TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

egrets

2010-08-28 | prose
          

 この間買い物へ出かけたら、青田に白鷺の群れを発見。
 ちょっと離れた所に車を静かに止めてなんとか写す。
 もう少し近くで撮りたかったので奥に写ってる道路へ
 車で移動。静かに車から降りてカメラを構えて
 ピントを合わせていたら一羽に感づかれて
 みんな飛んでいってしまった、、、
 
 近所には数種類のサギがやってくる。
 田んぼの田螺を狙ってるんだろう。
 この近くの川の土手にはゴイサギが巣を作る。
 
 だからといって、田舎ではない。
 住宅街で車もひっきりなしに走る街。

 5年以上前のコンパクトデジカメだから
 ズームには無理があります....

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kyouden and tsutaju

2010-08-23 | bookshelf
          
 江戸後期の大人気作家・山東京伝を訪れた蔦屋重三郎の画を描いた北尾重政は、山東京伝(画号:北尾政演)の浮世絵の師匠で北尾派の創設者。鳥山石燕の弟子だった喜多川歌麿も影響を受けていた絵師です。

 蔦重は他の画もこんな感じなので(眼鏡をかけていたという説もありますが、眼鏡をかけた絵はみたことありません)ほぼ当人に近いと思いますが、京伝は鼻が団子鼻なので明らかに本人とは違います。京伝の肖像画はもっと男前です。この団子鼻は京伝作の『江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)』で京伝自身が描いた主人公・艶二郎(えんじろう)の鼻で、艶二郎が大人気になってこの団子鼻は「京伝鼻」と呼ばれたそうです。
 『江戸生~』が1785年天明5年に刊行になってるので、その後の寛政期に描かれた京伝はトレードマークとして団子鼻にしてあるのかな?画像の『堪忍袋緒〆善玉』は1794年刊。

 師匠だけあって、画は京伝とそっくりというか京伝の方が似ているというのか、京伝の兄弟弟子・北尾政美の画も師匠の絵とそっくりなので、私などはクレジットがないと見分けがつきません。
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friend of mine

2010-08-22 | photo
              
               

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a follow-up survey

2010-08-21 | bookshelf
 天明・寛政期の書籍を読んでいると、思わぬところで知りたかった事が判ったりします。まだ私が蔦重についての書籍を読み始めた頃、彼の書肆「耕書堂」の蔵書や版木は大火や関東大震災や戦争で焼かれてなくなってしまった、と書かれてあるのを読んで諦めていましたが、朋誠堂喜三二の『文武二道万石通』の刊行時の解説を読んでいて、すぐに改訂版が彫られて(実は初版時に用意されていたらしい)、それらは後年蔦屋から名古屋の永楽屋東四郎(えいらくやとうしろう)という本屋へ売られたと書いてありました。後年というのは、初代蔦屋重三郎が亡くなって後を継いだ2代目蔦屋なのでしょうか、それとも京伝の筆禍事件での罰金刑による財政不足を補う為売ったのでしょうか、その辺は書いてありませんでしたが、その『文武~』の転売時に他にも多数の版木を永楽屋へ売ったそうなんです。永楽屋からその一部が大坂の書肆へも流れたりしているので、案外小まめに探せば初代蔦屋版の版木は結構残っている可能性高いと思いました。名古屋の永楽屋は本居宣長の著書を多く出版していて、北斎漫画もここが出版元です。こないだ岐阜の博物館で見た北斎漫画展もそういえば「永楽屋」となっていたっけ・・・。貸本屋の大野屋惣八といい、あなどれんな名古屋。
 永楽屋東四郎の店「東壁堂」は1700年代後期から明治まで続いて、1794年(蔦屋が写楽出版を開始した年)以降から蔦屋と提携して江戸へ出店したというくらい蔦屋と縁の深い書肆でした。永楽屋は昭和26年に廃業になったそうです。
 そんな凄い出版社なので、もちろん名古屋市博物館に永楽屋の店が再現されて展示してあるそうで、研究書に蔦重の名もあったりするので一度行ってみようと思っています。
 
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getting back

2010-08-18 | bookshelf
 山東京伝の黄表紙から読本までざっと読んでみて、いい加減吉原ネタに辟易してきたところで、原点回帰して一九先輩の膝栗毛を読み返しています。
 最初の頃と違い、少しは知識も増え、それまで注釈以外分らなくて(注釈読んでも理解できなかったり)流していたところも気づくようになったりしてる自分に、成長してることに気づいたりしながら、改めて一九先輩の偉大さを痛感してます。
   
