稗田集落は難波津(大阪湾)から津(伊勢湾)まで最短距離を結ぶ直線上に位置する
猿田彦を祀る椿大社とは遠く隔たる
猿田彦を祀る椿大社とは遠く隔たる
飛鳥時代以前、古代人の交通手段として陸路より水路の方が便利だった時代、西方から舟で難波津へ到着した人々は、舟で遡れるだけ川を利用して、適当な場所まで来てから上陸したと推測できます。上陸した旅人(商人だと思いますが)は、知らない土地なので道案内が必要だったことでしょう。稗田集落一帯――大和郡山市の一部になった添上郡で、古代のヤマト(磯城郡・十市郡を中心とする一帯)の北に位置する地域――は、そのような旅人たちを世話したり案内したりする場所になっていたのでは…と想像してみました。
『日本書紀』の天武天皇の巻にも「稗田」の地が登場します。
672年に起った壬申の乱の際、戦況を窺うために大和に留まっていた大伴吹負(おおとものふけい)は、大海人皇子が天皇になるだろうと判断すると大海人側に付いて挙兵し、奇策を仕掛けて大和方面で活躍しました。それが大海人皇子に評価され大和の将軍に任命された吹負は、乃楽山(奈良県北部)に進軍している途中、【稗田にいたったとき、ある人が「河内の方から軍勢が沢山やって来ます」といった。吹負は坂本臣財・長尾直真墨・倉下記墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂に、三百の兵士を率いて、竜田を守らせた。また佐味君少麻呂に数百人を率いて、大坂(奈良県香芝市逢坂)に駐屯させた。】と書紀に記述されています。これらの道を防ぐことで、河内(大阪方面)から飛鳥の地(古京)へのアクセスは閉ざすことができました。
壬申の乱期、京は近江(滋賀県大津)でしたが、大坂湾方面から畿内へ進入するルートは限られていたのがわかります。吹負は「稗田」で大阪方面の情報を聞いたとあり、「稗田」は西側の情報が集まる場所だったと思います。
飛鳥に京が営まれてた時代までには、京の北の玄関口として行き交う人々に応対する場所になっていたのではないでしょうか。そして集落の長である稗田氏の祖先は、今でいうコンシェルジュのような役割を担っていて、伊勢国で同じような役割をしていたサルタヒコと結びついた(つけた)のかもしれません。
また、大和郡山市の稗田環濠集落の端に、稗田阿礼を主斎神としアメノウズメ、サルタヒコを副斎神として祭る賣太神社(めたじんじゃ、売太神社)がありますが、もとは平城京羅城門近くにあったそうで、付近の下つ道から多数の祭器が発掘されているため、京に出入りする人の穢れを払ったり交通の安全を祈願する場所だったと推測されています。
アメノウズメ・サルタヒコを祀ったのは後の稗田氏、神社を現在地に移転して稗田阿礼が主斎神になったのは明治以降だとしても、稗田集落が瀬戸内海から畿内へ入るルートで、重要な役割を持っていた場所だったのは間違いないでしょう。
西方から瀬戸内海を舟でやって来た人々が、稗田の地で情報を仕入れて北へ東へ南へと旅を続け、伊勢湾側や琵琶湖方面からやって来た人々もそこから西へ向かう・・・人の集まる所には情報も集まります。稗田一族の祖先は、日本列島中から集まるその土地の話や、中国大陸や朝鮮半島からやって来た渡来人の珍しい話、シルクロード経由で中央アジアからやって来たソグド人商人などから西方の神・宗教などの情報を収集していたのでは、と考えました。