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the name of syaraku

2009-08-03 | art
 東洲斎写楽→東洲の斎で写すことを楽しむ

 東洲は東都(江戸の町)、斎は「物忌みや読書などをする部屋」という意味がある。物忌みとは、祭りや凶事に際し身を慎み不浄を避けること。
 繋げると「江戸で凶事などがあった為身を慎み不浄を避けて、読書などする部屋の中で絵など写して楽しんでいる」。

写楽は何かよくない事をして謹慎中かなにかで、部屋に閉じこもって絵を描くくらいしか楽しみがなかったんじゃなかろうか?
では、「江戸の凶事」とは何か。

写楽の登場する3年前の1791年は寛政の改革で風紀の取締りが厳しくなった。そんな中、蔦屋重三郎が出版した山東京伝の洒落本や黄表紙が摘発され、蔦重は財産の半分を没収され、京伝は手鎖50日の刑を受ける。日本橋通油町に耕書堂をオープンして約9年、蔦重には大きな痛手だったろう。資金が減り、思い通りに出版も出来ず、今後の方針・事業計画に頭を悩ませていたかもしれない。
同年、彼の処に京伝からの紹介で曲亭馬琴(1790年に京伝に入門)が下宿する。

東洲斎とは、風紀取締りで摘発された直後の「耕書堂」を指してるんじゃなかろうか。もちろん写楽作品は全て蔦屋が版元であるから、写楽が「耕書堂」で下絵を描いていても不思議じゃない。
その写楽がデビューした1794年5月時点に「耕書堂」に居た人物が馬琴。そしてその年の9月、馬琴と入れ替わりに十返舎一九が下宿しているのである。馬琴は書簡の中で「一九とは深く交り不申候へども(一九とは深い交流はないが)~」と前置きして、一九の人物像を記述している。そんな馬琴が何故写楽について一言も触れていないのか?彼が写楽だからか?

私の推理はNO。
馬琴は物書きになりたかったんである。事実下宿して2年後の1793年咄本でデビューを飾っている。浮世絵製作なんかにうつつを抜かしてる場合ではなかったと思う。では、写楽がデビューした4ヵ月後に下宿人として住み込んだ一九はどうなのか…これも却下。
浮世絵版画が完成するまでには、数々の工程がある。まず、版元が企画した内容を浮世絵師(画工)に依頼し、具体的な版行計画がまとまってから版元が画工に作品の作画を発注する。注文を受けた絵師は絵組みを考え、ラフな画稿から始めて決定稿である版下(版画用の黒の輪郭線のみの下絵)を仕上げ、版元や行事のチェックを受ける。その後彫師に送られ主版となる墨版が出来上がる。主版は彫師に摺られ絵師にチェックしてもらう。ここで絵師は色指定して彫師に返す。これによって複数の色版を作成する。彫りが完成した主版と色の枚数だけある色版が摺師に渡され、幾重もの重ね摺りが施されて錦絵はようやく完成する。
ぽっと来て、ささっと出来るものではない。

一九は自作「東海道中膝栗毛」作中に十返舎一九本人を登場させる程自己顕示欲が強い人物だ。そんな彼が自分と関連のない筆名(一九は静岡生まれ。因みに弥治北は静岡から江戸へ流れてきた設定)を使用して絵など描く必要があっただろうか。
下宿した翌年、一九の黄表紙が刊行されている。やはり絵なんか描いてる閑はなかったろう。

自分の作品のせいで蔦重の財産を半分にしてしまった浮世絵師でもある山東京伝はどうだろうか。償いの為に無償で下絵を描いてやることは出来る。しかし当時役者絵などはブロマイドと同じレベルで価格は蕎麦一杯分くらいだったそうだ。それで資金を補填する気なら、無名の新人で発売するより正体を明かした方が儲かるじゃないか。金儲けが目的なら「変名」は意味がない。

同じ理由から、1795年(写楽活動中)に二代目俵屋宗理を襲名した北斎(1798年には独立して北斎と号する)も、写楽名義で出版する理由がない。
ついでに1781年に蔦重がデビューさせた喜多川歌麿も。
そうして残ってしまったのが、絵師でも作家でもない「写楽仕掛け人」蔦屋重三郎だった。東洲斎写楽の雅号の意味にはぴったりの人物。「蔦屋」は彼の親・喜多川(養子先)の屋号であるから蔦屋重三郎は本名であるといってよいだろう。
蔦重が東洲斎写楽という画号で浮世絵師デビューを図ったのだろうか???
それは何故?

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