 その一九先輩の無名時代の世話をしていた蔦重の本も、この夏探してたのが図書館で見つかったので読みましたが、既に他の書籍などで知っていたことの総括的な内容だった(写楽の謎解きも含めて)ので、これといった収穫はなかったので、蔦重についてはもう調べるところはないのかな、と。

 山東京伝については、彼の絵画や人と成りももっと知りたいので、もう少しいろいろ書籍を探して読んでみようと思ってます。

 それにしても、明治の文豪の著書は全集など刊行されているのに、江戸時代の小説家の作品がごくごく僅かしか刊行されてないのは何故なんでしょうか。一九先輩の作品も『東海道中膝栗毛』だけで、その後の『木曾街道膝栗毛』とか甲州街道ものとか膝栗毛以外の黄表紙とか手軽に読めないのが口惜しくてなりません。
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an angry glare

2010-08-15 | prose
 お盆休みも最終日の日曜日。
 暑さも冷めないたそがれ時に戸外から猫の唸り声。
 2階の窓から覗いてみると
         
 お隣のマンションのベランダでまどろむ野良猫一匹。
         
 2、3メートル離れた所で2匹の野良が睨み合い。
 (といっても、実際視線合わせてないのね)
         
 おかっぱ頭のシロクロ猫は、その様子を気にしながら毛づくろい。
 私がカメラを向けてもじろっとにらむだけ。
 縞猫たちの決着がつくと、腹をむけてのびてました。


 
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kusazoushi:hommage

2010-08-08 | bookshelf
*****オマージュ***** 
夏目漱石の初期の作品『琴のそら音』(明治38年)には、江戸っ子漱石が明らかに草双紙に親しんでいたことが判る箇所があります。

 白暖簾の懸かった入口に腰を掛けて、先っきから手垢のついた薄っぺらな本を見ていた松さんが急に大きな声を出して面白い事がかいてあらあ、よっぽど面白いと一人で笑い出す。
「何だい小説か、食道楽*じゃねえか」と源さんが聞くと松さんはそうよそうかも知れねえと上表紙を見る。標題には浮世心理講義録有耶無耶(うやむや)道人著とかいてある。
「何だか長い名だ、とにかく食道楽じゃねえ。鎌さん一体これゃ何の本だい」と余の耳に髪剃を入れてぐるぐる廻転させいる職人に聞く。
「何だか、訳の分らない様な、とぼけた事が書いてある本だがね」
「一人で笑っていねえで少し読んで聞かせねえ」と源さんは松さんに請求する。松さんは大きな声で一節を読み上る。
「狸が人を婆化すと云いやすけれど、何で狸が婆化しやしょう。ありゃみんな催眠術でげす……」
「成程妙な本だね」と源さんは烟(けむ)に捲かれている。
「拙(せつ)が一返古榎(ふるえのき)になった事がありやす、ところへ源兵衛村の作蔵と云う若い衆が首を縊(くく)りに来やした……」
「何だい狸が何か云ってるのか」
「どうもそうらしいね」
「それじゃ狸のこせえた本じゃねえか―人を馬鹿にしやがる―それから?」
「拙が腕をニューと出してるところへ古褌(ふんどし)を懸けやした―随分臭うげしたよ―…」
「狸の癖にいやに贅沢を云うぜ」
「肥桶(こいたご)を台にしてぶらりと下がる途端拙はわざと腕をぐにゃりと卸してやりやしたので作蔵君は首を縊り損ってまごまごしておりやす。ここだと思いやしたから急に榎の姿を隠してアハハハハと源兵衛村中へ響く程大きな声で笑ってやりやした。すると作蔵君は余程仰天したと見えやして助けてくれ、助けてくれと褌を置去りにして一生懸命に逃げ出しやした……」
「こいつあ旨え、然し狸が作蔵の褌をとって何にするだろう」
「大方睾丸(きんたま)でもつつむ気だろう」
アハハハハと皆一度に笑う。余も吹き出しそうになったので職人は一寸髪剃を顔からはずす。
「面白え、あとを読みねえ」と源さん大(おおい)に乗気になる。
「俗人は拙が作蔵を婆化した様に云う奴でげすが、そりゃちと無理でげしょう。作蔵君は婆化されよう、婆化されようとして源兵衛村をのそのそしているのでげす。その婆化されようと云う作蔵君の御注文に応じて拙が一寸婆化して上げたまでの事でげす。(以下省略)」

