TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

the illustrations of the edo period culture 6

2011-04-30 | art
***江戸文化の挿絵6-喜多川歌麿***
 かかる身はうしわか丸のはだかにて弁慶じまの布子こひしき 
は、十返舎一九著『東海道中膝栗毛七編 上』の中で、京都の五条橋で喜多八が、六編の最後で大阪淀川の船で荷物を失くした上、酔っ払って丸裸となり弥次さんに木綿合羽を借りて着ていたので、せっかく都へ来たにもかかわらず凹んで詠んだ狂歌です。
 とき1808年文化5年。駄洒落を詠み込む狂歌はこの頃には一般庶民にも身近な歌でしたが、1700年代に大田南畝などが流行らせた「和歌のパロディ」の頃は、江戸文化人のお遊びでした。狂歌を浮世絵と共に印刷した狂歌絵本が持て囃され、当時の新興板元・蔦屋重三郎が絵本の挿絵を描かせ名を上げた絵師が、美人大首絵で有名な喜多川歌麿(1753年-1806年 狂名:筆綾丸ふでのあやまる)です。彼も北斎・清長同様、草双紙の挿絵を担当していました。

        
 蔦重は、見込みのある絵師には必ず当時戯作者番付№1の山東京伝の挿絵を描かせています。画像は1802年享和2年刊行の京伝作『延命長尺 御誂染長寿小紋(おんあつらえぞめちょうじゅこもん)』の挿絵です。「命」を棒として具象化して様々な命の有り様を描いた読み物です。上の画像は、遊女に入れ込んで「女で命を削る」者。鉋(かんな)で命の棒を削っている男の脇には、鉋=原因である女郎がこたつに入っています。同じ「削る」でも、「酒で命を削る」者もいます。
        
 遊女屋通いで「命の洗濯」をする者もいますが、洗濯も過ぎると「命が縮んで」しまいます。年末に掛取り達が詰めかけ困りきる男。女ゆえに命の縮むを「業平縮(伊勢物語の主人公・女たらしの在原業平と織物の縮みを掛けた)」他に「舌切り縮」「越後縮」などこじ付けています。
 提灯の絵は判じ絵になっていて、「奢った」「報いで」「ござる」。

        
 長生きしたければ、草木を養うように命を養うべし。お爺さんは命の松に聖賢の書物のとぎ汁(白水)と仏典の煎じ汁をかけて大事に育てています。
 美人画とはまた違った味のある絵で、書いてある事を巧く表現しています。どことなく北尾政演(山東京伝の画号)のキャラにも似ていますが、盆栽や松の木の描写は流石。歌麿の師匠・鳥山石燕は狩野派の門人でしたが、歌麿は挿絵を中心に描いていた北尾重政(京伝の師匠)も尊敬していて重政の処にも出入りしていたそうです。
 
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my prosaic products

2011-04-20 | product
             
 
         最後に自分の創ったものの展示会をしてみました。
         それっぽい雰囲気の空間が出せたかな。
 
         見本があって作るような手芸とは違うので
         巧い下手は関係ありません。
         と自分に言いきかせても
         イメージ通りに創り出せないもどかしさ...

         でも、あることに―音楽・映画・書物・環境など何でも
         インスピレーションを受けて、それを何かで表現しようとする行為
         (ある人にとっては音楽だったり、映像だったり、小説だったり
          絵画だったり、彫刻だったり、舞踊だったり、、、)
         ―その行為自体に意義のあることで
         それを作っている“時”が至福の時なのです。
         完成品がイメージに近ければ近いほど満足度も高いですが
         不出来だったからといっても
         それはそれで“今の自分”として認め、
         続けることによって技術はついてくるものです。

         大切なのは、技術より「なぜそれを創らなくてはならなかったのか」。
         勘違いしてはならないのは、その行為は“趣味”ではない、ということ。

         私はなぜこんなものを創らなければ気が済まなかったのでしょうか...
         
