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the gap between Japanese mythology and ancient history 4

2017-10-28 | ancient history

稗田集落は難波津(大阪湾)から津(伊勢湾)まで最短距離を結ぶ直線上に位置する
猿田彦を祀る椿大社とは遠く隔たる

 飛鳥時代以前、古代人の交通手段として陸路より水路の方が便利だった時代、西方から舟で難波津へ到着した人々は、舟で遡れるだけ川を利用して、適当な場所まで来てから上陸したと推測できます。上陸した旅人(商人だと思いますが)は、知らない土地なので道案内が必要だったことでしょう。稗田集落一帯――大和郡山市の一部になった添上郡で、古代のヤマト(磯城郡・十市郡を中心とする一帯)の北に位置する地域――は、そのような旅人たちを世話したり案内したりする場所になっていたのでは…と想像してみました。
 『日本書紀』の天武天皇の巻にも「稗田」の地が登場します。
 672年に起った壬申の乱の際、戦況を窺うために大和に留まっていた大伴吹負(おおとものふけい)は、大海人皇子が天皇になるだろうと判断すると大海人側に付いて挙兵し、奇策を仕掛けて大和方面で活躍しました。それが大海人皇子に評価され大和の将軍に任命された吹負は、乃楽山(奈良県北部)に進軍している途中、【稗田にいたったとき、ある人が「河内の方から軍勢が沢山やって来ます」といった。吹負は坂本臣財・長尾直真墨・倉下記墻直麻呂・民直小鮪・谷直根麻呂に、三百の兵士を率いて、竜田を守らせた。また佐味君少麻呂に数百人を率いて、大坂(奈良県香芝市逢坂)に駐屯させた。】と書紀に記述されています。これらの道を防ぐことで、河内(大阪方面)から飛鳥の地(古京)へのアクセスは閉ざすことができました。
 壬申の乱期、京は近江(滋賀県大津)でしたが、大坂湾方面から畿内へ進入するルートは限られていたのがわかります。吹負は「稗田」で大阪方面の情報を聞いたとあり、「稗田」は西側の情報が集まる場所だったと思います。
 飛鳥に京が営まれてた時代までには、京の北の玄関口として行き交う人々に応対する場所になっていたのではないでしょうか。そして集落の長である稗田氏の祖先は、今でいうコンシェルジュのような役割を担っていて、伊勢国で同じような役割をしていたサルタヒコと結びついた(つけた)のかもしれません。
 また、大和郡山市の稗田環濠集落の端に、稗田阿礼を主斎神としアメノウズメ、サルタヒコを副斎神として祭る賣太神社(めたじんじゃ、売太神社)がありますが、もとは平城京羅城門近くにあったそうで、付近の下つ道から多数の祭器が発掘されているため、京に出入りする人の穢れを払ったり交通の安全を祈願する場所だったと推測されています。
 アメノウズメ・サルタヒコを祀ったのは後の稗田氏、神社を現在地に移転して稗田阿礼が主斎神になったのは明治以降だとしても、稗田集落が瀬戸内海から畿内へ入るルートで、重要な役割を持っていた場所だったのは間違いないでしょう。
 西方から瀬戸内海を舟でやって来た人々が、稗田の地で情報を仕入れて北へ東へ南へと旅を続け、伊勢湾側や琵琶湖方面からやって来た人々もそこから西へ向かう・・・人の集まる所には情報も集まります。稗田一族の祖先は、日本列島中から集まるその土地の話や、中国大陸や朝鮮半島からやって来た渡来人の珍しい話、シルクロード経由で中央アジアからやって来たソグド人商人などから西方の神・宗教などの情報を収集していたのでは、と考えました。

