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穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

永井荷風断腸亭日乗巻きの一

2023-08-30 07:09:37 | 書評

巻きの一、大正十二年まで読み進んだ。第一巻にはアメリカ・フランス滞在の日記があるが、これはつまらない、感心しない。まだ幼いというか、成熟していないというか。これは昔読んだ時と同じだ。断腸亭日乗は帰朝後ほぼ十年を経過した1917年から始まる。いま1923年関東大震災まで読み進んだが、興味が持てない。

これは期待に反していたが、やはり昔読んだときに興味をもったのは昭和に入ってからの社会批判の部分だったか。読み返した意外だったのは後年こじれにこじれた母親との関係が続いていることだった。もちろん弟威三郎との確執は始まっていたが、母親との行き来は頻繁だったことだ。後年は母親の臨終、葬儀にもいかなかった荷風であるが、まだそこまでにはこじれていないことだった。

思い出したが、母親との関係が決定的に断絶したいきさつがなにかあったらしい。それが何だったかは思い出せなが。

関東大震災のほぼ一年前から地震が頻発する前兆があったらしい。その辺は興味を持って読んだ。今日でも大いに参考になるのではないか。

このころはまだ人付き合いも頻繁で、後年の孤独、人嫌いの風潮は感じられない。もっとも交友は文壇の一部と歌舞伎界に限られているようだが。

 


人生論的投稿を試みる

2023-08-26 14:05:08 | 書評

本ブログの内容にはミステリーが、とくにハードボイルドの関係が多い。哲学書評も多いが、内容は突き放したものが多い。つまり、宗教的、倫理的な、言ってみれば「どう生きるか」というものは皆無である。これは意識的にそうしてきたので、これまでのブログの内容を精査するまでもない。

哲学の興味は形而上学的な、あるいは論理的な内容に限っていた。そこで今回はガラっと趣向を変えてみたい。もちろんそういう分野で影響を受けた、あるいは面白いと思った作者もわずかではいる。

一人はしなの陶淵明である。もう一人は永井荷風である。陶淵明は例の有名な帰園田居である。永井荷風はその随筆、なかんずく日記である。永井の小説は墨東奇談くらいしか読むべきものはない。それも人生論というものではない。


辻村深月

2023-06-29 19:01:14 | 書評

書評のカテゴリーをかえて第一弾で村上春樹の新作を採り上げた。第二弾として辻村深月の「ツナグ」を採り上げる。

あるきっかけで辻村氏に関心を持ちその著作を読んでみようと思ったのはかなり前のことだが、作品を手に取ったことがなかった。本屋の文庫本の棚に行くと「ツナグ」というのにいつも目がいったが、どういうわけか引っこ抜くまではいかなかった。

書評の対象が変わったことでもあり、本日贖った。これは短編集であるが、最初の表題にもなった「ツナグ」を読んだ。一気呵成に読み終えた。抵抗なく読めるというのには二通りに理由がある。ひとつはただ単にやさしいという場合と関心を覚えて、そして文章のクオリテイが高いから一気に読んでしまう場合である。今回は内容がいいから、短時間で読み終えた部類に属する。

テーマは死者との「交流」であり、村上春樹の作品に出てくるテーマと一脈通ずるところがある。ありふれたテーマであるが、一気に抵抗なく読ませるのはなかなかの腕と言わなければならない。


方向転換のお知らせ

2023-06-19 06:03:25 | 書評

この書評ブログが取り上げる対象は二種類あることは昔申し上げた。

一つは古典、準古典というべきもので、文庫本に収録されてすでに版数を重ねたもの、

もう一つは最近評判のものである。

どうも最近は第一のカテゴリーに偏ってきた。あらかた出尽くした感じである。

そこで、しばらく売れ行きの良さそうな本に対象を変更したい。ま、書店に平済みになっている本ということだ。あるいは芥川賞の最近の受賞作もこの範疇に入る。そのカテゴリーとして村上春樹の作品をかなり取り上げた。最近の書店には村上の最新作がてんこ盛りになっている。これをとりあげよう。

