穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

フロイトとベルクソン

2022-08-30 01:41:10 | 哲学書評

 2人は分野も違うし、理論にも似たところは全くない。方法論もまったく違う。にもかかわらずなんとなく一方から他方を連想させてしまうところがある。主要概念(テーマ)の言葉が似ているからだろう。フロイトは無意識と言う。ベルクソンは純粋記憶と言う。
 無意識と言うのは要するに「思い出せない記憶」と言うことだろう、フロイトの言うところでは。ベルクソンの記憶と言うのも思い出せない。しかし両者とも過去の記憶、あるいは無意識にアクセス出来る時がある。
 ベルグソンの場合は膨大な過去の記憶の堆積にゆるみ、あるいは亀裂が出来た時には、あるいは睡眠中のように知覚が停止しているときに、つまり現在に注意が集中していないときに、意識でとらえることが出来る。ま、これが思い出すということだろう。
 フロイトの場合は連想法とか夢分析と言う手を使ってむりりやり思い出させる。なぜそんなことをするのかと言うと、フロイトの考え方ではある種の記憶は思い出すと都合が悪い。あるいは本人にとって耐えられないほどつらい記憶だからだ。  
 しかも完全に忘却の彼方に押し込められないものがある。そういう記憶は直に思い出すとマズイので変形屈折して現在の患者の心身に悪い影響を与えている。それが説明のつかない精神病、統合失調症や心身症の原因だと主張するわけ。だから思い出させれば説明のつかない精神病、心身症は直ると強弁するわけだ。ずいぶん杜撰な考えだと思う。
 思い出さないように自己規制をかけるのはそれなりの理由があるからだろう。それを思い出させれば精神病が直るということもあるだろうが、そういう思い出は時限爆弾みたいなものだから発掘されて「意識と言う外気」に晒されたら爆発する危険がある。
 世間には時々家族殺人などで動機のわからない惨劇が起こるが、これなんか、何かの拍子に「禁じられた記憶」がよみがえったためではないかと思うときがある。つまり昔の記憶で記憶の底に押し込められているのは大体が幼児の記憶だろうから、家族に関係する記憶が多いだろう。
 私はフロイトの著書論文は一行も読んだことはないが、巷間伝えられているフロイトの説が、私が上記で要約した通りだとすると、非常にずさんで危険な理論だと思う。
 さらに言えば、記憶の定義の縁辺も明確にしておかないといけない。ベルクソンは過去の記憶は一つ残らず残っているという。どこに残っているかと言うことも定義の問題なのだが、ベルクソンは分かりやすくない。脳髄の中ではないというのだね。これはちょっと、トチ狂った考えだ、科学的には、あるいは常識的にも。それでは心の中か、いや違うというらしい。魂の中だというようだ。翻訳では。フランス語で心と魂とはどう違うのか。英語で言うMINDとSOULの違いみたいなものか。この辺もはっきりとしない。魂と言えば、日本でも頭ではなくて胸にあるとか腹にあるとかいうからね。
 ベルクソンは飛躍して宇宙魂みたいなことも言っていたのではないか。もっともプラトンにも宇宙魂という考えはあったようだが。とするとこれはユンクの集合的無意識だっけ、それにちかい。いずれにせよ、フロイトとベルクソンは無関係と言うほど距離がある。小林秀雄が分からないなりにウンウン言って関係をつけようとしたらしいが無理な話だ。
 また記憶の残り方についても、フロイトはどうか、つまり記憶は一つ残らず永久に(まあ死ぬまで)残っているということは言っていない、たぶん。一部は消失するとも言っていないようだ。要するに明確に突き詰めて考えていない、ベルクソンのように。ベルクソンの純粋記憶とフロイトの無意識は全くの別物である。

 以上順不同な記述でで失礼しました。なにしろテーマが無意識だから扱いが難しい。渡辺哲夫氏が著書「フロイトとベルクソン」で同時代に生きていた有名な二人の著作になぜ相互参照がないのか、と不思議がるのは意味がない。

 



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