「現代では廃れて(スタレテ)しまった学問に自然哲学という分野があるだろう」とTは独り言のように言った。「そういうものじゃないかと思ったんだ」というと生ビールのジョッキをもち上げた。そのときにおかめ蕎麦が来た。Tはビールを一口呷るとそばを啜り始めた。
「そういえば自然哲学なんて言葉はあまり聞かないな」
「ニュートンのころには物理学を自然哲学といったらしい。彼は自分でも哲学者と称していたそうだ。大体、形而上学発想じゃなければ、万有引力なんでいうアイデアは出てこない」
「そうだな」
「だろう」と言ったTはしばらくせわしなげに箸を操ってそばを啜り込んだ。食べ終わると再び話し始めた。
「リンゴが木から落ちるのを見て思いついた、なんて話があるが太陽と地球の間に重力という摩訶不思議な力が真空を通して気の遠くなるような距離を瞬時に、正確には同時に働くなんて考えは狂想だよ。もっとも現代ではアインシュタインの影響で光の速度で到達するということになっているようだが。
リンゴの話はあとからの思い付きだろうな。太陽と地球の間、リンゴと地球の間に同じ摩訶不思議な力が働いてるなんて考えつくかい」と言ったときにうな重が運ばれてきた。
しかしね、とうなぎのかば焼きを箸でちぎりながら平敷は考え深げに言った。「ああいう考え方はニュートンの独創だろうか。むしろそういう宗教的な考え方は昔からあったような気がする。いかにも宗教的な考え方じゃないか」
「あったかもしれないな、宗教的にも形而上学的にも」とTは同意した。「しかし、ニュートンはそれを数式化したわけだ。関数で表したわけだ。行ってみれば形而上学的なアイデアを数式化した」
「そうしたことがニュートン以前にはなぜできなかったのかな」と平敷が疑問を呈した。
「あのころ、ケプラーだとかコペルニクスだっけ、精密な天文学データが整えられたことが数式化を可能にしたんじゃないかな」
「なるほどね、しかし天文学上はいいとして、なんといっても秀逸なのかリンゴの落下まで適用したことだろうな」
「だから万有・引力(universal gravitation)というわけだろう」
うな重を平らげた平敷が聞いた。「それでハイゼンベルグの本はどうだったんだい」
「まだ三分の一しか読んでいないが、大いに興味をそそられる内容だね」
「どんなところが」
「最初のところで彼がギムナジウム(高等学校)の生徒だったころギリシャ語の勉強のためにプラトンの対話編ティマイオスを読んで面白かったという追憶があるんだ」
「テアイテトスじゃないのか。ティマイオスというのは聞いたことがないな」
「ティマイオスさ、後期の対話編だ。それでそれを読みたくなったが、本屋にない。それで手に入る前にヘーゲルの哲学史で調べたんだ。ヘーゲルの哲学史の記述にはむらがあってね、ヘーゲルが鼻にもひっかけないというか、気に入らない哲学者の紹介はひどく乱暴な扱いなんだが、このテアイトスは彼のお気に入りらしくてずいぶん詳しく紹介してあった」
「それでどういう哲学なんだ」
「ティマイオスという登場人物はピタゴラス学派の人ということになっている。だから世界の根本は数で、数の比例で成り立っているというわけだ。考えてみると現代物理学の鼻祖はいずれも古代ギリシャの原子論のデモクリトスと数の調和というピタゴラスで説明しつくされるようだね」
「それがハイゼンベルグの本に書いてあるのかい」
「最後まで読んでないから断言できない。しかし現代物理学の量子力学でニールス・ボーアやハイゼンベルグの言う『相補性』とか『不確定性原理』というのは粒子(原子)と波動(比例)の両方から説明されるという考えだから、いわばピタゴラスとデモクリトスの折衷案だろうな」
「何か超弦理論というのがあるじゃないか。あれはどっちだい」
「あれはまだ広く認知されていないらしい。この理論の研究者でノーベル賞をもらった学者はいないようだ。しかし、やはり折衷じゃないかな。どちらかというと波動理論に近い印象だがね。この理論の決定的欠点は複雑すぎる数学的説明だろうな。マッハの思惟の経済原則にもそっていない。オッカムの刃の考えから言っても11次元の世界なんて論外だろう」