最近の書評は辛気臭いのがつづいたから趣向を変えて。

 


どこまで遡れるか

2023-06-17 08:13:59 | 書評

この問題は本人の主張だけであって検証は出来ない。ほとんどが奇をてらったものであるが、どこまで記憶は遡れるか。作者本人の主張に基づいてリストしてみる。私の乏しい読書範囲であるから見落としはあるかもしれない。

日本では三島由紀夫の仮面の告白であったか、本人の産湯の記憶描写があった。海外で有名なところではローレンス・スターンの「トリストラム・シャンデイ」がある。受胎日にさかのぼる。

幼児三才から五才くらいまでは無数にある。トルストイ、谷崎潤一郎、中勘助など。

いずれも、他人から吹き込まれたものと考えれば分かり易い。乳母、祖母、などが子守のついでに幼児に話して聞かせたものがもとになっているのは間違いない。

ま、occultでは前世記憶と言うのもあるらしい。一説によるとLSDでラリルロ、もとへラリッテいると思い出すらしい。

どうも自分の経験(他人の見聞も含む)だと早くて5歳、大体7歳ぐらいから変形した記憶が残っているようだ。

ついでに報告しておくがプルーストの「失われた時をもとめて」はどう読んでも7歳以前には遡らない。ついでにご報告しておくが、該書は馬鹿らしくて読むのを、したがって書評も中止した。お許しを請う。

最後に私の考えだが、記憶は知覚と結びついている。そうだろう、知覚が伴わない記憶と言うのは考えられない。そう考えると一番早く外界を知覚するのは聴覚らしい。聴覚なら胎内に滞在していても機能が発達していれば、そうして脳の記憶装置が一応機能していれば記憶に残る(脳が記憶装置だという主張はあやしいが、体全体が記憶装置であるとベルクソンはいう)。

生理学者の一部によると胎児の聴覚は妊娠五か月でほぼ完成すると言われる。外界の音は母体の腹膜、外壁をとおして胎児に知覚(そして記憶)される。世に胎教が言われる理由である。


プルーストをよむ

2023-05-27 20:46:45 | 書評

一年以上前に買ったプルーストの失われた時を求めて、を10ページほど読んだ。「幼児の記憶は失われていない」というらしいが、ベルクソンの記憶論と似ている。早速インターネットで調べたが参考になるような記事はなかった。プルーストは従妹がベルクソンと結婚した時に介添え役を務めたらしい。ほぼ同時代人だし、お互いに面識があったらしい。それに思想の特異な類似性からしてもう少し、骨のある書評などがインターネットにあると思ったが肩すかしをくった。


怒りを込めて「響きと怒り」読了のご報告

2023-01-03 17:17:59 | 書評

 難物、といっても色々な意味合いがあるが、の割には半月ほどで一応あげた。
 評論家が異口同音に記しているように特異な「手法」で拒絶反応を起こすのが普通らしい。
「意識の流れ」なる流れをくむものらしいが、そんな生易しいものではない。バージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」の比ではない。彼女の場合ナレイターの変更は明瞭である。意識が時間軸を行ったり来たりするだけだ。フォローするのに戸惑わない。
 響きと怒り(以下S&Fとする)は時間軸とナレイターが前後左右に飛び交う。しかも改行なしのことも多い。少なくともナレイターを明記しない。どういう効果を狙っているんだろうね、と首を傾げざるをえない。
 講談社学芸文庫の翻訳者である高橋正雄氏は解説で「この作品で重要なのは、内容よりも表現形式なのである」と読者を突き放して?いる。したがって逐行的な専門家の注釈表が古来(大げさだな)沢山評論家によって作られているが、それらの注釈表でも今に至るまで解釈がマチマチであるそうだ。
 読者は第一部の最初から読むから余計いけない。もっとも小説と言うものは最初から読むように出来ている。私のように最後からとか、ランダム・リーディングをするのはマイノリテイである。
 この小説は四章というか四部からなるが、一番手に負えないのが第一部、その次が第二部である。第三部と四部は述者固定でほぼ時系列的な記述である。読者は第三部あたりから読むのがいいだろう。その辺で登場人物たちのおおよその見当をつけてから第一部と第二部をよむと少しはわかりやすいかもしれない。
 しかし、先に紹介した高橋氏の解説のようにテーマとか内容については参考になるというか、グッとアピールするものはこの作品にはない。
 付け加えると第三部と四部は叙述にひねったところがないだけでなく、小説としても平板である。だから読みやすいというわけである。


