老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

コリアタウンへ

2020年12月19日 19時49分19秒 | 旅行/色々な風景

 今日は我が家の年末の慣例行事である、生野区にあるコリアタウン行き。
年に一度だけの行事ですが、この場所は名前の通りコリア食材が多く、知人に送るキムチや豚肉加工品などを買い付けます。

 以前は、コリアタウンというと顔をしかめる人も多かったのですが、最近ではTVドラマやKポップスによる所謂韓流ブームの影響で、女性しかも若い女性の訪問者が多く、今日も外出自粛中にも拘わらず、驚くほど多くの人たちが来られており、焼肉や朝鮮料理を味わったり、色々な食料品や食材、或いは衣類や雑貨や化粧品やブロマイドなどを買われていました。


 私もすっかり馴染んだ街ですが、このコリアタウンの概要と歴史などをWIKIPEDIAを参考に纏めておきます。

◆コリエアタウンとは、生野区桃谷にある「御幸通商店街」(御幸通東商店街、御幸通中央商店会、御幸通商店街の3商店街)とその周辺の通称で、「大阪コリアタウン」「猪飼野コリアタウン」「桃谷コリアタウン」などとも呼ばれます。
以前は「朝鮮市場」と呼ばれることが多かったが、1993年から『コリアタウン』との呼称を使うようになったようです。
※ 私はいつもJR]環状線の桃谷駅から長い商店街などを経由して10分ほど歩いていきますが、帰りは鶴橋商店街を経由してJR鶴橋駅に出ることが多いです。

◆上町台地の東側の緩傾斜面一帯、現在の天王寺区東部および生野区西部は古代から百済野(くだらの)と呼ばれ、百済滅亡と白村江の戦いの後、多数の百済国人が移り住んだ地のひとつとされる。奈良時代から平安時代にかけては、摂津国東成郡・住吉郡のそれぞれ一部を割いて百済郡が設置されていたようです。

◆百済野の北端には、まだ河内湖が残っていた時代に猪甘津(いかいつ)という港湾があり、西風に起因する高波を上町台地が防いでくれる良港として重宝されていたようです。
 『日本書紀』仁徳天皇14年冬11月条に「猪甘津に橋をわたして、小橋(おばせ)と名付けた」旨の記載があり、朝鮮半島との交流が盛んだった古墳時代、かつ、上町台地上に仁徳天皇の皇居(難波高津宮)が置かれていた時代の猪甘津には、百済滅亡以前からの渡来人の存在も示唆されている。なお、猪甘津野から転じた地名が猪飼野という地名になったとされています。

◆1910年の日韓併合を経て、1922年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」が就航した。これを機に多くの朝鮮民族(大半は済州島出身者)が労働のために日本へ渡航するようになり、大正期から耕地整理や平野川改修工事といった土地区画整理事業が始まっていた猪飼野周辺が受け皿となった。
 1945年の日本の敗戦と共に渡航者の約3分の2程度は済州島に帰ったが、1948年に起きた済州島四・三事件以降に再び多くの済州島出身者が日本へ渡航してきた。

◆このような経緯から、この地域は日本最大の在日韓国・朝鮮人の集住地になり、「コリアタウン」に来れば韓国・朝鮮人にとって必要なものが揃う「地域に密着した商店街」として発展した。
尚、生野区の人口約18万人の内、外国人登録人口は2割以上になっているようです。(まさ)


つるのはし跡

同上。「鶴橋」の地名由来と、仁徳天皇による「猪甘津に橋をわたして、小橋(おばせ)と名付けた」旨の石碑があります。

道標 右八尾・久宝寺・信貴山とあります

旧道に面した安泉寺

御幸森天神宮

同上

御幸通商店街

同上。 若い女性が多いです

キムチ店には行列が・・・

昼食。私は塩タンと冷麺、ツレアイは石焼ビビンバ


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