         でも、“物”が私に語りかけてくるのも事実です。



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Il pendolo

2011-04-12 | bookshelf
 先週からウンベルト・エーコ著『フーコーの振り子』を読んでいる。フーコーの振り子のあるパリ国立工芸院から話は始まってすぐ『ダ・ヴィンチ・コード』や『天使と悪魔』みたいなミステリーだと解るが、ミステリーを解くというより、中世ヨーロッパ史(この本ではテンプル騎士団)を学ぶといった雰囲気である。
 中世ヨーロッパ。といえども著者はイタリア人、登場人物もイタリア人でミラノの出版社ということで、登場人物が行動している場所が私も歩いたことことがあり宿泊したこともある界隈が出てきたりすることもあって、とっつきにくさは感じられない。テンプル騎士団の存在など聞いた事もない、十字軍が何をしたのかさえ知らないが、中世欧州はいろんな騎士団がいたんだなぁ。母に話したら書棚からコナン・ドイルの『白衣の騎士団』単行本上・下巻を出された。それはこの振り子をやっつけてから読もう。
錬金術やホムンクルスの文字もチラチラでてくる怪しげな時代。日本は執権北条氏~足利氏の時代。イタリアは人文主義思潮が起こってダンテが『神曲』なんか書いてた時代だ。
 著者のエーコ氏は小説家ではなく、記号論専攻の大学教授。道理でアーサー・C・クラークのSF読んでるような文章だと思った。ちゃんと確信のある文章は読んでいて面白い。記号論的思考で謎解きすると面白いのが「東洲斎写楽」。知ってか知らぬか解らないが、そのような方法で写楽の謎に迫った本を以前読んだが、結局真実は記号論的推理から遠いところ(ほぼ無関係)にあり、現在ではそれが定説になっている。ということは、過去の謎を解き明かすのに、宗教的なもの、伝奇や日記、預言書や呪術書、紋章や絵画やレリーフその他のあらゆる象徴的な物の研究結果が、必ずしも真実に迫るものになるとは云い難い、んじゃあないかなぁ。そんな風に考えたら、小説は成り立たないんだけど。
 意外に、事実はいつも単純であっさりしてるものだから。




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woman's face with a letter

2011-04-10 | bookshelf
 未だ心にひっかかっている「手紙をくわえた女の首」の絵。一九先輩の草双紙に出てくる前からどこかで画を見たことあるような記憶があり、山東京伝が出した『手拭合(たなぐいあわせ)』を見てみたら、ありました、手紙をくわえた女の首の手拭い。デザインは京伝自身で、艶氣(うわき)染めと題してあります。
           色が薄くて見難いですが
 「手拭合の会」が京伝の14歳になる妹(その2年後に早死にしました)名義の主催で開かれたのは1784年天明4年のこと。一九が19歳の時で、江戸の何某侯に仕えていた頃です。手紙をくわえた女の首は、この頃既に話題になっていたのでしょう。
 それが、29年後に入墨の画として人気を博し、45年後には一九の滑稽本『串談しつこなし』に登場したりと、どうして江戸の人々はそんなにこの首が気に入ってたのでしょうか。
 『金草鞋』で描かれた女の首の入墨は、一九の草稿にはなかったものなので、これは当時流行っていたからという理由で描かれたものだと思います。歌舞伎の當り演目かなにかだったのではないでしょうか。しかし、1829年に『串談しつこなし』で一九が書いたのは絵ではないので、山東京伝へのオマージュだったのかもしれません。京伝だけでなく彼に代表される天明・寛政期の戯作への回顧かもしれません。一九は京伝の弟子・感知亭鬼武と親友で、『串談しつこなし』執筆時にも鬼武は一九の後ろに居たくらいです。きっと京伝本人にも可愛がられたのだと思います。

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cherry blossoms in my garden

2011-04-09 | photo

               



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Rock'n' Roll in70's

2011-04-05 | music
 現在長崎で開催中の展覧会「ビートルズとその時代 SWINGING LONDON 50's-60's」は、展示品を特別出品しているジミー・ペイジ(ヤードバーズ、レッド・ツェッぺリンのギタリスト)本人が来たそうで、羨ましいと思う反面、現在の姿を知らずにいれてよかったとも思います。
 私は愛知県岡崎市の岡崎美術博物館へ見に行きました。場所が岡崎市街から山の方なので、ちょっと迷ってしまい車を止めて地図を見ていたら、道路端に「旧東海道」と書いてある道標が。迷って得した気分になって目的地へGO。車中では友人達に作ってもらったswinging60sな編集盤をかけて気分を盛り上げながら到着。