フォークナーの「響きと怒り」

2022-12-26 08:40:37 | 書評

 表題の小説は分かりにくいことでは定評がある。さて原題の「The Sound and The Fury」は古来(古来とはいつからじゃ)「響きと怒り」と訳されている。これがわからない。どうでもいいことかもしれないが、気になる。何しろフォークナーがノーベル文学賞を受賞した理由の大きな理由が本書であるというのだから考究(大げさな)の価値はある。
 ある評者は、シェイクスピアのマクベスの5-5の一節から来たという。マクベスでは「sound and fury」と定冠詞なし、小文字で始まっている。そこで福田恒存の訳をみると、ここは「がやがやわやわや」となっている。マクベスの前後の文から見ると、この訳のほうがいいようだ。
フォークナー自身が解題をしてはいないようだ。それでこの問題はちょっと脇に置いておく。

 さて、この小説のキャラ建てであるが、当然作者の意図を反映していると思われる。一般に南部の有力白人家族の没落過程を描いたというのが通説らしい。キャラの構成については他の見方もあるようだが、私は三十三歳のハクチ*ベンジーが一つの中心と見た。そのキャラを引き立たせるのが自己主張の激しい、後にあばずれ女になっていくキャデイと黒人の世話役ラスターであろう。ベンジーはトリックスターととれる。
 ベンジーは年がら年中喚き、うめき、うなり、泣き、鼻水をたらしている。小説の書き方からすると彼のうめきは何かに反応しているようにほのめかしている(作者が)ようにとれないか。
 キャディはゴルフのcaddyを連想させる。ベンジーは隣のゴルフ場の柵からゴルフ場をのぞくのが好きだ、そこは没落した一家のもとの所有地で手放したものである。ベンジーは柵にしがみついているときには泣きわめかない。家に帰ると四六時うなり、泣きわめく。なにかに感応しているように見える。よみすぎかな。

 


フォークナー「サンクチュアリー」

2022-12-03 14:43:43 | 書評

  当書を途中まで読んでいる。フォークナーの作品は「八月の光」というのを大分前に読んだ記憶がある。残っている記憶は「退屈」だったという印象だけで「筋書」というか「内容」は残っていない。最近サンクチュアリーをヒョンなことから読み始めた。すごく読むのに時間がかかるのは前と同じだが、主として手法というか、書き方に興味をひかれた。
 つまり、映画的なのだ。どう映画的か。映画的といっても色々想像されるだろうからもう少し具体的に言うと、映画の一場面で背景、日差しの推移、人物の様子、発言を一秒おきに描写する。その上、内心の動きや感情まで描写する。映画では二、三秒ですむ場面を数ページに書く。普通の文章で書けば百分の一か千分の一ですむ。
 それがやたらと長い割には登場人物の紹介は全くない、最初に登場した時にはである。それなのに最初から個人名で登場するから、訳が分からない。あるいは事件と言うか場面の紹介がないから、それがもぐりのバーなのか葬儀会場なのかそうとう読み進まないと分からない。
 そして、それはもぐりの賭博場を急ごしらえで酒の密造業者の親分の葬儀場にしていると分かる。参加者はみんな飲んだくれている。日本でも通夜の席などは酒がつきものだが、ギャングスターの葬儀では酔っ払って喧嘩が始まる。棺がひっくり返されて死体が転がり出る。面白いといえば面白い。
 そういう書き方が全編にみなぎっているから、これは作者の意図的な操作であることは間違いない。ある意味で面白いと思った次第である。


