漱石の漢詩:専門家によるとシナ語で朗読して大したものだと言う。CDもあるとか。これはあくまで独立の漢詩としての話だろう。
平仄だとか、正調、四声だとか西洋詩でいうと押韻ということなのだろうが、漢詩ではやかましい。シナの知識人でも、それ専門の辞書がなければ正しい使い方は出来ないらしい。しかも何千年も前の古典シナ語だからね。
それと、やたらに多いシナ古代史、故事来歴への言及、古典からの引用など出典への知識の該博さと正確さ、これらもろもろのことがないと漢詩は様にならない。
だから漱石の漢詩は大したものだ、といわれればなるほど、と恐れ入る次第である。しかし、このシリーズで論じているのは独立した漢詩ではない。日本語の小説中にその構成要素として挿入される「漢詩、賦、漢文」である。草枕の中とかね。
この点では私は漱石のセンスには違和感があると言わざるをえない。
小説と言う日本語文脈のなかでのパーツとしての漢詩のおさまりの良さ、あるいは意図的な「崩し」としてのおさまりの悪さ、という点では漱石はどうかな。
小説のスタイルと言うのは作家の個性で千差万別だから漢詩の取り込み方もまちまちだから、相互の比較と言うのも問題はあるが、私の好みから言えば永井荷風にとどめをさす。
「荷風の永代橋」だったかな、分厚い悪本がある。荷風の漢詩はなっていない、というのだね。主として平仄、声調のことでつついているようだ。荷風の父は漢詩人だったし、彼も外語のシナ語だったことを考えると意外だが、彼自身も自覚していたようで、自分の漢詩(独立の漢詩)を作った時にはかならず専門家に添削を頼んでいた。
しかし、小説で日本語文脈で用いたときには目的が全然違う。「知識の切り売り職人」のような制約には縛られていない、もともと。
「荷風の永代橋」はこれを大上段に振りかぶって切りつけている。滑稽な悪本である。五〇〇〇円ぐらいする。驚くのはこの本が出てからもう一〇年以上たつのではないか、と思うのに、いまだに新刊書店で見かけることだ。ある程度売れているということだろう。
ピント外れの珍説が用いられるというのは、日本の読書レベルの低いことを物語っている。