      展示会場入口
              知らない女性客が写ってしまいましたが顔見えないからいいよね?
 展示品は、当時のデザインのカトラリーやタペストリー、乗物、家具、洋服、カメラ、テレビ、オーディオ機器、写真などが続き、音楽ファンが目当てにしているジミー・ペイジ云々やP.マッカートニーが購入したSONYの小型テレビのサイン入り納品書だとかは、一番最後のブースでした。ギターは2本のみ本人所有の実物で他はレプリカ。ビートルズの幻の「ブッチャージャケット」も、一緒に行ったオタクたちに言わせれば「探せばもっと状態のいいのあるよ」。写真パネルにたくさん写ってる「音楽家」ってどういう人なの??。突っ込もうと思えばいくらでも突っ込める(フライヤーのDパープルとBボーイズはスウィンギンロンドンじゃねーだろ?的な)荒削りな展示会ではあったけども、誘ったオタクな友人達も「こんなもんだろうと思ってた」そうなので気を悪くされなくてほっとしました。
 その後、ビートルズのコピーバンドに知人が居るという人から聞いた話では、イベントは会場に入りきれないくらいお客さんが来て盛況だったらしいです。イベントある日は混むと思って避けたのですが、イベント見た方がよかったんでしょうか…。
 さて、50年代60年代の次は70年代ってことで、映画「THE RUNAWAYS」を観ました。60年代のロックは好きなので跡付けで聴いてますが、70年代はぽっかり空いたままになっていて、ほとんど聴いていませんでした。ザ・ランナウェイズという米国のガールズ・ロック・バンドは“チェリー・ボム”のサビしか知らないし。あとはヴィジュアルで毛嫌いしてました。ジョーン・ジェットはかっこよかったけどね。

 ヴォーカルのシェリーは下着などセクシーでエロい格好で人気を集めていた
 実在したロックバンドをドキュメンタリータッチで描いた10代の女の子の青春映画、と言ってしまえばそれまでですが、私はこれを観て衝撃を受けました。というのも、時代は今から36年前1975年、当時15,6歳の少女達がこんなことをしていたという事実、そしてそうやって儲けていた大人のショウビジネスが既にアメリカにはあったという事です。ストーリーやキャストなどは公式サイトが詳しいのでカットします。15歳で男と同じROCKがやりたいとエレキギターを習いに行った学校で、おじいさん先生が「女性にはエレキは教えない」と言ってフォークソングを引き続け、ジョーンがキレるシーン。ジョーンと同じような気持ちを持った不良少女たちを集めてガールズロック・バンドを作ったプロデューサーが、歌や演奏の指導だけでなく、ステージで男客からゴミを投げつけられるのに対処する訓練までさせるのに、ドラッグやアルコールやS○Xに対しては野放しだったこと。35,6年前は大人もそんな時代だったんだと改めて認識しました。そんな内情を想像だにしなかった日本では、ヴィジュアル的なアイドル人気で来日公演をさせ、日本の音楽ジャーナリスト側とランナウェイズたちの対比が興味深かったです。日本ではキャンディーズが大人気だった時期だそうです。70年代のアメリカと日本は「大人とお子ちゃま」だったんだなぁ、と感じました。
 映画の原作はRunawaysのヴォーカルだったシェリーの「ネオン・エンジェル」で、脚本は監督(D.ボウイ、キュア-、マリマン、ビヨーク等のミュージック・ビデオを手掛けた女監督)が書き、俳優たちもトレーニングしてライブシーンは自演しているくらいなので、真実に迫っています。
 映画を見ている最中、同じ世代を描いた英国映画「BROTHERS OF THE HEAD」を思い出しました(「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」は架空のドキュメンタリー映画ですが)。こちらも1975年結合体双生児の美青年がパンク・バンドのヴォーカルに起用され、栄光と挫折を味わう青春パンク映画でした。(ここでもプロデューサーはやり手で、大人たちはだらしない奴らでした。)どちらもセックス・ピストルズがデビューする2年前の話。UKミュージック・シーンは、デヴィッド・ボウイ、T・レックスなど退廃的なグラム・ロックからパンク・ロックへの過渡期にあたり、米国のクールなクラブではUKでのヒット曲をかけていて、ジョーンはスージー・クアトロでしたが、シェリーはボウイを崇拝していました。UKインディーズのカリスマ的バンドJOY DIVISIONの結成のキッカケにもなったSEX PISTOLSにジョーンも触発されパンクになっていきます。真っ白なTシャツに厚紙を切り抜いてステンシルにして黒の塗料スプレーをして首回りをわざと裂いたパンクTシャツをジョーンが作る場面には、おおこうやって作ればいいんだと感心しちゃいました。
 男に負けない、女の性を売り物にしない、音楽で勝負したい、と初心を貫いたジョーン・ジェットとシェリーやプロデューサーの方向性の相違から、バンドは79年に解散します。ジョーンのその後は有名ですが、シェリーは現在チェインソー彫刻をやっているそうです!
 現在は男女雇用均等法は当たり前、育児休暇も男性が取れるようになっていますし、女人禁制な場所もなくなっていますが、こうなるまでには、それまでの男中心の常識を打ち砕いてきた女性たちがいてくれたからなのだと痛感させられ、洋の東西を問わず、そういう女性たちに感謝の念を抱きました。
 アニメやゲームの世界に登場する男のキャラクターしか興味ない女の子や、草食系男子なんて言ってる男性や悩める男子中学・高校生に是非観てほしいなぁ、と思います。