ポジション リポート

2022-11-08 06:17:18 | 書評

  箱男130ページ、密会6ページ
この二作はペアらしい。両方の作品に解説を書いている平岡篤頼氏が書いている。箱男は盗撮もので密会は盗聴ものだそうである。
 両作の解説と箱男を半分ほど読んだところでの感想は「叙述方法についての実験作」だな、ということ。いずれも作中「ノート」「報告」を多用することである。これは他人の顔にも採用されているが、他人の顔では物語のリニアな流れを読者がフォローすることが自然に出来る。
 箱男ではストーリーの流れをリニアに追おうとすると読者は混乱する。再読三読して自分で物語を再構成するしかない。
 実験的技法を評価鑑賞するだけなら良いだろうが、それ以上内容、テーマ、文章を玩味することは出来ない。それが前衛的な作品なのだ、イイノダということらしい。それは平岡氏も認めている。文章を味読するのは無駄である。意味がない。


安部公房その後

2022-11-07 19:32:44 | 書評

  ウィキの紹介によると彼の代表作は壁、燃え尽きた地図、他人の顔、砂の女、箱男、密会という所らしい。ま、絶対と言うわけでもないのだろうがそう職業評論家の間で意見がふらつくこともあるまい。
 そのうちの五冊は未読のまま十年以上下拙の本棚に陳列してあったので、今日密会を買いました。
 前回までで燃え尽きた地図、他人の顔、砂の女については一応報告したが、その後、壁は一応読みました。これは彼の初期の作品で芥川賞の受賞作品ということです。壁は二つの中編とショート風の何篇かが一冊になっているが、芥川賞はこれ全体に与えられたのか。あるいはそのうちの、例えばカルマ氏の犯罪に与えられたのか不明だ。解説にはなにも書いていない。とにかく、内容では作品相互の関連はない。しかし、第一部カルマ氏の犯罪、第二部バベルの塔、第三部赤い繭とあるところを見ると、作者も出版社も有機的な一体と見ているのかもしれない。
 佐々木基一という人が解説しているが、なんかぴんと来ない文章だ。カルマ氏の犯罪は不思議な国のアリスのパロデイだというが、冒頭はドストエフスキーのダブルみたいだし、続くパートはカフカの審判のコピーのようだ。それから帽子やズボンが深夜踊りだして会議をするところは確かに「アリス」風だ。しかし全体として何をいいたいのか、分からない。
 佐々木氏は満州生まれの安部にとっては壁も砂漠も同じだと解説している。このところでちょっと別のことを考えたんだが、壁と言うのはどうも自我の比喩ではないかと思われる節がある。どうだろう。突飛かな、新解釈かね。とにかく「壁」と言うのは日本国の象徴が天皇であるように、安部にとっては非常に根本的なイメージらしい。佐々木氏が言うように壁も砂漠も同じだとすると、「自我のダダ漏れ」という惨状ということになる。自我とは自と他を区別選別する関所のような、また細胞膜のようなものだろうが、通行自由ということになるのかな。
 箱男のほうは途中まで読んでいる。それはまた別便で。


