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the birth-myth of japan 2

2015-04-21 | ancient history
 現代語で解りやすく記した『古事記』は、それぞれの逸話が面白く、漫画を読むがごとく読み終えてしまいました。
 しかし、面白く読めたからといって、内容が正しく理解できたかどうかは定かではありません。読んでいる途中、何度も「?」な場面がありました。特に私の場合は、物語の舞台となる場所が、地理的に定りませんでした。
 古代の地名から現在の実在する土地に当てはめると、登場人物が瞬間移動しているような感覚になることもありました。そんな時は、この話の登場人物は神々なんだ、と改めて納得するのですが、それにしても『古事記』に描かれた神々は人間的すぎるのです。
 例えば「天の岩屋戸」のお話では、天照大御神を岩屋から引き出すために、多くの神様が集まって相談して決めた策の中に、桜の木で鹿の骨を焼いて占いをさせる、というのが出てきます。神様が占いをする、という矛盾。神が占いで神託を受ける??また、現代語訳中には、「天宇受売命(あめのうずめのみこと:女神)が、桶を踏みつけて踊り狂い、神がかりのようになって、乳房をかき出し、裳の紐を垂れて、女陰を出した。」とありました。神が「神がかり」になるとはいかに?神々が集まっている岩屋戸のある場所は、高天の原(たかまのはら)で、現世のある地上での出来事ではありません。
 今改めて、この箇所を読んでみると、神代が現実の時代ではいつ頃なのか、想定できる記述があることに気が付きました。
 1「鉱山の鉄をとってきて、精錬させる。」
 2「それから、鏡を作らせる。」
日本列島に初めて鉄が出現したのが、弥生時代初期(紀元前2世紀頃)だとされています。後期には、西日本全域に広まっていたようですが、当時の鉄(鉄器)は、原料を朝鮮半島からの輸入に頼っていたそうです。また、鉱物その物より技術(精錬や加工)の方が価値が高かった(鉄を制した者が権力を持てた)ので、日本列島で製鉄が可能になったのは、朝鮮半島から技術者集団が移住した以降という事になります。通説では弥生時代に製鉄技術はなかったと言われていますが、近年弥生時代の製鉄所と推測される遺跡も、発見されているそうです。しかし、遺跡の規模は小さく原始的だという事で、本格的な鉄生産は古墳時代後期(6世紀~)以降と考えられています。
 更に、精錬した鉄を鏡に加工したとあります。銅鏡は博物館でもよく見ますが、鉄鏡とは初めて耳にしました。アマテラスを岩屋戸からおびき出す鏡は、『日本書紀』によれば真経津鏡(まふつのかがみ)or八咫鏡(やたのかがみ)という銅鏡で、三種の神器のひとつです。銅鏡なら、弥生時代後期から国産のものが出土しています。
 『古事記』を通しで読んでいた時には、1と2を別々の作業だと思っていたので、天の岩屋戸のエピソードは弥生時代中期~後期に相当する、と考えました。でも、1と2が繋がった作業だとすれば、鏡は鉄製だったと解釈できます。「鉄製の鏡」調べてみました。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう
 大分県日田市のダンワラ古墳(竪穴式古式古墳)で出土した鉄鏡で、西暦1世紀~3世紀弥生時代のもので、古代中国漢の時代に作られた鏡とされています。大変珍しい鏡で、古代中国では魏の時代(西暦3世紀前期~)、鉄鏡は皇帝クラスの高貴な人物しか所有されなかったそうです。日田市では、卑弥呼が使った宝飾鏡だと言われているみたいです。
 日田(ひた)は、かつて『古事記』中で天孫が降臨した日向(ひむか)という地名でもあったので、非常に興味深い事実です。

 『古事記』のアマテラスの鏡が鉄鏡だとしたら、「天の岩屋戸」神話は、日田を中心にした地域で弥生時代後期(あるいは、古墳時代初期)に、実際にあったシャーマン的最高権力を持った女性の逸話だったのかもしれない・・・と思えてきました。
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the birth-myth of japan 1