the gap between Japanese mythology and ancient history 3

2017-10-21 | ancient history
稗田町のある大和郡山市の位置

 「ヴィンチ村のレオナルド」と同様に「ヒエダ集落のアレ」だと考えると、稗田阿礼の「稗田」は、奈良県大和郡山市にある稗田環濠集落一帯にあったヒエダ集落で、阿礼はそこの出身者だと思われます。
 「アレ」という変わった名前は、何か意味があるのか調べてみました。
漢字表記の「阿礼」は、京都の賀茂別雷(かもわけいかづち)神社=上賀茂神社の祭り「御阿礼神事」に同じ表記がありました。
 御阿礼(みあれ)は、出現・誕生を意味するそうです。
 上賀茂神社の神事は、御生野(みあれの)という所に祭場を設けて、割幣をつけた榊(神霊の出現の縁となる木)に神を移して、本社に迎える祭りだということです。三省堂大辞林では、“動詞の「ある(生)」の名詞形か?”とありました。
 アレの出身地「稗田」は、天岩戸伝説で重要な役割をするアメノウズメを始祖とする猿女君(サルメノキミ)稗田氏の本拠地でした。
 「サルメ」の由来は、邇邇芸命(ニニギノミコト)の天孫降臨の際、道案内をした国つ神サルタヒコに対応したアメノウズメが、天下り先の高千穂の峰まで道案内したサルタヒコを帰郷させる時、邇邇芸命が彼女に送って行くように命じ、加えてサルタヒコの名をもらって今後も天神の御子に仕えるようにと言ったため、彼女の一族の女を「猿女君」と呼ぶようになった、と『古事記』にあります。
 それ故、他の祭祀氏族は男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君一族は、巫女を朝廷に貢進していたそうです。そういう理由で、稗田阿礼=巫女説が発生したのでしょう。
 稗田阿礼が女性であれ男性であれ、「稗田」という場所にいた人物で間違いなさそうです。
私は、この場所が『古事記』の基になる日本神話にとって重要なポイントだと気づきました。
 ニニギノミコトを案内したサルタヒコの本拠地は、伊勢国五十鈴川のほとりで、土地・方位の神とされています。サルタヒコを主神とする三重県鈴鹿市の椿大神社は五十鈴川の支流に位置しています。奥の宮一帯には太古の祭祀跡・磐座(いわくら)が点在しているそうです。
 奈良の稗田から遠く離れた伊勢の鈴鹿。この2つの地を結びつけたものは何なのでしょうか。
『日本古代氏族事典』によれば、稗田氏の本拠地は伊勢国と想定できるが、一部が朝廷の祭祀を勤めるために奈良の稗田に本拠地を移し稗田氏と称した、ということです。
 稗田氏は、元々鎮魂祭での演舞や大嘗祭の前行(前に立って案内する役)を執り行った「サルメ」を進貢する氏族で、サルメとは「戯(さ)る女」の意味らしいです。神事の演舞や前行をした「戯る女」が、天岩戸に隠れたアマテラスをおびき出すために裸踊りをしたり、天孫降臨の際には先頭に立って国つ神サルタヒコと応対した「アメノウズメ」と結びつき、稗田氏はアメノウズメを始祖神としたのだと思います。すると、猿田彦の「サルタ」も「戯る太」とかいうのじゃないでしょうか。アメノウズメが女のシャーマンだとすると、サルタヒコは男のシャーマンではなかったか、と。サルタと同じように道案内人であるサルメが拠点とした「稗田」の地は、飛鳥時代よりずっと昔から交通の要衝として重要な場所でした。
 日本神話の神武東征で、カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が西方から畿内に入ろうとした時、最初に難波津から竜田に行くルートを計画していました。このルートは陸道ではなく、大和川を船で行くルートだったと思います。瀬戸内海から奈良盆地へ向かう最短ルートです。大和川は大阪湾側からさかのぼると、斑鳩の辺りで富雄川が分かれ、その先で飛鳥川、佐保川と分かれていきます。佐保川の遡上した先に稗田集落があります。
 大阪と奈良を結ぶ陸路「竜田越奈良街道」は、飛鳥時代に難波津・四天王寺と斑鳩の里・法隆寺をつなぐ街道として整備され、厩戸皇子(聖徳太子)ゆかりの地区を結んでいます。斑鳩より東は「北の横大路」と言われ、佐保川を越した辺りで「下つ道」と合流したそうです。現在、このルートは国道25号が通っていますが、古代の下つ道は現代の国道24号より西側を通っていて、佐保川とほぼ並行して稗田集落を貫通していたと思います。今の稗田町をもう少し北へ上がると「平城京羅城門」跡があります。羅城門は平城京の中央を南北に貫く朱雀大路の南端にあり、中国大陸や朝鮮半島諸国の使節賓客は、この門から入京したそうです。
 稗田阿礼が天武天皇から「帝紀と旧辞を誦習せよ」と命じられた時代には平城京はなかったのですが、下つ道を南下すると太安万侶の本拠地・多集落がありますし、さらに南には藤原京、天武天皇が宮を置いた飛鳥の地、天武持統天皇陵…とほぼ一直線につながります。
これは、偶然でしょうか。
 稗田氏が猿女君を名のって巫女を輩出していた、ということよりも、稗田氏の本拠地が交通の要衝だった、という事の方が、アレが天武天皇から帝紀・旧辞を誦習する者に選ばれた理由を導き出すヒントに成り得るのではないか、と思います。