形而上学風ジャーゴン

2022-11-04 07:15:08 | 書評

 さて、「燃え尽きた地図」「他人の顔」に続いて「砂の女」を読みましたので纏めてみましょう。
 燃え尽きた地図はほとんど記憶に残ってはいないのですが。「他人の顔」はここに短評をのせたせいか、いくらか記憶にひっかかっています。そういうわけで「砂の女」も一筆書いておけばあとで思い出すよすがになるかもしれません。
 この三冊で「感銘を受けた」作品は正直申し上げてありません。しかし、「記憶に引っかかっている」というのが類似の表現だとするならば、砂の女、他人の顔、燃え尽きた地図の順となります。もっともこれは読んだ順に新しいほうが記憶に残っているという当たり前のことかもしれません。
 しかし、そうとばかりも言えないようです。読者に与えるまとまりというかインパクトもこの順になります。海外でもフランスで賞をもらったのは砂の女のようですし。
 閉口するのは作品の中でやたらと「形而上学風のジャーゴン」を挿入することです。頭の悪い筆者はその必然性と言うか「おさまり」が理解できません。安部公房はカフカの影響を受けたと言われますが、カフカも似たような不条理性、非現実的な状況を扱っていますが、形而上学的なジャーゴンは一切ありません。そのほうがインパクトも強くなっているのではないでしょうか。 もっとも、安部のこれらの作品から形而上学的饒舌を取り除いたら半分のページ数になるかもしれません。
 この文庫本でもドナルド・キーンの解説がついていますが、「むしろ推理小説として読んだほうがいいと思う」とありますが推理小説ではありませんね。オースターの初期作的なところはありますが。
 それからキーンは表現が写実的になったと書いていますが、これは他の二作に比べる妥当でしょう。また「比喩の豊富さと正確さであろう」と書く。これは他の二作に対する比較の意味では妥当でしょう。
追記:
 安部公房もドストエフスキーの影響を受けたと言われる。もっとも日本の「純文学」作家のほとんどがそう言うのだが。ドストも形而上学的言説が豊饒な作家という一般的な受け止めがあるが、ドストの場合は読むに堪える。    それに言われているほど多くは無い。あっても工夫がある。

 かかる饒舌が多いという印象があるのは、カラマーゾフの兄弟とか悪霊や未成年だろうが、いずれも会話の中で行われるから理解しやすい。地の文でやられるので有名なのは「地下室の手記」だろうが、その中で使われる形而上学的な饒舌は適切な例示に伴われている。安部のごとくベタベタと地の文で長々と書かれると辟易する。日本の読者評論家諸君は辛抱強いね。

 


安部公房「他人の顔」一応読了

2022-10-30 07:49:43 | 書評

 この本(新潮文庫)には大江健三郎の解説がある。大江は安部より一まわり若く、いつもつるんで歩いていたと誰がが評していたのを思い出したが、その解説のなかで安部の作品は再読を求めると書いている。たしかに、、、そうかな。
 しかし、あの文章を再読するのは勘弁してほしい。何しろアヴァンギャルドルドだから意地悪に分かりにくい悪文を書いている。安部公房の小説で一応最後まで読んだのは、前に書いた「燃え尽きた地図」に続き、二冊目だ。   

 アヴァンギャルド風味はこちらのほうが強い。再読は勘弁してほしいが、その代用として一気に読まないで(実際は読めないのだが)今日は二十ページ、十日後に三十ページというふうに読むと、やや再読的な効果があることが分かった。そんなわけでこの小説を読み終わるまでに一月かかった。
 これも大江が書いていることだが、安部の作品は演劇的だ。ケロイドのやけどを顔面にうけた*私と精巧な仮面を作って被る*俺と*妻のペルソナの三角関係だ。私は仮面をかぶって妻を別人として犯そうとする。妻はそれに乗ってきたが、最初から仮面は私と同じだということが分かっていたのよ、という話である。最初はとても演劇と言うか映像化できない話だと思ったが、このように整理すると芝居や映画になるかもしれない。
 腑分けすると、私がひそかに仮面を制作する場面、これが小説の半分以上を占める、とそれを被って予行演習をする場面、妻を他人として誘惑して犯すパート、そしてそれをノートに書いて妻に読ます場面。それに対して妻がそんなことは初めから分かっていたのよと興ざめな返事をする場面になる。これをノートに書いた告白文と言うスタイルで書く。
 大江は最初のパートは後半を理解するためには、読むのを疎かにしてはいけないという。評者はそうは思わない。後半だけで充分だ。前半の退屈な部分を読まないと、「鮮やかな後半の形而上学的どんでん返しのアクロバット」が分からないという大江の考え方には賛成できない。
 勿論前半は必要だが、それを別様に書くのは能力だろう。ま、ハロウィーン物語の一種かな。


