厩戸皇子(聖徳太子)が、ヤマト政権が成立する前の畿内の支配者(大王)が君臨した地、もしくは彼の一族の祖先とされるカムヤマトイワレビコ(神武天皇)が最初に目指した地だという理由から、斑鳩へ引っ越したのかどうかわかりませんが、私がそうではなかったかと考えるきっかけになったのは、『日本書紀』編纂者・舎人親王の住まいを調べたことでした。
舎人親王は平城宮の東側、現在の奈良市役所からほど近い大宮町4辺りに屋敷があったそうです。市役所の西にあるショッピングセンターが建っている一帯が長屋王邸宅跡で、そこから木簡が多数発掘されたので、大宮町4辺りを掘ったら日本書紀のボツ木簡でも出てこないでしょうかね。
調べていくと、どうやら舎人親王もお屋敷を出て、高家(たいえ)という所へ引っ越したようなのです。地図を見てみると、桜井市から明日香村へ入る「山田道」の山田寺跡(蘇我入鹿暗殺に加担した蘇我倉山田麻呂が建立した寺)の裏山辺りに「高家」の文字を見つけました。頂上には神社があり、境内に崩れかけた横穴式古墳があるそうです。頂上からは、遠く二上山や葛城連山まで見渡せるという事で、そんな所だったら大和の歴史を書くのにうってつけだと思いました。
厩戸皇子が斑鳩に住んだのは、ヤマト政権が大和川水系の水運を管理する目的だったと思うのですが、斑鳩の地も大阪と奈良の両方に開いている絶好の立地なので、河内にある古い大王の巨大古墳を調査するにはもってこいの場所だと思います。
また、舎人親王は42歳の厄除けの願かけのために、大和郡山市にある松尾山に登り、寺を建立したというのです。日本最古の厄除霊場となっている松尾寺のある松尾山の南麓は、斑鳩の地です。言い伝えでは、厄除けの他に日本書紀の無事完成祈願もしたそうです(日本書紀は舎人親王が数えで45歳の時、完成しました)。これは、私にとって興味深い逸話です。
『古事記』を編集した太安万侶の場合はどうだったのでしょう。1979年に発見された太安万侶の墓から出てきた墓誌に記された住所では、左京四条四坊で現在のJR奈良駅の西側に居住していたようです。舎人親王邸のご近所さん。安万侶は、日本書紀の編纂にも携わっていたそうですから、『古事記』編纂中に舎人親王とは懇意にしていた可能性もなきにしもあらず。
下級貴族の安万呂が『古事記』の編纂を任されたのは、文才に秀でていたからだと勝手に考えていましたが、奈良県の弥生集落の遺跡資料を調べていた時、彼の出自が判明して、それだけじゃなかったと考えるようになりました。
橿原市からバイパスでない国道24号線を北上すると、磯城郡田原本町があります。復元された多層式楼閣が建っている弥生時代の環濠集落「唐古・鍵遺跡」があり、兄磯城・弟磯城(えしき・おとしき)の統治した磯城邑ではないかと思うのですが…それはさておき、鍵遺跡よりもっと手前、橿原市寄りに、別の弥生時代の拠点的な環濠集落があり、多(おお)遺跡というのだと知りました。
この遺跡は、豪族・多氏の祖先からの地だと思うのですが、多氏の多品治(おおのほむじ)という長が壬申の乱で活躍したそうで、安万呂はこの人物の息子だというのです。漢字表記は違いますが、元々漢字は当て字なので特に古代ではさほど比重を置く問題ではないと思っています。
太安万侶は多氏の末裔。
カムヤマトイワレビコ(ホホデミ)が畿内を侵略したのが弥生時代だとすると、侵略される以前の集落からの出自がわかり、考古学的にも特定できるヤマト朝廷の人物は、珍しいのではないのでしょうか。
