鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.11月取材旅行「御坂峠~河口~剣丸尾」 その最終回

2009-11-14 07:05:12 | Weblog
甲府盆地から御坂峠を越えて河口湖に出るところにあった河口村。この「山梨県河口湖湖畔北岸の山峡」にある河口村が富士山御師の「揺籃の地」であったという、私にとっては意外な歴史的事実を教えてくれたのは、伊藤堅吉さんの『富士山御師』でした。この河口村は、西川・釜抜川・山神川という3河川が、河口湖に流入する川口扇状地にできた集落であり、山峡に点在していた御師たちが、鎌倉往還の開発により、往還筋に逐次移住して成立した集落だと伊藤さんは記しています。御坂峠のある御坂山地は、そうとうに古くから富士山を遥拝する霊地であって、御坂の主稜を乗り越してこの山里に入った崇敬者が、真正面に見える富士山を遥拝した所が創建当時の浅間社(貞観7年〔865年〕創建)があった地であったと伊藤さんは言う。河口湖は、富士山を遥拝し、登山する前に禊(みそぎ)をする場所でもあったのです。かつて御坂峠を越えて河口村に入った富士山信仰者は、河口湖で禊をして湖越しに富士山を遥拝し、それから上吉田へと向かって、その上吉田から頂上を目指しました。富士山御師は、その河口村の浅間神社の神職中の祈祷師として発生しましたが、妻帯もし、農業も営んでいました。かつては御坂山地の山峡各地に点在していたのが、鎌倉往還が整備されていくにつれ、往還筋に集まるようになり、西川の水を往還沿いに側溝を築いて呼び入れ、やがて上・中・下の3宿が出来あがっていきました。各御師たちは各地からやってくる富士山信仰者(富士登山者・道者)のために宿坊をつくり、その宿坊は最盛期には140もの数に達したという。江戸時代の文化期にはこの河口村の戸数は271、人口は1100人を越えました。御師たちがお札を配って回り(配札行)、そして宿坊に泊め、富士登山へと案内した、富士山信仰者が住む地域(檀那場)は、甲斐・信濃・越後・上野(こうづけ)・下野(しもつけ)・下総・武蔵・駿河・伊豆・相模地方にまで及んだという。宿坊を経営する御師たちの苗字は、中村・梶原・渋江・友谷・小河原・宮下など。中でも中村姓は河口村に最も多いものでしたが、この中村一族は、御師たちの中でも最も勢力を張った一族であったようです。私が出会ったN・Kさんも、N・Tさんも、そのような富士山御師の子孫であった可能性が高い。しかし富士講の驚異的普及により、幕末には上吉田にその繁栄を完全に奪われてしまっていました。 . . . 本文を読む