2015-04-15 | ancient history
現代語訳『古事記』 梅原 猛 著 学研文庫2012年刊
1980年刊『現代語訳日本の古典1 古事記』の文庫化

 古事記を手っ取り早く読もうと思い、現代語訳本を近所の図書館で探しました。開架図書に、全訳が一冊になっている単行本と里中満智子さんの漫画2巻があったので、借りて読んでみました。先に漫画でざっと大筋を理解しておいた方が、読みやすいと考えたからです。漫画は面白く、あっという間に読み終えてしまいました。
 次に現代語訳の単行本に取り掛かりましたが、どうも読みにくいものでした。「元は古事記は口承だった」という訳者の観点から、お爺さんの語り口にしてあったのです。それがどうも中途半端な文章になっていたせいか、違和感を感じました。(それもそのはず、後日色々読んでみると、古事記は口承文学ではなかったという事がわかりました。)選択を間違えたと思い、他の訳者で探しました。「一番読みやすく、わかりやすい」という点で、哲学者の梅原猛先生の『古事記』を選んでみました。
 訳者の専門が「哲学」というのが不安でしたが、思想的な偏りはないと思います。現代文の組み立てがスムーズで、読みやすかったです。
 『古事記』といえば、「天の岩屋戸」「因幡の白兎」とか「八俣の大蛇」の物語が幼い頃誰かに読んでもらった(またはTVで見たのか)記憶にあるくらいでした。読んでみて、かなり勘違いしていたと知りました。
 「天の岩屋戸」の場面は、現代では子供に不道徳な描写が出てきますし、因幡の白兎は白い兎のことではなく、鮫に毛をむしられ素肌になった「素(しろ)兎」だったこと。主人公は兎ではなく、大国主神(またの名を大穴牟遅神おおなむちのかみ)だったこと。「八俣の大蛇」に至っては、須佐之男命(スサノオノミコト)と倭健命(日本武尊ヤマトタケルノミコト)がごっちゃになっていました。

 考えてみれば、『古事記』は天皇家とその血筋が神に続くという正当性を説いている書物ですから、兎が主人公の教訓話などあり得ません。『古事記』の中のトピックをベースに創られた「昔ばなし」は、あくまで子供が興味を持つような面白いお話に仕立ててあるので、『古事記』とは別物だったのだと気づかされました。(十返舎一九の『東海道中膝栗毛』が子供用読み物として、本来の意図を消されてしまったように)。
 弥次さん喜多さんが、人畜無害なお調子者ではなかったように、『古事記』に登場する神々や天皇(ミコト)たちの物語も、決してきれい事だけのめでたい話ではありません。
 神様は洋の東西問わず、身勝手で残虐です。ですから、支配者(ここでは時の権力者天皇一族)に至っては尚の事です。血生臭い権力争いや暗殺事件に陰謀・・・現代日本社会では考えられないような事が、政権を握る支配者階級(天皇一族とその側近ら)の間で繰り広げられていたという事実を、昔話ではない『古事記』を読んで知りました。特に、英雄的イメージが強かったヤマトタケルが、少年の頃から冷酷で残忍な性分で、父親(第12代景行天皇)からも恐れられ遠ざけられたために、九州や東国へ遠征に行かされていた(遠征先で死んでくれたら、と実父から思われていた)という話は、ショックでした。
 ちょっと待った! アマテラスもスサノオもヤマトタケルも神話でしょ?
そうです。でも神話ができるのにも理由があるはずです。現代のように、お金儲けのために物語を創作する時代ではありません。物語一つ一つの信憑性は確かめようがないので、誰が何を目的として『古事記』を作ったのか・・・数多ある古事記解説本の中から、何冊か読んでみました。
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large keyhole-shaped tomb mounds3

