先日の毎日新聞の「余禄」と言うコラムで、収まる気配もないコロナ禍の中で正月もなく心身をすり減らして奮闘されている医師や看護師などに対する思いに触れておられたのを興味深く読ませて頂きましたが、その中でこれらの医療従事者の心境を、法政大総長の田中優子さんの近著である「苦海(くがい)・浄土・日本」に記されている「もだえ神」<一緒にもだえて、哀(かな)しんで、力になりたいという強い気持ち>になぞらえておられると共に、このもだえ神は九州の方言「かせせんば」の気持に通じる。旨の内容でした。
石牟礼(いしむれ)道子さんの小説「苦海浄土」は随分と前に読んだ記憶があるのですが、「もだえ神」「かせせんば」という言葉は全く覚えていなかったので、改めて調べてみました。
「もだえ神」は、“(誰かが)苦しんでいる事に対して、自分は何もできないけれど、せめて一緒になって、哀しんで、悶えてあげたい”という精神のようです。
また、「かせせんば」は漢字交じりにすると、“加勢(かせい)しなければ”という意味のようです。
従って、田中優子氏の「苦海・浄土・日本」で紹介されている、石牟礼道子さんがよく口にされたという「悶えてなりともかせせんば」という言葉は、“何もできないけれど、そこに駆けつけて一緒に闘い、一緒に苦悩する、せめて共にもだえることでなんとか力になろう”という切実な思いのようです。
論語にも「義を見てせざるは勇無きなり」と言う言葉があるようですが、かっては共同体を保つ基礎となっていた「かせ(加勢)せねば」とか、「もだえ神」のような「義」とか「徳」の精神はどこに行ってしまったのでしょうか。
日本だけでなく、経済発展を目指す多くの国では、一見豊かさをもたらしたかに見える経済発展と裏腹に、自然が壊されて環境破壊が進むだけでなく、住民の健康に直接悪影響をもたらす事態が頻発しています。
政治の使命とは、単に経済的な発展を目指すだけでなくなく、国民の命と健康を守るために、自然破壊や公害発生などを防ぐ万全の方策を採ると共に、不幸にして環境破壊や公害などの悪影響を蒙る人や差別され苦しんでいる人達がいる場合は、何を置いても加勢して助けることでしょう。(まさ)
※ この項については、下記を参考にさせて頂きました。
「ばってん爺じのブログ」 2020.12,14「もだえ神の精神」(https://battenjiiji.hatenablog.jp/entry/2020/12/14/050633)