映画のパンフレットでも触れてませんでしたが、シェリーの母親役は「がんばれベアーズ」の天才少女子役テイタム・オニールでした。シェリー役のダコタ・ファニングはちょうど16歳。こまっしゃくれた頭のいい子供役の印象が強い彼女のビッチぶりは大したものです。当時のシェリーはコートニー・ラヴなんかよりずっと凄かった。

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Ikku's cartoon

2011-04-03 | bookshelf
***一九の戯画***

 「方言修行 金草鞋」の二編東海道之記は、一九自筆草稿も見ることができました。現代は作家は文章のみを原稿に書くだけで、挿絵やレイアウトは出版社もしくはデザイン会社に任せますが、江戸時代は戯作者自らがだいたいの絵や文字のレイアウトまで書いて、挿絵担当の浮世絵師や筆耕に渡すのが通例だったそうです。
 その中でも一九先輩は大坂から江戸へ戻ってきた当初は浮世絵師を目指していたというだけあって絵は玄人並み、駆け出しの頃は筆耕まで自分でこなしていたそうです。その割りに挿絵を他の浮世絵師に依頼して、出来上がりが草稿と変わっていてもこだわりはなかったようです。
 例えば、袋井宿で鼻毛の延高と千久羅坊が留女にひっぱられている場面では、一九の草稿は人物の表情は何も指示されていません。

          

 また、見附宿でのすっぽん屋は、一九の描いた画と全く違う絵になっています
     
 戯作者によっては、絵やレイアウトにまで細かく指示が書き込まれている稿本もあるそうです(式亭三馬など)。一九先輩の稿本はどれも指示らしい書入れは全然見られません。ということは、挿絵師に全面信頼を置いていたんじゃないかと思います。留女の絵はどうみても文句のつけようがない絵となっていますし、すっぽん屋の絵に至っては、一九先輩も「これいいよ!すごいじゃん月麿」って喜んだんじゃないでしょうか。草稿の絵は平凡ですが、月麿の絵は親仁のインパクトがあるし、女の首の入墨は当時最新の流行なのでウケたでしょう。見物する2人の格好もいかにも初めて見る人って雰囲気が伝わってきます。すっぽん屋の「かどや」は一九か月麿、もしくは2人共が実際立ち寄ったお店の名前かもしれません。
 一九先輩は、駆け出しの頃こそ自画でしたが、東海道中膝栗毛で売れっ子作家になってからは浮世絵師らに挿絵を任せるようになりました。しかし、東海道中膝栗毛だけは最後まで自画で通しました(一部他の浮世絵師の挿絵もありますが)。もっとも膝栗毛は一九自画もウリの一つだったそうです。
 「金草鞋」は完結する前に一九が亡くなり、亡くなる前に書いた稿本が歿後2年に渡って出版されました。
 初めて江戸へ出てきて山東京伝の『江戸生艶気樺焼』を読んで衝撃を受け、それを真似たような戯作本を書いた(らしい)のが20歳の時、大坂で浄瑠璃を書いたり、再び江戸に来たときは最初は浮世絵師になるつもりだったらしい、といいます。その絵は誰に師事していたのかわかりませんが、狂歌は三陀羅法師という狂歌師に習っていました。この狂歌師が出した狂歌絵本「五十鈴川狂歌車」(1802年享和2年刊)は絵が北斎担当で、十編舎一九名義で狂歌と肖像画が載っています。

 おちゃらけたものが多い一九の狂歌ですが、「金草鞋」東海道之記で珍しくきれいな歌がありました。

  風なぎて長閑(のどか)なるみ(鳴海)へ近ければ
             花は散りふ(地鯉鮒)の春の静けさ


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