穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

77:逆方向から 青年ヘーゲル派のシュティルナー

2021-07-10 07:38:42 | 小説みたいなもの

 魚味は主席者を見渡しながら、「反対方向への概念の混同のケースは無いんですかね。つまり個から普遍へという」と設問した。

この魚味の提案はしばらく一座の沈黙を誘ったが、若手哲学者の大阪がやがて口を開いた。

「独我論とか唯我論というのがあるが、それじゃないかな」

「独我論なんていうとシュティルナーなんかですか」と魚味が確認した。

「そうでしょうね」

「独我論というのはアナーキズムと親近性があるとか」

「そういうケースもある。デカダンスとも混同されるケースもあるね」

「なんだか、通り魔と一番相性がよさそうだな」と誰かが言った。

大阪が応じた。「たしかにね、思想と言うのは純理論であっても、解釈する人間が勝手に拡張解釈するケースが多いからね」

 魚味が考え考え、口を開いた。「個人主義の行きすぎですかな。しかし今一つ繋がらないな。個人の考え、欲望を社会大に拡大しても、どう通り魔につながりますか」と大阪を見た。

「さきほど配られた警察の調書にもあると思うが、マスコミで報道されている所によると彼らは例外なく自殺願望がある。あるいは自殺未遂の過去がある」

「ふーん」とオニアザミが唸った。「個人の自殺願望が社会的に拡大したということですか」

 面白いね、という呟きが聞こえた。

「そうすると、彼らの内の誰かの供述にあったように、出来るだけ多くの人間を巻き添えにしたいという考えと辻褄が合うね」

 座長はオブザーバーの大錦に「タコの世界でもこういう問題があるんですか」と質問の矛先を向けた。

彼は答えた。「ありません。こういう混乱があるというのは人間の言語が未発達ということでしょう」

「なーる」

「率直に申し上げて人間の言語は未熟です。たとえばパラドックスなんてあるでしょう。いまはなんでもパラドックスなんていうが、本当のパラドックスではないものも多いようですがね」

「どんなパラドックスです」

「ウサギと亀の競争の話があるでしょう」

「ああ、ウサギ(ゼノンのたとえでは超快速のアキレウス)はどうしても亀に追いつけないというやつですね」

「そう、実際にはそんな馬鹿なことはない。ところがゼノンが示した論法には瑕疵はない。そのロジックで行くとウサギは絶対に亀に追いつけない。この議論、無限分割という論法ですけどね、古代から現代にいたるまで、アリストテレスからバートランド・ラッセルに至るまで色々な『すり抜け方』が提案されているそうですが、決定打は今もない。ようするに、人間の言語、論理といってもいいが、それに根本的な欠陥がある。未熟と言ってもいい」

「それで言語分析というのがあるのか。ウィトゲンシュタインのような」

「分析哲学と言うのは無意味なんじゃないかな。彼らは自分だけが有意味なことを言っていると自慢しているが、彼らは既存言語をつつきまわしているだけで、言語の改造などは彼らの視野にはない」と大阪は馬鹿にしたような口調で一蹴した。

 


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