 *食道楽:明治37年に刊行されたベストセラー小説
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gobo-udon

2010-08-07 | prose
 こんな暑い夏は、鍾乳洞へ行こう! 
 観光地として整備されている鍾乳洞は周辺にご当地グルメがあります。
 静岡の姫街道の方にある鍾乳洞は絶品の地鶏卵のアイスクリームがあるのですが、山口の秋芳洞の「ごぼううどん」は昔行った時は気づきませんでした。先日ひょんなことから秋芳洞へ行くことになってそこで昼食を摂ったのですが、山の名産といえば蕎麦とか牛蒡とか蒟蒻とかそんなもので、入った食堂は牛蒡を売りにした麺類がお薦めになっていました。観光地ではそこの名物を食べよう、というのが身上なので、「ごぼううどん」なるものを注文しました。
          
 メニューをよく見なかったんですが、ざるの上にうどんが乗っていて、その上に揚げた牛蒡がのっかってるだけかと思ったのですが、うどんの色が白くないのでてっきり太切りの蕎麦だったのかとツユにつけて食べてみると、フライドごぼうがカリカリしててとても美味しい。で、麺にも牛蒡が煉り込んであって牛蒡の風味がしてシコシコした腰のある麺で美味。こりゃあ旨いわ、と完食し精算してから気づきました。麺は蕎麦ではなく饂飩だったと・・・
 
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seeking

2010-08-05 | photo
               
              
                  瑠璃光寺の蜘蛛

   
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kusazoushi:a satire on society

2010-08-03 | bookshelf
*****社会諷刺文学*****
        
             善魂「ヱゝ残念な」 悪魂「よいきび~(いいきみ)」

 天明~寛政年間(1780-1800年)は、ちょうど現在の政権交代と同じような状況で、政府の官僚たちが新政権の政策に右往左往する姿と『文武二道万石通』のストーリーが重なり合ってると感じる人は私だけではないと思います。蔦重と喜三二が作り上げた武士をふるいに掛けてのらくら武士を洗い出し、正しい方向に導くというのは、今与党が行なっている「仕分け」そのものです。のらくら武士は天下り官僚でしょうか。竹杖為軽が『従夫以来記(それからいらいき)』で大人が草双紙(絵本:現代の漫画の祖)を読むようになって…という未来見立ても、前政権の首相のことが頭に浮かびますしね。
 社会諷刺を取り入れた黄表紙は大ブレイクしましたが、封建制度下ではリスクが大きすぎました。幕臣グループの戯作者は所詮政府側の人間。幕府から咎めを受けて書くのを止めるか、当たり障りの無い内容のものを書くしか道はありません。春町は処分を恐れて命を絶ってしまいました。幕府と関係のない町人グループの関係者は、犯罪人として処罰をされました。
 田沼時代に花開いた江戸町人文化も、緩和政策を推し進めて結局賄賂が横行し役人を堕落させた政権下だったからこそ繁栄できたのであって、取り締まりを厳しくして倹約令を発令した松平定信政権になってからは、自由な文化や芸術は育つことができませんでした。これは洋の東西問わず、皮肉な関係です。

 斬新なアイディアで後々の語り草となった蔦重も、結果としては自分で自分の首を絞めたような形になってしまいます。
 蔦重より11歳年下の山東京伝(さんとうきょうでん1761-1816年 画工・戯作者:本名 岩瀬醒さむる 画号 北尾政演まさのぶ 狂名 身軽織輔みがるのおりすけ 通称 京屋伝蔵きょうやのでんぞう)は、町屋敷の家主を職業とする父を持ち京橋銀座1丁目に住み、絵師北尾重政に学び画工として名をあげ、20歳の時(1780年安永9年)から自画自作で黄表紙を発表し、江戸町人作家の代表として数々の名作を世に送ることになるのですが、彼の黄表紙刊行の為に蔦重は財産を半減させられる処罰を受けるのです。
明治の文豪・森鴎外もファンだった山東京伝については、また詳しく。

 政治風刺をする危険書物扱いを受けた草双紙ですが、もともと江戸草双紙の特徴として滑稽・洒落・穿ち(うがち)を旨とする読み物なので、蔦重も最初は事の重大さをわかって作ったのではないと思います。ウケればオッケーってノリだったんではないかと。


