穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

徒然(トゼン)に耐え兼ねウィトゲンシュタイン(W)を再読

2019-12-30 20:43:22 | ウィットゲンシュタイン

 気分転換に隙間時間を利用してW氏の論理哲学論考を選んだ。短いのがいい。箇条書きなのがいい。パラパラと適当なところから拾い読みできる。岩波文庫には著者の序が付いている。2ページと5行。短くてますますよろしい。序を読むのは初めてでもある。

 面白い文章に早速ぶつかった。逃げを打っているのか、開き直っているのか、上から目線なのか分からないが、

引用開始:私のなそうとしていることが他の哲学者たちの試みとどの程度一致しているのか、私はそのようなことを判定するつもりはない。実際私は、本書に著した個々の主張において、その新しさを言い立てようとはまったく思わない。私が一切の典拠を示さなかったのも、私の考えたことがすでに他の人によって考えられていたかどうかなど、私には関心がないからに他ならない:引用終わり

 ま、すっきりしていますな。こういう序は珍しい。謝辞が長々と続いたり、参考文献の数ページに及ぶ紹介があったりするのが多いですね。こういわれてみて初めて考えてみると、思い当たる節がある。もっとも読んだのはだいぶ前なので正確な引用は出来ないが、たとえば彼が頻繁に使う『示すことは出来るが、語ることは出来ない』という表現。これは中世スコラ哲学のアナロギアと存在の一義性の議論を思い出させる。

 すこし別の話になるがWと自然科学の関係も非常にあいまいで分かりにくい。一般的には、というよりも専門家の間でもWは科学哲学者の仲間と考えられている。だから当時の科学哲学者の集団であったウィーン学団のメンバーから熱視線を送られた。ところが論理哲学論考を読むと分からない。彼自身もウィーン学団の慫慂にあいまいな態度をとった。なかなか端倪すべからざる人物だったようである。彼自身、似非科学ともみられる精神分析に関心を持っていたとも言われるしね。これは論理哲学論考からは考えられないことである。

 だんだん思い出してきた。ポパーとの大喧嘩について思いついたことがあるので次回に書きましょう。Wは方法論としての科学哲学では非常に素朴な考えの持ち主だったらしい。

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