、編集時の時代から何百年も前の事なので、本当に解らなかったことも多かったでしょう。というより、不明だった事の方が多かったはずです。それが、ある部分では非常に詳細に記してあるのに、ある所でははっきりしてなかったりするのは、そこに何か手が加えられたのではないかと考えられます。例えば、日本書紀にはヤマトイワレビコが東征に向う理由が詳細に書かれていますが、彼が居住していた宮や船出の地には全く触れられていません。上記の地図にあるように、途中で休む仮の宮は明記してあるにもかかわらず。
 なぜでしょうか。古代史について様々な観点から書かれた幾人かの研究者の書籍を読みました。『日本書紀』を何度か読み返したりもしましたが、答えは見つかりません。ただ、書いた地図を見て気づいたことがあります。西の方は空白が多い、ことです。
 いくら船旅とはいえ、エンジンがなかった古代の舟のこと、もうちょっとこまめに寄航するはずじゃないか、と。そこで、思わぬ賊と闘いになったという伝承があってもおかしくはないでしょう。不思議なことに、吉備国の高島宮まで、イワレビコたちは何の妨害にも合わず、高島宮で3年間軍備を整えた後、いよいよ畿内へ攻め込みます。そこで初めて地元勢力の抵抗にあうのです。そして、大阪湾から橿原に至るまでは、事細かに述べられています。紀伊半島周辺の記述の中にも、ぽっかり空いている箇所が2箇所ほどありますが。
 『日本書紀』の中でぼかしてある箇所や記述されていない事や場所についての疑問は、結構単純じゃないかと思いました。編纂者が重要だと思わなかった、もしくは天皇家の歴史に関係なかったから、ではないでしょうか。例えばヤマトタケルの東征に富士山が出てこないのは、何か意味があったからではなく、富士山がヤマト政権と関係なかったから、で説明がつくと思います。記紀は、関わりないと判断された事は書かれていないのだと思います。
 こう考えると、イワレビコの住居や出発の地は、重要事項と判断されなかったということになります。古事記で「高千穂の宮」と記述されたところは、書紀では「成長されて、日向国吾田邑(ひむかのくにあたのむら)の吾平津媛を娶って妃とされた。手研耳命(たぎしみみのみこと)を生まれた。45歳になられたとき・・・・・」という記述から、吾田邑(現在の南さつま市阿多辺り)に暮らしていたと推測できますが、そこからどうやって美々津へ移動したのか、もしくは舟で速水之門(現在の豊予海峡)へ出たのかが抜け落ちています。
 要するに、東征にあたって重要な事柄は、畿内での土着勢力との戦いであって、それ以前は余り関係ないと天皇家は考えていたのではないでしょうか。乱暴な言い方をすれば、出発点が何処でも、イワレビコが何処に住んでいようとも、ヤマト政権の始まりに支障はなかったということです。
 では、どうして『日本書紀』は、天皇家の祖先を日本の「西のほとり」の一族に設定しなければならなかったのでしょうか。この答えは、やはり記紀が編纂された時代を知ることによって理解できるようになりましたが、その話は後にして、まずは東征の記述でわかった、ヤマト政権成立以前の畿内の国々について綴ります。
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