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kusazoushi:Kisanji&Harumachi Ⅱ

2010-08-02 | bookshelf
*****喜三二と春町2*****
 蔦重が二十歳代前半で書物の商いを始めた1770年中期以降は、老中・田沼意次の金権政治で享楽的な時代で、浄瑠璃・歌舞伎・狂歌・錦絵・黄表紙・洒落本・滑稽本などが江戸庶民に広く親しまれていきました。1782年(天明2年)蔦重は狂歌集刊行に進出します。蔦重周辺の人物には必ず狂歌号がついてますが、当時上手い下手にかかわらず、お友達グループは狂歌という遊びをしていたようです。現代の子供が集まってカードゲームをするようなものだったんでしょうか。子供は友達の家や公園に集まりますが、蔦重たち大人が集まる場所は吉原遊郭でした。
 蔦重が吉原出身であり狂歌仲間に遊女屋の主人などがいたこともあり、勝手がよかったのでしょう。この年の暮れ、四方赤良(よものあから:大田南畝おおたなんぼ)、朱楽菅江(あっけらかんこう:幕臣山崎景貫)、元木網(もとのもくあみ:京橋の湯屋大野屋喜三郎)、唐来参和(とうらいさんな:志水燕十?)、酒上不埒(さけのうえのふらち:恋川春町)、絵師の北尾重政、北尾政演(まさのぶ:山東京伝の画号)、北尾政美(後の鍬形慧斎くわがたけいさい)らが蔦唐丸(つたのからまる:蔦重の狂名)と共に加保茶元成(かぼちゃのもとなり:大文字屋市兵衛の狂名)の遊女屋で遊んでいます。この頃、狂歌のグループが沢山できて(蔦重は吉原連)吉原はそういった人達の交流サロンになり繁栄しました。
 その一方で、天明期は大飢饉が何年も続き、各地で打ちこわしが起こっていました。1786年(天明6年)田沼意次が失脚し、翌年老中若年寄など役人が一新し、松平定信が老中首座になり改革に乗り出しました。その政策の一つとして、文武が奨励されるようになりました。
 政界の急変に深い関心を示すようになった市民の姿を見て、蔦重は政治諷刺を草双紙に取り入れるアイディアを思いつき、1788年(天明8年)朋誠堂喜三二作、歌麿画『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどおし)』を出版しました。
               
    序文には「富士の裾野の蔦十が需(もとめ)に応じて作ス(蔦屋重三郎の求めに応じて作った」とある
      『文武二道万石通』
 『文武二道万石通』では、鎌倉時代とし、頼朝の命をうけて畠山重忠(松平定信役)が大小名を文・武・のらくらの三つに分けて、のらくら武士(田沼一派)の財産を大磯の廓でふるい落とさせ、文と武の二道に導くという辛口ストーリーで、田沼一派の失脚から松平定信の登場、寛政の改革の断行とそれに伴う武士達の狼狽ぶりを穿ってみせました。設定が鎌倉時代であっても絵を見れば誰であるか判別できたので、大評判となり飛ぶように売れたそうです。ただあまりに際どかったらしく、蔦重は早々に彫りを改めて再板本を出しています。
 これに呼応して、翌1789年(天明9年:寛政元年)恋川春町が北尾政美(山東京伝と同じ絵師の弟子)の画で『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を執筆して刊行。
     『鸚鵡返文武二道』
馬術といえば女装した陰間(かげま:男娼のこと。吉原には多くの男芸者もいた)を相手にお馬の稽古で、笑う茶屋のおかみの傍らで三味線を弾いているのも陰間、公卿は小柄な陰間をリクエストしている。
タイトルは、『文武二道』の鸚鵡返しの意味と、当時読まれていた松平定信の教諭書『鸚鵡言』を掛けたもので、寛政改革治下に動揺する人心を穿ち茶化した内容です。
 この本によって春町は定信に召喚されますが、病気を理由に行きませんでした。それから間もなく彼は亡くなります。春町の死の真相は不明で、自殺説もあるそうです。
彼は駿河小島藩の江戸詰家臣でしたが、小藩の武士なので貧しく、生活の足しに画工になろうと鳥山石燕に学んだといいます。森島中良と同じく、彼も封建社会に大きく左右された人物だったのです。
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