畝傍山から北に約1キロに位置する多遺跡が太安万侶の一族の邑だったならば、安万呂はカムヤマトイワレビコついて代々伝えられた逸話を記録していた可能性も考えられます。そうならば、『古事記』の編纂に、これほど適した人材はいなかったと思います。
舎人親王は平城宮の東側、現在の奈良市役所からほど近い大宮町4辺りに屋敷があったそうです。市役所の西にあるショッピングセンターが建っている一帯が長屋王邸宅跡で、そこから木簡が多数発掘されたので、大宮町4辺りを掘ったら日本書紀のボツ木簡でも出てこないでしょうかね。
調べていくと、どうやら舎人親王もお屋敷を出て、高家(たいえ)という所へ引っ越したようなのです。地図を見てみると、桜井市から明日香村へ入る「山田道」の山田寺跡(蘇我入鹿暗殺に加担した蘇我倉山田麻呂が建立した寺)の裏山辺りに「高家」の文字を見つけました。頂上には神社があり、境内に崩れかけた横穴式古墳があるそうです。頂上からは、遠く二上山や葛城連山まで見渡せるという事で、そんな所だったら大和の歴史を書くのにうってつけだと思いました。
厩戸皇子が斑鳩に住んだのは、ヤマト政権が大和川水系の水運を管理する目的だったと思うのですが、斑鳩の地も大阪と奈良の両方に開いている絶好の立地なので、河内にある古い大王の巨大古墳を調査するにはもってこいの場所だと思います。
また、舎人親王は42歳の厄除けの願かけのために、大和郡山市にある松尾山に登り、寺を建立したというのです。日本最古の厄除霊場となっている松尾寺のある松尾山の南麓は、斑鳩の地です。言い伝えでは、厄除けの他に日本書紀の無事完成祈願もしたそうです(日本書紀は舎人親王が数えで45歳の時、完成しました)。これは、私にとって興味深い逸話です。
『古事記』を編集した太安万侶の場合はどうだったのでしょう。1979年に発見された太安万侶の墓から出てきた墓誌に記された住所では、左京四条四坊で現在のJR奈良駅の西側に居住していたようです。舎人親王邸のご近所さん。安万侶は、日本書紀の編纂にも携わっていたそうですから、『古事記』編纂中に舎人親王とは懇意にしていた可能性もなきにしもあらず。
下級貴族の安万呂が『古事記』の編纂を任されたのは、文才に秀でていたからだと勝手に考えていましたが、奈良県の弥生集落の遺跡資料を調べていた時、彼の出自が判明して、それだけじゃなかったと考えるようになりました。
橿原市からバイパスでない国道24号線を北上すると、磯城郡田原本町があります。復元された多層式楼閣が建っている弥生時代の環濠集落「唐古・鍵遺跡」があり、兄磯城・弟磯城(えしき・おとしき)の統治した磯城邑ではないかと思うのですが…それはさておき、鍵遺跡よりもっと手前、橿原市寄りに、別の弥生時代の拠点的な環濠集落があり、多(おお)遺跡というのだと知りました。
この遺跡は、豪族・多氏の祖先からの地だと思うのですが、多氏の多品治(おおのほむじ)という長が壬申の乱で活躍したそうで、安万呂はこの人物の息子だというのです。漢字表記は違いますが、元々漢字は当て字なので特に古代ではさほど比重を置く問題ではないと思っています。
太安万侶は多氏の末裔。
カムヤマトイワレビコ(ホホデミ)が畿内を侵略したのが弥生時代だとすると、侵略される以前の集落からの出自がわかり、考古学的にも特定できるヤマト朝廷の人物は、珍しいのではないのでしょうか。
畝傍山から北に約1キロに位置する多遺跡が太安万侶の一族の邑だったならば、安万呂はカムヤマトイワレビコついて代々伝えられた逸話を記録していた可能性も考えられます。そうならば、『古事記』の編纂に、これほど適した人材はいなかったと思います。