2015-04-08 | ancient history
『知識ゼロからの古墳入門』広瀬和雄著
幻冬舎 2015年1月刊行

 古代日本のヤマト政権下で、なぜ巨大古墳が造られ、前方後円墳と呼ばれる鍵穴型古墳が支配層の墓として採用され、日本列島各地に広まっていったのか、という事を非常に解りやすく図と漫画とイラストで書かれている本を見つけました。著者は『前方後円墳の世界』を著した広瀬博士。考古学者かと思っていたら、文学博士だそうです。
 ここ数か月、幾人かの古代史に関する本を読みましたが、一口に古代史といっても専門が細分化されていて、『日本書紀』や『魏志』などの文献を研究する文献学、古墳や遺跡を発掘調査する考古学、歴史地理学、文化人類学…さらに哲学者や芸術家(美術史)といった一見古代史と関係なさそうな研究分野からのアプローチがあり、それぞれの立場からの観点で書かれているため、中には『古事記』や『日本書紀』を軽んじる傾向や、古墳に拘泥する考古学に批判的な研究者もいることを知りました。また、少し前まで異分野の横のつながりが薄かったこともわかりました。
 
 古代の歴史が知りたい一般人としては、個々の研究者の見解よりも総合的な研究結果が知りたいわけで、総括的に書いてある↑のような入門書は、有り難く感じました。古墳に関する素朴な疑問に回答する、という形式なので、答えも明確で納得できます。
 私の素朴な疑問、「前方後円墳はなぜ鍵穴型なのか」についても述べられていました。形については、古くから様々な憶測がされていたらしいです。江戸後期の儒学者は「宮車」。松本清張が「男女交合」。五木寛之「二上山」。古代日本史研究者の岡本健一「壺」…等々。その中で、宮車というのは古代日本には存在していなかったから、却下。↓(以下は、本書とは無関係の私観です)↓
 ネット検索してみると、「壺に見える」という人は結構いて、逆さに見ると「人形」にも見えます。松本清張の「男女交合説」はいかにも小説家らしい発想だと思いましたが、そこから考えを発展させると「子宮」になります。
 子宮―母の胎内。生命の源。

 集落の統括者が死ぬと、鎮魂と守り神としての再生を願ってお墓の上で祭祀が行われた、というのであれば、胎内に戻すという考えは理に適っていると感じました。円が子宮なら、長く伸びて先が広がった方形部分は膣(産道)に見えますし、墓を取り囲む環濠の水は羊水と考えられます。実際、この説を唱えている人もいました。
 前方後円墳が発生してくるのが卑弥呼の時代(西暦200年前期)辺りからで、卑弥呼は倭国を代表して古代中国の魏に使者を送っているので、当然この頃には古代中国の死生観にも通じていたことでしょう。中国大陸からでなくても、弥生時代には殯(もがり)という葬祭儀礼が、既にあったそうです。これは、死者が埋葬されるまでの一定期間、殯宮という場所に棺を安置し、遺族や近親者が死者の霊を鎮め、蘇生を願う習慣に寄るものだという事です。
 そのような儀式をしていたからこそ、墳丘の形が子宮と産道をイメージした形になった、と考えられないでしょうか。そして、「死者の蘇生、神としての再生」の意味を含んでいたから、ヤマト政権は政権に従属する上級階層者にしか、この形の墓を造ることを許さなかったのではないでしょうか。

 形だけ見ていた時は、前方後円デザインを考案しそれを定番化させた古墳時代の支配階級の人たちって、なんて美的センスのない人たちだったんでしょう、と思っていました。そのダサい形の墳丘を巨大化して、海外からやってくる異国人に見せつけてたなんて、同じ日本民族として恥ずかしいとさえ思いました。
 しかし、古代人の葬祭観から考えれば、出来るべくしてできたデザインだったと納得です。
 350年間続いたこのデザインは、7世紀初め頃消滅したそうです。なぜ消滅したかは、上記の本に載っています。
 
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