安部公房とは何か

2022-10-27 08:32:24 | 書評

 ウィットゲンシュタインではないが、問いに答えがあるかどうかは措定する命題で決まる。「安部公房とはだれか」ではない。その問いには有効な、あるいは正しい答えがあるだろう。そうではないのだ。「安部公房とは何か」なのだ。意味のある答えがあるのだろうか。鄙見をのぶればない。
 私の書棚には十一冊の安部公房がある。一応最後まで読んだのは一冊、途中まで読んだのが三冊、あとは未読未開頁である。勿論再読したものはない。ある年に安部公房を読もうと思ってまとめて買ったのだが、それから十年以上のような状態なのである。どうも読めないのである。理由は分からない、つまらないである。「つまらない」は趣味の問題だから脇におくとして、「分からない」は下拙の読解能力が関係しているのかもしれないと、もともと謙虚な私は考えた。
 普通ならそれで放っておくのだが、なにしろ彼は世評の高い作者である。そんなわけで読まない本を処分することは躊躇して、未読のまま書棚にささっているのだ。
 そこでアンチョコを探した。もとえ、解説書を探した。これがない。大書店には大体「作家論」の一隅がある。しかし数店、日課の書店散歩で探したがどこにもない。書棚の各冊の最後の解説を読んでも役に立つ情報があるわけでもない、と僭越ながら独断してしまった。
 ところが先日ある書店の作家論コーナーで安部公房の書評が五冊も並んでいた。そのうち、二冊は朝鮮人の女性研究者のものである。これには奇異感をおぼえた。なぜ韓国女性なのか、パス。また彼の娘さんの書いた本があった。これは作家論と言うよりも個人的な「思い出」らしかったのでパス。ほかに未知の女性研究者らしい人の本がささっていたので、とりだして立ち読みをしたが、大学の紀要のような印象で価値のある情報とは無縁のようであった。あと一冊は男性の書いたもので、名前の知らない人だったので、これもパスした。結局何も買わなかったのである。五冊中四冊が未知の女性の著者と言うのにも驚いた、モトエ、感じ入った。
 それでもまだ未練がましく「安部公房とは何か」と問うた。ある人はアヴァンギャルトだという。ある人は前衛だという。そうすると、と私は考えた。前衛芸術と言うのは文学に限って言えば昔から理解できない。絵画の世界で前衛と言うのは理解できるのだが。小説ではだめだったのである。


燃え尽きた地図は探偵小説である??

2022-10-16 06:42:18 | 書評

 該書にはドナルド・キーン氏の解説がついている。引用する。
「本書は厳密な意味では、探偵小説であるが、、」新潮文庫309ページ
これって誤植じゃないの。もっとも新潮社は昭和五十四年以来訂正していないから誤植じゃないんだろうな。誤植じゃなくて単純な誤りなんだろう。言うならば『探偵小説のスタイルを装った、あるいは借用した小説』と言うべきだろう。
ま、趣向には違いない。それで思い出すのはポール・オースターの『ニューヨーク三部作』である。これも同様の趣向だが、探偵小説的起承転結にはなっていない。『起承』にはなっている。

 オースターについては安部公房に影響されたのではないかというひとがいる。オースター自身も認めたらしい、ただし確認は取れず。そこで二人のアクメを調べた。安部公房1924生まれ、オースター1947年生まれ。安部は早くから欧米に翻訳され、フランスの文学賞を受賞しているし、オースターがフランス修業時代に読んでいた可能性はある。